昨年末から、明治書院の「新釈漢文大系」を読み始めた。
今は第9巻の「古文真宝(前集)」上巻を読んでいる。
中国の古典を読んでいると、子供の頃から私が求めていたものはこれだという思いを強くする。
子供の頃から、風がよく通る、畳が広々と敷かれた座敷で、自分が一人で書物を読むところを思い描いて、そんな生活こそ理想の生活だと考えていた。
そんな場所で読む書物に何が相応しいか。
私が今まで読んできた三島由紀夫や森鷗外や日本古典や仏典は、それなりに相応しいもののように思えたが、どれも近いようでピタリと来なかった。
最近読み始めた漢籍は、まさに私が思い描いていた理想の生活の核心にピタリと嵌ったのである。
昨日、「古文真宝(前集)」の陶淵明の詩、「讀山海経」を読んだ。
私の気持ちと似た気持ちを、陶淵明が漢詩にしているように感じた。
孟夏草木長 繞屋樹扶疎
(夏の初め、草木は伸びて 家を取り巻いて樹々ははびこっている)
衆鳥欣有託 吾亦愛吾盧
(多くの鳥は身を寄せる所があるのを喜んでいるが 私もまた身を安んずるわが小屋を愛して暮らしている)
既耕亦已種 時還読我書
(すでに畑を耕して、種まきも済んだ 時にまた私は書物を読む)
窮巷隔深轍 頗回故人車
(路地の奥に引っ込んで、貴人の車の通る轍の深い道から隔たって住み 尋ねて来る昔馴染みの友人の車も度々めぐらして帰らせた)
欣然酌春酒 摘我園中蔬
(喜んで春の酒を酌み 自分の畑の野菜を摘んできて酒の肴にする)
微雨従東来 好風与之倶
(微かな雨が東の方から来て 好い風がそれに伴って吹いて来る)
汎覧周王伝 流観山海図
(詳しく周王の伝を読んで あまねく「山海経」の絵図を観る)
俛仰(ふぎょう)終宇宙 不楽復何如
(読書して天を仰ぎ地に俯く間に宇宙の全てを見る これが楽しくなければ、何が楽しいというのか)
静かな茅屋で自然を友にして、古い書物を読み、宇宙を思う。
貧しくとも自分の生活に満足した、知足(足るを知る)の境地である。
だが私は陶淵明のように酒を嗜まない。李白は、酒を飲まずに陶淵明の真似をする輩を笑った。酒を飲まなければ、この境地には至れないか。
孔子が始め、孟子や荀子が継承した儒学と、老子が始め、荘子が継承した道教は、目指す向きが異なるが、共通する部分もある。
それは、知足ということである。今の己に満足するということである。
人不知而不愠 人知らずして愠(うら)みず
(自分の学徳が世間で認められなくても、不平不満を抱かない)
「論語」学而第一
人が学問をするのは、自分のためや人のためにするものであって、人に認めてもらうためにするものではない。
学問は自分の努力で進めることが出来るが、それを他人が認めてくれるかどうかは他人次第であって、自分の努力でどうすることも出来ない。
自分の努力で左右することが出来ないことに、心を遣うことは、無駄なことである。
そう考えて世間を見てみると、世の人の多くは、自分を認めてもらうために、無駄な心労を重ねている。
曰く「俺はこんなに頑張っているのに、誰も認めてくれない」、曰く「私ばかりがこんな苦労をしている」、曰く「もっと私を見てほしい」、曰く「なぜあいつばかりが認められる」、曰く「俺のインスタはフォローが伸びないのに、あいつのインスタはフォローが伸びている」、曰く「LINEが既読スルーされた」等々。書くだけでしんどくなってくる。
他人に認めてもらいたいということは、自分の評価を他人に委ねるということである。自分の人生を他人に譲り渡すようなものである。他人の評価は常に安定しない。他人に自己の評価を委ねていては、穏やかに人生を過ごすことが出来ない。そしてその他人は、結局のところこちらの人生の責任を取ってくれないのである。
孔子は、自分の人生の主役は自分であることを宣言したのである。自主的な人物でなければ、世の中で信頼を得、人の役に立つことは出来ないと言ったのである。
知足は「老子」に出て来る言葉である。他人のものを得ようとせず、今の自分の境遇に満足するということである。
故知足之足、常足。
(足ることを知って満足すれば、いつも不足を感ずることはない)
「老子」倹欲第四十六
どこで満足するのかを決めるのは他人ではなく自分である。
「中庸」は、仏教でいう「般若心経」のようなもので、儒教の精髄を短い文章にしたものである。
「中庸」の作者は、孔子の孫の子思と言われているが、伝説の域を出ない。
「中庸」の第三節は、私が一読して感激した一節である。
君子素其位而行、不願乎其外。
(世に出ては、君子は自分の当面する位置、境遇において道を行うことに最善を尽くし、みだりに他人の境遇を羨まない)
(中略)
君子無入而不自得焉。
(君子はどんな境遇に入ろうとも、常に自主自由に道を行うのである)
「中庸」第三節
他人を羨まず、他人の評価に拘らず、今現在の自分の置かれた境遇でベストを尽くすということだ。
考えてみれば、人生の秘訣は、これ以上を出ないのである。
他人を羨まず、自分の人生に満ち足りた思いをなす。これはなかなか難しい。
森鷗外は、東京大学医学部を卒業し、陸軍に入っては軍医としての最高の官位である陸軍省医務局長、陸軍軍医総監になった。
陸軍を退官してからは、帝室博物館総長兼宮内省図書頭となり、日本の文化財管理の最高責任者になった。
文学者としては、漱石と並ぶ近代日本文学の文豪として称せられ、その作品は、我が国の文章の規範として、永遠に後世に残るものである。
日本史上、これほど自己実現を成し遂げた人も珍しい。だがそんな鷗外も、自分の人生に何か満ち足りぬものを感じていた。
鷗外は、49歳の時に書いた半自伝小説「妄想」にこう書いた。
こう云う閲歴をして来ても、未来の幻影を逐うて、現在の事実を蔑にする自分の心は、まだ元のままである。人の生涯はもう下り坂になって行くのに、逐うているのはなんの影やら。
森鷗外「妄想」
鷗外ほどの人物でも、自分が本当に求めていることが何だか分からず、知足の境地に至っていないのである。
我々凡人が、どんなに努力しても、鷗外の学識と名声には到達できない。その鷗外とて、自分の人生に満足することが出来なかったのである。
知足するには、如何に最高の学歴を経ても、最高の学識を得ても、出世して最高の官位に辿り着いても、歴史に残る仕事をして名声を得ても、無駄なのである。
他人の物差しではなく、自分の物差しで自分に満足しなければならないのである。
「論語」の中で、なかなかユーモラスで、道教にも通じる一節がある。
子曰、飯疏食、飲水、曲肱而枕之。楽亦在其中矣。
(孔子が言った。粗末な飯を食い、水を飲み、腕を曲げて枕にして寝る。楽しみはその中にある)
「論語」述而第七
大宮殿に住んで、数多くの臣下や妻妾を従え、巨万の富を得た王様でも、知足していなければ、心の不安を拭い去ることは出来ない。
一方で粗末なあばら屋に住んでいて、粗食を食い、水を飲み、肱を枕にして寝ていても、知足していれば、満ち足りた思いになることが出来る。
これは、孔子が他人の評価に左右されない、「道」を自分のものにしていたからであろう。
我々凡人が道に至るのは難しい。一旦道を目指すという気持ちを捨てて、先ほど引用した「中庸」第三節にあるように、他人を羨まず、自分の置かれた境遇でベストを尽くすということを続けるしかないだろう。
子供の頃、父と一緒に風呂に入った時、父は私によく、「お前はお前や」と言った。
父は、中国古典など読んだことはなかったろうが、私に言いたかったことは、今まで私が書いたようなことであろう。