夢中山幻住寺

 萩丸城跡を散策した後、山中の道を東に走り、岡山県久米郡美咲町北にある曹洞宗の寺院、夢中山幻住寺を訪れた。

幻住寺

 幻住寺の創建は、大同四年(809年)だという。その頃には、まだ日本には曹洞宗はなかったので、この寺は別の宗派の寺だったことだろう。

 幻住寺の山号は、元々は髻(もとどり)山と称していたらしい。

 元弘二年(1332年)、後醍醐天皇が元弘の変で敗北し、鎌倉幕府に捕らえられ、隠岐に配流される途中、美作国の院庄に立ち寄り、約1週間滞在した。

仁王門

仁王像

 院庄での天皇の夢に老僧が現れ、「私はここより西の髻山の僧です。ご落胆なさいますな。きっと救われることでしょう」と告げたという。

 後醍醐天皇が髻山に使いを派遣したところ、夢に出て来た老僧と同じ僧が古寺に住んでいた。

 老僧の予告通り、隠岐を脱出し、京に戻った後、天皇は髻山の僧を厚くもてなし、夢中山の山号と山林田畑、伽藍を下賜したという。

仁王門の二階

 仁王門の前に花が飾られている。よく見ると、大和尚が最近逝去したことを示す立て看板があった。

山門不幸の看板と花

 高僧と言えども、無常の風を避けることは出来ない。

 寺の中興の祖は、大叟樹元(たいそうじゅげん)で、寺は永享五年(1433年)に再度開山されたらしい。

石段

 仁王門を抜けると、境内まで長い石段が続く。石段の左右に並ぶのは、躑躅である。躑躅が咲く季節には、さぞ美しい景観を見せてくれることだろう。

幻住寺

 幻住寺は、室町時代には幻住庵と呼ばれていたらしい。芭蕉が旅の合間に住んだ庵と同じ名である。

 幻住寺は、当時は江原佐次(すけつぐ)、中村則久といった在地国人衆が信仰していたそうだ。

 幻住寺は2度の戦火と失火で伽藍が焼失した。現在の伽藍は、文政年間(1818~1829年)に再建されたものである。

 境内に入って左手には観音堂がある。

観音堂

 この観音堂は、曹洞宗美作観音霊場第三番であるらしい。

 本堂は銅板葺の均整が取れた美しい建物である。

 本堂には、禅寺のこと故、釈迦如来を祀っていることだろう。

本堂

本堂の唐破風と向拝

向拝の彫刻

 本堂からは、寺の関係者の声が聞こえる。中を覗くと、かなり広々とした空間である。

本堂内部

 本堂の襖絵は、新しいものと思われるが、立派な獅子の絵である。

獅子の襖絵

 その前には、どんな時に使うか分らぬが、巨大な木魚がある。

御本尊

 本堂奥には金色の釈迦如来坐像が祀られている。曹洞禅は、釈迦直系の座禅を継承しているとされている。

 只管打坐という、ひたすら座るという教えの潔さに魅かれ、大学時代には道元の著作を読んだり、研究書を読んだり、一人で座禅の真似事をしたりしたが、本来はしっかりした指導者の下で座らなければならないものである。

庫裡

庫裡の入口

庫裡の彫刻

 曹洞宗と言えば永平寺だが、私は25歳の時に仕事で悩んで、仕事を辞めて出家してみようかと考えたことがある。
 仕事を辞める前に、野々村馨氏の「食う寝る坐る 永平寺修行記」という本を読んでみた。
 野々村氏も仕事を辞めて出家して永平寺に入り、1年間雲水として修業した方である。山を降りてから、体験記を執筆された。

 この本を読んで、永平寺での修行が予想以上に厳しいものであると分かった。そして、今の自分の仕事の方が、永平寺に比べればはるかに楽だなと思った。

 そして、やはり今の仕事を続けようと決心した。

 何事に対しても、真剣に向き合うということは、エネルギーを使うことである。当時の私には、それが出来ていなかった。

 曹洞宗の寺院に来るたびに、一筋の座禅という言葉の持つ妥協を許さぬ厳しさに、身が引き締まる思いがする。

萩丸城跡 

 岡山県久米美咲町北にある岡山県総合畜産センターの東側に、センターの娯楽施設の「まきばの館」がある。

まきばの館

まきばの館案内図

 まきばの館には、レストランや土産物屋、アスレチック広場、ドッグラン、ラベンダー広場などがあり、休日の家族連れで賑わっていた。

 私もここで昼食を摂った。

 このまきばの館の南東側にある展望台と呼ばれる小高い丘が、萩丸城跡だという。

萩丸城跡

 萩丸城跡は、文明十一年(1479年)に佐和国高が築いた城だと言う。

 佐和国高は、関東公方だった足利持氏の家臣だったが、持氏が室町幕府に追討され、自決した時に、関東から赤松氏を頼ってこの地に来て、萩丸城を築いたという。

 この展望台は、独立した丘陵だが、城としての防御機構があるように見えない。出城のように見える。萩原城の本城は、別の場所にあるのではないか。

 萩原城跡の頂上には、東屋がある。

頂上の東屋

頂上付近

 東屋からは、岡山県総合畜産センターとまきばの館の広々とした敷地を見渡すことが出来る。

頂上からの展望

 はるか遠くの山々が見える。空気の透明度が高い日は、大山が見えるという。私が訪れた日は、残念ながら見えなかった。

 私が旅の道標にしている県別マップルの岡山県道路地図を見ると、畜産センターの牛舎の南側にある山中が萩丸城跡となっている。

 その場所に行ってみたが、案内板もなにもなく、実際にここが城跡だったのかどうか分からない。

萩丸城跡?

 とりあえず山中に入ってみようと思った。どうも登り口が分からない。

 山の西側の道路を往復していると、弘法大師堂があった。

弘法大師

 この弘法大師堂の裏に道があり、山の方に続いていた。弘法大師のお導きかと思った。

弘法大師堂から山に続く道

 この道を歩いて、城跡があるという山に入ろうとしたが、道は途中藪に遮られ、なくなってしまった。藪の中に入ると、かろうじて道らしいものがあった。

山へ入った場所

山頂部への道

 山頂部へ至る道は、尾根道になるが、途中堀切があるわけではなく、防御機構と思えるものも見当たらない。

山頂部

 山頂部に来たが、何の目印もない。

 結局ここが萩丸城跡の本城であったかは分からない。ネット上にも情報はなかった。

 萩丸城は、永正十七年(1520年)に浦上村宗が岩屋城を攻略した時に攻め落とされたようだ。

 この時に、佐和氏も滅亡した。

 史跡巡りを始めて分かったが、日本には城跡が無数にある。当ブログでも数多くの城跡を紹介してきたが、私が今まで訪れたエリアの中にも、訪問していない城跡は多数ある。

 山城跡は、時間が経過すれば樹木に埋もれてしまう。我々が住む場所の身近にも、実は昔お城だったという場所があるものだ。

 日本は仏像の宝庫でもあるが、お城の宝庫でもある。

津山市 岩屋城跡 後編

 本丸跡から二の丸跡に向かう。二の丸は、本丸の東側に位置する重要な防御機構であった。

 本丸跡と二の丸跡の間には、堀切がある。

堀切

 堀切は尾根を分断するために人工的に掘られた空堀で、尾根沿いに攻めてくる敵軍を足止めするための山城の防御機構の一つである。

 二の丸跡は、東西に細長い曲輪である。

二の丸跡

 二の丸跡の東端には、大堀切の跡がある。その名のとおり、巨大な堀切の跡である。

大堀切跡

 大堀切跡と書かれた看板の向こう側が切岸になっていて、下を覗くと大堀切跡が見える。

上から覗いた大堀切跡

 なるほど巨大な堀切である。主郭の東側に険阻な地形がないため、大堀切を築いて防御機構としたのだろう。

 下に降りて大堀切跡の中に立つと、この堀切の巨大さが実感できる。

大堀切跡

 大堀切から南に歩くと、三の丸跡への道がある。

三の丸跡への道

 三の丸跡への道は分かりにくい。私も一度気づかずに通り過ぎてしまった。

 上の写真中央の道を進むと三の丸跡に至る。

三の丸跡

 三の丸跡は、昔から土地の人が「さんのうまる」と呼んでいたそうである。この城が廃城になったのは遥か昔である。地元の人の土地の呼称には、古い時代の記憶が保存されているものである。

 三の丸跡から舗装された下山路を歩いて行くと、左手に地元で「てのくぼり」と呼ばれていた畝状竪堀群が見えてくる。

 畝状竪堀とは、山の斜面に対して上下に空堀を堀り、空堀と土塁が畝のように交互に続くように築かれた防御機構である。

畝状竪堀群

 竪に複数の空堀を掘ることで、斜面を登って攻め上がって来る敵兵が横移動するのを防ぐことができる。

 岩屋城跡の畝状竪堀群は、幅約5メートル、長さ約100メートル、深さ約2メートルの竪堀が、12本掘られている。

 畝状竪堀は、山城を代表する防御機構だが、大概の山城では、竪堀が樹木に覆われて、原型を確認することが困難である。

 原型を目視で簡単に確認できる竪堀は、全国的に見ても数が少ない。

 岩屋城跡の畝状竪堀群は、そういう意味で貴重な遺構である。

岩窟の不動明王

 畝状竪堀群を見終わった後は、下山するだけだったが、途中小さな岩窟に据えられた不動明王像が目についた。

 そう言えば、山王神社に参拝したあと、胸に不動明王が浮かんだなと思い出した。

 小さな不動明王像に手を合わせ、無事に登山が終わったことを感謝して再び歩き始めた。

津山市 岩屋城跡 中編

 山王神社の参拝を済ませて、更に登り続けると、大手門跡が現れる。

大手門跡

 ここが城の正面である。大手門跡を過ぎると水門跡がある。

水門跡

 水門跡を過ぎて更に進むと、水神宮がある。

水神宮拝殿と龍神大杉

水神宮拝殿

 水神宮は、龍神池の池中に祀られている神様で、祭神は弥都波能売(みつはのめ)神である。

 嘉吉元年(1441年)に山名教清が岩屋城を築城した際、龍神池を作って、そこに伯耆大山の赤松池に祀られていた弥都波能売神を勧請し、城の鎮守として祀ったものである。

龍神池と水神宮

 龍神池は、籠城戦の際は城兵の飲み水としても利用された。

 水神宮の拝殿にはベンチが置いていて、丁度いい休憩場所になっている。

 しばし休んでさらに登った。

 しばらく歩くと、四本の大杉に囲まれるようにして小さな祠が立ち、その手前に井戸が掘られていた。

四本の大杉と祠

祠の前の井戸

 巨木と祠と井戸の組み合わせからは、不思議な力を感じる。

 籠城戦になると、城に立て籠もる兵士からすれば、水は貴重品である。こうした井戸から取られた水が、多くの城兵の喉を潤したことだろう。

 この井戸からしばらく行くと、本丸跡周辺の遺構に到達する。

 特に馬場跡と呼ばれる長さ約108メートル、幅約20メートルの曲輪は、本丸付近の曲輪の中では最大のものである。

馬場跡と「天空の鳥居」

馬場跡からの眺め

 馬場跡の南端には鳥居が建っている。天空の鳥居と呼ばれている。ここに神社があるわけではない。この鳥居は、神社と関係なしに建っているものである。

 この鳥居のある場所からは、津山市街に至る城の南東側の景色がよく見える。

 馬場跡から本丸跡方面に歩いていく。

馬場跡を歩く

 本丸跡周辺は、桜が開花している。桜は既に散り始め、枝に葉が出始めている。

 毎年桜を見ると、「ああ今年も生きて桜を見ることが出来た」と思う。昨年は淡路で桜を見た。今年は美作で桜に会った。美しい桜を見ると、心が洗われる思いになる。

岩屋城跡の桜

 本丸跡は、岩屋山の頂上を削平して築かれた曲輪で、長さ約60メートル、幅約20メートルの楕円形の曲輪である。

本丸跡

 本丸跡に登ると、本当に真っ平に削平されているのが分る。

本丸跡

 本丸跡からは、城の四囲を見回すことが出来る。先ほど歩いた馬場跡も視界に入る。

本丸跡から見下ろす馬場跡

 本丸跡からは、特に西側の真庭市方面の眺望がいい。

真庭市方面の眺望

 本丸跡の北側は、峻険な断崖絶壁である。ほとんど垂直の絶壁で、落とし雪隠と呼ばれていた。

落とし雪隠

落とし雪隠の絶壁を見下ろす

 天正九年(1581年)の毛利氏による岩屋城攻めの際、毛利方の武将中村大炊介頼宗は、決死の士32名を選び、風雨の夜にこの落とし雪隠をよじ登らせた。

 決死隊は落とし雪隠を登りきって城内に突入し、城に火を放った。大手門側から攻め寄せた寄せ手と呼応して攻撃し、ついに堅固な岩屋城を陥落させた。

 守りが堅固だと過信すると、逆にそこが弱点になるといういい事例である。

 岩屋城は、築城されてから廃城になるまでの約150年の間に、血で血を洗う攻城戦を何度も経験した。

 今ではそんな歴史があったことを忘れさせるように、美しい桜が咲いている。

 今は長閑なこの場所を巡って、過去には血みどろになって戦った人々がいたことを思うと、人の世の無常が思われる。

津山市 岩屋城跡 前編

 三成古墳から西に向かい、岡山県津山市中北上に聳える岩屋山(標高約483メートル)の山上にある岩屋城跡に向かった。

 岩屋川沿いに細い道を北上すると、谷間に登山者用の駐車場がある。そこに車をとめ、歩き始めた。

岩屋城跡の図

 岩屋城は、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱に際し、播磨、備前、美作三国の守護だった赤松満祐の討伐に貢献し、美作守護の地位を得た山名教清が同年に築城したとされる。

 その後、応仁の乱に乗じて旧領地の回復を目指した赤松政則が山名氏の手から奪還した。

 文明五年(1472年)には政則は美作国守護に任じられた。岩屋城は再び赤松氏の配下に入った。

登山口にある供養塔

 永正十七年(1520年)には、備前三石城に拠る浦上村宗が赤松氏に対して謀反を起こし、岩屋城を攻略した。

 天文十三年(1544年)には、尼子国久が岩屋城を攻略する。

 永禄十一年(1568年)には、浦上氏に代わって勢力を伸ばしてきた宇喜多直家が謀略により岩屋城を接収する。

 天正九年(1581年)には、毛利輝元が攻め落とした。

 その翌年から、宇喜多氏が再び岩屋城を攻め、最終的に宇喜多氏の手に落ちた。

 天正十八年(1590年)に野火により城は焼失し、廃城となった。

登山口

 こうして見ると、この城を巡って度重なる争奪戦が行われてきたことが分かる。ここが出雲街道を扼する重要地だからだろうか。

 登山口には、いつの頃のものか分らぬが、戦没者を供養する小さな供養塔が建っていた。

 登山道は整備されていて登りやすい。途中、かなり急な階段が続く箇所があり、汗が出てくる。

登山道

急な階段

 しばらく行くと、慈悲門寺下砦跡が見えてくる。

慈悲門寺下砦跡

 かつて岩屋山中腹には、天台宗の高僧、智証大師円珍(814~891年)が開創した慈悲門寺という寺院があったそうだ。

 岩屋城廃城と同時に廃寺になったという。合戦の際は、寺周辺は砦としても使用されていたようである。

 砦跡の上に慈悲門寺跡とされる削平地がある。

慈悲門寺跡

 慈悲門寺跡の本堂跡には、建物の礎石が集められている。

 また、礎石の上には、かつて寺院の屋根に葺かれていた瓦が置かれている。

本堂跡

礎石と瓦

 円珍は、天台宗密教化に貢献した僧侶である。平安時代には、岩屋山は、山岳寺院を擁する修行の山だったのだろう。

 しばらく歩くと、山王宮拝殿跡がある。

山王宮拝殿跡

 山王宮は、慈悲門寺の鎮守として、この先の岩窟内に祀られた。

 祭神は、大山咋(おおやまくい)命こと山王大権現である。山王大権現は、比叡山延暦寺の鎮守、日吉大社の祭神でもある。山の神様と密教の関係は深い。

 岩窟への道が険しく危険であったため、一般の参拝者はこの拝殿跡の地から山王宮を参拝したという。

 山王宮は、明治44年に郷社鶴坂神社に合祀されたが、今でも氏子たちは山王神社として、岩窟の中に小さな祠を建ててお祀りしている。

 拝殿跡から望むと、約200メートル先に岩窟と祠があるのが見える。

山王神社(山王宮跡)

 山王神社までの道は、崖に沿った細い道である。足を踏み外すと滑落しそうだ。

 一歩一歩踏みしめながら進み、山王神社の前に至った。

山王神社

 山王神社のある岩窟は、手作業で掘ったと思われる痕がある、時代を感じさせる岩窟である。

 明治時代には、この岩窟一杯に社殿が設えてあったらしい。

 小祠に手を合わせ、岩窟の前を立ち去ろうとした時、不思議と胸の中に不動明王の像が浮かんできた。

 思い過ごしかも分からないが、それ以降なぜだかやたらお経を読みたくなるようになった。

 以前、数珠を持って山中の祠を巡拝している時、気分が高揚するのを覚えた。行者として山中を歩くことが、私が元々やりたかったことなのかも知れない。

 史跡巡りを続けていると、今まで気づかなかった自分の一面が見えてくることがある。

 私は、「水到りて渠成る」という言葉を座右の銘にしている。水が流れるとそこに自然と溝が出来るという意味で、何事も行動を起こせば結果が付いてくるということを指している。

 史跡巡りを続ければ、知らず知らず何事かが成って行くかもしれないと、楽観的に考えている。

三成古墳

 道の駅久米の里から西に走り、岡山県津山市中北下にある国指定史跡・三成(みつなり)古墳を訪れた。

 三成古墳は、中北下の集落にある真言宗寺院・密厳寺の墓地の奥にある、小高い山の頂付近に築かれた前方後方墳である。二つの方墳がつながった形をしている。

三成古墳の築かれた山

 三成古墳が発見されたのは、昭和52年のことである。割合最近のことだ。

 岡山県北部には、前方後方墳という特異な形式の古墳が多い。

 岡山県北部最大の古墳も、以前紹介した前方後方墳、植月寺山古墳である。

三成古墳(左側が前方部)

 三成古墳の周辺は、雑木や雑草が刈り払われ、芝生が敷かれて、墳丘を認識しやすい。美麗な古墳だ。

三成古墳の図

 それにしても、岡山県北部にはなぜ前方後方墳が多いのだろう。

 出雲を中心とする山陰地方では、弥生時代中期から古墳時代に入るまでの間、方墳の四隅が突出した形式の、四隅突出型墳丘墓という墓が築かれた。山陰が大和王権支配下に入るまでの間に作られた墓の形である。

 岡山県北部でも四隅突出型墳丘墓は築かれた。大和王権の「様式」である前方後円墳と、山陰独特の四隅突出型墳丘墓が合体した姿が、前方後方墳なのだろうか。

前方部から後方部にかけての墳形

後方部から前方部を望む

前方部から後方部を望む

 三成古墳は、5世紀前半に築造された古墳である。久米川流域の収穫を経済基盤にした首長の墓であろうと言われている。

 墳長は約35メートルで、比較的小型の古墳である。

 まだ溜池を作る技術や灌漑技術が未熟だった時代には、田は川の近くにしか拓くことが出来なかった。

 必然的に川の近くに集落が出来て、川の周辺に古墳が築かれた。

後方部から前方部にかけての墳形

後方部に残る葺石

 私の地元の播州なら、揖保川沿い、加古川沿い、明石川沿いに古墳が集中して存在する。

 狩猟採集が主だった縄文時代の遺跡は山地にあったりするが、稲作をしていた弥生時代の遺跡は川の近くにあることが多い。

 交通事情が悪い時代は、食料獲得手段と人の居住地には密接な関係がある。

 「日本書紀」などには、古代天皇の治績として、溜池の造営がよく挙げられているが、溜池は食料増産に直結する技術だったわけだ。

 三成古墳では、前方部と後方部の頂上から一つずつ大きな石棺が見つかり、後方部の斜面に3つの小さな石棺があった。小さな石棺は子供のもので、大きな2つの石棺は夫婦のものだろうか。

後方部の石棺

 後方部頂にある第一主体と呼ばれる石棺からは、日本製の変形四獣鏡と鉄剣、鉄斧、勾玉が各1個発掘された。

 5世紀前半の地元豪族の埋葬品だろう。まだ日本人が仏教を知らない時代の埋葬品である。

 墓の形式は、時代によって変わっていく。今の日本の墓地に並ぶ墓の姿は、昔からのものではなく、江戸時代以降のものである。

 これから少子高齢化無宗教化が進み、日本の墓の在り方も変わって来るだろう。

 あちこちで墓じまいが行われ、合同墓が増えて行く事だろう。海に散骨したり樹木葬にするなど、従来の墓を必要としない葬り方も増えてくるだろう。

 時代と共に様々なものが変化するが、墓制の変化にもその時代その時代の人々の世界観が反映されていて、興味深いものだ。

久米廃寺

 桜が散り始めた4月10日に美作の旅をした。

 最初に訪れたのは、岡山県津山市宮尾にある久米廃寺である。

 スイフトスポーツを道の駅久米の里に駐車して、西に歩く。久米廃寺の跡は、道の駅久米の里の西側の、中国縦貫自動車道の高架下にある。

久米廃寺

 久米廃寺は、白鳳時代(7世紀後半)にこの地に建てられた仏教寺院である。平安時代初期には、既に廃寺になっていたという。

 近くには、久米郡衙跡の宮尾遺跡がある。郡衙は郡の政庁のあった場所で、郡司はそこで勤務した。

 飛鳥白鳳時代には、古くから勢威を誇った地方の豪族は郡司に任命され、国家の機構に吸収されていった。

 白鳳時代には、郡司が郡衙の近くに寺院を建てることが多かった。当時は、政治と仏教の結びつきが強固だったのだろう。

久米廃寺想像復元図

 久米廃寺は、昭和の中国縦貫自動車道の建設に際し発掘された。

 塔を中心に東側に金堂、西側に講堂が建てられ、その周りを回廊が囲むという独特な形式である。

 塔の心礎石は現在も現地に残っている。

久米廃寺の土壇跡

 久米廃寺には、古代の土壇の跡がそのまま残っている。白鳳時代の廃寺の遺跡に行くと、土壇が新たに復元されていることが多いが、久米廃寺の土壇は、かなり古びたものであり、当時の土壇であることは間違いないだろう。

創建時の土壇

 特に塔跡と金堂跡の南側にある土壇の端部は、かなり古いものに見える。こういうものを見ると、地面から化石を掘り当てたような静かな興奮を覚える。

 塔跡には、心礎石が一つ残されている。

塔跡

心礎石

 心礎石の中央に開いた穴の直径はさほど大きくない。ここに嵌っていた柱の直径からして、小ぶりな塔が建っていたのではないかと思う。

 塔跡の東側には金堂跡がある。

金堂跡

 金堂は、今でいう本堂の事で、寺院の中心となっていた建物である。ここには定めて立派な仏像が安置されていたことだろう。

 令和2年8月30日に訪問した津山郷土博物館には、久米廃寺から発掘された塑像の仏菩薩像の破片が展示されていた。

塑像の仏菩薩像の顔面の破片

腕の破片

塼仏

 塑像とは、心木に荒縄を巻き付け、その上に粘土をくっつけて盛り上げて造形する像である。

 出来上がった像を焼成しないので、もろく崩れやすいのだろう。日本国内で残っている塑像の仏像はほとんどない。

 それにしても、粘土で出来た仏像はそうお目にかかれるものではない。白鳳時代には、日本に多くの塑像仏があったのだろうか。

 塔の西側には、僧侶が教義について学んだり、修行をした場所である講堂跡がある。

講堂跡

講堂跡土壇

石造五輪塔

 講堂跡の土壇は、塔跡、金堂跡のものより大きかった。講堂は大きな建物だったのだろう。

 講堂跡の土壇の脇には、いつの頃のものか分らぬ小さな石造五輪塔があった。

 また、金堂の東側には僧の居住棟である僧坊跡がある。

僧坊跡

 久米廃寺の東約300メートルの丘陵から発掘されたのが、古代久米郡郡衙跡の宮尾遺跡である。

宮尾遺跡

宮尾遺跡と久米廃寺の配置図

 宮尾遺跡のあった場所は、今は中国縦貫自動車道が通っている。ここには郡の政庁である郡衙があった場所だ。昭和の発掘では、建物の掘立柱の跡が見つかっている。

 かつて地方の豪族は、古墳を築いて祖先を祀る祭礼を行っていたが、大化二年(646年)に孝徳天皇により出された薄葬令によって、古墳の築造が禁止された。

 ここに古墳時代が終わった。地方に寺院が建てられだしたのは、この薄葬令以降である。

 豪族は、薄葬令をきっかけに、先祖供養のありかたを、古墳での祭礼から仏教寺院を築いて仏法僧を敬うことに切り替えたのではないか。

 さて、番外になるが、道の駅久米の里には、なぜか機動戦士Zガンダムの巨大模型が設置されている。

Zガンダム

 アニメ「機動戦士Zガンダム」は、昭和60年に放送された。「機動戦士ガンダム」の続編である。

 当時私は小学6年生だったが、名作と言っていいファーストガンダムと比べて、Zはもう一つピンとこなかった。

 このZガンダムの模型は、地元の中元正一氏が自ら設計図を描き、独力で制作したもので、鋼鉄製の内部骨格と強化繊維プラスチック製の外装を持つ。全高約7メートル、重量約2トンである。

 驚くべきは、コクピットに人が乗り込んで、機械の一部を動かすことが出来ることである。平成11年12月に完成した。

 私も思わずZガンダムの前で、ZC33Sスイフトスポーツの記念撮影をした。

ZガンダムとZC33Sスイフトスポーツ

 Zガンダムは、ウェイブライダーという飛行形態に変形して高速で移動でき、ハイメガランチャーという長射程高出力のビーム砲を持つ。

 どうも軽量で加速力のあるスイフトスポーツに似ているような気がする。しかし、別段カミーユ・ビダンの気分になったわけではない。

 美作は、播磨から出雲に抜ける出雲街道沿いに発展してきた地域だ。これから津山の西もしくは北の史跡を訪ねることになるだろう。