古墳

千足装飾古墳

造山古墳の南西側には、第1古墳から第6古墳まで、全部で6つの陪塚がある。 陪塚は、主となる古墳の被葬者の家臣が葬られた古墳である。 造山古墳に葬られた被葬者の臣が、これらの陪塚に葬られたことだろう。 造山古墳と陪塚の模型 今日は6つの陪塚の中…

造山古墳

守福寺宝殿の見学を終えて南下し、岡山市北区新庄下にある巨大前方後円墳、造山古墳を訪れた。 造山古墳の後円部(北東から南西に向け撮影) 後円部(南から北に向け撮影) 造山古墳は、全国4位の大きさを誇る古墳である。 1位は全長約486メートルの仁徳天…

佐古田堂山古墳

最上稲荷の巨大な鳥居を潜って、岡山県道241号線を北上する。 右手にある岡山市北区平山の集落の中に、小高い丘陵がある。 この丘陵上に、全長約150メートルという大きな前方後円墳がある。岡山県指定史跡の佐古田堂山(さこだどうやま)古墳である。 佐古田…

富丘八幡神社 後編

富丘八幡神社の境内には、江戸時代後期の但馬出身の石工、丹波佐吉が作った神馬がある。 丹波佐吉作の神馬 丹波佐吉は、文化十三年(1816年)に但馬国竹田に生まれ、5歳の時、丹波の石工難波金兵衛伊助の養子になる。 22歳から渡りの石工となり、大和、伏見…

ヌクモ山城跡 ヌクモ古墳群

石原城跡から東南を眺めると、標高150メートルほどのヌクモ山という低山が横たわっている。 この山には、中世の山城跡であるヌクモ山城跡とヌクモ古墳群が存在する。 ヌクモ山 上の写真の正面に写っているのがヌクモ山だが、山上に2つの鉄塔がある。 右側(…

奉安塚古墳群 浦嶋神社

稲粒神社の参拝を終えて府道74号線を東に走り、途中三叉路を北に上がって、福知山市報恩寺(ほおじ)の集落に入る。 報恩寺集落の中には、旧福知山市立佐賀小学校がある。校庭跡の北側の山麓に、奉安塚古墳群がある。 奉安塚古墳群のある山麓 奉安塚古墳群の…

池の奥古墳群 稲葉山古墳群

福知山市猪崎にある三段池公園は、様々なスポーツ施設が集まる公園であるが、公園内や周辺からは、古墳が多数発掘されている。 公園中央にある総合体育館の北側に「古墳の丘」と呼ばれる場所がある。池の奥古墳群の中で最大の5号墳がある場所である。 総合…

今西山法福寺 川東車塚古墳 

木山神社、木山寺の参拝を終え、旭川沿いに南下し、真庭市の南端にある吉(よし)の集落に行った。 ここにある真言宗の寺院、今西山法福寺には、岡山県重要無形文化財の吉念仏踊りが伝承されている。 今西山法福寺 ネットで法福寺を検索すると、立派な山門の…

沖ノ島古墳群

大鳴門橋を見下ろす「うずまちテラス」から北を眺めると、海上にポツンと浮かぶ小さな島が見える。 南あわじ市伊毘の沖合に浮かぶ沖ノ島である。 沖ノ島 昭和35~36年の発掘調査で、沖ノ島から13基の古墳と1基の祭祀遺構が発掘された。 13基の古墳の内、2…

淳仁天皇陵 当麻夫人墓

賀集八幡神社から南下し、南あわじ市賀集にある淳仁天皇陵を訪れた。私が史跡巡りで訪れた最初の天皇陵である。 宮内庁の管理下にあり、陵内に立ち入ることは出来ない。 淳仁天皇陵 第47代淳仁天皇は、天武天皇の第七皇子舎人親王の子で、即位前は大炊王と呼…

天野神社 西山北古墳

10月1日に淡路の史跡巡りを行った。 今年4月19、20日の記事で、南あわじ市八木馬回にある真言宗の寺院、擁護山成相寺を紹介した。 成相寺を訪れた時、境内に隣接して存在する天野神社に気づかずに参拝せずに終わった。 今回、成相寺を再訪し、その時行きそ…

楯築遺跡 鯉喰神社

王墓山古墳の北側の、王墓の丘史跡公園の中に、弥生時代末期である2世紀後半の墳丘墓、楯築(たてつき)遺跡がある。 王墓の丘史跡公園入口 楯築遺跡が築造された2世紀後半は、大和盆地に大和王権が確立される50年以上前である。 日本中に成立していたクニ…

王墓山古墳 日畑廃寺跡 日幡城跡

犬養木堂記念館の見学を終え、足守川を越えて西に行き、岡山県倉敷市庄新町にある王墓山古墳を訪れた。 王墓山古墳への道は、庄新町公民館の南東側に並ぶ民家の間にある。 王墓山古墳への道 この道を入っていくと、行く手に6世紀後半に築造された王墓山古墳…

中山茶臼山古墳 岡山県古代吉備文化財センター 前編

吉備津神社の裏から吉備の中山に上っていく自動車道が始まっている。 その道を使って吉備の中山を上がっていくと、岡山県の遺跡から発掘された文化財を収蔵展示する岡山県古代吉備文化財センターがある。 岡山県古代吉備文化財センター ここの駐車場に車をと…

備中 吉備津神社 中編

吉備津神社の名物は、本殿だけではない。長い回廊も名物の一つである。 本殿南側から回廊は始まり、間に南随神門を挟んで、境内南端の本宮社まで回廊は続いている。 本殿南端から始まる回廊 南随神門 私が子供のころ、何のCMだったか忘れたが、吉備津神社の…

福田海 中編

福田海の本堂には、前身の青蓮寺の本尊であった十一面観世音像を祀っている。 先祖供養のためのお堂である。 本堂 本堂内部 本堂の奥には、複数の仏像と経塔多数が置いてある。 本堂内には、向かって左側に勝鬘(しょうまん)夫人像が置かれている。 この勝…

処女塚古墳 東求女塚古墳

6月25日に神戸市東灘区から芦屋市にかけての史跡巡りを行った。 最初に訪れたのは、神戸市東灘区御影塚町2丁目にある処女塚(おとめづか)古墳である。 処女塚古墳(左側が後円部) 今年3月20日の西求女塚(にしもとめづか)古墳の記事で紹介したように、…

廣峯古墳記念公園

福知山城の見学を終え、JR福知山駅の南側の福知山市広峯町にある廣峯古墳記念公園に赴いた。 廣峯古墳記念公園に再現された前方後円墳 この辺りには、西暦300~550年にかけて、30数基の古墳が築造された。 地名から、廣峯古墳群と呼ばれている。 昭和61年の…

牧正一古墳

長安寺の参拝を終え、北上する。 京都府福知山市牧にある牧正一(まきしょういち)古墳を訪れた。 牧正一古墳は、吉備神社の境内にある古墳である。 牧正一古墳と吉備神社 吉備神社と言っても、小さな祠があるだけである。祭神は吉備津彦命である。 古代に吉…

和久寺廃寺 下山古墳群

天照玉命神社から東に車を走らせて、福知山市和久寺にある和久寺廃寺の跡に赴いた。 和久寺の集落の中央に鹿島神社がある。神社の北側に公園があって、その公園のフェンスに和久寺廃寺の説明板が設置されている。 「京都府の歴史散歩」下巻には、粟島神社の…

鳥取藩主池田家墓所 後編 奥谷城跡 宮下52号墳

鳥取藩主池田家墓所の門の手前に、池田家の菩提寺である興禅寺の歴代住職の墓地がある。 興禅寺歴代住職の墓 歴代住職の墓地の隣に、初代藩主光仲の側室だった上野氏勾(こう)とその養子上野忠親の墓所がある。 上野勾の墓(中央)と上野忠親の墓(右側) …

甑山城跡 鷺山古墳

稲葉山の南側、袋川と美歎川が合流する地点の右岸側に、甑(こしき)を伏せたような形状の山がある。甑山である。 甑山 甑山の名称の由来は、その山の形からではないようだ。 古代にこの地を征した武内宿禰が、この山の上に甑を据えて、因幡平定の布石として…

淡路国分尼寺跡 和光山神本寺

兵庫県南あわじ市八木徳野にある笑原神社東宮から真っすぐ南に下ると、T字路に突き当たる。 このT字の先の畑に、かつて徳野塚村古墳があったと言われている。 徳野塚村古墳のあった辺り 昭和26年に農家が畑を開墾していると、須恵質の陶棺が見つかった。長さ…

西求女塚古墳

2月23日に摂津の史跡巡りを行った。 最初に訪れたのは、菟原娘子(うないおとめ)の伝説に登場する菟原壮士(うないおとこ)の墓と言われる西求女塚(にしもとめづか)古墳である。 西求女塚古墳のある公園 公園の入口 西求女塚古墳は、神戸市灘区都通3丁…

長者森古墳 高倉神社

やくの玄武岩公園から東進し、福知山市夜久野町高内の集落に入る。 丘の上に福知山市立夜久野学園の小学校がある。夜久野学園は、公立の小中一貫校である。 この小学校の校庭に長者森古墳という円墳がある。 長者森古墳 長者森古墳は、直径約23メートル、全…

鷲羽山 後編

第二展望台から、鷲羽山山頂を目指した。 鷲羽山の山頂方面 山頂と言っても、鷲羽山は低山で、山全体がなだらかである。そう苦労せずとも山頂に至ることが出来る。 花崗岩の山肌 鷲羽山は、全体が花崗岩で出来ている。山肌は花崗岩がむき出しになっている。…

等ヶ坪廃寺跡 神垣1号墳 新井石舟古墳

鳥取市国府町岡益の北側にある国府町玉鉾集落の西側の田んぼから、昭和38年の圃場整備中に、廃寺の瓦、礎石、鴟尾が発掘された。 礎石の配置や出土遺物から、白鳳時代の寺院跡であることが分かった。等ヶ坪廃寺跡と呼ばれている。 等ヶ坪廃寺跡の発掘された…

梶山古墳

岡益の石堂から県道を挟んで南東側にある丘陵上に、7世紀前半に築造された梶山古墳がある。 梶山古墳 梶山古墳は、変形八角形の古墳である。墳丘の周囲を外護列石が石垣状に囲んでいて、その前方に祭祀に使われたと見られる方形壇がある。方形壇も、玄武岩…

空山15、16号墳

10月30日に因幡の史跡巡りをした。 最初に訪れたのは、前回の因幡の史跡巡りで発見することが出来なかった空山15、16号墳である。 空山15、16号墳は、大小七十数基を数える空山古墳群のうちの2つの古墳である。 鳥取市広岡にある広岡農場から広域農道を西に…

森尾古墳跡 

此隅山城跡から下山し、車に乗って次なる目的地に向かう。 兵庫県豊岡市森尾にある森尾古墳跡を訪れた。 森尾古墳跡のある丘陵 上の写真の丘陵上に、かつて地元の大庄屋の平尾家の別荘が建っていた。 大正6年の別荘建築工事中に、長径9メートル、短径6メ…