昨日紹介した乗り出し岩から海に入った佐々木盛綱は、岡山県倉敷市粒江にある真言宗の寺院、種松山西明院の辺りに上陸したという。
乗り出し岩と西明院の中間地点くらいに、浮洲岩の碑がある。
この辺りは、かつては藤戸海峡の浮島で、アマモなどの塩生生物が棲んでいた。そこに浮洲岩という名石があったという。
ここにあった浮洲岩を、信長は二条御所に錦に包んで献上した。その後秀吉がその石を醍醐寺三宝院の庭園に運び、さらに聚楽第に移したという。
その後、岡山藩がこの付近一帯を干拓して農地にしたが、浮洲岩のあったあたりの沼沢地だけはそのまま記念に残したという。
沼沢地には、小島が築かれ、その上に浮洲岩の碑が建てられた。
この碑には、正保二年(1643年)の銘がある。岡山藩が建てたものだ。天下の名石があった場所を記念するために建てたものだろう。
ここから南西に進み、種松山西明院に向かった。
西明院は、種松山の北麓に建つ寺院である。ここは、佐々木盛綱が藤戸海峡を渡って最初に上陸し、先陣を飾った場所とされている。
合戦後、盛綱は、戦没者などを供養するために、ここに天暦山先陣寺という寺院を建てた。
その後先陣寺は衰微した。今は西明院の境内にある先陣庵という小さな庵に、その名残があるだけである。
西明院からは、かつて源氏が布陣した有城山が見える。
西明院と有城山の間の平地は、千年前には海だったのだ。
西明院は、空海が平城天皇の御代(806~809年)に訪れて、虚空蔵求聞持法を行うために開創した寺院だと言われている。
一字金輪仏頂尊とは、大日如来が三摩地(最高に深い瞑想)に入った時に発した「ボロン」という真言一字を神格化したものである。
真言密教は、全ては大日如来に帰一するという一神教のような要素もあれば、大日如来が無数の仏や神に分裂するという多神教的な要素も持つ。
日本の風土の隅々まで溶け込んだ宗教だ。
西明院は、天保年間(1831~1845年)に、金毘羅大権現を勧請した。
境内の最高部に金毘羅大権現が祀られている。
江戸時代後期には、讃岐の金毘羅大権現と備前の瑜伽大権現の「両参り」が流行した。
この地は、江戸時代に金毘羅詣りをする人々が通過した四国街道に近い。讃岐に渡る前の参詣者に参拝してもらうために金毘羅大権現を勧請したのだろう。
金毘羅大権現は航海の神様である。私の史跡巡りも、航海に似たところがあると感じる時がある。
我が航海が無事に進むように、金毘羅大権現に祈った。