備前

陣屋町天城 後編

海禅寺から南に行くと、日蓮宗の寺院、恵光山正福寺がある。 恵光山正福寺 この寺の山門は、下津井城の城門を移築したものであるという。 正福寺山門 正福寺の山門は、意外と小ぶりな山門である。こんな城門を持った下津井城は、ささやかな城だったのだろう…

陣屋町天城 前編

岡山県倉敷市藤戸町天城は、岡山藩家老池田氏が陣屋を置いて治めた陣屋町であった。 江戸時代には、所領が3万石以下の小藩は、城を持つことが許されず、藩庁として陣屋と呼ばれる建物を建てた。 上級旗本や大藩の家老も所領に陣屋を置いた。 岡山藩家老池田…

盛綱橋 経ヶ島

藤戸寺の北側を流れる倉敷川の上に、盛綱橋という橋が架かっている。 この橋は、平成元年に再建されたものだが、再建の際、橋の上に海を渡る馬上の佐々木盛綱の銅像が設置された。 盛綱橋 盛綱橋上の佐々木盛綱の銅像 佐々木盛綱が実際に藤戸海峡を渡ったと…

補陀落山藤戸寺

7月17日に備前の史跡巡りを行った。源平藤戸合戦の古戦場を巡る旅となった。 寿永三年(1184年)二月に、一の谷の合戦で大敗した平氏は、水軍に頼って西に逃れ、備前国藤戸の地に拠った。 現在、藤戸と天城の間には倉敷川が流れているが、ここは寿永の当時…

岡山市 興除神社

藤田神社から南西に車を走らせ、次なる目的地の興除(こうじょ)神社に向かった。 興除神社は、岡山市南区中畦(なかうね)にあるが、この一帯は、文政四年(1821年)から文政六年(1823年)にかけて開発された興除新田と呼ばれる干拓地である。 児島湾に干…

岡山市 藤田神社 

現在の児島半島は、江戸時代に入るまでは、児島という島であったが、江戸時代初期の干拓事業により本州と陸続きになった。 池田藩政時代には、児島湾の干拓が続き、広大な新田が造られた。児島湾干拓事業は、明治時代に入っても続いた。 今回から連続して、…

今村宮

宗忠神社から西に500メートルほど行った、岡山市北区今4丁目にあるのが、今村宮(いまむらぐう)である。 今村宮 今村宮参道 今村宮の起源は、元弘三年(1333年)にこの地に創建された今村八幡宮である。 戦国時代に宇喜多直家が岡山城を拡張するに際し、内…

宗忠神社

金川の史跡巡りを終えて南下し、次なる目的地である宗忠神社に向かった。 今回紹介する宗忠神社は、当ブログで初めて紹介する新宗教の史跡である。 江戸時代後期に、黒住教、金光教、天理教という3つの教派神道が誕生した。この黒住教の開祖である黒住宗忠…

玉松城跡 後編

北の丸跡から本丸跡に向かう。本丸跡は広々とした曲輪である。 本丸跡 本丸跡には、石垣の石か建物の礎石と思われる石が転がっている。その石の上に、古い瓦が置かれていた。 石の上の瓦 城の建造物の痕跡が、僅かながらここに残っていた。 また、本丸跡には…

玉松城跡 前編

金川の町の北側に聳える臥龍山上に築かれた玉松城(金川城)は、戦国時代に西備前に覇を唱え、最後は宇喜多直家により滅ぼされた松田氏が拠点にした城跡である。 臥龍山 松田氏は、元々は相模国に住む御家人だったが、承久三年(1221年)の承久の乱の戦功に…

岡山市 七曲神社

妙覚寺の裏手にある臥龍山の麓にあるのが七曲(ななまがり)神社である。 七曲神社 参道の狛犬 臥龍山頂の玉松城を拠点とした松田氏は、元々相模国の御家人であった。 承久の乱までは、鎌倉幕府の勢力は西日本には及んでいなかった。まだ西日本は朝廷の勢力…

龍華山妙覚寺

岡山市御津郷土歴史資料館の道路を挟んだ北側には、日蓮宗不受不施派の祖山、龍華山妙覚寺がある。 龍華山妙覚寺 日蓮宗不受不施派は、今まで何度か紹介したように、法華経信仰を正法とし、多宗派から布施を受けず、多宗派の寺院に対して参詣や布施をしない…

岡山市御津郷土歴史資料館

東武藤家の邸宅跡である「さかぐらKANAGAWA」の見学を終えると、次は西武藤家の邸宅跡に建つ岡山市御津郷土歴史資料館に向かった。 岡山市御津郷土歴史資料館 岡山県御津郡御津町が、武藤家から金川のシンボルでもあった西武藤邸を譲り受け、その土地に建て…

金川陣屋跡 武藤邸跡

岡山市北区御津金川の町は、江戸時代を通して岡山藩の家老日置(ひき)氏の所領であった。 日置氏は、金川に陣屋を置いて行政を司った。陣屋とは、所領3万石以下の大名や、大藩の家老、上級旗本が所領に置いた政庁のことである。 3万石以下の大名は、幕府…

角藤定憲 難波抱節

徳倉城跡から下山して、JR津山線野々口駅の近くにある角藤定憲(すどうさだのり)の墓に詣でた。 角藤定憲は、日本で初めて壮士芝居を興行した人物で、新派演劇の祖とされている。 角藤家の墓地 壮士芝居や新派と言われても、現代人には何のことだか分からな…

徳倉城跡

2月6日に備前方面の旅をした。 最初の目的地は、岡山市北区御津河内にある徳倉城跡である。徳倉城跡は、標高約232メートルの遠藤山の山頂にある。 遠藤山 遠藤山の麓には、天児屋根命を祀る徳蔵神社がある。 この神社には、天文年間(1532~1555年)に徳倉…

吉備津彦神社 後編

吉備津彦神社の社殿北側にある子安神社は、岡山藩の名君池田光政公にゆかりのある社である。 子安神社鳥居 祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命、木花佐久夜姫命、玉依姫命である。 慶長年間(1596~1615年)に、岡山藩主池田忠継の後見人だった池田利隆が、子宝…

吉備津彦神社 前編

宗形神社の参拝を終え、南西に車を走らせる。 岡山市北区一宮にある備前国一宮の吉備津彦神社に向かった。 播磨国一宮の伊和神社、但馬国一宮(二社ある内の一社)の粟鹿神社、美作国一宮の中山神社、淡路国一宮の伊弉諾神宮に続いて、私が訪れた五社目の一…

市川喜左衛門の墓 宗形神社

妙善寺の参拝を終え、岡山市北区芳賀にある市川喜左衛門の墓に詣でた。 ここは、芳賀にある顕本寺の裏山の果樹園の中にあり、軽トラ1台がようやく通ることが出来る細い道を行かなければ辿り着けない。車で行く事はお勧めしない。 市川喜左衛門は、天文二年…

鷲林山妙善寺

岡山シティミュージアムの見学を終え、スイフトスポーツを駐車していた駐車場に戻り、車に乗り込んだ。 そこから北西に走り、岡山市北区津島本町にある日蓮宗不受不施派の寺院、鷲林山妙善寺を訪れた。 鷲林山妙善寺 日蓮宗不受不施派は、日蓮上人が定めた不…

岡山シティミュージアム

岡山県立記録資料館を出て、JR岡山駅に向かう。次なる目的地は、岡山市北区駅元町にある岡山シティミュージアムである。 岡山シティミュージアムは、ホテルやNHK岡山放送局、コンベンションセンター、レストラン、ショップが入ったリットシティビルの中にあ…

西川緑道公園 後編

薬師院の参拝を終え、再び西川緑道公園に戻った。 西川緑道公園の標柱 西川橋から公園を北上してしばらく行くと、右手に岡ビルという昭和レトロなビルが見えてくる。 岡ビル ここは地元の人で賑わう、魚などの小売り市場であるらしい。 江戸時代には、この岡…

光珍寺 岡山寺 薬師院

今日は、岡山市北区磨屋町にある3つの寺院を紹介する。 西川緑道公園を北上し、桶屋橋の東詰に至るとそこを右折する。真っ直ぐ歩くと天台宗の寺院、柴岡山光珍寺がある。 柴岡山光珍寺 ご覧のとおりの鉄筋コンクリートの建物で、見たところ、お寺と言うより…

西川緑道公園 中編

蓮昌寺の参拝を終え、再び西川緑道公園に戻る。 緑道公園のすぐ東側に、白亜の岡山バプテスト教会が建っている。場所は岡山市北区田町1丁目になる。 岡山バプテスト教会 バプテスト教会は、キリスト教プロテスタントの一教派で、アメリカで広く普及している…

佛住山蓮昌寺 後編

蓮昌寺の境内にある僅かな木造建築物の一つが大仏殿釈迦堂である。 大仏殿釈迦堂 昭和20年6月29日の岡山大空襲で伽藍を失った蓮昌寺だが、昭和24年に児島の常山にあった常山寺の本堂を譲り受けて、これを仮の本堂とした。 寺宝の縦約7メートル、横約3メー…

佛住山蓮昌寺 前編

西川緑道公園から東に逸れて、岡山市北区田町の日蓮宗の寺院、佛住山蓮昌寺まで歩いた。 佛住山蓮昌寺 蓮昌寺山門 蓮昌寺は、正慶年間(1332~1334年)に富山城主松田左近将監元喬により、岡山城中の榎の馬場に建てられたという。 その後、宇喜多直家が備前…

西川緑道公園 前編

大雲寺の南西にある大雲寺交差点から西にしばらく歩くと、岡山の市街地を南北に貫く西川用水に行き当たる。 西川用水は、岡山市北区三野のあたりの旭川から取水され、岡山市街を通って児島湾まで続いている。 西川用水は、平安時代には既に原型があった人工…

法澤山大雲寺

オランダ通りから南西に歩く。 岡山市北区表町3丁目にある浄土宗の寺院、法澤山大雲寺に辿り着いた。 法澤山大雲寺 大雲寺は、岡山城を築いた宇喜多氏によって、現在の岡山市北区西大寺町に建てられた。 当初は、竜昌山大運寺と称していた。寺は一度衰微し…

オランダ通り周辺

昨年12月5日に備前の史跡巡りを行った。岡山市街の史跡を中心に巡った。 岡山を代表する商店街である表町商店街の1本東側を通る南北の通りを、通称「オランダ通り」という。 オランダ通り 煉瓦を敷き詰めた瀟洒な通りである。私が訪れた時は、まだ朝早かっ…

渋川海岸

宇野港から南に行き、岡山県玉野市玉の町並みに入る。 ここには、大正6年に開設された三井造船所がある。 三井造船所 当時、三井物産株式会社は、海運業から造船業に経営を拡大していた。昭和12年には、株式会社玉造船所として独立し、昭和17年に三井造船と…