鷗外全集刊行会版「鷗外全集」は、昭和2年(1927年)10月に最終巻の第18巻を刊行して完結した。
しかし、前回の記事でも書いたように、この18巻本には、巻数の制限と一巻毎のページ数の都合上、収録できなかった著作がいくつかあった。
鷗外の著作を再編の上収録するため、昭和4年(1929年)6月から昭和6年(1931年)11月にかけて鴎外全集刊行会から刊行されたのが、「鷗外全集」普及版であった。

普及版は、全20巻の予定で刊行された。
前回の全集に収録されなかった翻訳小説「みれん」や、アショカ王の事蹟を書いた「阿育王事蹟」、警句集の「智慧袋」「心頭語」なども、この全集で初めて収録された。
面白いのは、鷗外が上官から文学に関するものを書くなと咎められ、九州小倉に異動させられた頃に、九州の地方紙に偽名で発表したものが、この全集から収録されたことである。昭和4年まで、世間では、これらの小倉時代の著作が鷗外のものだという認識がなかったのだろう。
この普及版には、内容見本があり、初めて各巻に月報が付いた。
「鷗外全集」普及版の内容見本は、古書市場でも時たま見かけることがある。私も一冊入手した。

こういうものを購入するときに、改めて実感するのはネット社会の便利さである。
私が若い頃は、目当ての古書を購入しようと思えば、各古書店が出している古書目録を入手して目を皿のようにして読むか、直接古書店に足を運んで書棚を虱潰しに見るしかなかった。
今は「日本の古本屋」というサイトで、欲しい古書を検索すれば一発で出てくる。わざわざ店に足を運ばずともネットで注文して手に入れることが出来る。
昔なら、こんな内容見本を入手するにも、交通費を使って全国の古書店を渡り歩く必要があった。
内容見本の表紙にあるように、普及版は、一冊一円三十銭だったらしい。昭和元年(1926年)から昭和5年(1930年)にかけて、円本ブームというものが興った。改造社が1冊1円の「現代日本文学全集」を刊行したことがブームの始まりである。1円は当時の大卒初任給の約2%であったらしい。大卒初任給が約20万円の時代なら約4,000円である。1冊1円の全集本は、当時は廉価なものであった。それまでの全集本が、いかに高価だったかがこれで分かる。
またこの時には、普及版の約3倍の値段の特装版の刊行も計画されていたらしい。

だが、この特装版の実物を目にした人は、鷗外研究家の中にもいないらしい。実際には出版されず、計画だけで終わったのだろう。
今の時代には、文学全集を買って読む人など絶無に近いが、円本がブームとなった当時は、まだまだ広範な全集の読者層があったようだ。
「鷗外全集」普及版も、この円本ブームに乗った企画だったのではないか。
だが売れ行きはよくなかったらしい。昭和5年(1930年)7月の第10回刊行から、国民図書株式会社が鷗外全集刊行会から撤退した。
鷗外は、漱石と比べて人気は低く、全集の売れ行きも漱石とは比較にならないほど悪い。
そのため、「鷗外全集」はいつの時代も全巻予約購読という形で販売されている。書店での一冊ごとのばら売りはされていない。
この普及版もそうであった。


内容見本に、全巻一括購入の申込はがきが挟まれていた。昭和4年にこの内容見本を手にした人は、ついに「鷗外全集」を注文しなかったらしい。おかげで私は当時の申込書を目にすることが出来た。
また、いつの時代も「鷗外全集」の企画の足を引っ張るのは、医事・軍事篇である。鷗外の全著作を集成するという全集の名目上、鷗外の著作に他ならない医事、軍事に関するものも収録しないわけにはいかない。
ところが、世の鷗外愛好家と言えども、鷗外が書いた医学論文や、医学・衛生学に関する著作を読みたいという人はほとんどいない。
そのため、普及版では、第18巻から第20巻までの医学篇を不用とする人は、それを除外して予約できるようにした。

だが、医学篇を選択した人があまりにも少なかったためか、結局医学篇の3巻は刊行されなかった。
普及版は、第17巻で刊行が打ち切られた。
私は、鷗外の全著作に目を通したいという意志から、岩波書店版第三次「鷗外全集」の医事・軍事篇のすべてに目を通した。
流石にドイツ語で書かれた論文は読めなかったが、鷗外が日本語で書いた医学、衛生学に関する著作は、意味は分からぬまでも全部読んだ。
鷗外が陸軍の米食中心の糧食行政を主導したおかげで、日露戦争で陸軍の兵に脚気で死ぬものが続出したという批判がある。
海軍は、科学的な理由は分らぬが、米食よりパン食の方が脚気の発生を抑えられるという経験則を基に、パン食を進め、結果陸軍より脚気の発症を大幅に抑えることが出来た。
その後、小麦に脚気抑制に効果的なビタミンBが含まれていたことが分かり、脚気の原因が究明された。鷗外が現役の軍医だった時代には、まだビタミンは発見されていなかった。
鷗外が書いた医学や衛生学の著作は、まだビタミンの存在も分かっていない時代のものである。
そんな時代の医学論文を読むことに、そもそも意味を認めがたい。その上、鷗外の医学・衛生学の著作は、文語文で書かれており、実験器具や外国語の用語にも漢字が当てられていて、とても読みにくい。
これを読むことに意味があるとしたら、日本の医学の発展の歴史の一断面を見るということか、鷗外の書いたものは全て読みたい、という気持ちを満たすことにしかない。
それでも、例えば陸軍の衛生学の教科書であった「衛生新編」は、全集本で2巻を占める分量があり、鷗外最大の著述である。鷗外研究において、これを無視することはできない。
最後の「鷗外全集」が刊行されてから、もう50年以上経ったが、いまだに新しい全集の刊行が計画されないのは、医事・軍事篇のある限り、「鷗外全集」が商売として成り立たないからだろう。
さて、この普及版からは、月報が各巻に付録としてつくようになった。
私は、普及版の実物は目にしたことがないが、前回の記事で紹介した「鷗外全集刊行会版『鷗外全集』資料集」に、普及版の月報の写しが載っている。

この月報第一号に載った、菊池寛の「鷗外氏の歴史小説」などは、一読して我が意を得たりと興奮した。
鷗外さんの歴史小説は、その手法も題目も、あくまでもリアルである。決してウソを書かない。鷗外氏以後に出た歴史小説は、芥川氏のものにしろ、自分のものにしろ、虚構がある。が、鷗外氏にはそれがない。飽くまでも、理責めである。煉瓦を一枚宛畳みあげていったように理責めである。何処にもごまかしがない。アヤフヤがない。整然として、義理明白である。
鷗外の歴史小説に全く虚構がないかと言えば、それは違うが、使った史料をそのままほとんど手を加えずに表に出すところがある。なぜ鷗外はそうしたのか。その作品に出てくる人の評価を自分でせずに、読者や後世にゆだねようとしたのか。どうもそういうことでもなさそうだ。
鷗外の歴史小説には、史料に手を加えることが、その時代に生きた人に対する侮辱だと思っているかのような、過去に生きた人に対する尊重の姿勢がにじみ出ている。
たとえば芥川龍之介の「羅生門」にしろ「地獄変」にしろ、歴史時代を題材とした彼の小説は、単にその時代に舞台を借りて、作品内で芥川の思想を述べているだけのものが大半である。
思想を述べる芥川が近代人であるため、近代人の苦悩のようなものが歴史時代の人の口を通して語られる。舞台を現代に設定していないために、現代への批判にもなっていないし、平安時代の人が語るにはあまりに近代的な内容のことが、作中人物を通して語られていて、歴史ものとしても読めない。「上手に書いた寓話」の域を出ない。
私は若い頃は芥川を才能ある人だと思っていたが、鷗外を読んだ後に芥川のものを読むと、自分の独りよがりの苦悩を、過去の時代を借りて語っているだけのように思えた。その作品からは、作品の舞台となる時代に生きた人々への敬意は微塵も感じられない。きつい言い方かも知れないが、この芥川の過去への態度が、そのまま芥川の最後にもつながっているような気がする。
その芥川が書いた鷗外についての文が、普及版の月報第一号に載っている。「鷗外先生のこと」という短文だ。
又夏目先生の御葬式の時、青山斎場の門前の天幕に、受付を勤めしことありしが、霜降の外套に中折帽をかぶりし人、わが前に名刺をさし出したり。その人の顔の立派なる事、神彩ありとも云ふべきか、滅多に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎とあり、おや、先生だつたかと思ひし時は、もう斎場へ入られし後なりき。
芥川が感銘を受けた鷗外の表情は、鷗外の深い学識から来たものか、戦場での過酷な経験から来たものか、過去に生きた人々への敬意から来たものか分らぬが、尋常ならざるものだったことだろう。