本荘八幡宮のある宮山の東方に、真言宗の寺院、通生(かよう)山神宮寺般若院がある。
伝説では、文武天皇元年(697年)に、行基がこの地を訪れ、宮山山上に八幡院という寺院を建立したのが、般若院の開創であるという。
延暦年間(782~806年)に、由加の山奥で村人から鬼と恐れられた阿久良(あくら)王の討伐を命じられた坂上田村麻呂は、八幡院に阿久良王退治を祈念して、ここから由加に通い、阿久良王を退治することが出来た。
通生(かよう)の地名は、田村麻呂がこの地から由加に通ったことから来ているという。
延暦二十三年(804年)、征夷大将軍になった田村麻呂は、仏恩に報じるため、八幡院に本堂を寄進し、阿弥陀三尊、薬師如来、地蔵菩薩を安置した。
だがその後の度重なる兵火により、寺は衰亡した。
弘安二年(1279年)、八幡院二十六世の寂弁大徳は、鎌倉幕府に窮状を訴えて80石の御朱印を拝領し、諸堂宇を再建する。
弘安九年(1286年)、寂弁大徳が国家の安泰と仏徳を得るには、「大般若経」の読誦に如かずと願っていたところ、水島灘で操業していた漁師の網に「大般若経」二百巻と十六善神絵像、鐃鉢がかかり、八幡院に奉納された。
それ以降、八幡院は般若院と改称された。
天正三年(1575年)に、毛利勢が湊山城や常山城を攻撃した。その際、般若院も全焼した。
幸い、本尊の阿弥陀如来像は持ち出され、難を逃れた。
慶長元年(1596年)、禅宥僧正が寺域を現在地に移した。
それ以降の般若院は、堂宇を改築、再建し、安定期に入った。
境内にある大きな客殿は、新しいように見えるが、元禄十五年(1702年)に再建されたものである。
客殿の前に高野山から株を分けられた三鈷の松がある。
三鈷の松は、弘法大師空海が、将来自分が開く密教の根本道場に到達することを願って、唐から日本に向けて投げた三鈷杵がかかった松とされる。
その葉は、三鈷杵のように三股に分かれているという。
地面に落ちている三鈷の松の枯葉を見ると、確かに三股であった。
本堂は、寛政十二年(1800年)に再建されたものである。
本堂に祀られる本尊の阿弥陀如来立像は、鎌倉時代の仏師快慶の作と言われている。
寄木造で、像高79.5センチメートル、納衣を偏袒右肩に纏い、両手を来迎印に結んでいるという。
本堂に入って阿弥陀如来立像の祀られる厨子に向かって手を合わせた。天井を見上げると、格天井に彩色絵が描かれている。
天井画を見た後、ほっと一息をついて本堂を出た。
最近私は、大悲胎蔵生曼荼羅を眺めながら、密教の根本聖典である「大日経」を読むという作業をしているが、その傍ら各地の寺院を訪れてみると、仏像を多く祀る日本列島が一種の立体曼荼羅なのではないかと感じるようになった。
東大寺の毘盧遮那仏も、道端に何気なく立つ石仏も、道行く我々も、その立体曼荼羅の中を生きているように感じる。日常が即聖性につながっているようだ。
書物を読むだけでなく、足を運ぶことで、新しい視界が開けるものだ。