備前
本荘八幡宮のある宮山の東方に、真言宗の寺院、通生(かよう)山神宮寺般若院がある。 般若院 伝説では、文武天皇元年(697年)に、行基がこの地を訪れ、宮山山上に八幡院という寺院を建立したのが、般若院の開創であるという。 延暦年間(782~806年)に、…
本荘八幡宮のある宮山の西側は、通仙園という公園になっている。瀬戸内海国立公園の名勝地の一つである。 通仙園案内図 通仙園では、4~5月に約5万本のツツジが咲き誇る。 私が訪れたのは年末だったため、枯れたツツジがあるばかりだった。だが近づいてよ…
下津井城跡の見学を終え、倉敷市児島通生(かよう)に向かった。 児島通生に、湊岬という海に突き出した山がある。この山上にあるのが、湊山城跡である。 湊山城跡 湊山城は、児島半島にあった常山城の支城で、常山城主上野隆徳の家臣山田菊次郎が城主を務め…
本丸の南側にあるのが二の丸跡である。 二の丸跡 下津井城跡の縄張り図 下津井城跡の中では、この二の丸跡からの眺めが一番いい。そのためか、東屋もある。 二の丸跡から眺めた櫃石島 ここから下津井の町並みや、瀬戸内海の眺めが堪能できる。 二の丸跡の南…
下津井の町並みの北側に聳える城山の山上にあるのが、下津井城跡である。 下津井城は、天正九年(1581年)ころに備前、美作の覇者となった宇喜多直家が築城した。 下津井城跡 関ケ原の合戦後、小早川秀秋の家臣平岡石見守が在城したが、慶長八年(1603年)に…
むかし下津井回船問屋の2階には、下津井の信仰や漁に関する資料が展示してある。 むかし下津井回船問屋2階への階段 江戸時代中期には、お伊勢参りと同様に、讃岐の金毘羅さんも一生に一度は参詣したい場所とされ、全国から参詣者を集めた。 金毘羅さんとは…
下津井は漁港であり、タコ漁で有名である。 下津井漁港 下津井には、タコ料理で有名な保乃家(やすのや)がある。私がまだ24歳のころ、保乃家でタコのフルコース料理を食べて、あまりの美味しさに感激した記憶がある。 今は漁港の下津井だが、江戸時代から明…
下津井の町の真ん中に、海に突き出た小山がある。標高約22メートルの浄山である。 この浄山の上に鎮座するのが、祇園神社である。 浄山 一の鳥居 文政十三年(1830年)の銘あり この浄山には、かつて長浜城という城があったという。 室町時代に、長浜城の鎮…
鷲羽山から下りて、倉敷市下津井田之浦1丁目にある田土浦坐(たつちのうらにまします)神社に参拝した。 この神社は、鷲羽山の西側の斜面の中腹に鎮座する。 田土浦坐神社の鳥居 鳥居の先に急な石段があり、その先に社殿がある。鳥居は明治19年に建立された…
第二展望台から、鷲羽山山頂を目指した。 鷲羽山の山頂方面 山頂と言っても、鷲羽山は低山で、山全体がなだらかである。そう苦労せずとも山頂に至ることが出来る。 花崗岩の山肌 鷲羽山は、全体が花崗岩で出来ている。山肌は花崗岩がむき出しになっている。…
12月24日に備前の史跡巡りを行った。 瀬戸内海国立公園の中で、国の名勝に指定されている鷲羽山(わしゅうざん)を目指した。 鷲羽山の手前、岡山県倉敷市大畠1丁目の、瀬戸中央自動車道の高架の西側にある延命地蔵尊を訪れた。 延命地蔵尊 延命地蔵尊は、…
岡山県倉敷市児島味野2丁目にある児島市民交流センターは、平成22年3月に閉館した倉敷市瀬戸大橋架橋記念館の建物を再利用したものである。 旧倉敷市瀬戸大橋架橋記念館 旧倉敷市瀬戸大橋架橋記念館は、昭和63年4月10日の瀬戸大橋開通と同日に開館した。 …
由加山の参拝を終えて、港町児島の市街に入った。 今回は、現在児島下の町と呼ばれる地区の史跡を紹介する。 先ず最初に紹介するのは、岡山県倉敷市児島下の町7丁目にある鴻八幡宮である。 鴻八幡宮 鴻八幡宮は、由加山系の西端の宮山という丘の上に鎮座す…
権現堂の参拝を終え、客殿の前を通過し、蓮台寺総本殿に向かった。 その途中、インド製の自動車、アンバサダーが展示してあった。 アンバサダー この車は、岡山県新見市出身の真言僧で、現在もインドで布教活動中の佐々井秀嶺氏から、由加山に贈られたもので…
客殿の先には、八十八段の石段があり、その上に蓮台寺奥の院権現堂がある。 奥の院権現堂の参道 石段の手前には、鐘楼堂があり、巨大な梵鐘がかかっている。 鐘楼堂 鐘楼堂の龍の彫刻 梵鐘 新型コロナウイルス感染防止のため、鐘楼堂内への立ち入りは出来な…
蓮台寺客殿の拝観客用入り口から建物内に入る。黒光りのする床板が敷かれた広々とした空間が広がる。 拝観客用入り口 入り口から奥に進むと薬師如来座像が出迎えてくれる。 薬師如来坐像 客殿内には、見事な障壁画で飾られた座敷が複数ある。中には、江戸時…
御影堂から南に歩き、石段を上がっていくと、蓮台寺多宝塔がある。 多宝塔への石段 多宝塔 蓮台寺多宝塔は、私が史跡巡りで訪れた9番目の多宝塔である。 この多宝塔は、天保十四年(1843年)に再建されたものである。この前に建っていた多宝塔は、寛文十年…
由加神社本宮の東側には、真言宗の宗祖・弘法大師空海を祀る御影堂がある。御影堂に祀られていた弘法大師像は、今は蓮台寺総本殿に祀られている。 御影堂 由加山の伽藍は、元禄十三年(1700年)の大火で、今の由加神社本宮の本殿以外全て焼けてしまったので…
由加神社本宮の拝殿の下には、縁結びの神様を祀っている。拝殿下に回廊があり、そこを巡れば、誰かと縁を結ぶことが出来るそうだ。 私は縁結びではなく、史跡巡りの無事を祈った。 拝殿下の回廊 縁結び獅子 回廊には、男性用と女性用の縁結び獅子が2体設置…
倉敷市児島由加にある由加山は、古くから神仏習合の神様である瑜伽大権現を祀り、厚く信仰されてきた山である。 天平五年(733年)、行基菩薩がこの地を訪れ、阿弥陀如来、薬師如来の二尊を本地仏とする瑜伽大権現を祀ったのが、由加山蓮台寺の始まりである…
由加山に向かう途中、倉敷市曽原にある清田八幡神社に立ち寄った。 清田八幡神社鳥居 清田八幡神社は、児島の総鎮守とされ、備前の八幡三古社の一つと言われている。 社伝によれば、清田八幡神社は、現在地から北の粒江の田槌の浦にあったが、清滝山中を経て…
昨日紹介した乗り出し岩から海に入った佐々木盛綱は、岡山県倉敷市粒江にある真言宗の寺院、種松山西明院の辺りに上陸したという。 乗り出し岩と西明院の中間地点くらいに、浮洲岩の碑がある。 浮洲岩の跡 この辺りは、かつては藤戸海峡の浮島で、アマモなど…
陣屋町有城から少し西に行くと、笹無山という小さな丘がある。 笹無山 この小さな丘は、佐々木盛綱に対して、平家が布陣する対岸に渡ることができる浅瀬の存在を教えた漁師の悲劇に関連がある。 藤戸海峡を挟んだ対岸に布陣する平氏方を攻めあぐねていた源氏…
海禅寺から南に行くと、日蓮宗の寺院、恵光山正福寺がある。 恵光山正福寺 この寺の山門は、下津井城の城門を移築したものであるという。 正福寺山門 正福寺の山門は、意外と小ぶりな山門である。こんな城門を持った下津井城は、ささやかな城だったのだろう…
岡山県倉敷市藤戸町天城は、岡山藩家老池田氏が陣屋を置いて治めた陣屋町であった。 江戸時代には、所領が3万石以下の小藩は、城を持つことが許されず、藩庁として陣屋と呼ばれる建物を建てた。 上級旗本や大藩の家老も所領に陣屋を置いた。 岡山藩家老池田…
藤戸寺の北側を流れる倉敷川の上に、盛綱橋という橋が架かっている。 この橋は、平成元年に再建されたものだが、再建の際、橋の上に海を渡る馬上の佐々木盛綱の銅像が設置された。 盛綱橋 盛綱橋上の佐々木盛綱の銅像 佐々木盛綱が実際に藤戸海峡を渡ったと…
7月17日に備前の史跡巡りを行った。源平藤戸合戦の古戦場を巡る旅となった。 寿永三年(1184年)二月に、一の谷の合戦で大敗した平氏は、水軍に頼って西に逃れ、備前国藤戸の地に拠った。 現在、藤戸と天城の間には倉敷川が流れているが、ここは寿永の当時…
藤田神社から南西に車を走らせ、次なる目的地の興除(こうじょ)神社に向かった。 興除神社は、岡山市南区中畦(なかうね)にあるが、この一帯は、文政四年(1821年)から文政六年(1823年)にかけて開発された興除新田と呼ばれる干拓地である。 児島湾に干…
現在の児島半島は、江戸時代に入るまでは、児島という島であったが、江戸時代初期の干拓事業により本州と陸続きになった。 池田藩政時代には、児島湾の干拓が続き、広大な新田が造られた。児島湾干拓事業は、明治時代に入っても続いた。 今回から連続して、…
宗忠神社から西に500メートルほど行った、岡山市北区今4丁目にあるのが、今村宮(いまむらぐう)である。 今村宮 今村宮参道 今村宮の起源は、元弘三年(1333年)にこの地に創建された今村八幡宮である。 戦国時代に宇喜多直家が岡山城を拡張するに際し、内…