二老山和田寺

 丹波立杭登窯から北上し、丹波篠山市下小野原にある天台宗の寺院、二老山和田寺(わでんじ)に行く。

 この寺は、標高591メートルの和田寺山の麓から中腹にかけて建っている。

 和田寺口の交差点から坂を上っていくと、仁王門が見えてくる。

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仁王門

 この仁王門の中に立つ仁王尊金剛力士像が、なかなかの力作であった。

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阿形像

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吽形像

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 魁偉な表情、厚く筋肉質な胸部。力強い造形である。国指定重要文化財かと思いきや、丹波篠山市指定文化財だった。

 様式から鎌倉時代の作と言われているが、何度も修理され、そのたびに各部が入れ替えられているために、国の重文にはならなかったのだろう。

 それでも良いものを拝観出来た。思わず手を合わせて拝む。

 仁王門から坂を上がっていくと、客殿がある。

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客殿

 客殿前の砂利の駐車スペースの周囲には、牡丹桜が見事に咲いていた。

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牡丹桜

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 和田寺は、大化二年(646年)に法道仙人が開基したと伝えられる古刹である。

 当初は、和田寺山の山頂に建てられ、日照山東光寺と称していたが、寿永三年(1184年)に源義経軍が三草山の平氏軍を討伐した際に焼失したという。

 翌文治元年(1185年)、播州清水寺の僧・二臈理円(にろうりえん)が再建し、二臈山東光寺と改称した。

 嘉慶三年(1389年)、僧・良海が堂塔を現在地に移し、明徳三年(1392年)、二臈(老)山和田寺と改称して、播州清水寺の末寺となった。

 客殿の前には、勘助地蔵というお地蔵さまが祀られている。

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勘助地蔵のお堂

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勘助地蔵(中央の像)

 8代将軍吉宗の時代、西日本一帯を大飢饉が襲い、各地で餓死者が続出した。現在の兵庫県三田市藍本の地に、森鼻勘助という人物がいた。動作俊敏で俊足の持ち主の勘助は、世を憂いて義賊となり、富者から盗んだ金品を衣食に苦しむ農民に与えた。

 しかし晩年足腰の病にかかり、床に臥す日々が続いた。ある日、勘助の夢にお地蔵様が出てきて、「われは今、裏山の土中に埋もれる地蔵なり。直ちに掘り起こして祀れば、汝の病を直さん」と告げた。

 延享元年(1744年)、勘助が小野原の地蔵谷から地蔵を発掘し、盛大に法要を催すと、たちまち病は癒えた。これが勘助地蔵の由来である。

 明治末年には、地元住民から、足腰の病や疣を直すお地蔵さまとして信仰を集め、昭和に入って和田寺に移されたという。

 私も思わず手を合わせた。

 さて、勘助地蔵参拝後、客殿から本殿までの参道を上っていった。

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本堂への参道

 参道の両側には杉が鬱蒼と茂っている。なかなかいい雰囲気だ。

 参道の途中に、頭痛地蔵と呼ばれる地蔵板碑が建っている。

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地蔵板碑

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 この地蔵板碑は、頭部が欠損している。それが、頭痛地蔵と呼ばれる所以である。

 この地蔵板碑には、文和四年(1355年)の銘が刻まれている。和田寺が東光寺と呼ばれていた時代から残る貴重な遺物である。

 宝塚市波豆(はず)地域の石工により造立されたものと推定されているらしい。地蔵板碑は、兵庫県指定重要文化財である。

 地蔵板碑から参道を上ると、突き当りに本堂がある。印象的な石段を登ると、本堂前に出る。

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本堂

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 本堂は寺伝では桃山時代の建立とされているが、様式的には江戸時代後期に建てられたものと推定されている。

 本尊は千手観音菩薩立像で、厨子と共に丹波篠山市指定文化財となっている。

 昭和の修理の際に、像内から写経と板札が発見され、仏師奈良方法橋祐円により、建武四年(1337年)3月3日に像立されたことが分かった。

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厨子と御前立像

 本堂正面には、「康正二丙子年」(1456年)という銘がある鰐口があるそうだ。これも市の指定文化財である。

 また和田寺には、「和田寺文書」と呼ばれる室町時代から安土桃山時代にかけて書かれた古文書類が残っている。

 播州清水寺や、地元の小野原荘、在地武士勢力、丹波国守護細川氏のことが書かれており、中世の寺社や武士の支配の在り方を研究する上で貴重な資料らしい。「和田寺文書」は、兵庫県指定重要文化財である。

 中世には、守護大名や寺社勢力、地元国人層が網の目のように重なって土地を支配していた。アナーキーに近い揺れ動く時代だった。

 和田寺には、鎌倉時代から南北朝時代室町時代安土桃山時代にかけての文化財が残っており、中世の空気を現代に伝えている。

 日本が不安定に揺れ動いていた時代のゆらぎが、まだ寺域に残っているような気がした。

 

丹波立杭登窯

 兵庫県丹波篠山市今田町上立杭(かみたちくい)には、兵庫陶芸美術館や、丹波伝統工芸公園立杭陶の里といった陶芸に関する施設があるが、丹波焼の窯元も数多く軒を連ねている。

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窯元のショーウィンドーの丹波焼の花入れ

 丹波焼と言えば、赤っぽい土肌に緑色の灰釉がかかった甕や壷などが思い浮かぶが、そのような器は中世によく焼かれたもので、江戸時代以降は、釉薬を用いた器も多く作られるようになった。

 丹波焼立杭焼丹波立杭焼とも呼ばれる)は、当初は山の斜面に溝を掘って窯にした穴窯で焼かれていたが、慶長年間(1596~1615年)に朝鮮半島から登窯の技術が伝わると、燃焼効率が良くなり、日常雑器類を短期間に大量に作ることが出来るようになった。

 上立杭には、立杭に存在する登窯の中では最も古い丹波立杭登窯がある。登窯の古式を残しているため、兵庫県指定民俗文化財にも指定されている。

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丹波立杭登窯

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 この窯は、明治28年(1895年)に作られたもので、125年以上経た現在も現役で使われ続けている。

 全長は約47メートルで、9室の焼成室を備えている。

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焼成

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焼成室の内部

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 焼成室の内、1室だけ内部を覗くことが出来た。この中に作品を入れて、炎で焼しめるわけだ。

 丹波立杭登窯は、阪神淡路大震災で傷みが激しくなったため、平成26年から古来の作成方法で修復された。

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丹波焼登窯の説明

 割った竹を半円状に曲げて、その上に「まくら」と呼ばれる日干しレンガを積んでアーチ状の窯を作っていく。

 登窯は、山の斜面などを利用して築かれる。最下部の「ひどころ」から着火して、上昇した空気が「はちの巣」と呼ばれる最上部の穴から煙と炎と共に抜けていく。

 窯の側面にある穴から薪を入れて、温度を下げないように工夫する。

 熱を帯びた空気と炎が上昇する原理により、長い登窯全体に炎が行き渡り、内部の陶器が焼けていく。

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ひどころ

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はちの巣

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焼成の状況

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炎を吹き出すはちの巣

 この窯では、毎年昼夜を徹した焼成が行われており、一般人も作品を持ち込んで焼いてもらえる。またその様子を見学できる。

 私は登窯での焼成作業を見たことがないが、焼成時の写真を見ただけでも、陶芸は炎の芸術という言葉の意味が分かる気がする。

 日本の茶道では、素朴で表面がいびつな陶器が珍重されるが、中国やヨーロッパでは、形の均整が取れた、繊細な絵付けが描かれた磁器がもてはやされる。

 私は野仏(のぼとけ)という言葉が何となく好きだが、陶芸にしろ茶室にしろ、この「野」という鄙びた雰囲気を高度な芸術にまで高めたところが、世界の他の国にはない日本の美術の特徴なのではないか。

 さてこの丹波立杭登窯から北にしばらく歩くと、兵庫県天然記念物の上立杭の大アベマキがある。

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上立杭の大アベマキ

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 樹高28メートル、幹回り5.4メートルで、アベマキとしては国内最大の巨木であるらしい。地域の神木として大事にされている。

 私は、幹がごつごつして枝が四方に伸びた古木が好きなのだが、磁器よりも陶器が好きな日本の茶人の感性も似たようなものだろうか。

 私は昔から田舎で過ごしてきたので、近くに山や野のない生活というのは、味気ない生活だと感じる。

 自然の豊かさを感じながら生きるというのは、最も贅沢な生き方ではないかと思う。

木津住吉神社 源兵衛山古窯跡

 私が住む兵庫県に、新型コロナウイルス流行に伴う緊急事態宣言が発令される前の4月18日に、丹波方面の史跡巡りを行った。

 これから暫くは、その時の記事を掲載する。

 先ず訪れたのは、兵庫県丹波篠山市今田町木津(こつ)にある木津住吉神社である。

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木津住吉神社を覆う社叢

 木津住吉神社は、田んぼの中でそこだけ木々に囲まれた空間の中にある。はるか昔からのままの姿であるかのようだ。

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木津住吉神社鳥居

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木津住吉神社

 神社の周囲には、必ずと言っていいほど鎮守の森と呼ばれる木々がある。その中に建つ神社建築の大半も木造建築なので、結局我々は神々を拝んでいるつもりで、木々を拝んでいるのかも知れない。

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木津住吉神社の境内入口

 ジブリアニメの「となりのトトロ」や「もののけ姫」には、物語の背景として、鬱蒼とした樹林が出てくるが、案外あのようなアニメが、日本の信仰の本質を抉っているのかも知れない。

 さて、住吉神社には、住吉三神と呼ばれる航海の神と神功皇后が祀られているものだが、この木津住吉神社の祭神もそうであろう。

 こんな山間部に航海の神が祀られているのには由来があるのだろうが、今は分からない。

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木津住吉神社の社殿

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本殿と覆屋

 木津住吉神社は、農村の中の小さなお社に過ぎないが、この神社には、兵庫県無形民俗文化財に指定されている「木津住吉神社の田楽」が伝承されている。

 古文書類は残されていないのではっきりした由来は分からないが、天明四年(1784年)にはここで田楽が行われていたという記録がある。

 田楽は、平安時代中期に成立した、豊作を神に祈るために行われる楽や踊りのことである。能楽にもその要素が流れ込んでいる。

 木津住吉神社の田楽には、幣(しで)かたげ、ササラ、太鼓、笛の役があり、それぞれの役の者が裃、袴、白足袋を着用して踊る。

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舞殿

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 社殿の前には、田楽を奉納する舞殿がある。木津住吉神社の田楽は、昭和37年以降断絶していたが、昭和56年に木津住吉神社田楽踊保存会が復活させた。しかし、現在は休止状態であるらしい。

 舞殿の床の上の塵埃の堆積を見ても、長らく使われていない様子であった。

 ここから、日本六古窯の一つ、丹波焼が制作される立杭(たちくい)地域に行く。

 丹波焼の開窯は、平安時代末期である。須恵器の時代から、この地域では陶器が焼かれていたと言われている。

 丹波焼の窯は、慶長年間に朝鮮半島から登り窯の技術が伝わるまで、斜面に溝を掘って造った穴窯が使われていた。

 丹波篠山市今田町下立杭の山麓には、そのような古窯の跡が点在する。

 兵庫県史跡となっている源兵衛山古窯跡を訪れてみたが、案内板もなく、当てずっぽうで行く事になった。

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源兵衛山

 今田町東庄にある東立杭のバス停から南に歩くと、源兵衛山が見えてくる。麓の墓地の奥に溜池があり、その奥から山中に入ることが出来る。

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溜池と山中に入る道

 山中に入っても、案内板も何もないので、どこに窯跡があるのか分からない。「兵庫県の歴史散歩」下巻を見ても、「窯体は近年の植林で天井が崩壊し、長さ18.5メートルのくぼみの形状を残すのみである」と書いているだけである。

 溜池の奥の道から山中に入り、右に行くと、人工のものかは分からぬが、溝のようなものがある。

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源兵衛山古窯跡と思われる溝

 この溝が源兵衛山古窯跡かの確信はなかったが、地面をよく見ると、溝の中に陶片が幾つも落ちていた。

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源兵衛山古窯跡に落ちる陶片

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 私はこれらの陶片を見つけて、ここが古窯跡であろうと見当をつけることが出来た。

 粘土を焼いて固めた陶器は、年月の風化にも耐え、よく残っているものだ。

 陶器よりはるかにもろい土器が発掘されるおかげで、現代人が縄文時代弥生時代の生活を知ることが出来るように、発掘される陶器も古代や中世の声を現代に伝えてくれる。

 曇った日に一人でこの山中を訪れたが、誰もいない山の中で陶片を見つけて、はるか遠くからの声を聞いたような気がした。

美和山古墳群

 高野神社の参拝を終え、国道179号線を挟んで北側にある美和山古墳群を訪れた。ここも津山市二宮になる。

 美和山古墳群は、国指定史跡で、4~5世紀に築かれた古墳群とされている。

 前方後円墳の1号墳と、円墳の2、3、6号墳の4つの古墳がある。

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美和山古墳群の案内図

 公衆トイレのある小さな駐車スペースがあったので、そこに車をとめて見学した。

 まず目の前に現れるのは、蛇塚と呼ばれる2号墳である。

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2号墳

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 2号墳は、直径約34メートル、高さ約7メートルの円墳で、二段に築成されている。墳頂は平になっていて、蛇塚と刻まれた石碑が立っている。

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2号墳の墳頂

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蛇塚の碑

 2号墳からは、円筒形埴輪の破片が発掘された。この円墳がなぜ蛇塚と呼ばれるのかは分からない。

 2号墳の南側には、耳塚と呼ばれる3号墳がある。

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3号墳と美和山古墳群の石碑

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3号墳

 3号墳も、二段に築成された円墳で、直径約38メートル、高さ約5メートルの大きさだ。
 墳丘を登ると、ところどころに葺石が顔を出している。

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3号墳の葺石

 築成されたころは、このような丸い川原石でびっしり葺かれていたことだろう。3号墳からも、円筒形埴輪の破片が出土している。当初は墳頂の周囲を円筒形埴輪が囲んでいたことものと思われる。

 2号墳の北側には、直径約17メートルの6号墳がある。

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6号墳

 小さな古墳であるため、1号墳の陪塚だと思われる。

 さて、美和山古墳群のハイライトは、前方後円墳の1号墳である。胴塚とも呼ばれている。

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1号墳(手前が後円部)

 1号墳は、全長約80メートルの前方後円墳だが、奈良県天理市柳本にある行燈山古墳(崇神天皇陵)と形が同一で、行燈山古墳の3分の1の大きさの類型墳とされている。   

 行燈山古墳は、4世紀前半の築造である。その類型墳がこの地に作られたということは、行燈山古墳が作られてすぐ後にこの地が大和王権の勢力下に入ったということだろう。

 そしてこの古墳が特徴的なのは、戦国時代の15~16世紀に美和山城という城郭として使われたことである。

 城主は立石氏という国人であったそうだ。昨日紹介した立石岐の先祖だろう。

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美和山1号墳の見取図

 見取図のとおり、前方部と後円部の先に土塁が付けられている。古墳であると同時に城跡であるという史跡には、初めて出会った。

 しかし古墳自体がそれほど大きくなく、土塁もささやかで、堀の跡もないため、然程防御力のない小さな砦のようなものだったろう。

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後円部と土塁

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土塁

 それにしても素晴らしいのは、1号墳周辺の雑草が良く刈られていて、墳丘の姿をよく眺めることが出来ることである。

 多くの古墳は、藪や樹木に覆われて、形を認識することが出来ない。たまにこのような明瞭に形を認識できる古墳に出会うと嬉しくなる。

 墳丘上に上ると、後円部の形を明瞭に見てとることが出来る。

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前方部から眺めた後円部

 後円部は前方部より少し高くなっている。後円部の高さは約9メートルだ。後円部の上には、戦国時代には櫓が建っていたことだろう。

 今でも、後円部に立つと、四囲を見渡すことが出来る。

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後円部からの眺め(北側)

 1号墳の北側には、紫竹川という川が流れている。川から古墳までは斜面になっていて、天然の要害のようになっている。

 後円部から前方部を見下ろすと、これまた明瞭な前方部を眺めることが出来る。

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前方部

 前方部の先端に、もう一つの土塁が付いている。

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前方部と土塁(左側の突起)

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前方部に付いた土塁

 この小さな土塁がどれだけの防御力を発揮できたか分からない。

 美和山城は、文亀二年(1502年)に美作三星城の後藤氏に攻められ落城したそうだ。

 三星城と後藤氏については、令和元年12月27日の「三星城跡 吉田の油地蔵」の記事で紹介した。後藤氏も最後は宇喜多直家に滅ぼされる。

 戦国時代の人達が、この前方後円墳を見て、何を思いながら城に改造したか興味深いところだ。古代の有力者の墓だという認識はなかっただろう。

 史跡も時代の推移と共に改造を加えられ、他の目的で使われることがある。

 それはそれで、人間が目まぐるしく活動している証なので、非難されるべきことではない。

 そういう史跡を見ると、人間の逞しさを感じることが出来る。

津山市 高野神社

 黒沢山萬福寺から下りて南に車を走らせる。津山市二宮にある高野(たかの)神社を訪れた。

 高野神社は、美作国の二宮である。美作国では、一宮の中山神社に次ぐ社格の神社である。

 創建は第27代安閑天皇二年(534年)とされている。となると、中山神社より古い神社である。

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高野神社鳥居

 神社の鳥居を潜ると、目の前に樹齢約700年のムクノキがある。

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宇那提の森のムクノキ

 かつてこの辺りは、木が鬱蒼と茂る宇那提(うなて)の森と呼ばれていた。

 宇那提の森は、古来から「万葉集」に収録された歌を始め、様々な歌に詠まれた歌枕である。

 「万葉集」巻七第1344番には、

真鳥住む 雲梯(うなて)の社(もり)の 菅の根を 衣(きぬ)にかき付け 着せむ子もがも

とある。

 真鳥は鷲のことで、鳥の中の鳥とされるから真鳥と言う。その恐ろしい鷲の住む雲梯の社は、霊威のある神社のことを指す。

 霊威ある雲梯の社に生えている菅の根を、私の衣に描き付けて(堅い契りの証)、着せてくれる女がいないものか、という歌意らしい。

 また、「万葉集」巻十二第3100番には、

思はぬを 思ふと言はば 真鳥住む 雲梯の社の 神し知らさむ 

 という歌がある。

 思ってもいないのに、思っていると嘘を言えば、鷲の住む雲梯の社の神様が、恐ろしさを知らしめる(祟る)だろう、という歌意だ。

 古くから、雲梯(宇那提)の社(森)は、奈良県橿原市雲梯町にある河俣神社のことを指すとされてきた。

 しかし中世に順徳天皇が著した歌論「八雲御抄」で、初めて雲梯の社美作説が唱えられた。

 貞享五年(1689年)、津山藩の家老長尾隼人が、ここを歌枕の宇那提の森だとした石碑を建てて、顕彰した。

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ムクノキと石碑

 私は長尾隼人が建てた石碑を意識して写さなかったが、上の写真の端にその石碑が写りこんでいる。

 宇那提の森は、宇喜多直家が堡塁を築く際に、このムクノキ1本を残して伐採されてしまったという。

 さて、高野神社の参道は長く、参道沿いには商店などもある。

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高野神社参道

 当日は、参道沿いに桜が咲いていた。

 参道沿い北側に、江戸時代の大庄屋立石家の邸がある。

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立石邸に至る上り坂

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立石邸長屋門

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立石邸

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立石岐顕彰碑

 立石邸に至る上り坂の手前には、立石岐(ちまた)の顕彰碑が建っている。

 立石岐は、弘化四年(1847年)に生まれ、19歳で大庄屋の立石正介の養子となった。

 岐は、明治11年1878年)に養蚕業を推進普及するために有志と共に共之社を設立した。翌明治12年には、岡山県会議員に当選した。

 岐は、自由民権運動に身を挺し、有志と共に国会開設の建白書を元老院に提出した。

 今では当たり前のようにある国会も、大日本帝国憲法が成立するまでは存在しなかった。

 明治の自由民権運動は、国民の意見を国政に反映させるため、議会の開設を国に求め続けた運動であった。

 面白いのは、国会が出来る前に、県議会が存在していたことである。民主化は草の根から始まるということだろうか。

 明治23年(1890年)、大日本帝国憲法が発布され、アジア初の国会が誕生した。岐は衆議院議員になった。

 大日本帝国憲法下の議会の力は脆弱だったが、当時の議会が現代の我が国の議会政治の基礎となったことは確かである。

 民権を求め続けた先人達の苦労に頭が下がる。

 さて、高野神社の随身門は、建久二年(1191年)に建立されたものだという。今は、その周囲を安政二年(1855年)に建てられた覆屋が覆って保護している。

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随身門と覆屋

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背面から見た随身門と覆屋

 随身門と覆屋は、津山市指定重要文化財となっている。

 この随身門には、阿形と吽形の木造随身立像が立っていた。像には、応保二年(1162年)の胎内銘があり、銘がある随身像としては国内最古のものであるそうだ。

 また、随身門には、寛弘六年(1009年)に三蹟の一人藤原行成が書いた木造神号額が掛かっていた。

 木造随身立像と木造神号額は、国指定重要文化財として、今は宝物館に収められている。

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宝物館

 宝物館には、他に平安時代に作られた木製の狛犬である木造獅子2体が収められている。これも国指定重要文化財である。

 宝物館の隣にある津山だんじり館には、津山祭りで氏子に曳かれるだんじりが展示してあった。 

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津山だんじり

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 津山だんじりは、神輿の渡御に随伴するが、四輪のゴムタイヤが付いた台車に載り、ハンドルで方向を変えるようになっている。近代化されただんじりである。

 高野神社の本殿は、寛文三年(1663年)に二代目藩主の森長継が造営したものである。

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拝殿と本殿

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拝殿

 本殿はいわゆる中山造で、岡山県指定重要文化財となっている。

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本殿

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向拝の彫刻

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本殿の斗供

 これで私は、徳守神社、鶴山八幡宮、美作総社宮、中山神社、高野神社と、中山造の本殿を有する五社の全てに参拝したことになる。
 ところで高野神社の御祭神は、彦波限鵜葺草葺不合尊(ひこなぎさうがやふきあえずのみこと)である。

 彦波限鵜葺草葺不合尊は、宮崎県の鵜戸神宮の御祭神として知られるが、初代神武天皇の父神である。

 神武天皇の父親が、何故ここに祭られているのかは分からない。

 本殿の脇には、我が国の悠久を現わすさざれ石が置かれている。

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さざれ石

 今上陛下の生誕を記念して置かれたものだろう。

 境内には、美作出身の幕末の国学者歌人の平賀元義の歌碑があった。

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平賀元義の歌碑

 歌碑には、「ひとりのみ 見ればさぶしも 美作や うなでのもりの 山ざくら花」と刻まれている。

 平賀元義も、宇那提の森が地元美作にあったという説に与していたようだ。

 平賀元義が高野神社を訪れた幕末には、もう宇那提の森はなくなって、あのムクノキだけがあった筈だ。

 平賀元義の歌は、「万葉集」を思わせる万葉調と呼ばれるもので、後に正岡子規が評価した。

 元義は、今と変わらぬ高野神社境内に立って、木が鬱蒼と茂った「万葉集」の時代の宇那提の森に思いを馳せながら、この歌を作ったことだろう。

黒沢山萬福寺

 中山神社から北に走り、標高約668メートルの黒沢山山頂にある萬福寺を目指した。地名で言えば、岡山県津山市東田辺にある。

 黒沢山は、神楽尾山の山頂からも目にすることが出来た。

 萬福寺に至る山道は、細く曲がりくねっている。ZC33Sスイフトスポーツの独壇場である。パドルシフトを使わずとも、太いトルクで軽い車体をすいすい登攀させる。

 楽しんでいる間に山上に着いた。

 寺の展望台からは、津山盆地を見下ろせる。神楽尾山も眼下にある。

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黒沢山から見下ろす津山盆地

 萬福寺は、真言宗の寺院である。虚空蔵菩薩を祀る。福島県の円蔵寺虚空蔵堂、三重県金剛證寺と並んで、日本三大虚空蔵霊地の一つであるという。

 和銅元年(708年)に、黒沢山山頂の檜の梢に虚空蔵菩薩が来臨した。その霊瑞を目撃した猟師により、お堂が建てられたのが萬福寺の発祥だという。

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萬福寺本堂

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 虚空蔵菩薩は、密教で信仰される菩薩のひとつである。虚空とは大宇宙の謂いである。虚空蔵菩薩は、大宇宙のような広大な智慧と慈悲を持った菩薩とされている。

 本堂は、銅板葺きの入母屋造の屋根を持ち、唐破風の向拝が付いている。向拝の蟇股の龍虎睨みあう彫刻が見事である。

 本堂の裏から、黒沢山の山頂に登ることが出来る。山頂近くに奥の院がある。

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奥の院への道

 登っていくと、「求聞持道場」という看板が掲げられた建物があった。

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求聞持道場

 道場の手前には、降三世明王歓喜天の線画が立てられている。

 この道場は、弘法大師空海が行った密教の荒行の一つ、虚空蔵求聞持(こくうぞうぐもんじ)法を行うためのものだろう。

 虚空蔵求聞持法とは、虚空蔵菩薩真言である「ノウボウ アキャシャ ギャラバヤ  オンアリキャ マリボリ ソワカ」を50日間か100日間の間に100万回唱えるという行である。真言を唱える時のお堂の場所や、本尊、自分の向きなども決まっているそうだ。

 この行を達成した暁には、宇宙のあらゆるものを記憶して忘れなくなるという。

 弘法大師空海は、まだ入唐する前の若き頃、四国の山野で修行を行い、土佐の室戸岬にある御厨人窟(みくろど)の中で虚空蔵求聞持法の満願を迎えた。

 その時、弘法大師は口の中に明星(金星)が飛び込んでくるという体験をした。明けの明星は、虚空蔵菩薩の化身とされる。

 空海は24歳の時に書いた「三教指帰(さんごうしいき)」の中で、この瞬間の体験を、「谷響きを惜しまず、明星来影す」と書いている。空海自筆の「三教指帰」は、国宝として現在まで伝わっている。

 目を開けた空海の目の前には、室戸岬の先にある空と海ばかりが見えた。弘法大師は自己の名前に「空海」を選んだ。

 萬福寺には、日本に残る数少ない虚空蔵求聞持法のための道場があるのだ。

 求聞持道場の裏には、護摩堂がある。

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護摩

 護摩堂は、護摩行を行うお堂だが、ここの御本尊である銅製の虚空蔵菩薩像には、自由に触れることが出来る。触れて願い事を祈ることが出来るようだ。

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御本尊虚空蔵菩薩の説明板

 護摩堂は無人だが、自由に出入りできる。お堂に入ると、ついさっきまで使っていたかのような、簡素な護摩壇がある。

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護摩

 護摩堂の中は、護摩行を行うためか、天井も壁も黒く煤けている。

 護摩壇正面の壇の中には、御本尊の虚空蔵菩薩像と不動明王立像が祀られている。

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御本尊をお祀りする壇

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虚空蔵菩薩

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不動明王立像

 さて私も、黒光りする虚空蔵菩薩像に触れて願い事を祈ってみた。願い事は、史跡巡りを無事に続けることが出来ることである。

 護摩堂の隣には、木造の小さなお堂がある。

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求聞持堂

 このお堂も求聞持堂と言うらしい。願い事を書いた絵馬をこのお堂に投げ入れるようだ。

 実を言うと、私も虚空蔵求聞持法の真似事をやってみたことがある。真言宗の数珠を爪繰りながら、虚空蔵菩薩真言を100回唱えてみたが、それだけで喉が渇いてかなわなかった。

 100日で100万回唱えようと思ったら、1日1万回唱えなければならない。これを1日の間にあと99回繰り返すことを想像すると、それだけで無理だと思った。

 弘法大師空海のように、虚空蔵菩薩の加持を得て、宇宙のあらゆることを記憶できるようになればいいのかも知れないが、無理をせず平々凡々と生きるのも仏の道と思い諦めた。

中山神社

 美作国一宮である中山神社を訪れた。中山神社は、岡山県津山市一宮にある。

 一宮には、その国で最も社格が高い神社が当てられていることが多い。中山神社は、近代社格制度の下では、国幣中社であった。

 私が史跡巡りで訪れた一宮としては、播磨国一宮の伊和神社に次いで2番目になる。約2年史跡巡りをして、まだ二社目だが、備前と淡路の一宮は、間もなく訪れる予定である。

 中山神社の社頭には、樹齢約800年のケヤキがある。

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中山神社ケヤキ

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 中山神社の現在の社殿は、永禄二年(1559年)に再建されたものである。このケヤキは、それ以前からここにあったものである。
 ケヤキの前の小さな祠には、大国主命が祀られている。このケヤキは、津山市指定天然記念物である。

 中山神社の創建は、社伝では慶雲四年(707年)とされている。

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中山神社の鳥居

 中山神社は、平安時代に成立した「日本三代実録」や「延喜式」にも記載がある神社で、美作で唯一、名神大社に列せられた。

 鳥居の裏手に、これまた大きい樹齢約500年のムクノキがある。

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中山神社のムクノキ

 このムクノキは、現本殿が再建されたのとほぼ同じ時代に生まれたことになる。

 参道を進むと、尻を持ち上げた狛犬や、とぼけた顔の狛犬がいる。

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尻を上げた狛犬

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とぼけた狛犬

 中山神社神門は、元々津山城二ノ丸にあった四脚門で、津山城が廃城となった後の明治7年(1874年)に中山神社に移築された。

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神門

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 本柱2本と控柱2本から成る薬医門形式で、屋根は切妻造、檜皮葺である。いかにも城門というような装飾のない無骨な門で、雄勁なる中山神社に相応しい門である。

 神門は津山市指定重要文化財である。

 神門を潜ると、正面に中山神社の社殿が見えるが、神門を潜って左手に神楽殿と惣神殿がある。

 惣神殿は、津山市指定重要文化財だが、私が訪れた時は修理中であった。

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楽殿

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修復工事中の惣神殿

 中山神社の祭神は、鏡作神とされている。この鏡作神は、鏡作部と呼ばれる鏡を作った職能集団の祖神とされているが、それ以外のことはあまりよく分かっていない。

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中門と社殿

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中門

 中門を潜ると、翼を広げたように檜皮葺の屋根を広げた拝殿がある。

 丁度神職祝詞を上げて祈祷する最中だった。

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拝殿

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拝殿の向拝

 中山神社の社殿は、天文二年(1533年)の尼子晴久の美作攻めの際に、戦火で焼けてしまった。

 境内に陣取った敵を攻略するため火が放たれたという。

 尼子晴久が美作を平定した後の永禄二年(1559年)に、その晴久の手によって再建された。

 本殿は、入母屋造に唐破風の向拝がついた中山造という独特の様式で、他の津山市内の主要神社も、この中山神社本殿と同じ中山造で建てられている。

 この本殿は、国指定重要文化財である。

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本殿

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本殿の虹梁、蟇股、木鼻の彫刻

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本殿回廊の彫刻

 中山神社本殿は、津山市内の中山造の本殿の中では最も古く、木材も寂びたいい色になっている。

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本殿

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 檜皮葺の屋根の四隅が跳ね上がった姿は、武人のように凛とした姿だ。くすんだ木材の色が美しい。

 古武士のような風格ある建物である。

 中山神社を焼き払った尼子晴久も、自己の行いに罪悪感を覚えたのだろうか。立派な本殿を再建したものだ。

 中山神社には、弘安八年(1285年)に一遍上人が訪れたそうだ。「一遍上人絵伝」に記載があるという。

 また、「古今和歌集」に出てくる「吉備の中山」は、備中の吉備津神社ではなくこの中山神社とする説があるそうだ。

 なかなか由緒ある古社である。

 さて、中山神社本殿奥の崖下に、猿神社という小さな祠がある。

 この祠に祭られる猿神のことは、平安時代に編集された説話集の「今昔物語集」本朝世俗部巻第二十六第七「美作の国の神、猟師の謀(はかりごと)に依りて生贄を止むる語(こと)」という説話に紹介されている。

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猿神社

 昔、中山神社の祭神は猿の姿をしていた。地元では、毎年猿神に若い未婚の女性を生贄として捧げていた。

 この年の生贄に、美しい十六、七歳の娘が当たっていた。娘の父母は、生贄の日が近づくにつれ、娘の死を避けることが出来ないと嘆き悲しんだ。

 そこに、東国から、猟犬を連れて猟をする勇敢な男が現れた。男は娘と両親の様子を見て事情を知り哀れに思った。

 男は、両親に「私に考えがある」と言って、娘を助けることを約束した。そして人知れず娘と婚姻した。

 男は山から密かに猿を捕えてきて、連れてきた二匹の犬にこれを食い殺させる訓練を行った。

 生贄を捧げる日、娘に代わって男が犬二匹と一緒に生贄を入れるべき長櫃に潜り込んだ。

 宮司らは生贄が入っているものと思い、運んだ長櫃を社に置いて立ち去った。男が長櫃をわずかに開けると、隙間からすぐ横にいる大きな猿が見え、その左右に百匹ばかりの猿が並んで叫びののしっているのが分かった。

 大猿や猿たちが長櫃を開けると同時に、長櫃から犬が飛び出て猿の群れに襲い掛かり、次々にかみ殺した。

 男は刀を抜いて大猿を組み伏せ、首に刃を当てて、「お前の首を叩き切って犬に食わせるぞ。お前が神なら俺を殺してみろ」と脅した。

 大猿は宮司に憑依して、宮司の口を借りて、もう二度と生贄を取ることはせず、人に危害は加えないと誓約し、命乞いをした。

 男は大猿を許し、野に放った。大猿は山に逃げ帰ったが、それから生贄の習慣はなくなったという。男は家に帰り、娘と末永く夫婦として幸せに過ごしたそうだ。

 この話、最後に猿が許されて逃げるところを除けば、「古事記」の須佐之男命とヤマタノオロチの伝説と話の構図がほぼ同じである。

 中山神社周辺に出没した猿を猟師が退治したという話が、このような説話になったのだろうか。

 命乞いをした猿神は、今は心を入れ替えて、この小さな祠にいながら美作の住民を見守っていることだろう。

 古い社は、氏子に敬われて、様々な伝説を紡ぎながら、時を越えて続いていくものである。