三木市 天津神社

 兵庫県三木市吉川町前田にある天津神社は、国指定重要文化財の華麗な本殿を有する。

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天津神

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拝殿

 祭神は、天穂日(あめのほひ)命、天津彦根(あまつひこね)命、活津彦根(いくつひこね)命、天忍穂耳(あめのおしほみみ)命、熊野久須日(くまのくすび)命の五柱で、本地仏として薬師、観音、釈迦、阿弥陀如来を祀っているという。当初は遍照院という神宮寺があったという。

 この五神は、天照大御神須佐之男命とが、高天原で誓約(うけい)を行った時、天照大御神の玉を須佐之男命が噛み砕いて吹いた時に出来た神々である。天照大御神の物実(ものざね)から生まれたので、須佐之男命が吹いた玉の破片から出来た神々だが、天照大御神の御子とされる。

 この内の、天忍穂耳命の子孫が今の皇室である。

 この神社の本殿は、延徳四年(1492年)に造営されたことが記録されている。

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本殿と拝殿

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本殿

 本殿は、春日造りの檜皮葺の建物で、正面一間、側面二間である。

 この本殿は、延徳四年に村人達が建てたと伝えられている。平成15年に、当時の彩色が復元され、屋根も修復された。

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 欄間、蟇股、手挟みの彫刻と彩色は、華麗であるが悪趣味ではなく、ベースの朱色と好く調和している。

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 脇障子の彫刻は、武人と女人の彫刻だろうか。細かい所までよく彫られている。

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 このような華麗な彩色の本殿だが、背面の黒板が、全体を引き締める効果を持っているような気がする。

 それにしても、こんな見事な本殿を、武士や貴族ではなく、当時の村民が建てたということに、何か貴さを感じる。

 さて、天津神社から北東に約700メートルほど行った、三木市吉川町冨岡に、聖天(歓喜天)を祀る稲荷神社がある。

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稲荷神社参道

 聖天宮参道と彫られた石碑を目印に参道に入るが、目印がなく、途中で迷いそうになる。参道入口を約50メートル歩いてから左に入り、民家と物置の間の細い道を上がれば、神社に至る。

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稲荷神社鳥居

 この神社の本殿は、天文十五年(1546年)に建てられた。国指定重要文化財である。一間社隅木入り春日造り板葺きで、極彩色の蟇股や欄間の彫刻が見事であるそうだ。

 天津神社の本殿と同系統の本殿であると推察できる。

 しかし残念ながら、本殿は覆屋に覆われて拝観することが出来ない。

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拝殿

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本殿の覆屋

 稲荷神社は、かつては聖天宮と呼ばれていた。聖天は、真言密教でよく秘仏として扱われる、仏教の守護神である。

 天津神社にしろ、稲荷神社にしろ、中世には神仏習合の神社として、真言宗との関係が深かったと思われる。

 天津神社の本殿は、村民が建てたそうだが、仏教の如来や守護神が、日本の神々と習合されて、村民に信仰されていた中世から近世の信仰の形が、今に残っているとも言える。

古窯陶芸館

 兵庫県西脇市野村町にある古窯陶芸館は、平安時代末期の窖窯跡を、ドームで覆って保存している施設である。

 ここでは、陶芸教室も行われている。

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古窯陶芸館

 窖窯は、5世紀に朝鮮半島から伝わった。山の斜面にトンネルのように穴を掘って築かれる。穴の中は須恵器を焼く焼成部となり、穴の下側は燃料を燃やして炎を穴の中に入れる燃焼部(焚口)となり、穴の上側は煙り出しとなる。 

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窖窯の構造

 燃焼部と焼成部の境に、炎のまわりを良くするための分焔柱を立てることがある。焼成温度を1200℃以上に上げる必要がある陶器生産では、分焔柱が必要である。

 古窯陶芸館にある窯跡は、緑風台窯跡と呼ばれている。緑風台は、古窯陶芸館のある住宅地の名である。

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緑風台窯跡

 緑風台窯跡は、昭和55年に発掘された。平安時代後期の、12世紀末に築かれた地下式の窖窯である。

 緑風台窯跡には、分焔柱の跡がある。西日本で初めて発見された分焔柱を備えた窯跡であるらしい。

 ちなみに、緑風台窯跡には、屋根が残っているように見えるが、これは窯跡が崩壊しないように、発掘後に補強のために設置された屋根である。

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 焼き物には様々な種別があるが、焼成温度によって仕上がりが異なる。

 土器は700~800℃で焼かれたものである。1000℃を超える温度を出そうと思ったら、窖窯が必要となる。1100℃を超えると、粘土成分の一部が結晶化し、焼き締めが起こり、陶質土器と呼ばれる焼き物になる。これが須恵器と呼ばれるものである。

 焼成温度が1200℃を超えると、粘土中の長石も溶けて、いわゆる陶器になる。緑風台窯跡の製品は、陶器である。

 1350℃を超えると、粘土中の石英も溶けて、磁器となる。磁器と陶器の間の製品を炻器という。

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焼き物の焼成温度による区別

 ここで日本の焼き物の歴史をおさらいする。

 古くから日本では土器が制作されていたが、5世紀に朝鮮半島から窖窯が伝わり、須恵器が大阪の泉南地方で生産されるようになる。当時は須恵器は貴重品で、生産も有力者に掌握されていた。

 6世紀になって、小規模な古墳が次々と築かれるようになると、須恵器は副葬品として大量に生産されるようになる。

 しかし、7世紀になって、孝徳天皇が古墳造営を禁止すると、須恵器の生産は急激に衰える。その後は、今年1月14日の当ブログ記事で紹介した、寒風古窯などで細々と生産された。

 10世紀になると、中国大陸との私貿易がさかんになり、陶器が日本に流入するようになる。陶器は貴族などに珍重され、須恵器はますます需要が減っていく。

 しかし、11~12世紀になると、農民の生活水準も向上してきて、壺、甕、鉢などの実用的な日用雑器への需要が増えてくる。須恵器生産者は、ここに活路を見出し、陶器生産用の窯を築き、陶器を生産するようになる。日本各地に爆発的に陶器の生産地が出来る。

 緑風台窯跡も、この時代に築かれたものである。

 このような生産地の中で、製品の生産や輸送が勝れていた備前丹波、越前、信楽、瀬戸、常滑が、中世六古窯と呼ばれ、大規模生産地として発展する。

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緑風台窯跡から発掘された四耳壺

 それ以外の生産地は、13~14世紀には六古窯に押されて廃絶する。

 16世紀には、秀吉の朝鮮出兵によって朝鮮半島から連れてこられた陶工が磁器の生産を日本に伝え、鍋島や伊万里薩摩焼などの磁器生産が行われるようになる。

 硬く絵付けがしやすくデザインに優れる磁器は、江戸時代には庶民にも普及する。現代の我々の食卓に並ぶ食器は大半が磁器である。

 人にも歴史があるように、道具にも歴史がある。道具の発展の度合いから、人々の生活が見えてくる。

 緑風台窯跡からは、完全な形の四耳壺が発掘された。現在は、西脇市郷土資料館に展示されている。

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緑風台窯跡から発掘された四耳壺

 焼き締められ、自然釉のかかった素朴な味わいの四耳壺である。何とも言えない素朴な味わいがある。

 現代から見れば、このような渋い器を使用していた当時の庶民は、文化的な暮らしをしていたように見えるが、当時の人々からしたら、単なる日用品だろう。

 現代何気なく使っている日用道具も、数百年経てば芸術品と見なされることがあるかも知れない。

如法寺無量壽院

 大多羅寄宮跡から芥子山の山裾を巡り東に行くと、如法寺無量壽院がある。地名で言えば、岡山市東区広谷になる。真言宗の寺院である。

 寺伝によれば、奈良時代神亀二年(725年)に、大倫和尚によって創建されたと言われている。

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無量壽院への参道

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仁王門

 ここは備前四十八寺の一つで、西大寺会陽で投下される宝木(しんぎ)の原木を伐り出す寺である。無量壽院境内の裏山で採取して香を焚きしめた原木を、宝木投下の18日前に西大寺の使者が来て受け取る。

 仁王門に安置されている仁王像が、意外と立派であった。

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仁王像

 参道を上がり、庫裏の門を入る。

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庫裏の門

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庫裏の玄関

 庫裏の脇に、岡山市指定重要文化財である南無仏太子立像を祀る太子堂がある。

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太子堂

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 南無仏太子立像は、聖徳太子の二歳像である。寄木造で彩色を施し、玉眼を嵌め込んである。カラーの御姿を拝観したいものだ。

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無仏太子立像

 鎌倉時代の作で、岡山県下の南無太子仏像立像の中でも逸品であるそうだ。

 仏教が日本に広まる元を作った聖徳太子は、日本仏教の大恩人である。

 庫裏や太子堂のある場所から、本堂までは、階段状の渡り廊下でつながっている。

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階段状の渡り廊下

 本堂には、ご本尊薬師瑠璃光如来を祀る。

 本堂は、明和五年(1768年)の建築だが、中世の部材を多く再利用しており、古い建物の風格を有している。

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本堂

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 現在の本堂は、正面三間、側面四間だが、元の建物は五間四方あったようだ。寺院の規模も今より大きかったのだろう。

 本堂は、岡山県指定重要文化財である。

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鐘楼

 無量壽院は山上の静かな寺院であったが、ここから伐り出される宝木に、西大寺会陽で裸の男たちが熱狂して殺到することを想像すると、何だか不思議な気持ちになる。

大多羅寄宮跡

 西大寺からしばし西に行く。JR赤穂線大多羅駅の北側に芥子山(けしごやま)が聳えている。

 この山の尾根上にあるのが、大多羅寄宮(おおだらよせみや)跡である。

 寛文六年(1666年)、岡山藩池田光政は、領内の神社整理を行い、小社小祠を71の寄宮に統合して祀った。その子綱政が事業を受け継いで、領内にあった66の寄宮を一つにまとめたのが、大多羅寄宮である。

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JR大多羅駅と背後の山

 大多羅寄宮跡のある芥子山には、JR大多羅駅の東側の踏切から登っていくことが出来る。

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大多羅寄宮跡への登り口

 大多羅寄宮跡に至る途中に、布勢神社がある。

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布勢神社鳥居

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布勢神社社殿

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拝殿正面

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本殿

 布勢神社は、大己貴命と句々廼馳命(くぐのちのみこと)を祭神とする。宝亀二年(771年)にこの地に勧請されて創建された神社であるらしい。

 大正時代になって廃絶された大多羅寄宮に祀られていた神々も、現在は布勢神社に合祀されている。

 池田光政や綱政が、藩内の神社整理をして廃絶させた、1万を超える神社の神々が、今はこの布勢神社に集まっていることになる。

 布勢神社の社頭には、幕末に岡山藩が生んだ国学者歌人の平賀元義の歌碑がある。

 平賀元義は、寛政十二年(1800年)に現在の倉敷市玉島陶に生まれた。岡山藩士の子だったが、家を継がずに天保三年(1832年)に脱藩した。

 元義は、独学で国学を勉強し、備前、美作、備中の各地を放浪しながら、中国地方の地理歴史、神社史などを研究した。更に万葉調の和歌を歌った。

 晩年、尊王思想が流行する中、元義は岡山藩から脱藩の罪を許され、この地に至り、布勢神社の神官だった中山縫殿之助宅に寄宿した。

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平賀元義歌碑

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 歌碑の横の説明板を読めば、なるほど万葉調の歌の中に、意地とユーモアを交えている。

 人は私を年寄りと言うが、年を取っても身体が元気な間は、日本中を歩いて古書を読み、我が国の国柄を説き示そう。いざというときは、老いたりとは言え、天皇の為に死のう、という歌意である。

 元義が脱藩した真意は分らない。恐らく国学に目覚めた元義は、儒教を基盤にして領内統治をしていた岡山藩の政治に飽き足りないものを感じたのだろう。

 元義は、天皇の世が来る直前の慶応元年(1866年)に亡くなったが、もし明治時代まで生きながらえていれば、もっと脚光を浴びていたかも知れない。

 布勢神社の境内には、元義の短歌の歌碑もある。

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短歌の歌碑

 元義は自らの和歌を、余技だと言って韜晦したが、明治に入って正岡子規斎藤茂吉に高く評価されるようになる。

 さて、布勢神社から更に山を登ると、国指定史跡の大多羅寄宮跡に至る。

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大多羅寄宮跡

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 大多羅寄宮跡には、今は石段と小さな祠、鳥居があるだけである。

 岡山藩池田光政は、寛文六年(1666年)に、領内の神社のうち、主要な神社と産土神601社を残し、10,524社を廃して71社の寄宮に合祀した。一挙に1万の神々を整理統合したのだから、驚くべき宗教改革と言っていい。

 正徳三年(1713年)、池田綱政は、この地にあった句々廼馳神社の境内を拡張し、66社の寄宮を移して合祀した。それが大多羅寄宮である。

 岡山藩領内の神社に祀られていた1万近くの神々の大半が、この地に集められたのである。

 岡山藩の神社に対する態度を見ると、平賀元義が岡山藩を見限ったのも分る気がする。

 大多羅寄宮には、毎年岡山藩から修理料と御供料が支給されていたが、明治時代に入ってそれも途絶えた。

 大正6年、荒廃していた大多羅寄宮は廃絶され、寄宮の祭神は、句々廼馳命と共に布勢神社に合祀された。

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かつての鳥居

 大多羅寄宮跡には、かつて建っていた鳥居の残骸が置かれていたが、どことなくもの淋しい。

 平賀元義の墓は、布勢神社の近くの千福山宝泉寺にある。彼は、かつて岡山藩領のあちこちに祀られていた神々が集まる布勢神社の近くに眠っているわけだが、泉下で少し複雑な気持ちになっているのではないかと想像した。

金陵山西大寺 後編

 金陵山西大寺の守護神として牛玉所殿(ごおうしょでん)に祀られてきたのが、牛玉所大権現である。

 牛玉所殿には、それだけではなく、金毘羅大権現も合祀されている。

 実は牛玉所大権現に合祀されている金毘羅大権現は、明治初年まで、讃岐の金刀比羅宮に祀られていたものなのである。

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牛玉所殿

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 現在の牛玉所殿は、明治13年の築である。最も奥にある奥殿は明治2年の建築だ。邑久大工の田淵勝義が長時間かけて完成させた建物であるらしい。

 牛玉所殿の前には、薬師堂、絵馬堂などがある。薬師堂には、柘植を彫って作ったものと思われる、優しい薬師如来坐像が鎮座している。

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薬師堂

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薬師如来坐像

 さて、牛玉所殿の正面に近づくと、鬼瓦に「金」の字があり、ここが金毘羅大権現を祀る建物であることが分る。

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牛玉所殿の拝殿

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拝殿の鬼瓦

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波型の彫刻

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牛玉所大権現と金毘羅大権現の扁額

 なぜ西大寺の牛玉所殿に金毘羅大権現が祀られているのか。

 明治初頭に一世を風靡した廃仏毀釈の運動は、讃岐の金毘羅大権現にも及んだ。

 金毘羅大権現は、琴平山山岳信仰修験道から生み出された神仏習合の神である。

 権現は、神仏習合の思想では、仏が「権(かり)に神の姿になって現れた」ものである。
 今の讃岐の金刀比羅宮は、江戸時代までは神仏習合の寺院であり、境内にあった象頭山松尾寺金光院には、鎮守として金毘羅大権現が祀られていた。

 廃仏毀釈の流れに乗って、松尾寺金光院の住職は僧職を辞し、神職となって神社となった金刀比羅宮に奉仕することに決めた。松尾寺金光院は廃絶となった。

 このため多くの仏像が打ち壊しになり、金毘羅大権現本地仏として祀られていた薬師如来も行方不明となる。

 これを見かねた金光院の末寺である万福院の住職宥明師が、明治7年7月12日に、自らの故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、金毘羅大権現の脇仏だった不動明王毘沙門天の二尊を持ち帰った。
 その後、この話を聞いた岡山藩主池田章政公が、自らの祈願寺である下出石村の円務院に移したが、廃藩置県によって池田候は東京へ移ったため、西大寺住職の長田光阿上人が、明治15年3月5日に二尊を西大寺へ勧請した。

 以後、不動明王毘沙門天金毘羅大権現の御本体として、牛玉所殿に合祀されることになった。

 毎年1月1日から14日まで、不動明王像と毘沙門天像は御開帳され、参拝者に公開される。

 そうすると、金毘羅大権現の御本体は、実は讃岐の金刀比羅宮ではなく、西大寺にあると言えなくもない。

 さて、牛玉所殿内部も、本堂との共通券で拝観できる。

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牛玉所殿の内部

 牛玉所殿の御本尊である牛玉所大権現は、密教明王である五大明王のことを指している。牛玉所殿の本殿に、牛玉所大権現の前立の像が鎮座している。

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牛玉所大権現の前立

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 五大明王とは、不動明王(中央)・降三世明王(右手前)・軍荼利明王(左手前)・大威徳明王(左奥)・金剛夜叉明王(右奥)のことを指す。

 牛玉所大権現の本尊は、奥殿に鎮座しているが、秘仏であって公開していない。

 しかし、公開されている前立の像を拝観するだけでも、充分にパワーをもらうことが出来る。人々の煩悩を裁断するため、明王たちは憤怒の形相をしている。

 この前立の像の脇に、金毘羅大権現である不動明王毘沙門天が祀られている。

 前立の向かって左に、白玉で造られた文殊菩薩が祀られている。平成22年に牛玉所殿を修復した記念に、中国補陀山から迎えられたそうだ。 

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白玉文殊菩薩

 白玉は白翡翠と呼ばれ、知恵を高める、平穏の象徴とされる宝玉であるらしい。

 本殿の奥に建つ奥殿には、秘仏の牛玉所大権現の本体が祀られている。

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奥殿

 奥殿と本殿の間は、「善の綱」という五色の糸で結ばれている。

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善の綱

 善の綱を挟んで合掌すれば、牛玉所大権現と御縁を結ぶことができるという。私も合掌してみたが、牛玉所大権現の力の一部を授かったような気がした。

 奥殿の手前には、水かけ不動様が鎮座する。願い事を唱えながら、この像に柄杓を使って水をかけると、願いがかなうのだという。

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水かけ不動

 会陽橋を渡って西大寺の東側の公園に行くと、昭和49年に、日本青年会議所中国地区岡山ブロック結成10周年を記念して造られた犀の塑像がある。

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犀の塑像

 西大寺の起源に犀が深く関わっているのを思い起こさせてくれる。

 また、西大寺から参道を少し西に行くと、西大寺文化資料館がある。

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西大寺文化資料館

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 天満屋創業者の伊原木氏本邸の衣装蔵を利用した資料館である。西大寺会陽の江戸時代の宝木が展示されているそうだが、生憎私が訪れた日は休館日だった。

 西大寺文化資料館の西側の公園に建っていた、少年はだか祭りのブロンズ像がほほえましかった。

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少年はだか祭りの像

 人々は自分や家族に福が授かるように宝木を奪い合うわけだが、個人の小欲よりも真理に到達するための大欲につくことを教える真言密教の祭事で、人々が個人の福を求めるのは、ちょっと矛盾しているようである。

 だが密教胎蔵曼荼羅が象徴的に表現しているように、個人が自分の幸福のために仏の加護を求める姿も、真言密教では紛う方なく仏の世界の一部なのである。

金陵山西大寺 中編

 西大寺の境内は広大で、がらんとしている。

 その中で、一際大きい建物が、文久三年(1863年)に建立された本堂である。本堂は、岡山市指定重要文化財になっている。

 幅五間の本堂は、岡山県下有数の巨大さで、軒が極めて高い。

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本堂

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 本堂は、西大寺会陽(えよう)で、裸体の男たちが宝木(しんぎ)を奪い合う舞台となる場所である。会陽見学者のための見学席まで設けられている。

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本堂と観客席

 本堂の外陣に登るための石段には、建立された文久三年の銘がある。

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本堂に上る石段

 日本の寺院の本堂に上る階段は通常は木製だが、西大寺では、会陽の際に大勢の男たちが登り降りするため、石段が据えられたのだろう。

 この石段を登ると、外陣の大床がある。

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外陣

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大床

 会陽の時には、この大床の上に約5000人の男たちが上る。建物の基礎をしっかりと作っていることだろう。

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大床の天井絵

 大床の格天井には、薬草の絵が描かれている。市川東壑の作である。

 本堂の御本尊は、秘仏千手観世音菩薩像である。さすがに、天平勝宝年間に藤原皆足姫が得た像ではないと思うが、拝観してみたいものだ。ご本尊の脇には広目天多聞天を祀り、裏脇には不動明王愛染明王が祀られている。

 秘仏の安置されている厨子の前には、御前立の千手観世音菩薩像が立っている。外陣からはアクリル板越しに、内陣の中の御前立の像を拝観することが出来る。

 内陣の上に、会陽の際に宝木二本が投下される御福窓がある。

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御福窓

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西大寺会陽の様子(西大寺のブログより)

 会陽の際は、この御福窓から御宝木が投下され、この写真のように、褌姿の男たちがそれを奪い合うわけだ。

 毎年2月の第三土曜日に行われる西大寺会陽は、国指定重要無形民俗文化財となっている。

 拝観料500円を払えば、本堂と牛玉所殿(ごおうしょでん)を拝観することが出来る。客殿から渡り廊下を通って、本堂に入って行ける。

 渡り廊下には、西大寺に関する展示物が置かれている。その中に御宝木もある。

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御宝木

 西大寺では、開山した時より、旧正月元日から14日間、一山の全僧侶が精進潔斎し、祭壇に牛玉を祀り、観世音菩薩の秘法を修して国家安泰、万民繁栄、五穀豊穣を願う修正会(しゅしょうえ)が行われてきた。

 牛玉とは、仏教世界で万物を生み出すとされる摩尼宝珠(まにほうじゅ)を意味する。

 西大寺では、修正会が満願を迎えると、丈夫な紙に右から左に「牛玉、西大寺、宝印」と書いた守護札を信徒の年長者や講頭に授与していた。この守護札を授かると、福が得られたことから、授与を希望する者が続出し、ついに奪い合うようになった。

 永正七年(1510年)、時の住職忠阿上人は、紙の牛玉(守護札)では破れてしまうので、これを宝木に巻き付け、信徒の頭上に投与した。これが西大寺会陽の起こりである。宝木を奪い合う人々は、身体の自由を得るために裸になるようになり、会陽は現在の姿になった。

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千手観世音菩薩版木

 渡り廊下には、江戸時代末期に、戸川平蔵が彫刻し奉納した、秘仏千手観世音菩薩像を模した摺仏の版木が展示してあった。これを見て益々この秘仏を拝観したくなった。

 渡り廊下を渡って、本堂に入ると、高野山奥の院の聖燈の分燈である皆足燈がある。

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皆足燈

 この奥の、本堂内陣は撮影不可である。

 内陣には、秘仏千手観世音菩薩像を収めた宮殿とそれを取り巻く御前立像や広目天多聞天不動明王愛染明王の各像を中心に、きらびやかな密教の祭壇が築かれている。

 階段を登れば、御福窓の前まで行くことが出来る。窓を開けて、大床を見下ろし、会陽に思いを馳せることが出来た。

 写真に写せないが、こんなに間近で内陣内部を隈なく見ることができる密教寺院は数少ないと思う。一見の価値ありである。

 さて、客殿の手前には、国指定重要文化財の朝鮮鐘を吊る鐘楼門がある。

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鐘楼門

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 鐘楼門は、高祖堂と同じく延宝年間(1673~1680年)ころの建築である。朝鮮鐘は、朝鮮半島で高麗時代の10世紀に鋳られたもので、日本に現存する朝鮮鐘の中では最大規模である。参拝者は、毎年正月三ヶ日に、開運招福の鐘として撞くことができる。

 客殿は、昭和35年に建てられた建物で、僧侶が普段の執務をする建物である。

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客殿

 客殿の南側には、大正14年に建てられた千手堂がある。

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千手堂

 千手堂には、平成15年に、中国の観音聖地補陀山からお迎えした千手観音坐像をお祀りしている。

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千手堂内部

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 千手堂の天井には、全国の114名の奉納者が描いた天井絵の世界が広がる。

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天井絵

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 密教の表現する仏世界は荘厳だが、即身成仏した者の目に映る、光り輝く大宇宙を象徴しているのだろう。

 私が訪れた時は、西大寺の境内には参拝客はほとんどいなくて、静かなものだったが、どことなく会陽の熱気が今も漂っているような気がした。

金陵山西大寺 前編

 岡山市東区西大寺中にある高野山真言宗別格本山金陵山西大寺は、いわゆる「裸祭り」の俗称で知られる奇祭・西大寺会陽で有名である。

 私も会陽のイメージでしか西大寺を捉えていなかったが、訪れて見ると、神仏習合が今に息づく、なかなか力強さを感じさせる寺院であった。

 参拝者を迎えるのは、元文五年(1740年)建立の仁王門である。

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仁王門

 岡山県下でも最大級の三間一戸の楼門で、和様と禅宗様を併用し、組物を多用している豪壮な門である。

 組物間の中備には、北面から時計回りに十二支の彫刻が彫られている。

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十二支の彫刻

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 これほど豪快な組物と彫刻を組み合わせた仁王門ながら、文化財としての指定は受けていない。

 さて、西大寺の縁起であるが、天平勝宝三年(751年)に、周防国玖珂庄に住んだ藤原皆足姫(ふじわらみなたるひめ)が、妙縁により観音像を手に入れた。

 この観音像は、大和国長谷観音の化身が彫ったものであった。皆足姫は、御礼参りのため、大和国に向かって船旅をした。途中備前国金岡庄(今の西大寺の辺り)に船を停泊し、夫が勤務する国府を訪れ、しばらく逗留した。いざ船を出そうとすると、船は微動だにしなかった。姫が観音像を陸に移すと船が軽やかに動き出した。

 姫は観音像と金岡に妙縁を感じ、ここに草庵を建てた。これが西大寺の起源である。

 宝亀八年(777年)、大和国長谷寺で修行中の安隆上人に、観音様から「備前金岡の観音堂を修繕せよ」と夢告があった。安隆上人は、皆足姫の助けを得て、観音堂修築のための資材を船に載せて備前金岡に向かった。上人は、吉井川の河口付近で、犀の角を持った仙人に出会った。仙人から、「この犀の角が自ずと鎮まる所が観音大士影向の聖地。そこに御堂を移したまえ」との霊告があった。

 安隆上人は、犀の角が鎮まった現在地に観音堂を移し、犀戴寺(さいだいじ)を建立した。

 後年後鳥羽天皇から賜った祈願文から、寺名を西大寺と改称した。

 仁王門の北側には、弘法大師空海を祀る高祖堂がある。

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高祖堂

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 弘法大師空海が、海を隔てた讃岐に生まれたのは宝亀五年(774年)である。西大寺が犀の角を奉じて現在地に移った3年前である。西大寺は後年高野山真言宗の寺院となったが、何か弘法大師との縁も感じさせる。

 高祖堂は、延宝三年(1671年)の建立で、安永九年(1780年)に修復された。祀られている宗祖弘法大師像は、延宝三年に大阪天満の吉右衛門が彫ったものである。高祖堂の扁額は、高僧佐々南谷の筆によるという。

 仁王門の南側には、経蔵がある。

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経蔵

 経蔵の中には、自由に出入り出来る。今まで、様々な寺院で経蔵を見てきたが、自由に入ることが出来る経蔵は初めてだ。

 経蔵は、嘉永七年(1854年)の建設である。内部には、六角形の書架がある。小さな抽斗が多数設置された回転型の書架である。

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書架

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 この書架の抽斗の中には、全六百巻の「大般若経」の巻物が収められていて、この回転式書架を一回転させると、「大般若経」六百巻を唱えたのと同じ功徳があるという。

 私も回転式書架を押して一回転させてみた。

 経蔵内部の壁には、仏、菩薩、縁覚、声聞の四聖道と、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六道を合わせた十界の絵図が展示されている。

 最後に展示されている「熊野観心十界曼荼羅」の図が、仏の世界と恐ろしい地獄の世界を描いていて興味深かった。

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熊野観心十界曼荼羅

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 中世日本人の心の中の世界を覗き見るような絵図である。

 さて、仁王門と本堂との間には、三重塔が聳えている。

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三重塔

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 私が史跡巡りで訪れた11番目の三重塔である。

 この三重塔は、延宝六年(1678年)の建築である。岡山県下の仏塔の中でも、一際古式を残した優美な塔であるらしい。岡山県指定重要文化財である。

 三重塔内部には、大日如来坐像が御本尊として安置されている。

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大日如来坐像

 この西大寺三重塔には胎蔵界大日如来が祀られているが、先日紹介した餘慶寺三重塔には、金剛界大日如来が祀られている。両寺院の三重塔にお参りすることにより、両界の大日如来を参拝したことになるそうだ。

 さて、境内の南側には、文政二年(1819年)に建立された石門がある。

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石門(龍鐘楼)

 石門は、正式名称は龍鐘楼(りゅうしょうろう)と言う。下階は石造、上階は一軒扇垂木の木造で、漆喰で塗り込められている。

 門の内側には、寄進者の名が彫られているが、頼山陽が筆にしたものであるらしい。

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頼山陽が書いた寄進者名簿

 石門を潜ると鳥居があり、その向こうに観音像が立っている。

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垢離取場

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観音像

 鳥居の向う、観音像の周囲は、一段と低くなっているが、西大寺会陽の時には、ここに水が張られ、裸体となった男たちが、ここで垢離取りを行い、身を清めるのである。

 西大寺会陽は、裸の男たちが、福を授かるため、二本の宝木を求めて激しくぶつかる祭りである。仏教寺院の祭りにしては、珍しく力強い祭りである。

 西大寺は、未だに神仏習合の匂いが強く残っている。いい意味で雑多なパワーに満ち溢れた寺院であると感じた。

 とはいえまだ西大寺の紹介は序の口である。この寺院の持つ魅力を、後の回で伝えることが出来るだろうか。