由加山蓮台寺 由加神社本宮 その3

 由加神社本宮の東側には、真言宗の宗祖・弘法大師空海を祀る御影堂がある。御影堂に祀られていた弘法大師像は、今は蓮台寺総本殿に祀られている。

御影堂

 由加山の伽藍は、元禄十三年(1700年)の大火で、今の由加神社本宮の本殿以外全て焼けてしまったので、この御影堂も大火後の再建であろう。

 この蓮台寺は、空海誕生以前の創建である。今まで史跡巡りで訪れた奈良時代以前に創建された寺院の大半は、真言宗の寺院である。

御影堂蟇股の彫刻

 これは何も私の家の宗派が真言宗だから、そんな寺院ばかりを選んで訪ねているというわけではない。

 山川出版社の「歴史散歩シリーズ」に載っている史跡全てを回るという方針で史跡巡りをしたところ、訪問する寺院の約5割が真言宗の寺院になったのである。

御影堂内部

 鎌倉仏教と呼ばれる浄土宗、浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗は、日本仏教の宗派の中では歴史が浅い。必然的にこれらの宗派の寺院は新しく、歴史が古い奈良時代南都六宗天台宗真言宗といった平安仏教の寺院の方が文化財が多く残っている。

 それにしても、奈良時代以前の創建にかかる歴史ある寺院では、天台宗の寺院より真言宗の寺院の方が多いのはなぜだろう。

 嵯峨天皇以降、歴代天皇真言宗に帰依したというのが大きな理由なのだろうか。弘法大師空海の人間離れした伝説が影響力を持ったのだろうか。どうなのだろう。

 御影堂の横には、たった一つの願いを叶える一願地蔵がある。

一願地蔵

 私はここでも史跡巡りの無事を祈った。

 御影堂から坂を上がると、女人厄除大師のお清大師の石像が祀られているお堂がある。

女人厄除大師 お清大師

 お清大師は、平教経の後裔平田常右衛門の娘で、江戸時代中期の備前に生きた女性である。

 常右衛門は、日頃から弘法大師を深く信仰しており、お清も幼いときから信心深く育った。

 お清は、19才の時に大病を患い、お大師様に、病気平癒した暁には四国霊場を21回巡拝しますと祈願した。
 お大師様の加護によってか、全快したお清は、22才から29才までの間に、四国霊場を23回巡拝した。

 21回目の巡拝の際、23番目の札所、日和佐の薬王寺で、旅の出家僧から一本の杖と七足のわらじを授かった。その出家僧は、それらを授けた後、かき消すように姿が見えなくなった。驚いたお清はこれらはお大師様からつかわされたものと信じ、より信仰を深めたという。

 若い身で苦しい修行を重ねたお清は、いつしか生大師として仰がれるようになり、近郷近在からの参拝者が増えはじめた。
 ある夜、弘法大師がお清の夢枕に立ち、「これからは、汝に授けた杖によって諸人を助け得べし」というお告げがあった。それ以来お清はこの杖を、大師の身代りとして信仰を重ねた。

 お清は、岡山藩主池田家や藩士からも迎えられて、加持祈祷に出かけるほどになったという。お清は、死後もお清大師と呼ばれて信仰された。
 明治時代の末年に、淡路島に生まれた私の祖母も、若いころ四国霊場を巡拝したという。弘法大師への信仰は、民衆の中に生きている。

 真言宗は、宇宙全体を包摂する深淵な教理を持つ一方、このような地方の民間信仰にも溶け込んでいる。

 それが、先ほど疑問に感じた真言宗の寺院の多さにつながっている理由なのかも知れない。

 さて、お清大師の前には、観音堂がある。

観音堂

八角形の霊堂

観音堂

 観音堂には、蓮台寺本尊の十一面観音菩薩像が祀られていた。本尊も、今は蓮台寺総本殿に祀られている。蓮台寺は建物保存のためと説明している。

 今は蓮台寺総本殿に、瑜伽大権現、十一面観音菩薩弘法大師がまとめて祀られている。

 由加神社本宮が独立するまでは、瑜伽大権現は由加神社本殿に、本尊十一面観音菩薩観音堂に、弘法大師は御影堂に祀られていた。

 この方が、由加山の伝統に則っていて、安定した祀り方と感じる。

観音堂明治12年に奉納された漆喰の孔雀図

観音堂向拝

蟇股の彫刻

木鼻の彫刻

 現代の教育を受けた者は、信仰というと胡散臭いもののように感じて蓋をしてしまう。

 しかし信仰なき世界で、人間が何を頼りに生きていくのか、19世紀以来その答えは未だ見つかっていない。

 信仰なき世界で、人間が守るべきものは最終的には「公共の福祉」になる。他人に迷惑をかけてはいけないという教えが、信仰の代わりになる。

 それでも人間は、他人に気を遣うことよりも偉大なものを人生に求めるものである。宗教がこの世からなくならないのも、そのためであると思われる。