下津井城跡 前編

 下津井の町並みの北側に聳える城山の山上にあるのが、下津井城跡である。

 下津井城は、天正九年(1581年)ころに備前、美作の覇者となった宇喜多直家が築城した。

下津井城跡

 関ケ原の合戦後、小早川秀秋の家臣平岡石見守が在城したが、慶長八年(1603年)に池田忠継が岡山藩主となると、老臣の池田出羽守長政が城代となり、現在に残る下津井城の縄張りを築造した。

 下津井城跡は、今では岡山県指定史跡になっている。あまり有名ではないが、結構立派な石垣が残る城跡である。

 下津井の町からも、三の丸南側の石垣が見える。

三の丸南側の石垣

 下津井城跡は、今では瀬戸大橋架橋記念公園の一部になっている。

 城山の山上には、公園エントランスゾーンの駐車場があり、そこまで車で行くことが出来る。

 駐車場から城跡までの道は平坦である。苦労せずとも、規模の大きな城の遺構を見学できる。

瀬戸大橋架橋記念公園案内板

 私はスイフトスポーツを駐車場にとめて、歩いて馬場跡広場まで行った。

馬場跡広場

 馬場は、城兵が軍馬を繋養したり騎馬の修練をした場所である。

 馬場跡広場の南側に西の丸跡がある。馬場跡から見ると、西の丸跡は切岸の上にあり、切岸は石塁となっている。

西の丸跡北側の切岸

 西の丸跡の切岸の西側に回ると、石塁の前に観音菩薩の石仏があった。

西の丸跡西側の切岸と石仏

石仏

 花崗岩に彫られた石仏で、少し風化している。

 下津井城は、池田長政の後は、荒尾但馬守、池田由之、池田由成が城主となった。

 池田由成が城主だった寛永十五年(1638年)、一国一城令により下津井城は廃城となった。

 観音菩薩の石仏は、西国三十三所霊場各地の観音菩薩像を模したものだろう。下津井城が廃城になってから、地元の人が祀ったものだろう。

 切岸の上の西の丸跡は、周囲を土塁に囲まれている。

西の丸跡

 西の丸跡の南側は、城山の南側の崖に面している。そこから下津井の町と海を見下ろすことが出来る。

西の丸跡の南側

 西の丸跡から東に歩くと、土橋が見える。はっきりと残った土橋である。

 土橋の側面は、石垣で固められ、その南北は空堀になっている。

土橋

土橋側面の石垣

 土橋を渡って東に行くと、櫓跡西側の広場がある。

櫓跡西側の広場

 正面に見えるのは、櫓跡の石垣である。

 この櫓跡西側の広場から南に歩くと城の大手跡がある。

 大手は城の表玄関のようなものである。城には南側の下津井の町から登ったものらしい。

大手跡

 この大手跡を登ると、櫓跡西側に出るわけだが、櫓跡西側の石垣は、下津井城跡の一つ目の見どころである。

櫓跡西側の石垣

 石垣の隅の弧を描いた石の積み方が、江戸時代初期の石垣の特徴を持っている。

 この石垣の上は、櫓が過去に建っていたと思われる長方形の空間であった。

櫓跡

櫓跡の東側

 この櫓跡から東には、一段高くなった切岸がある。ここが本丸跡である。

本丸跡の切岸

本丸跡への石段

 本丸跡は広々とした空間である。

本丸跡

 本丸跡の北側に、一段高くなった場所がある。

 ここが下津井城跡の天守台跡である。

 天守台跡は、城山の最高所でもある。天守のある城が、下津井にかつてあったのだ。

 天守台跡に立って南を見ると、本丸跡の広場の向こうに瀬戸内海と島々が見える。

天守台跡からの眺め

下津井城跡の石碑

 下津井城跡を散策中、人とすれ違うことはなかった。

 これだけの遺構を備えた城跡で、散策しやすい場所でありながら、観光客はほとんどいない。

 もう少し人々に知られてもいいような立派な城跡である。