加東市 朝光寺

 兵庫県加東市畑にある朝光寺は、姫路城、閑谷学校一乗寺鶴林寺浄土寺に続いて、私が史跡巡りで訪れた6つ目の国宝建造物である。

 加東市の中でも奥まったところにあり、国宝の寺だというのに観光客はほとんどいない。静けさに包まれた寺である。

 朝光寺は、白雉二年(651年)に法道仙人が開基したと伝えられる。当初は、裏の権現山に建っていたが、文治五年(1189年)に現在地に移転したという。現在は真言宗の寺院である。

 朝光寺の山門は、建立年代は不詳なるも、江戸初期から中期の様式と言われている。

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山門

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仁王像

 山門を潜ると、目に飛び込んでくるのが、国宝朝光寺本堂である。

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本堂

 写真では、なかなかこの本堂のスケール感は伝わらない。方七間、単層寄棟造り、本瓦葺きの堂々たる建物である。

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 本堂内陣の宮殿裏から、墨書のある羽目板が見つかっている。そこには、応永二十年(1413年)に仏壇を建立し、屋根葺きが正長元年(1428年)に終わったことが書かれていた。

 建築様式も、室町時代初期の和様と唐様の折衷様式であるという。

 私が朝光寺を訪れるのは、実は三度目だが、今回は珍しく本堂の扉が開いていた。中に入ってみた。

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本堂外陣

 本堂内は、格子戸と菱格子欄間によって、内陣と外陣とに分けられている。

 姫路市兵庫県立歴史博物館には、朝光寺本堂内部の断面模型が展示してあった。

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本堂の断面模型

 内陣の中の宮殿には、ご本尊である二体の木造千手観音立像が納められている。その内、西のご本尊は、建長六年(1254年)ころの作で、左足に京都の蓮華王院(三十三間堂)の一千一体千手観音立像のうちの23体と同じ銘が刻まれていることが分かっている。

 東側のご本尊は、製作年代は不明だが、様式や縁起から、朝光寺創建時のもので、西のご本尊より古いものと見られている。

 ご本尊は、兵庫県指定重要有形文化財である。

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宮殿

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 この宮殿の中に、ありがたいご本尊が祀られている。約600年の時を経た宮殿である。

 本堂の東側には、兵庫県指定重要有形文化財の多宝塔がある。私が史跡巡りで訪れた、4つ目の多宝塔である。

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多宝塔

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 程よく寂びた、味のある塔である。文治年間に現在地に建立され、慶長六年(1601年)に池田輝政の発願により再建された。

 多宝塔の前には、加東市指定文化財となっている石造五輪塔や、六角石幢があった。

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石造物群

 多宝塔の北側には、国指定重要文化財の鐘楼がある。

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鐘楼

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 銅板葺袴腰付きの優美な鐘楼である。屋根の優美な曲線に、鎌倉時代後期の特徴がよく表れているという。寺記によると、永正年間(1504~1521年)に赤松義村が再建したという。

 朝光寺には、その他に、永仁三年(1295年)の銘のある、青銅製の鰐口がある。在銘の鰐口としては、兵庫県最古のものである。また、永仁六年(1298年)製作の太鼓がある。両方兵庫県指定重要文化財である。

 朝光寺では、毎年5月5日に、五穀豊穣・無病息災を祈って、内陣で大般若経を唱え、本堂前の舞台で鬼たちが踊る鬼追踊が行われている。兵庫県無形文化財となっている。

 朝光寺は、ツクバネの原生林に周囲を囲まれている。山門から石段を下りると、つくばねの滝がある。

 ツクバネは、果実の形が羽子板で突く羽根に似ているので、突羽根(つくばね)と名付けられた。播磨地方では自生するのは珍しく、加東市の天然記念物となっている。

 つくばねの滝は、鹿野川にかかる滝である。

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つくばねの滝

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 シャッター速度を上げて、飛沫を上げる滝の姿を切り取った。寸時も留まることを知らない滝の姿は、諸行無常の仏教の象徴と言ってもいい。

 知らず知らず、清冽な滝の姿に、白雉年間から朝光寺で唱えられ、説かれ続けてきたみ仏の教えを重ね合わせていた。

闘龍灘

 兵庫県を代表する河川である加古川は、兵庫県丹波市の粟鹿山付近を源流とし、瀬戸内海まで流れている。

 兵庫県加東市上滝野の加古川中流域にあるのが、名勝闘龍灘である。

 ここは、川底から数メートルほど岩石が隆起していて、その岩石の間を縫って川が流れている。

 近世以降は、その特異な景観を愛でる文人墨客の来訪が絶えないという。

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闘龍灘

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 闘龍灘の北側に架かる橋から眺めれば、闘龍灘の全貌を目に収めることが出来る。

 闘龍灘の西岸には、駐車場や公園があり、そこから闘龍灘に入ることが出来る。

 闘龍灘の西側には、岩の間を縫って流れる水流がある。ここが自然に出来た水路なのか、人工的に拡張された水路なのかは分からない。

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闘龍灘西側の水流

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 なかなか独特な景観である。

 かつての加古川は、高瀬舟や筏による舟運が盛んであった。舟運には、浅瀬の開削工事が必要であった。

 工事は二期に渡って行われた。第一期工事は、文禄三年(1594年)に生駒玄蕃の命で行われたもので、滝野から高砂までの浅瀬の岩石を除去し、水路を掘った。この工事によって、滝野付近から高砂まで、舟で物資を運搬することが可能になり、河口から更に海路で大坂まで運ぶことが出来るようになった。

 この工事を請け負った阿江与助には、滝野船座の座本として五分の一銀徴収の特権が与えられた。

 闘龍灘の西岸には、阿江与助の銅像が建っている。

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阿江与助像

 第二期工事は、慶長九年(1604年)に、姫路藩池田輝政によって行われた。阿江与助と西村伝入斎が請け負った。

 滝野から上流までの開削工事で、丹波氷上郡本郷から滝野までが開通し、丹波から高砂まで、舟運が可能となった。加古川上流地域で伐採された木材なども筏で下流まで運ばれた。

 しかし、依然として、岩が立ちはだかる闘龍灘は難所であった。闘龍灘上流まで来た筏を一度解体して陸に上げ、闘龍灘下流で再び組みなおして川に浮かべていたのである。

 明治5年、多可郡石原の村上清次郎らが岩盤の掘削を政府に申し出て、翌年からフランス人技師ムースの指導で掘削工事が始まり、約1年で工事が完成した。こうして闘龍灘東側に掘割水路ができた。水路は長さ180メートル、幅8メートル、深さ4メートルであった。

 掘割水路が完成したことにより、筏を組みなおさずに直接闘龍灘を通すことが出来るようになった。

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掘割水路

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 人間の力で、これだけの岩を掘削したのは大したものだが、景観を損なわずに目的を達成したところがいい。

 加古川舟運は、明治時代になって自由競争の時代に入り、ますます発展したが、大正2年に高砂西脇間に播州鉄道が開通したことにより、交通の主力は鉄道になり、終焉を迎えた。

 加東市下滝野には、加古川舟運の資料を保存展示する、加古川流域滝野歴史民俗資料館がある。

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加古川流域滝野歴史民俗資料館

 私が訪れた時には、資料館は閉館していたが、資料館の前に、現在の闘龍灘にかかるコンクリート橋の前身だった檜材の掛梯子が置かれていた。

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闘龍灘に架かっていた掛梯子

 全長14.65メートル、幅1メートルで、昭和30年ころに上滝野漁業組合が、多可郡杉原谷の良質の檜材を大工に加工させて製作したものだそうだ。

 この掛梯子を使って、闘龍灘の上を行き来した人々がいたことを思うと、何だかほほえましくなる。

 闘龍灘から南東に走り、加東市上三草の三草こども園の近くにある、兵庫県指定文化財の中村家五輪塔を訪れた。鎌倉時代に建立されたもので、この塔の隣に今も続く中村家の先祖が建てた五輪塔である。

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中村家五輪塔

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 竜山石製で、梵字薬研堀されている。穏やかで安定した造りだ。保存状態がいいのは、長い間覆屋があったからだろうと推察されている。

 ここから東に1.5キロメートルほど行くと、永和元年(1375年)の銘がある地蔵摩崖仏がある。

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地蔵摩崖仏

 地蔵摩崖仏の隣には、二尊石仏がある。

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二尊石仏

 向かって右側が阿弥陀如来坐像、左側が地蔵菩薩立像である。二尊石仏には、銘はないが、蓮華座の様式から、地蔵摩崖仏と同じ南北朝期の作物とされている。

 今日は闘龍灘と加古川舟運について書いた。今となっては、河川を使った物流というものは、ほとんど目にすることがないが、明治時代までは、河川を行きかう船による交通は、かなり盛んだった。

 関東平野利根川や、新潟平野の阿賀野川、その支流や運河網などは、定期船によって結ばれていた。

 明治大正期の鉄道の発達が、河川を使った交通を終わらせた。戦後の自家用車の普及が、郊外の大型ショッピングモールの流行をもたらした。

 新たな交通方法の普及が、生活様式を変えていく。いいか悪いかは別にして、人間社会の変容というものは面白いものだ。

五峰山光明寺 後編

 光明寺塔頭群を抜けると、仁王門に到達する。

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仁王門

 仁王門は、元禄六年(1693年)に、山麓に建っていたものを移築再建したものである。

 昭和56年に、元の仁王門の部材を利用して、大規模に修復された。仁王門に据え置かれている阿吽一対の仁王尊像も、元禄時代のもので、霊験あらたかである。

 仁王門を潜ると、右手に文殊堂が見える。

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文殊

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 文殊堂は、天和二年(1682年)に再建されたもので、光明寺の建造物の中では最古のものである。

 昭和57年に屋根の葺き替え修理をし、その際に唐破風を増築した。そのため、堂々とした風格を持つ建物となった。

 文殊堂のご本尊は文殊菩薩坐像である。

 文殊堂の隣にあるのは、鎮守社である。

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鎮守社

 建立年代は不詳であるが、全山の鎮守として、熊野権現を勧請している。

 更に奥に進むと見えてくるのが常行堂である。

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常行堂

 常行堂は、嘉祥年間(848~851年)に、慈覚大師円仁により創立されたという。現在の建物は、元禄十四年(1701年)ころに再建されたものである。本瓦葺き、宝形造りである。堂内宮殿には、阿弥陀如来像と観音・勢至の両脇侍像が安置されている。

 更に進むと、梵鐘堂がある。

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梵鐘堂

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梵鐘

 梵鐘堂は、寛保二年(1792年)に再建された。梵鐘は、昭和33年に再鋳されたもので、東大寺の六角灯籠の妙音菩薩を写したものが鋳られている。私は梵鐘を突かなかったが、余韻が長く残る美しい法音を鳴らすそうだ。

 さて、梵鐘堂を過ぎると、ようやく目の前に本堂が現れる。

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本堂

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 前の本堂は、安政六年(1859年)に大火により焼失した。

 大正14年(1925年)に、当時の西洋建築の大家、武田五一博士の設計により再建された。鎌倉時代の様式で建てられた、銅板葺き、入母屋造りの重厚な建物で、国登録有形文化財となっている。

 内陣宮殿には、ご本尊である法道仙人作と伝わる千手十一面観世音菩薩像と、不動明王毘沙門天王の両脇侍像が祀られている。その他に法道仙人、聖徳太子弘法大師の尊像も祀られているそうだ。さながら日本仏教の立役者が一堂に会しているようである。一度拝観してみたい。

 こうして見ると、光明寺の伽藍は、江戸時代以降に再建されたものばかりである。それまでの光明寺の伽藍の様子は、よく分かっていない。おそらく、戦乱で焼けて、長い間荒廃したままになっていたのではないか。

 観応二年(1351年)2月、光明寺は合戦の舞台となる。

 南北朝の争乱は、北朝側の優勢で進んでいたが、足利尊氏実弟足利直義(ただよし)と、足利家の執事であった高師直(こうのもろなお)とが対立し、足利家は尊氏・師直派と直義派の二つに分裂する。この二勢力の争いが、観応の擾乱である。直義派は南朝と同盟を組んで尊氏派を圧倒する。

 観応二年、直義派の武将石堂頼房が、五千の兵力で光明寺に陣を敷いた。尊氏はこれを破るべく、一万余の兵力で光明寺を包囲した。両軍は当時山麓にあった仁王門付近で激突した。

 途中、天から無紋の白旗が降ってきた。当時白旗は八幡大菩薩の加護の印とされていた。両軍の将兵は、白旗が自軍に落ちてくるよう祈念を凝らした。白旗は、師直の陣に落ちてきた。師直は、これを奇瑞なりと喜んだ。

 しかし師直が白旗を拾ってみると、旗ではなくて20枚ほどの紙反故をつなぎあわせたものであった。そこには、「吉野山峰のあらしのはげしさに高きこずえの花ぞ散りゆく」「限りあれば秋も暮れぬと武蔵野の草はみながら霜枯れにけり」という二首の歌が書かれていた。

 高師直は、武蔵守である。「高」「散りゆく」「武蔵」「枯れ」という言葉が、師直には不吉であった。

 また、尊氏方について光明寺を包囲していた赤松則祐の子、朝範は、ある時冑を枕にして寝ていると、霊夢を見た。寄手(尊氏方)が城の垣楯に火を放つと、山城国八幡山大和国の金峯山から山鳩数千羽が飛来し、翼に水を浸して、櫓や垣楯に燃え移ろうとする火を消してしまった。

 朝範が則祐に夢のことを話すと、則祐は「この城には神明の加護がある。落とすことは出来ない」と語り、兵を撤収して、本拠地の白旗城に帰ってしまった。

 八幡山石清水八幡宮と、金峯山の金峯山寺は、高師直が焼き討ちした寺社である。「太平記」では、寺社を焼き討ちした高師直を、信仰心の薄い悪逆非道な武将として描いている。

 結局尊氏方は、光明寺を攻略できず包囲を解いた。

 その後尊氏は、高師直・師泰兄弟の出家を条件に直義と和睦したが、師直、師泰は、直義派の武将により暗殺される。

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光明寺合戦本陣跡

 本堂の裏には、石堂頼房が本陣を敷いた場所を示す光明寺合戦本陣跡の石碑があった。

 ところで、光明寺の合戦の歴史はこれに留まらない。文明十七年(1485年)には、嘉吉の乱で一度滅びた赤松惣家を再興すべく、播州に侵攻した赤松政則光明寺に陣を敷いて山名氏と争い、戦に勝利して播州の支配を回復した。

 こうして見ると、歴史上光明寺に陣を敷いた軍勢は勝利を収めていることになる。ここは軍神が宿る山なのかもしれない。

 しかし今は、そんな合戦の歴史がなかったかのように、山域は静かな霊気に包まれているのみである。

五峰山光明寺 前編

 兵庫県加東市光明寺にある五峰山光明寺は、推古天皇二年(594年)に法道仙人が開基したと伝えられる。現在は、古義真言宗の寺院である。

 法道仙人は、実在したかどうかも分からない伝説上の人物だが、東播磨の法道仙人開基と伝わる数多くの寺院は、大抵西暦650年前後に開かれたと伝えられている。

 法道仙人が活躍した時代を7世紀中期とすると、594年は法道仙人の時代よりかなり早いことになる。実際誰が光明寺を開基したのか、真相は闇の中だ。

 光明寺は、標高約250メートルの高所にある。九十九折りの道路を上がると、駐車場がある。駐車場からは、加古川沿いの東播磨平野が一望出来る筈だったが、私が訪れた時間は朝方で、加古川から上がった霧でできた雲海に覆われていた。

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光明寺駐車場から眺める朝霧

 これはこれで、神々しい景色である。

 駐車場からは、ひたすら山上の本堂を目指して歩くことになる。

 寺の入り口には、石門がある。

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光明寺石門

 石門の左手には、手洗い所と地蔵堂がある。手洗い所は、建物、漱水石とも正徳三年(1713年)の造立である。漱水石は、岩間から絶えず湧き出てくるという清水をたたえている。

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漱水石と地蔵堂

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 石門を入って、しばらく歩き、左手に入ると、神変大菩薩役小角の石像があった。細密に彫られた石像である。山の宗教である真言宗役小角の関わりは深い。

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役小角の石像

 役小角像に一礼して、山を上がっていく。

 光明寺には、4つの塔頭がある。多聞院、遍照院、大慈院、花蔵院である。多聞院前には、真言宗寺院には必ずと言ってよいほどある修行大師の像がある。四国八十八か所を始め、若き日の弘法大師が日本中の山岳を修行して歩いた姿が、真言宗の原点である。修行大師像は真言宗を象徴するものである。

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修行大師像

 よく見ると、修行大師像の後ろの白壁の塀に鉄砲狭間がある。多聞院は、寺域の南端にある。この壁は侵入者が最初に直面する壁である。

 戦国時代には寺院も武装集団であったことが実感できる。塔頭は、寺院の周囲に配置されていることが多いが、戦乱の世には、寺院を守る砦の役割も果たしていたのではないか。 

 多聞院の毘沙門堂には、毘沙門天と両脇侍の善賦師童子と吉祥天を安置している。

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多聞院

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毘沙門堂

 多聞院を過ぎて更に道を登ると、右手に遍照院が見えてくる。

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遍照院

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遍照院庫裏

 遍照院には、国指定重要文化財である銅像如来坐像が祀られている。平安時代前期の銅像であるらしい。拝観することは出来なかった。

 遍照院の向かい側には、大慈院がある。

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大慈

 大慈院には、絹本着色善導大師画像一幅がある。加東市指定文化財となっている。

 善導大師は、唐の高僧で、中国浄土教の第三祖である。法然上人に多大な影響を与えた。南無阿弥陀仏の名号を唱え、五体の阿弥陀仏を顕現させる霊力を発揮し、民衆の信仰を集めたという。西暦681年に逝去した。

 寺伝によれば、善導大師が描いた自画像を、入唐した慈覚大師円仁が請来し、承和十四年(847 年)に光明寺に奉安されたとしているが、実際は鎌倉時代を下らない時代に製作されたものであるそうだ。

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善導大師御影堂

 善導大師画像が祀られる御影堂の内陣は、華麗な作りである。格天井には、梵字が書かれていた。

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御影堂内陣

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御影堂内陣の天井

 善導大師画像は、毎年5月3日の花祭りで一般公開される。

 大慈院の西側には、かわらけ投げ所がある。願いを書いたかわらけを投げて願いをかなえる場所であるらしい。

 ここは展望台にもなっている。ようやく朝霧が晴れた東播磨の平野を眺め下すことが出来た。

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かわらけ投げ所からの眺望

 大慈院を過ぎて、更に道を登ると、右手に花蔵院が見えてくる。

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花蔵院

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花蔵院庫裏

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花蔵院庫裏向拝の彫刻

 花蔵院の庭は、苔が一面に生えて美しかった。
 ここには、加東市指定文化財の絹本着色釈迦十六善神図一幅がある。大般若経の転読法要を行う際に本尊として使われるそうだ。

 光明寺のある五峰山は、加古川に向かって西から東に突き出ており、眺望もよく、戦の本拠地にするには好適地である。そのため、光明寺は何度も戦火を浴びた。

 後半では、光明寺を巡る合戦の歴史に触れることになるだろう。

花光寺山古墳、丸山古墳

 備前福岡から東に行った岡山県瀬戸内市長船町服部に、花光寺山(けこうじやま)古墳がある。

 墳長約86メートルの前方後円墳である。

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花光寺山古墳登り口

 4世紀後半の築造と推定されている。昭和11年の発掘調査で、長持形石棺を始め、三角縁三神三獣鏡、素環刀太刀、鉄鏃などが発掘された。岡山県指定史跡である。

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後円部

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 後円部の上は、枯葉に覆われている。石室の露出はない。

 前方部と後円部の中間の辺りで地面を見ると、何と葺石があった。

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葺石

 古墳は築造当時、表面を河原石などの丸みを帯びた石で覆われていた。しかし、時の経過とともに葺石は失われてしまう。

 私が今まで訪れた古墳でも、地表に葺石が残っているものはほとんどなかった。こんなすぐ足元に葺石が残っているのを見るのは初めてである。

 前方部から後円部を見ると、古墳の大きさを実感する。

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前方部から後円部を見る

 この盛り土を人力で運んで盛ったとすると、相当な人手が必要だったと思われる。

 花光寺山古墳の西側には、現在墓地が広がっているが、その墓地のさらに西側に、7世紀後半に築造された服部廃寺の跡がある。

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服部廃寺のあった辺り

 写真の墓地の上が、花光寺山古墳の前方部である。この墓の手前に、服部廃寺があった。

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服部廃寺見取図

 図の右側の山が花光寺山古墳である。服部廃寺は、南北に講堂と金堂が並び、周囲を回廊が囲む薬師寺式の伽藍だったと推測される。塔跡や門跡はまだ発掘されていない。

 7世紀後半から鎌倉時代までの瓦や、塑像の螺髪、円面硯、鴟尾の破片などが発掘されたという。鎌倉時代までは、寺院として存続していたのだろう。

 丁度金堂のあった辺りに、土壇が築かれていた。

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金堂跡の土壇

 実際の金堂は、この土壇よりも遥かに大きかっただろうから、発掘後に、往時を偲ぶよすがにと築かれた土壇だろう。

 花光寺山古墳の北側には、道路を挟んで天神山古墳がある。

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天神山古墳登り口

 天神山古墳は、かつては前方後円墳と考えられていたが、近年の測量調査により、直径41.5メートルの円墳と判明した。

 4世紀半ばの築造と見られている。かつての乱掘で、石棺の中から、勾玉と管玉を首に巻き、左腕に碧玉製石釧、右腕に貝釧をかけた遺体が見つかったという。

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円墳への登り路

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円頂部

 花光寺山古墳と天神山古墳は、並んで築造されている。時代的にも近接しているので、ここに埋葬された2人は面識があった可能性が高い。どういう間柄であったかは分からない。

 どちらもこの地方の有力な首長だったのだろう。

 花光寺山古墳から北東に行くと、丸山古墳がある。

 丸山古墳は、JR香登駅南側の鶴山を整形して造られた円墳である。

 円墳の直径は約60メートルで、天神山古墳よりも大きい。

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丸山古墳

 丸山古墳も4世紀後半の築造と推測されている。ここの被葬者も、花光寺山古墳と天神山古墳の被葬者と面識があったことだろう。

 ここから発掘された石棺は、太陽などの模様を彫刻した特異なものである。

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丸山古墳石棺の図

 模様が彫られた石棺はお目にかかったことがない。実物を見てみたいものだ。

 石室からは、銅鏡30枚を始め、多くの副葬品が見つかった。それらの遺物は、全て東京国立博物館に収蔵されている。

 丸山古墳は、高さ61メートルの小高い円墳である。

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丸山古墳登り口

 登り始めると、途中、竹林があったりして、なかなか風情のある道が続く。

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丸山古墳登攀路

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 登りきると、円頂部中央に「丸山古墳」と刻んだ石碑がある。

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円頂部

 丸山古墳は、特異な石棺の存在と副葬品の多さの故か、国指定史跡となっている。今日紹介した3つの古墳の中で、最も権勢があった人物が葬られたのだと思われる。

 今日紹介した3つの古墳のいずれからも、鏡が出土している。人の姿を映す鏡は、当時としては驚異のハイテク製品で、その所有者は不思議な力の持ち主として崇められたことだろう。

 これらの鏡は、大和王権が各地の首長に下賜したものと思われる。築造年代の時系列順に、日本地図上の古墳に印を付けていけば、大和王権の勢力範囲が広がった過程が分かるだろう。そういう地図を見てみたいものだが、未だにお目にかかったことがない。

 我々が所属する現代の日本国は、文化的、制度的に大和王権と連続している。大和の三輪山麓の纏向の地が、大和王権の発祥の地だと思うが、そこから大和王権がどう勢力を広げて、外国の文化を取り入れ、今の日本国につながったのか、興味深い。

 思えば、古代の首長連合の長だった大王(おおきみ)の末裔が、未だに国家の象徴として君臨する我が国は、21世紀に古代の風儀を残した不思議な国である。

瀬戸内市 妙興寺 仲﨑邸

 備前福岡の町中にあるのが、日蓮宗の寺院、教意山妙興寺である。

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妙興寺山門

 寺伝によれば、赤松則興の追善供養のため、応永十年(1403年)に大教阿闍梨日伝上人により建立されたという。

 赤松則興なる人物は、調べてもよくわからない。赤松家の家系図にも出てこない名である。応永十年は、赤松惣家で言えば、赤松義則の時代である。

 ひょっとしたら、家系図に出てくる赤松氏のうちの誰かの別名なのかも知れない。

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妙興寺仁王門

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 妙興寺仁王門の中には、瀬戸内市指定重要文化財である金剛力士立像2躯がある。平成23~24年度の解体修理で、内部から銘文が発見され、寛永三年(1626年)に慶派仏師の清水源兵衛によって造立されたことが明らかになった。

 また、幕末から明治にかけての彩色修理は、播磨の塗師福原孝七郎、孝八郎親子が手掛けている。

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金剛力士立像

 杉材の寄木造で、目には水晶玉眼を嵌めている。鮮やかな彩色の像だ。

 私が訪れた時、寺は庫裏の修復工事中で、槌音が高かった。

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妙興寺本堂

 妙興寺には、宇喜多直家の父の宇喜多興家の墓と、黒田官兵衛の曽祖父黒田高政の墓がある。

 宇喜多直家の祖父宇喜多能家(よしいえ)は、赤松家家臣の浦上氏に仕えていた。能家は、邑久郡砥石城を拠点としていたが、天文三年(1534年)、同じ浦上家の重臣島村豊後守の攻撃を受け、城を枕に自害した。

 能家の子の興家は、当時6歳の直家を連れて、備後国鞆に落ち延びた。ほとぼりがさめたころ、備前福岡の豪商阿部善定の下に身を寄せた。

 興家は、善定の娘との間に、忠家、春家の2児をもうけたが、不遇のうちに天文五年(1536年)に福岡で没した。

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宇喜多興家の墓

 興家の没後、直家は善定や尼となっていた叔母の保護の下、福岡の地で少年時代を過ごした。 

 身寄りのない直家が、後年備前備中美作に覇を唱えるようになった。直家は乱世の梟雄と言われるが、かなりの才覚の持ち主だったのだろう。

 さて、興家の墓のすぐ奥には、黒田家の墓所がある。

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黒田家墓所

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黒田高政の墓

 ここ備前福岡の地で、黒田高政、重隆、職隆の三代が過ごした。黒田家雌伏の時代である。

 高政は、大永三年(1522年)にこの地で亡くなった。大永五年(1525年)、黒田重隆は、職隆を連れて播磨に移住し、御着城主小寺氏に仕え、姫路城を預かった。職隆、孝高(官兵衛)も姫路城守となり、孝高が姫路城を秀吉に譲った。

 宇喜多直家は、浦上氏に仕えて岡山城主となり、岡山発展の礎を築いた。

 城下町姫路の原型を築いた黒田氏は、関ケ原合戦後、黒田官兵衛の子長政が九州福岡藩主となり、今の福岡市発展の基礎を作った。

 そう考えると、今の姫路、岡山、福岡の三都市の発展の立役者の祖先の墓が、この妙興寺にあることになる。

 何だか愉快な気分になった。

 妙興寺を出て、北に行くと、福岡の大地主であった仲﨑氏の邸宅がある。平成25年から公開されている。

 土日のみの公開であり、私が訪れた月曜日は閉館日であった。

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仲﨑邸

 明治末から大正初年にかけて、約10年かけて建設された邸宅で、築100年以上となる。

 仲﨑邸は、敷地300坪を誇り、広い中庭や離れもある。国登録有形文化財となっている。

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仲﨑邸

 仲﨑邸の南側には、備前福岡の七つ井戸の一つがあった。備前福岡には、七つの小路があり、小路ごとに井戸が一つ掘られた。

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七つ井戸

 これらの井戸は、飲用などの生活用水や消火用水として使われた。各戸に水道が引かれていなかった時代には、住民は皆桶を持って井戸に水を汲みにやってきた。住民にとって、井戸は社交や情報交換の場であった。

 七つ井戸は、大正末年ころまで使われたという。

 宇喜多興家や黒田高政の墓を見て、備前福岡が各地の情報収集をするのに好適地だったと分かった。

 当時山陽道随一の市が立った福岡にいれば、商売で日本各地を歩いた商人から、山陽道沿いや日本各地の情報を得ることが出来たことだろう。

 雌伏していた宇喜多家や黒田家は、ここで情報を得ながら、雄飛の好機を窺っていたことだろう。

 ある家族の動向が、その後の日本有数の都市の発展にまで関わることを思うと、歴史というのはつくづく興味が尽きないものである。

築山古墳 備前福岡

 竹久夢二生家から北東に走る。

 岡山県瀬戸内市長船町西須恵にある築山古墳を訪れる。

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築山古墳

 築山古墳は、全長約82メートルの前方後円墳である。5世紀後半から6世紀前半にかけての古墳とされている。写真右側が後円部となる。

 明治40年(1907年)に後円部中央の石室が発掘された。鏡だけでなく、玉類、武具、馬具が出土した。出土品は東京国立博物館に収蔵されている。現在石室の上部は失われ、石棺が露出している。

 調査の結果、この石棺の素材は、阿蘇山産出の凝灰岩が用いられていることが分かった。

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露出する石棺

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 石棺の周囲には、大きな石が置かれている。石室の側壁だったものだろう。こんな風に地面から顔を出した石棺が、無造作にそのまま置かれているのは不思議な光景だが、時代を経てみれば、死者を埋葬した石棺も、オブジェに見えないこともない。

 前方部から後円部を見れば、前方部の方が高いのが分かる。

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前方部から後円部を見る

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 上の写真の右が前方部、左が後円部である。私は後円部の方が低い古墳を初めて見た。

 ところで、築山古墳のある須恵という地名も、何か須恵器と関係があることを感じさせる。

 築山古墳のすぐそばに、須恵古代館という資料館がある。

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須恵古代館

 古代の高床式倉庫を模して造られている。内部には、周辺の遺跡から発掘された考古資料を展示しているらしい。月曜日だったので、休館日であった。

 築山古墳から西に走り、瀬戸内市長船町福岡に行く。

 福岡の町は、吉井川左岸の堤防沿いにある。備前福岡は、中世は山陽道随一の繁栄を誇った町である。定期的に市が開かれていたようだ。

 国宝「一遍上人絵伝」巻四に描かれている福岡市(いち)は、教科書に載るほど有名な場面である。中世の市場の風俗が良くわかる絵画である。

 堤防近くの小さな神社の前に、「福岡の市跡」の石碑が建っている。

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福岡の市跡

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説明板

 一遍上人は、弘安元年(1278年)に福岡を訪れ、説法をしたようだ。今は岡山県、というより山陽道有数の都市は岡山市だが、一遍上人の時代には、今の岡山市は影も形もなく、福岡が備前で最大の繁華の地だった。

 岡山が発展しだしたのは、宇喜多直家が浦上氏から岡山城を当てがわれてからである。宇喜多氏が岡山城下の整備に乗り出すと、福岡の商人は岡山に移り住んだ。近世になっても、藩庁は岡山に置かれた。中世の終焉とともに、岡山は発展し、福岡は衰退した。

 黒田官兵衛の曽祖父黒田高政は、官兵衛の祖父黒田重隆を連れて、近江から備前福岡に移住した。官兵衛の父黒田職隆は、備前福岡で生まれ、重隆と共に播州に移住した。

 後年、黒田官兵衛孝高が、筑前博多の地の城主となった時、博多の町に福岡という名前を付けたのは、父祖の地を懐かしんでのことだろうか。

 21世紀の現在、九州の福岡市は、岡山市を超える大都会となった。

 福岡の市跡の石碑のすぐ北東に、備前福岡郷土館がある。

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備前福岡郷土館

 備前福岡郷土館は、大正3年に建造された旧平井医院を利用したもので、備前福岡に関する歴史資料や、平井家所蔵の古い医療具や医学書などを展示している。

 私が訪れた時は、団体客に貸し切りとなっており、見学できなかった。

 福岡の町は、碁盤の目状に整備されており、7つの小路がある。市場小路、横小路などの地名が残っている。

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市場小路

 ところどころに、白壁の町家が残っている。

 町の盛衰というものは面白い。今繁栄している都市も、何らかの原因で衰退する可能性がある。

 東京を始め、今の日本の都道府県庁所在地の大半は、戦国時代以降に城下町として発展した町である。わが兵庫県の県庁所在地神戸市が発展し始めたのは、幕末になってからである。

 日本という国が始まったころには、今の日本の都市は全て形もなかったわけだから、いずれ日本中の都市が跡形もなくなることもあり得る。

 自動運転、5Gの普及や日本人人口の減少、外国人人口の増加などで、これからの日本の都市の形は変わっていくことだろう。

 そんな町の盛衰の中で、後世に残るものは何だろうとつい考えてしまう。