本宮山円城寺 後編

 提婆宮の西側には、円城寺住職の居宅である庫裏がある。

庫裏

 庫裏の庭園には、宝篋印塔が建っている。この宝篋印塔、笠の隅飾りが立っているので、かなり古いものであると見受けられる。

庫裏の庭の宝篋印塔

 様式的には南北朝期のものと思われるが、説明板も何もないので、詳細は分からない。

 また、庭園に早咲きの桜が咲いていた。

 今年も桜を見ることが出来た。昨年桜を見てからから1年生きることが出来たことを感謝した。

 最盛期の円城寺には、塔頭が9坊あったというが、現在残っているのは、地蔵院と医王院の2つである。

 地蔵院は、円城寺の西側にある。門が閉ざされ、境内に入ることは出来なかった。

地蔵院

 円城寺の南方約150メートルにもう一つの塔頭、医王院がある。

 円城寺と2つの塔頭は、ゆるやかな丘陵上に存在する。戦乱の時代には、寺院も僧兵を擁して武装していた。そんな時代には、本寺を囲む塔頭は、砦の役割を果たしていた。

 医王院も、丘陵の南端に石垣と塀を巡らせ、砦のような装いである。

医王院南側の石垣と塀

医王院の入口

 医王院の入口は、西側に開いている。境内には、薬師如来を祀る本堂と庫裏がある。

本堂

 本堂を囲む塀の外側の丘陵上にも、医王院のお堂や祠が点在している。

 春ののどかな陽気の中で、それらお堂や祠を巡った。

 本堂の北側には、医王院の鎮守である根本稲荷が祀られている。

根本稲荷

 根本稲荷の建立年代は不詳であるが、安土桃山時代にはここに鎮座していたという記録があるという。

 現在の建物は、昭和52年に再建されたものである。

 本尊は、走る白狐に乗る天女の姿をした吒枳尼天(だきにてん)である。

 吒枳尼天は、ヒンドゥー教では、人肉を喰らう羅刹女とされている。密教ヒンドゥー教から吒枳尼天を採り入れ、仏法の守護神である天部の神様にした。

 日本の吒枳尼天は狐に乗っているが、インドでは、昔墓場で死者の肉を野生のコヨーテが食い荒らすことがあった。このコヨーテがインドで吒枳尼天の使いとされ、日本に渡来した時に狐に解釈されたのだろう。

 日本のお稲荷さんには、宇迦之御魂(うかのみたま)神を祭神とする神道系の稲荷と、吒枳尼天を本尊とする仏教系の稲荷の二系統がある。根本稲荷は、仏教系の稲荷である。

 根本稲荷の向かい側には、北向庚申堂がある。

北向庚申堂

 庚申は、帝釈天の使いの青面金剛とされている。古来から悪事、災難は、北から来ると言われている。北向庚申堂は、厄除けのため、本堂の北側に北向きに建っている。

庚申様

 北向庚申堂の西側に、不動明王観音菩薩の石像がある。

観音菩薩不動明王の石像

観音菩薩立像

不動明王立像

 真新しい石仏だが、その間に、「佛陀のおしえ」として、「不動明王 わるいと知ったらやめましょう」「観音菩薩 よいと知ったらやりましょう」「釈迦如来 これを人に知らせましょう」と刻んだ石碑があった。

佛陀のおしえの碑

 仏教の教えの中に不動明王観音菩薩が現れたのは、釈迦が没した後の大乗経典の中である。

 なので、佛陀(釈迦)が説いた教えの中に不動明王観音菩薩は出てこない。

 だが、真理は釈迦が成道する前から存在し、釈迦が入滅した後も存在し続け、その真理は人間の本来の心と同一で、菩薩や明王はその心の機能の現れであるという、大乗仏教の考え方からすれば、この碑に刻んであることも、強ち間違いではない。

 仏教の教理は、文字にすれば煩雑難解で、民衆に近寄りがたいが、このようなシンプルなものにすれば、頭に入ってきやすい。

 釈迦の説いた教えは、ひたすら現実の世界を観察して、人間の苦しみの原因が虚妄に過ぎないと覚ることを目標にした。その教えに、本来は神や仏は出てこない。

 それだけでは民衆の心を掴むことが出来ないので、仏教は様々な御利益を持った神様が出てくるヒンドゥー教をお手本にして、仏菩薩のパンテオンを築き上げた。

 仏教は、人間が生きたいと思う欲望を制御する教えである。欲望が強いと、それが満たされない時に苦しみになる。だが欲望がないと人間は生きていけない。欲望を過度に否定する思想は、決して人間社会で主流になることは出来ない。

 仏教の教えが歴史の中で変遷してきたのも、欲を持った人間の中でいかに教えを広めるか、試行錯誤してきた結果であろう。