由加山に向かう途中、倉敷市曽原にある清田八幡神社に立ち寄った。
清田八幡神社は、児島の総鎮守とされ、備前の八幡三古社の一つと言われている。
社伝によれば、清田八幡神社は、現在地から北の粒江の田槌の浦にあったが、清滝山中を経て、承久元年(1219年)に現在地に移転したそうだ。
現在の本殿は、寛永十九年(1642年)に児島郡内の17カ村の氏子によって再建されたものだという。
鳥居の横に、小さな祠があり、その中に石室のようなものを形作った石組があった。一体これは何を祀っているのか。謎の祠である。
鳥居を潜って石段を上がる。石段を上がったところに、西行法師の石像があった。
西行は、仁平二年(1153年)に清田八幡神社を訪れ、参篭修行をした。
その後、仁安三年(1168年)に四国への旅をするに際し、若いころ修行した清田八幡神社を再訪した。
若いころ訪れた時に生えていた松が、年を経て古木となっているのを見て、
むかし見し 松は老木に 成りにけり 我年経たる 程も知られて
と詠った。
西行が訪れた時は、清田八幡神社はまだ清滝山にあったころだろう。
西行は漂泊の歌人だが、空間的な漂泊だけでなく、時間的な漂泊も歌っている。
西行法師の石像のある場所から、更に石段がある。
石段を上がると神門があり、その先に銅板葺の屋根を持つ拝殿がある。
寛永十九年(1642年)に再建された本殿は、檜皮葺、入母屋造りで、正面に千鳥破風を持っている。向拝は唐破風である。擬宝珠高欄付の縁が巡らされている。
桁行三間、梁間二間の風格ある建物である。
児島の地は、承久の乱に敗北した後鳥羽上皇の子・頼仁親王が配流された地である。頼仁親王は、児島に来て、清田八幡神社の近くの五流尊瀧院を御座所とした。
頼仁親王は、写経した「大般若経」百巻を清田八幡神社に奉納したという。
本殿に向かって左に昭和9年に建てられた御神庫がある。
この御神庫の中に、頼仁親王が奉納した「大般若経」があるのだろうか。
五流尊瀧院や熊野神社のあるこの一帯は、朝廷の弾圧を恐れて、奈良時代に熊野からこの地に逃れてきた修験者達が第二の熊野として様々な社殿を建てた地である。
児島がまだ島だった時代は、児島一島は修験者の島だった。清田八幡神社も、そんな時代の息吹を今に伝えるお社である。