下津井の町の真ん中に、海に突き出た小山がある。標高約22メートルの浄山である。
この浄山の上に鎮座するのが、祇園神社である。
この浄山には、かつて長浜城という城があったという。
室町時代に、長浜城の鎮守として長浜宮が創建され、祭神は長浜大明神と称された。
江戸時代後半に、長浜宮は素戔嗚尊を祀る祇園宮と合祀され、祇園神社と称するようになった。
私が祇園神社を訪れた時は、丁度アジア系の外国人観光客の一団が参拝していた。
この神社の境内からは、西方の海景がよく見える。海の眺めがいい場所に、木製のベンチがある。外国人観光客は、ベンチに腰をかけて、海を眺めながら歓声を上げていた。
特に、ここから西に浮く六口島は、国の天然記念物の象岩があることで名高い。
冷たいが、海からの風が心地よい。
海の眺めを堪能した後、拝殿に近づいた。素戔嗚尊を祀る神社は、祇園神社と呼ばれることが多い。
日本では、神仏習合により、釈迦が説法したというインド祇園精舎の守護神である牛頭(ごず)天王と素戔嗚尊が、何故か習合された。
今日本で素戔嗚尊を祀る神社は、明治の神仏分離令までは、祇園精舎の守護神牛頭天王を祀っており、祇園社と呼ばれていた。京都の八坂神社も、江戸時代までは祇園社という名称であった。祇園の地名はそこから来ている。
下津井の祇園神社も、牛頭天王を祀っていたころの名残が社名として残ったのだろう。
拝殿に近づいてみると、なかなか豪華な彫刻が施されている。
拝殿の向拝の下は、格天井になっていて、政治家の中川一政が揮毫した祇園神社の扁額が掛かっている。
外国人観光客は、拝殿の参拝を済ませると帰ってしまったが、この神社の見どころは、拝殿の背後にある、二棟の本殿である。
東西に二棟の本殿が並んでいるが、東側が、室町時代から祀られていた長浜大明神こと長浜神を祀る本殿の長浜宮である。
この長浜宮の彫刻が、なかなか見事である。
牛頭天王こと素戔嗚尊を祀る隣の祇園宮は、長浜宮と比べれば、質素な佇まいである。
また、本殿側に向く拝殿背部の千鳥破風の中と、その屋根の下にも、彫刻が施されている。
これらの社殿は、祇園宮が合祀された江戸時代後期に建てられたものだろう。彫刻もそのころに彫られたものだろう。
本殿の西側に、長浜宮、祇園宮と刻まれた石の扁額があった。
かつて鳥居の上に掛けられていたのだろうが、何らかの理由で外されたのだろう。
本殿の裏には、二つの末社があり、その後ろに石垣が組まれた台地があった。
この石垣が組まれた台地が、かつての長浜城の遺構なのかどうかは分からない。
台地の上に、丁度頭部のあたりで切断された石仏が置かれていた。神仏分離までは、祇園神社にもこの石仏が堂々と祀られていたのだろう。
明治の廃仏毀釈で、それまで神社にあった仏像や三重塔が破壊されたり移動させられたそうだが、この石仏も明治の廃仏毀釈によって破壊されたものだろう。
台地の下に瓦が散乱していた。ひょっとしたら、この台地の上には、かつて鐘楼か仏堂があったのかも知れない。
この神社にも、今まで紆余曲折があっただろうが、いずれにしても海に臨んだ祇園神社は、常に海風が吹きめぐる気持ちの良い神社である。
御祭神も、温かい気持ちで町を見守っておられることだろう。