由加山の参拝を終えて、港町児島の市街に入った。
今回は、現在児島下の町と呼ばれる地区の史跡を紹介する。
先ず最初に紹介するのは、岡山県倉敷市児島下の町7丁目にある鴻八幡宮である。
鳥居から宮山の坂を上り、随身門に至る。随身門は、昭和56年に再建されたものである。
随身門には風鈴がかかっていた。酷暑の中で、海からの風を受けて涼しげな音を響かせている。
鴻八幡宮の創建は、大宝元年(701年)とされている。祭神は誉田別尊である。宇佐八幡宮から祭神を勧請したという。児島上の町、下の町、田ノ口、琴浦の総氏神である。
その昔この宮に大蛇が棲んでいて、参拝客を恐れさせていた。氏子の祈りに応えて、宮山に巣を作って住んでいたコウノトリが大蛇と闘い、突き殺した。
それからこの宮は鴻の宮と呼ばれるようになったらしい。
拝殿は昭和51年に再建されたものである。銅板葺の屋根と、朱色に塗られた柱と梁を有する。
本殿は、安永年間(1772~1781年)に改築されたものである。
鴻八幡宮では、毎年10月第2週の土日に秋季例大祭が行われる。
この祭りでは、氏子の各町から出された「だんじり」が、お宮に向かって曳かれていく。この「だんじり」の壮麗さは、比類がないものだという。
この時に奏でられる祭り囃子は「しゃぎり」と呼ばれている。「しゃぎり」の由来は分かっていないが、江戸時代から伝わる七曲を氏子たちが太鼓を叩くなどして演奏する。岡山県無形民俗文化財に指定されている。
鴻八幡宮からは、児島の町の向こうに広がる瀬戸内海を一望出来る。
四国も見える。下津井から四国まで連なる瀬戸大橋も見える。
当ブログが、あの橋を渡って四国に上陸するようになるのは、少なくとも今から2年以上後のことになるだろう。
さて、次に児島下の町2丁目の村山家住宅主屋を訪ねた。
訪ねた、と言っても非公開なので、外観を眺めただけである。
この建物は、明治24年に、地元で塩業・紡績業で財を成した高田家の邸宅として建築された。
昭和10年から昭和61年までは、村山外科医院の建物として使用され、その後は村山家の居宅として利用されている。
屋根は寄棟造り、桟瓦葺きで、2階の吹き抜けバルコニーに6本の円柱を配置したコロニアル様式である。
白漆喰の壁が、港町の陽光に映えて美しい。村山家住宅主屋は、国登録有形文化財である。
ここから北上し、倉敷市立琴浦西小学校から少し北にある石造総願寺跡宝塔を見学した。
この宝塔は、王子権現社という小祠の境内に残っている。総願寺は、王子権現社の別当寺で、寛文八年(1668年)に廃寺となったそうだ。
石造総願寺跡宝塔は、建仁三年(1203年)の銘があり、在年銘のある宝塔としては、全国で2番目に古いものである。
花崗岩製で高さは約2.8メートル、伏鉢より上部の宝珠まで一石で形成され、その下の塔身には、四面に仏像が薄肉彫りされている。
南面には多宝如来と釈迦如来の二仏、東面に阿弥陀如来、西面に弥勒菩薩、北面に不動明王が彫られている。
それにしても、古い石仏を見ると、不思議と心に充足感を覚える。鎌倉時代初期に遡るような古い石仏は珍しいものである。
この宝塔を築いた人の気持ちが、現代人の心を動かしている。史跡巡りをすると、古えの人と対話をしているような気分になる。大いなる時間の中で自分が生きていることを実感できる。
それが、私が史跡巡りを続ける上での原動力になっている。