下津井は漁港であり、タコ漁で有名である。
下津井には、タコ料理で有名な保乃家(やすのや)がある。私がまだ24歳のころ、保乃家でタコのフルコース料理を食べて、あまりの美味しさに感激した記憶がある。
今は漁港の下津井だが、江戸時代から明治時代には、北前船が寄港する商港として繁栄していた。
祇園神社のある浄山の麓から東に延びる道沿いには、昔の商家や蔵が並んでおり、岡山県の町並み保存地区になっている。
町並み保存地区の中心に、むかし下津井回船問屋という、昔の回船問屋を改築して資料館とした建物がある。
下津井は、児島半島の最南端に位置する港町である。
瀬戸内海は、下津井のあたりで狭くなることから、この辺りは古くから「西国の喉首」と呼ばれ重要視された。
南北朝時代には、九州から東上した足利尊氏が、1000艘の船団を率いて下津井に立ち寄ったという。
江戸時代には、下津井に岡山藩の在番所が置かれ、参勤交代のために瀬戸内海を航海する西国大名の応接に当たった。
江戸時代中期以降は、蝦夷地と西国の交易船である北前船の寄港地として栄えた。
蝦夷地で獲れたニシン粕は、児島湾や備中沿岸の干拓地で栽培されていた綿、菜種、豆、藍の肥料として需要があった。
ニシン粕を詰め込んだ俵を満載した北前船が下津井に寄港し、ニシン粕を降した。その替わりに綿、古着、塩、豆などが積み込まれ、蝦夷地や奥羽に運ばれていった。
北前船は、幕末には「一航海一千両の利益」と言われるほど莫大な利益を上げたという。
回船問屋は、北前船から降ろされたニシン粕や、帰り荷として北前船に積み込まれる繰綿などを取り扱う問屋で、店の通り土間は常に開け放たれ、積み荷が行き来していた。
通り土間を抜けると、問屋の裏には蔵が多数ある。
北前船の積荷は、こういった蔵で保管されていたのだろう。今ではこれらの蔵は、展示会場や土産物屋、レストランになっている。
回船問屋に入ってすぐ右手は、商談をする店の間である。帳場とも呼ばれる。
冬には火鉢を囲んで商談が行われたという。
帳場では、主人や番頭が座る場所を木製帳場格子(結界ともいう)で囲んで、その中に帳場机、硯箱、銭箱、帳面などを置いた。
その背後には、帳場箪笥が置かれ、その上に神棚が祀られ、商売繁盛を願って毎日燈明が上げられていた。
店の間の通りに面した側の建具は、下は透かしの腰高千本格子で風が通り、上は障子で中央に可動式の覗き窓がついている。
障子の内側は蔀戸になっていて、昼間は上げていた。
通りに面した一階の建具は全て取り外し可能で、祭りの日は取り外され、通りと店の間が一体の祭りの舞台になったという。
一階の奥には、床の間のついた座敷もある。今は、様々な備前焼の作品が展示してあった。
北前船は、明治に入って鉄道が運輸の主力になってから衰退した。北前船の寄港地だった西日本各地の商港も衰退した。
鉄道のように、事故のリスクが低く、運輸費が安い手段が主力になるのは当たり前のことである。
しかし、一航海一千両と呼ばれた船が下津井港に現れた時の町の活気を思うと、リスクと背中合わせの海の男の商売には、ロマンが感じられるものである。