むかし下津井回船問屋の2階には、下津井の信仰や漁に関する資料が展示してある。
江戸時代中期には、お伊勢参りと同様に、讃岐の金毘羅さんも一生に一度は参詣したい場所とされ、全国から参詣者を集めた。
金毘羅さんとは、象頭山金毘羅大権現のことで、今は金刀比羅宮という神社になっている。
金毘羅さんへの参詣道は、金毘羅往来と呼ばれ、道沿いに旅籠や茶屋、道標が出来て参詣客で繁盛した。
下津井と讃岐の丸亀の間は、波も穏やかで航路も短いことから、金毘羅参りや四国八十八ヵ所霊場参りの参詣客を運ぶ渡海船の発着場になった。
江戸時代中期には、讃岐の金毘羅大権現と、備前の由加山蓮台寺の瑜伽大権現の両方に参る「対参り」が特に御利益があると信じられた。「ありがたいのは金毘羅さん、なんのかんのと瑜伽さん」と言われ、片側しか参らないのは「片参り」としておかげが少ないと言われた。
金毘羅大権現は、讃岐国象頭山に垂迹した神様(権現)とされ、本地仏は薬師如来であった。
明治時代の神仏分離、廃仏毀釈により、金毘羅大権現の本地仏として祀られていた薬師如来像は撤去され、その後行方不明となった。讃岐における金毘羅大権現信仰は廃絶し、金毘羅大権現は大物主神を祀る金刀比羅宮という神社になった。
金毘羅大権現の本地仏薬師如来像は行方不明となったが、両脇侍仏である不動明王像と毘沙門天象は破却を免れ、明治時代に備前の真言宗の寺院、金陵山西大寺の牛玉所殿(ごおうしょでん)に移され、今ではそこで金毘羅大権現の本体として祀られている。(令和2年7月4日の当ブログ「金陵山西大寺後編」の記事参照)
もし現代において、金毘羅大権現と瑜伽大権現の対参りをするのなら、備前の西大寺と蓮台寺に参拝するのが本当だろう。
金毘羅大権現は、釈迦が説法した霊鷲山の護法善神クンビーラのことで、インドでは水神とされ、それが転じて日本では海上交通の安全を守る神様とされた。
むかし下津井回船問屋では、江戸時代の船磁石が展示されていた。下津井を発着した船主や下津井の漁民も、航海の安全を金毘羅大権現に祈っていたことだろう。
また、金毘羅参りをする江戸時代の道者の姿が展示してあった。
白装束を纏い、手甲、脚絆で手足を固め、草鞋を履き、金剛杖を突き、数珠を繰り、金剛鈴を振りながら陀羅尼(真言)を唱えて歩いたのだという。
不思議なことに、この姿を見た時に、自分が本当にしたいことは、こういう格好をして陀羅尼を唱えながら聖地を巡礼することだと雷に打たれたように感じた。
この道者の恰好を見ることが出来ただけで、下津井に来た甲斐があったと思った。
さて、下津井は漁港である。下津井は潮流が速く、岩にしがみついたマダコの身は引き締まり、格別の味だと定評がある。
下津井では、1500メートルほどのロープに、15メートル間隔で100個の蛸壺を付けて海底に沈める。これで一本というが、1隻の漁船が三十本の蛸壺付きロープを丸2日漁場に沈める。引き上げた時に1割の蛸壺にマダコが入っていたとしても、300杯の大漁である。これを一本釣り漁法というらしい。
潮流のきつい下津井沖は、天から与えられたような豊かな漁場である。
北前船の交易港で、金毘羅参りの参詣客を乗せる船の発着場でもあった下津井は、江戸時代中期以降は、備前有数の賑わいをみせていたことだろう。
美しい多島海を目前に控えた天然の良港下津井は、まことに恵まれた場所だと言えよう。