旧倉敷市瀬戸大橋架橋記念館

 岡山県倉敷市児島味野2丁目にある児島市民交流センターは、平成22年3月に閉館した倉敷市瀬戸大橋架橋記念館の建物を再利用したものである。

倉敷市瀬戸大橋架橋記念館

 旧倉敷市瀬戸大橋架橋記念館は、昭和63年4月10日の瀬戸大橋開通と同日に開館した。

 瀬戸大橋を始めとする世界の著名な橋の模型が展示された記念館だったが、入館者の減少と倉敷市の財政難から平成22年3月に閉館となった。

 私は、瀬戸大橋が開通した時は中学3年生であった。開通してすぐに、父の運転する車に、今年100歳になった祖母と一緒に乗って見に行ったものだ。

 その後の人生で、私はこの橋を何度も通った。これからも何度も通ることだろう。

 館の外観は、太鼓橋をモチーフにしたもので、開館当時は、階段を登って建物の屋根の上まで行けたようだ。

 館の内部には、白漆喰で固められたローマ時代の神殿のような建物がある。

ローマ神殿風の建物

 この神殿のような建物の中に、今は児島市民交流センターの事務室がある。昔はこの中に土産物屋があったことだろう。

 この建物の上に、中世か近世の日本の庶民の姿を描いた天井画が広がっている。

日本の庶民を描いた天井画

 純西洋風の建物と日本の庶民の天井画の組み合わせが何とも珍妙だが、これはこれで面白い空間である。

 天井画と言えば、バチカン宮殿システィーナ礼拝堂ミケランジェロが描いた「最後の審判」を思い浮かべるが、ああいう宗教画ではなく、逞しい日本の庶民たちを描いた天井画というのも味があって面白いものである。

 さて、ローマ神殿の2階はエンタシスが連なる回廊になっている。そこに瀬戸大橋の模型が展示されている。

2階の回廊

瀬戸大橋の模型

 瀬戸大橋が明石海峡大橋しまなみ海道と異なるのは、鉄道が通行していることである。

 瀬戸大橋は、鉄道と自動車道を併用する橋としては、今でも世界最長の記録を保持している。

 瀬戸大橋を通って、高松市岡山市を結ぶJRの快速マリンライナーは、両市を一つの経済圏にしていると言ってもいいだろう。

 瀬戸大橋は、本州と四国を結んだ最初の橋である。この橋が出来るまでは、四国へは船か飛行機で渡るしかなかった。瀬戸大橋が、日本の歴史上いかに画期的な橋だったかは、後世の人々も評価することだろう。

 館の東側は公園になっていて、日本各地の伝説の橋を模したものが展示されている。

屋形橋

 屋形橋は、屋根を備えた橋で、日本庭園にある廊下橋や、神社参道にある鞘橋などの種類がある。この屋形橋は、京都平安神宮の庭園に今もある屋形橋を模している。

三河の八橋

 次の三河の八橋は、「伊勢物語」で在原業平が訪れた三河国の杜若の名所に架かっていたとされる伝説の橋である。

 今でも庭園にこのような八橋が架かっているのを見かける。

 この橋の両脇に杜若が咲いている初夏の風景を想像すると、確かに涼し気である。

佐野の舟橋

 最も簡略に川に架けることができる橋は、並べた船の上に板を敷いて作った舟橋である。

 「万葉集」には、上野国の佐野の舟橋を詠った歌が出てくるが、この橋はそれを模したものである。

 海に浮かぶ橋と言えば、私が少年時代を過ごした兵庫県相生市には、相生湾の海上に浮かんでいた皆勤(かいきん)橋という浮橋があった。

 相生市街と相生湾対岸の石川島播磨重工(IHI)の播磨造船所を結んだ橋である。昭和61年の円高不況で造船業が沈むまで、毎朝相生駅から自転車に乗ったIHIの社員が、この橋を大挙して渡っていたものだ。

 橋が人々の思い出につながるということがあるものだ。

足利行道山くものかけはし

 次なる足利行道山くものかけはしは、かつて山岳修行の聖地である下野国行道山浄因寺の寺域から茶室清心亭に架けられていた橋を模したものである。

 この橋は、葛飾北斎が版画に描いたことで有名である。

越前福井の橋

 次なる越前福井の橋は、14世紀に城下町福井の町中に架けられた橋で、半分木橋、半分石橋という奇矯な橋で、橋の両端に高門を建て、海内無双を誇ったという。

 明治42年まで現役だったそうだ。

泉崎夜月の石橋

 次なる泉崎夜月の石橋は、那覇市内に架かっていた石橋で、17世紀に架橋されたものである。

 今の那覇市内には、この橋を復元した石橋が架かっている。

 思えば橋というものは、人間の生活の範囲を広げるものとして、欠くべからざるものである。

 一つの橋が、人の人生を変えるということもあり得ることだろう。