ZC33S スイフトスポーツ 七年経過

 我が愛車ZC33Sスイフトスポーツも、購入してから7年が経過した。

 現在の走行距離は、約96,000キロメートルである。

 昨年2月に訪問した徳島県鳴門市を最後に史跡巡りを休止したため、走行距離はあまり延びなくなった。

 この3月に、三度目の車検を受けた。

 今回は、エンジンのプラグやエアフィルター、エアコンのフィルターなどを交換した。

 2年間のエンジンオイル交換と法定点検が無料になるメンテナンスパッケージに入って、車検代は141,000円だった。

 最初の車検が100,000円を切っていたことを思うと、車体が古くなった分、交換部品が増え、車検代は上がってきた。

 メーター読みの燃費は、リッター15.7キロメートルである。

 ZC33Sスイフトスポーツは、昨年2月に標準車の生産が終了となった。昨年3月からファイナルエディションが発売開始となったが、それも11月に生産終了となった。

 ZC33Sスイフトスポーツは、これで完全に絶版車となった。「旧車」の仲間入りをしたのである。

 次期スイフトスポーツが出るかどうかは、まだ分からない。私の予想では、もう出ないのではないかと考えている。

 これから時間の経過と共に、ZC33Sスイフトスポーツの軽量、大トルクという特性は、価値を増していくものと思われる。

 この車の最大の良好点は、ブレーキである。車体が軽い上に、高性能なブレーキが付いている。踏めばしっかりした手応えがあり、ガツンと効く。たまに別の車に乗ってブレーキを踏むと、ぼんやりと頼りのない感触に不安になる。

 思ったようにスピードをコントロールできるブレーキと、車体の軽さが生む身のこなしが、まるで「車を着る」ような感覚を味わわせてくれる。

 こんな感覚を味わわせてくれて、日常生活で使い勝手のいい車は、この先なかなか出てこないだろう。

 2年前に購入したダンロップのルマンV+は、耐久性があって、純正タイヤよりも摩耗が少なく、まだ暫くは乗れそうである。

 K14C直噴ターボエンジンは、購入前はエンジン内のカーボンの堆積を心配したが、今のところ不具合は感じない。

 現在の世界の地政学的変動を見ていると、ガソリン価格の高騰は、長期的なものになりそうである。

 車社会もこれからどうなっていくのか予想がつかない。

 だが、可能な限りZC33Sスイフトスポーツには乗り続けていきたいと考えている。

「鷗外全集」の歴史 その六

 昭和61年(1986年)11月から、岩波書店版第三次「鷗外全集」第二刷が刊行された。全38巻が完結したのは平成2年(1990年)1月である。

 第一刷発行時に未発見だった書簡や雑纂が加えられた。

 これが事実上最後に発刊された「鷗外全集」である。

岩波書店版第三次「鷗外全集」第二刷内容見本

 「日本の古本屋」で検索してみても、第二刷の流通量は第一刷よりはるかに少ない。かといって古書価が高いわけでもない。「鷗外全集」に対する世間の需要は、かなり低いようだ。

 私は平成20年11月に、北九州市の古書店今井書店でこの第二刷が販売されているのを知り、購入した。全38巻で1万2千円だったと思う。

 事実上の「鷗外全集」の最終版を、鷗外に縁のある小倉に近い古書店から購入できたことを喜んだ。

 私は、高校1年生の時に旧「三島由紀夫全集」を読んでからの三島ファンだった。

 平成12年から刊行が始まった新潮社の「決定版三島由紀夫全集」も、ずっと購読してきた。これが平成18年に完結したので、次に何を読もうか探し始めた。

 三島由紀夫が鷗外の文体をやたらと称揚していたので、鷗外でも読んでみようと思い、自宅から歩いて行ける町の小さな書店で、新潮文庫の「ヰタ・セクスアリス」を買って読んでみた。

 簡潔でさっぱりした文章だとは思ったが、それほど面白いとは思わなかった。自己の性的閲歴を述べた小説としては、三島の「仮面の告白」の方がはるかに面白いと思った。

 小説の内容にはそれほど感心しなかったが、簡潔で短く、テンポのいい鷗外の文章が頭に残った。

 そこで、当時まだ書店に新刊で並んでいた、ちくま文庫版「森鷗外全集」を買って読んでみることにした。

ちくま文庫版「森鷗外全集」

 第1巻から買って読み進めると、言葉にはしにくいが、何とも味のある文章だと思った。何回も繰り返して読みたくなった。金銀宝石を鏤めた美術工芸品を観ても、こんな感覚は味わえない。

 例えば「追儺」という小説は、一読して鷗外が一体何を書きたいのかよくわからないとぼけた小説(というか身辺雑記)であるが、何度読んでも尽きない不思議な味わいがある。明治時代に書かれたものなのに、現代の小説家でも、こんな下ろしたての畳のような瑞々しく斬新な文章が書けるだろうか、と思わせる新しさもあった。

 とりあえず、ちくま文庫版「森鷗外全集」を全部集めようと思った。

 ちくま文庫版「森鷗外全集」は、平成7年(1995年)6月から平成8年(1996年)8月まで刊行された全14巻の文庫版全集である。

 昭和34年に刊行された筑摩書房版「森鷗外全集」をベースにした注釈付き全集である。

 筑摩書房版「森鷗外全集」には収録されていなかった「ファウスト」と「独逸日記 小倉日記」が収録されている。

ちくま文庫版「ファウスト」

 この2つが注釈付きで読めるのは、このちくま文庫版だけなので、実に貴重な書籍と言わなければならない。

 また、鷗外と同じく津和野出身の画家安野光雅の挿絵が全巻の表紙を飾っている。これが瀟洒でいい。

 注釈も、巻末に纏められているのではなく、ページの左隅に載せられている。注釈を読むためにいちいちページを捲らなくてもいい。

 私がこのちくま文庫版「森鷗外全集」を買い始めた平成18~19年には、既に第7、8巻「伊澤蘭軒」、第9巻「北條霞亭」は絶版になっていた。私は後に、今は廃業されている神戸元町の海文堂書店の2階の古書波止場でこれらの巻を見つけて購入した。

 鷗外史伝が、文庫本で、しかも注釈付きで読めるというのは、贅沢な話である。

 私は、このちくま文庫版「森鷗外全集」を、勝手に「究極の暇つぶし本」と呼んでいる。これがあれば、無限の時を過ごせそうだからだ。

 今では、このちくま文庫版も第1巻を除いて全て絶版になっている。全14巻揃いの古書価が、第三次「鷗外全集」第二刷よりも高い。確かにこちらの方が需要がありそうだ。

 ちくま文庫版「森鷗外全集」には、「諸国物語」が入っていないが、これは別に平成3年(1991年)12月にちくま文庫から上下巻が出ている。

ちくま文庫版「諸国物語」

 これを買ってちくま文庫版「森鷗外全集」と揃えておけば、もう言うことはない。

 さて私は、ちくま文庫版「森鷗外全集」を読んでみて、いよいよ文庫版全集にも載っていない鷗外が書いたもの全てを読みたくなった。

 こうして平成20年に購入したのが、第三次「鷗外全集」第二刷であった。

 ところが注釈のない全集を読み進めてみると、史伝篇に至って、読むのが困難になってきた。当時はまだ注釈付きのちくま文庫版を全部買い揃えていなかった

 そこで購入したのが、本文脇に語注が付き、巻末に人名注、書名注が付いた岩波書店版「鷗外歴史文学集」全13巻であった。

岩波書店版「鷗外歴史文学集」

 「鷗外歴史文学集」は、平成11年(1999年)11月から平成14年(2002年)3月まで刊行された。

 鷗外の歴史小説、史伝、漢詩を集成し、国文学、中国文学、日本史の研究者が共同で注釈を付した選集である。

 鷗外文学のなかでも、歴史小説と史伝は、文句なく我が国の文学史に残る古典としての地位を既に確立している。だが、注釈なしでそれらの著作を読むことは、一般の読者には困難である。

 「鷗外歴史文学集」では、それら歴史小説、史伝に最新の研究結果を踏まえた注釈を付けた。

 更に付録として、鷗外が歴史小説を書く際に参考とした史料を活字化して載せている。

「鷗外歴史文学集」

 筑摩書房版やちくま文庫版の全集に入っていなかった「西周伝」や「能久親王事蹟」といった初期の史伝も、この「鷗外歴史文学集」で初めて注釈付きで読めるようになった。

 また、第12、13巻に鷗外作の漢詩二百三十三首を集成し、読み下し文や現代語訳を付けた。

 鷗外の漢詩は、「鷗外全集」では白文のまま載っていて、もちろん注釈もなかった。また、第三次「鷗外全集」第二刷刊行後も、多数の鷗外漢詩が発見された。

 「鷗外歴史文学集」では、それら全集未収録の漢詩も載せている。

「鷗外歴史文学集」内容見本

 今では、鷗外研究のためには、第三次「鷗外全集」と並んで、この「鷗外歴史文学集」は必須文献である。

 鷗外愛好家からすれば、「まさにこれを待っていた!」と快哉を叫びたくなるような選集なのである。

 私も、鷗外の歴史ものを家で読むときは、全集を読みながら、「歴史文学集」を横に置き、分らないところは「歴史文学集」の注を参照している。

 「鷗外歴史文学集」には、各巻に月報が付いている。

「鷗外歴史文学集」月報

 月報の著者達は、もちろん鷗外没後に生まれた世代である。

 平成10年に小説「日蝕」でデビューした平野啓一郎氏の文も載っている。

 平野氏も鷗外の文学に親しんでおられるようだ。デビューした頃は、新潮社が平野氏を「三島由紀夫の再来」というキャッチコピーで売り出していたが、「日蝕」の文章などは、三島由紀夫というよりも鷗外の影響の方が色濃く出ていると思う。

 さて、平成24年(2012年)は、鷗外生誕150周年の年であった。

 この年に、鷗外旧居跡地に文京区立森鷗外記念館が開館した。

 私は、生誕150年を機に、岩波書店が第四次「鷗外全集」、もしくは第三次「鷗外全集」第三刷を出してくれるのではないかと期待したが、出版されたのは、「鷗外歴史文学集」に収録されたもの以外の鷗外創作を集成した「鷗外近代小説集」であった。

 「鷗外近代小説集」全6巻は、平成24年(2012年)10月から平成25年(2013年)3月にかけて刊行された。

岩波書店版「鷗外近代小説集」

 「鷗外近代小説集」には、鷗外自身が生きていた時代を題材にした小説が収められているが、鷗外が生きた時代も、今からすれば十分歴史時代と言ってよい。

 かの名作「雁」も、明治13年(1880年)の東京が舞台である。石川淳は、「雁」のことを「児戯に類する」と書き、史伝を称揚したが、私からすれば、「雁」は本当にいい小説で、いい日本語の文章とは、鷗外の「雁」の文章を指すのだと言いたい。ある時代の日本女性のいじらしい姿が、余すことなくここに描かれている。

岩波書店版「鷗外近代小説集」

 この「鷗外近代小説集」と「鷗外歴史文学集」で、鷗外文学の創作は全て注釈付きで読めるようになった。

 岩波書店は、これで鷗外に関するアンソロジーは完結したと考えているのだろうか。

 令和4年(2022年)は鷗外没後100年だった。

 私は、新しい「鷗外全集」はもう出ないものと諦めていたが、没後100年を機に、鷗外の翻訳文学を注釈付きで集大成した「鷗外翻訳文学集」でも岩波書店が出してくれないものかと期待した。

 だがこれも期待外れだった。

 岩波書店は、過去の鷗外作品の岩波文庫を再刊したり、鷗外論の新著を少し出しただけで、没後100年を通り過ぎてしまった。

鷗外没後百年記念企画のチラシ

 鷗外生誕200年は2062年で、私が生きていたとしても89歳である。没後150年の2072年には99歳である。そんな年に、新たな鷗外のアンソロジーが出るのを期待するべきだろうか。

 その年までとても自分が生きていようとは思えないし、生きていたとしても読書する気力はなくなっているかも知れない。

 もう新しい鷗外のアンソロジーが出るのは諦め、今まで買い揃えたものを読んで楽しもうと考えている。

「鷗外全集」の歴史 その五

 鷗外の五十回忌の年に当たる昭和46年(1971年)に、岩波書店は、第三次「鷗外全集」の刊行を発表する。

 第三次「鷗外全集」は、昭和46年(1971年)11月から昭和50年(1975年)6月まで刊行された。全38巻。

 岩波書店が刊行した最後の「鷗外全集」である。 日本各地の図書館に置いてある「鷗外全集」は、ほとんどがこの第三次全集である。

 昭和61年(1986年)に第三次「鷗外全集」の第二刷が刊行されたが、書簡と雑纂に追加があっただけで、内容に大きな変動はない。

岩波書店版第三次「鷗外全集」内容見本

 私が平成20年11月に購入したのは、この第二刷である。

 この第三次全集の特色は、全体を「小説・戯曲・史伝」「詩歌」「考証」「審美論」「評論・随筆」「海外文芸評論」「海外通信」「医事」「日記」「書簡」「雑纂」に分類し、それぞれの分類の中で、創作、翻訳の別なく編年体で著作を並べたことである。

 鷗外の翻訳が、創作と同じ価値を有するということを、岩波書店も認めたのだろう。

 鷗外の著作の大半は、既に第二次全集で網羅されていた。第三次全集では、その後新たに発見された医事論文や書簡が収められた。

第三次「鷗外全集」

 鷗外のテキストで、旧漢字歴史的仮名遣いで出版されたのは、この第三次「鷗外全集」が最後である。

 岩波書店はこの後、「鷗外選集」「鷗外歴史文学集」「鷗外近代小説集」という選集を刊行した。これらのテキストでは、歴史的仮名遣いは墨守されたものの、漢字は新漢字に直された。

 鷗外を読む場合、やはり旧漢字歴史的仮名遣いのテキストで読まなければならない気がする。

第三次「鷗外全集」第一巻外箱 翻訳作品の間に創作「舞姫」が並ぶ

 私が、注釈付きではるかに読みやすい鷗外の文庫本や選集を入手しても、全集で鷗外を読みたくなるのは、旧漢字の持つ雰囲気のためである。

 今後、第四次「鷗外全集」が発刊されることはないだろうと諦めているが、もし発刊されたとしても、新漢字のテキストになるだろう。

 既に「漱石全集」も「谷崎潤一郎全集」も「三島由紀夫全集」も、新しいものは、新漢字歴史的仮名遣いのテキストになっている。「鷗外全集」と言えども、時代の流れに逆らうことは出来ないだろう。

 第三次全集の月報を読むと、石川淳や小堀桂一郎氏が記事を連載している。

月報

 石川淳は、少年時代に鷗外に傾倒して小説家を志した。彼が戦中の昭和16年(1941年)に発表した鷗外論「森鷗外」は、鷗外の史伝評価に新機軸を打ち出した名著である。

 私が今まで読んだ鷗外論の中でも、石川淳のものが一番良かったと思っている。

石川淳著「森鷗外」(岩波文庫版)

 長いので引用しないが、当時旧制中学の学生だった石川淳が、大正4年(1915年)の年末に、市電(当時東京市内を走っていた路面電車)の中で、軍服を着て出勤中の鷗外が座席に座りながら本を読んでいるのをたまたま見かけて、ひたすらその横顔に見とれたという記述が印象深かった。

 これほど人間離れした学識の持ち主が、電車に座って通勤する普通の人間としてこの世に存在していたというのが、不思議である。

 小堀桂一郎氏は、昭和43年(1968年)に「若き日の森鷗外」を発表した、当時新進気鋭の鷗外論者であった。

 さて、昭和53年(1978年)11月から昭和55年(1980年)7月までの間には、石川淳の編集で、岩波書店から「鷗外選集」全21巻が刊行された。各巻解説は小堀桂一郎氏である。

岩波書店版「鷗外選集」

 石川淳が選んだ鷗外の著作が、新書サイズの手軽な叢書として出た形だ。

 菊版の全集を読むのは骨が折れるし、屋外に持って出るには嵩張る。私も、外出するときに、今日は外出先で暇を潰す必要があるなと思うときは、この「鷗外選集」を携帯して出ることにしている。

 スマートフォンを触るより遥かに濃密な時間を過ごすことが出来る。

 選集には、史伝を含む鷗外の創作のほぼ全部と、代表的な翻訳小説と翻訳戯曲、評論・随筆、日記が収められている。

 「即興詩人」と「ファウスト」は入っていないが、まずまずファンを満足させるチョイスである。

 編者の石川淳は、内容見本に「編者のことば」として、

各冊これを取れば手中に軽く、読者日常に携へて親しむによく、また案上(案とは机のこと)に備へて学ぶによし。けだし講究に資するところあつて普及に便なるものなり。天下の一楽永く尽きざらんとす。

と、昭和53年にしては時代錯誤な言い回しで文を綴っている。戦前戦中戦後と、時代に囚われずに自分の書きたいものを書いた石川淳の面目躍如たるものがある。

 この「鷗外選集」は、確かに鷗外をいついかなる場所でも読めるという「天下の一楽」を味わわせてくれる。

岩波書店版「鷗外選集」内容見本

 岩波書店は、「鷗外選集」と同時期に、新書版の「漱石全集」刊行した。

 「鷗外選集」内容見本の裏には、「鷗外・漱石を若い人へ!」と書いている。新書版の安価な選集や全集なら、若者も読みやすいだろうという期待が込められているようだが、この言葉自体に今との時代差を感じる。

 昭和時代の大学生などの若者の間には、面白くなくとも、明治大正期の小説を一応「教養」として読んでおかなければならないという、一種の強迫観念がまだ残っていたと思われる。読んでいないと同級生から馬鹿にされる、ということもあったと思われる。

 ところが現代の若者には、文学作品を読むという選択肢が、そもそもないのではないか。

 現代の若者には、コスパ、タイパで物事を判断する者が多い。時間をかけて文学作品を読んでも、友人に自慢するようなステイタスにもならないし、周囲からは、文学好きはむしろ暗くてオタクという判断を下される。

 それは時代の変化だから仕方がない。

 文学作品を読むことは、別に人に自慢すべきことでもないし、読んだからと言ってその人の価値が上がるものでもない。あくまで自分の趣味心を満たすために読むものであって、感動するところがあれば人と語り合えばよいだけのものである。

 あくまで一個人の意見として書かせてもらうと、他の文学者の作品はいざ知らず、鷗外の書いたものを読むという「天下の一楽」を深く味わえば、人生が今までと違ったものになることは間違いないのである。

「鷗外全集」の歴史 その四

 鷗外は、陸軍第十二師団軍医部長として、明治32年(1899年)6月から明治35年(1902年)3月までの間を、九州小倉の地で過ごした。

 その間、鷗外が「小倉日記」と呼ばれる日記を書いていたことは、鷗外没後間もないころから知られていた。

 ところが、この「小倉日記」は、長い間所在不明であって、鷗外没後に3回編纂された「鷗外全集」には収録されなかった。

 昭和26年(1951年)2月、鷗外の長子於菟が、自宅にて、疎開先から回収した荷物の中にあった「小倉日記」の原本を発見した。

 ずっと於菟の身近にあったものを、つい見落としていたらしい。

 この「小倉日記」が見つかったのと同年の昭和26年(1951年)6月から、岩波書店は第二次「鷗外全集」の刊行を開始した。

岩波書店版第二次「鷗外全集」著作篇内容見本

 著作篇全33巻、翻訳篇全18巻、別巻2巻、全部で53巻という大部であった。

 この「小倉日記」に関しては、松本清張の小説、「或る『小倉日記』伝」に触れないわけにはいかない。

 清張が芥川賞を受賞した作品である「或る『小倉日記』伝」は、小倉に生まれ育ち、片足が麻痺する神経系の障害を負いながら、小倉時代の鷗外の足跡を訪ね歩いて調査することに生涯を賭けた田上耕作のことを小説にしたものである。

 耕作は、まだ「小倉日記」が発見されていない時代に、小倉時代の鷗外と親交があった人物の元や、鷗外が訪問した場所に赴いて、聞き取り調査を行い、失われた「小倉日記」を復元しようとする。

 しかし、耕作が訪問した人の中には、障害者の耕作を蔑視し、軽く扱う心ない者もいた。耕作は、自分がやっていることに果たして意味があるのかと、時に疑問を抱きながら調査を続ける。やがて戦後の食糧難から耕作の障害は悪化し、体は衰弱していく。

岩波書店版第二次「鷗外全集」翻訳篇内容見本

 昭和25年12月、耕作は、調査の結果積みあがった資料を発表することなく息を引き取った。

 於菟の自宅で「小倉日記」が見つかったのは、その2か月後であった。

 耕作が「小倉日記」の発見前に息を引き取ったのは、幸か不幸か分らない、小説はそう結ばれる。

 田上耕作は、清張の小説で脚色されているが、実在の人物だったらしい。

 私は、もし耕作が、「小倉日記」が見つかるまで生きていたら、きっと「小倉日記」の発見を喜んだことだろうと思う。鷗外愛好家なら、必ず喜ぶ筈だからである。

 耕作の調査は決して無意味ではなかった。小倉時代の鷗外に接した人々の証言は、「小倉日記」の有無にかかわらず、鷗外についての同時代の貴重な証言たり得たからである。

 私はむしろ、田上耕作の調査結果が陽の目を見なかったことを残念に思う。

 「小倉日記」だけでなく、前回の記事で触れた「半日」も、この全集から収録された。鷗外の全貌は、この第二次全集でほぼ明らかになったと言えるだろう。

 私は第二次「鷗外全集」の実物は目にしたことがない。

 しかし月報は、またもや「日本の古本屋」のサイトを通して入手した。

第二次「鷗外全集」月報集

 月報第1号に載った「旧全集編集の頃」を読むと、最初の「鷗外全集」の編纂者の多くが、昭和26年には物故者になっていたことが分かった。

 月報第2号に載った宇野浩二の「鷗外の小説 ー最高級の小説ー」という文には、啓発されるところが多い。

 宇野は、文の最後に、鷗外の古今無比と言ってよい大著述、「澁江抽齋」「伊澤蘭軒」「北條霞亭」の史伝三部作の中で、強いて言えば「北條霞亭」を取ると書いた後、

数年前に、尾崎秀実といふ人が、極刑に処せられて、獄中にゐる時、その家族に注文した本のなかに、この「北條霞亭」があつたので、私は、正宗白鳥と、その事について語りあつた時、「『北條霞亭』を読むといふことだけで、この人は、文学の観照奥の院にはひつた、といふべきですね」と、いつた事である。さうして、白鳥先生も私の言葉にうなづいたことであつた。

と書いた。

 尾崎秀実は、例のゾルゲ事件昭和16年(1941年)にソ連のスパイとして検挙され、昭和19年(1944年)に死刑となった人物である。

 尾崎は、ソ連を守るために日本の政界の中枢にまで食い込んだ、骨の髄までの共産主義者であったが、そんな人物が、獄中でなぜ鷗外の「北條霞亭」を読もうとしたのかは分からない。

 私は、史伝三部作の中では「伊澤蘭軒」が最も好きで、霞亭の書簡がひたすら羅列されているだけのように見える「北條霞亭」の面白みがまだ分からない。まだまだ私は「文学の観照奥の院」には遠いということだろう。

 第二次「鷗外全集」は、昭和31年(1956年)2月に完結した。

 ところで、今までの「鷗外全集」には、作中の人名や用語などを解説した注釈が付いていなかった。鷗外著作の中で、特に史伝などは、漢詩が白文のまま出てきたり、一般にあまり馴染みのない江戸時代の学者や漢詩人の名前がずらずらと出てくる。普通の読者であれば、注釈がなければ読むのが困難である。

 私も注釈なしの「鷗外全集」を読み始めたが、「伊澤蘭軒」に及んで、これは読めないと一度さじを投げた。その後、注釈のある「鷗外歴史文学集」を入手してようやく読み通すことが出来た。

 昭和34年(1959年)3月から昭和37年(1962年)4月までの間に刊行された、筑摩書房版「森鷗外全集」全8巻は、初めての注釈を備えた「全集」となった。

筑摩書房版「森鷗外全集」(写真は昭和40年刊行の新装注解版)

 筑摩書房版「森鷗外全集」は、「全集」と銘打っているが、第1巻から第6巻までが小説、史伝で、第7巻が評論、随筆、詩歌、第8巻が翻訳であり、鷗外の著作の一部が集められたに過ぎない。

 注釈は巻末に纏められていて、かなり小さな字でびっしりと印刷されている。老眼の私などは、注釈を読むたびに苦労するが、それでも、鷗外のほぼ全部の創作、中でも史伝を注釈付きで読むことが出来るようになったのは画期的である。史伝の漢詩の脇には、読み下し文のルビが付いている。これがあれば、辞書に頼らずに鷗外を読むことが出来る。

筑摩書房版「森鷗外全集」内容見本

筑摩書房版「森鷗外全集」月報

 この筑摩書房版「森鷗外全集」の後にも、注釈付きの鷗外の選集が出たが、いずれもこの筑摩書房版の注釈をベースにして発展させている。この筑摩書房版全集は、鷗外研究に一つの画期をもたらしたと言えるだろう。

 「論語」や「孟子」などの古典に注釈が付いたように、鷗外の著作に注釈が付いたということは、この時代に鷗外は近代の古典と目されるようになったと思われる。

 昭和30年代には、鷗外はもう「昔の偉い作家」の仲間入りをしていたわけだ。

 その作家と同時代を生きた人が物故者となると、その作家は作品のみで評価されるようになる。この時代には、鷗外と同時代を生きた人はほとんどいなくなっていた。

 銘木で作られた黒光りする大黒柱のように、時を経て、鷗外の文の立派さが浮き上がってきたと見るべきだろう。

「鷗外全集」の歴史 その三

 鷗外全集刊行会版「鷗外全集」普及版が完結した昭和6年(1931年)11月には、日本から遠く離れた満州の地で、関東軍満州全域の制圧に向けて進撃を続けていた。

 昭和11年(1936年)2月26日には、帝都で二・二六事件が発生し、その後、軍部による政治への容喙が進んだ。

 時代は、「非常時」に向かっていた。

 そんな昭和11年の6月に、岩波書店から「鷗外全集」の刊行が開始された。

 岩波書店は、大正2年(1913年)に創業された古書店で、大正3年(1914年)に漱石の「こゝろ」を出版して、出版業に進出、漱石没後の大正7年(1918年)に最初の「漱石全集」を刊行した。

 生前の鷗外と岩波書店とのつきあいは、ほとんどなかったが、当時既に漱石と並ぶ文豪と目されていた鷗外の全集を、「漱石全集」を出した出版社として出したかったのだろう。

岩波書店版第一次「鷗外全集」著作篇内容見本

 この後、今に至るまで「鷗外全集」を出版し続けたのは岩波書店だけである。

 岩波書店は、昭和時代に全部で三回「鷗外全集」を刊行している。昭和11年(1936年)に刊行が開始された「鷗外全集」は、第一次「鷗外全集」と呼ばれている。

 第一次「鷗外全集」で初めて収録されたのは、先ず鷗外の日記、書簡である。若き日のドイツ留学時代の日記「独逸日記」や、晩年の簡潔な漢文体の日記「委蛇録」は、ここで初めて公開された。

 また、千通を超える鷗外の書簡が蒐集され、公開された。

 その他に、鷗外が帝室博物館(現在の東京、京都、奈良の国立博物館)総長だった時代に執筆した、博物館に収蔵されている蔵書とその著者を解説した「博物館書目解題」「博物館蔵書著者略伝」も収録された。どうやら鷗外は、帝室博物館に収蔵されていた全蔵書に目を通したようだ。

 鷗外は、ヨーロッパの書店と契約を結び、当時最新の書籍、雑誌、新聞を船便で欧州から取り寄せていたが、第一次世界大戦前後の数年間に及ぶ欧州の新聞記事を抜粋して翻訳した「椋鳥通信」も、第一次全集に初めて収録された。

 この「椋鳥通信」は、新聞記事の翻訳なので、鷗外の創作ではないが、第一次世界大戦前後の欧州全域の文学、芸術、政治、大衆運動などの動向を網羅的に紹介した、他に類を見ない読み物である。おそらくヨーロッパにもこんな読み物はないだろう。

 「鷗外全集」著作篇の内容見本を読むと、当時30代の新進気鋭の小説家と目されていた川端康成の推薦文が収録されている。鷗外を語る人が、同時代の人から、次の世代の人に徐々に移っているのが分かる。

 さて、第一次「鷗外全集」は、著作篇全22巻が先に刊行されたが、昭和13年(1938年)7月から翻訳篇全13巻の刊行が開始された。この時には、既に中国大陸での戦争が始まっていた。

岩波書店版第一次「鷗外全集」翻訳篇内容見本

 生前の鷗外は、創作よりもヨーロッパの小説、戯曲の翻訳により多くの力を注いだ。  

 世間でも、小説家としてよりも翻訳家としての鷗外の評価の方が高かった。翻訳篇は、一般の読者の要望に応えて出たものである。

 明治時代の文学青年で、アンデルセン「即興詩人」の、浪漫的で清新な鷗外訳の影響を受けなかった者はいなかったと言ってよい。

 明治、大正、昭和初期の文壇の主流となったのは、作者自身の生活の苦労を赤裸々に書いた「自然主義」と言われる小説や、私小説だった。

 作者の生活と無関係な空想的な物語は、批評家から「真面目さが足りない」と言われ、「純文学」の正統にはなれなかった。

 鷗外が大正4年(1915年)に刊行した「諸国物語」は、ヨーロッパ諸国の小説家が発表した、綺譚とも言うべき幻怪な短編小説群を、鷗外がこなれた日本語に口語訳したもので、自然主義に飽き足りない思いを抱いていた読者に熱狂的に迎えられた。

 私も「諸国物語」中の「正体」や「刺絡」といった作品を読んで、何とも言えず不気味な、それでいて人を馬鹿にしたかのようなすっとぼけた味わいの鷗外訳が、他にない独特の日本語の世界を形成しているのに驚いた。

 この「諸国物語」の影響力は広範で、芥川龍之介谷崎潤一郎佐藤春夫などが大正時代に発表した怪異な小説は、多かれ少なかれこの翻訳小説集の影響を受けている。谷崎の探偵小説が江戸川乱歩に影響を与えたことを思えば、鷗外の「諸国物語」は、日本の怪奇小説の源流とも言うべきものである。

 私は鷗外の「水沫(みなわ)集」「即興詩人」「諸国物語」を、鷗外の三大翻訳と呼んでいるが(これに「ファウスト」を加えてもよい)、日本文学に与えた影響力では、鷗外の創作よりもこれらの翻訳の方が上である。

 日本語の歴史に残るべき鷗外の三大翻訳が、文庫化すらされていない日本の出版事情は、ちょっと残念な気がする。

 さて私は、第一次「鷗外全集」の実物を一度目にしたことがある。赤穂市立図書館の書庫に収蔵されていることをつきとめ、出向いて職員に書庫から出してきてもらった。

 第一次「鷗外全集」は、大きさは異なるものの、題字の字形も、表紙の黄土色の布の質感も、私が持っている第三次「鷗外全集」と同じであった。しかし、図書館の全集には月報は付いていなかった。

 私は、「日本の古本屋」のサイトで第一次「鷗外全集」の月報集を見つけて購入した。

第一次「鷗外全集」月報集

 月報は、「鷗外研究」という名前の冊子の形をとっていた。

 月報には、岩波書店版「鷗外全集」で、ようやく自分たちの目指した全集が出来たことに安堵したというような、鷗外全集刊行会「鷗外全集」の編纂者たちが寄せた投稿が載せられていた。

 翻訳篇は、昭和14年(1939年)10月に最後の巻が刊行され、全集は全巻完結した。戦前の鷗外著作の集大成は、まずこの第一次「鷗外全集」で完成したと言ってよい。

 ヨーロッパでは、この年の9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった。

 日本では、昭和12年(1937年)7月の盧溝橋事件発生をきっかけとして、中国との全面戦争が始まっていた。昭和13年(1938年)には国家総動員法が施行された。

 出版資材の欠乏と騰貴により、全集出版事業も困難をきたしたが、何とか完結した。

 第一次「鷗外全集」発刊直前の昭和11年(1936年)4月18日には、鷗外夫人の森しげが死去した。

 しげは、鷗外の母との間で、いわゆる嫁姑問題を起こし、間に挟まれた鷗外は非常に苦労した。

 鷗外は、しげの家庭内のヒステリーを「半日」という小説に書いて、明治42年に「スバル」に発表した。

 この作品は、しげの意向で、鷗外生前の単行本には収録されなかったし、鷗外没後の全集にも収録されなかった。第一次「鷗外全集」にも収録されていない。

 「半日」が日の目を見るのは、戦後のことになる。

 戦争が終わった後の、昭和24年(1949年)3月から昭和25年(1950年)6月までの間に、東京堂出版から全12巻の「鷗外選集」が出版された。

東京堂版「鷗外選集」

 東京堂版「鷗外選集」は、鷗外の著作の内、代表的な創作と、翻訳の一部、日記の一部を収録したものである。

 装丁は瀟洒で、手に取ると頗る軽い。

 米軍の空襲によって、日本の主要都市の大半は灰燼に帰した。図書館や個人宅の蔵書中の鷗外作品の多くが燃えてしまったようだ。 

 そんな中、時代を超えて普遍的な価値を持つ鷗外作品の出版が渇望された。

東京堂版「鷗外選集」内容見本

 内容見本に小泉信三が寄せた文章が、戦後間もないころの鷗外愛好家の気持ちを伝えて余すところがない。

鷗外全集を座右にして、時々取り出しては読むことは、私に取つては、長い年月刺激でもあり休息でもあつた。然るに空襲によつて、所蔵の全集を皆な失ひ、爾来数年鷗外なしで過ごして来たのは随分寂しい次第であつた。世に同感の人も尠くないことゝ思ふ。更にそこに新たに鷗外を知らんと欲する次の世代の成長がある。鷗外選集の企画は寧ろ晩かつたといへるであらう。

 戦後まもなく出たこの安価で軽量な東京堂版「鷗外選集」で鷗外を読んだ新世代は多い。

 三島由紀夫もその一人である。私は、「定本三島由紀夫書誌」にある三島の蔵書目録を調べて、三島が「鷗外全集」ではなく東京堂版の「鷗外選集」を所蔵していたことを知った。

 三島は昭和24年4月27日に「仮面の告白」を擱筆した後、「愛の渇き」を執筆し、昭和25年6月に発表した。

 この間三島が「鷗外選集」を購入して読んでいたと思うと、これらの作品に対する見方も少し変わってくる。

東京堂版「鷗外選集」月報

 三島は普段から鷗外崇拝を公言しており、20代後半からの彼の小説の文体には、鷗外の影響が色濃く見えている。

 私は、若い頃に三島を読んで、その影響で鷗外を読みだした。鷗外を読んでみると、私が三島に惹かれていたのは、三島の文体の中にある鷗外的なものだったことが分かった。

 戦争を境にして、日本人の政治的なものの考え方は180度変わった。

 戦前は、学校で教師が生徒に皇国史観を教え、新聞は軍隊と戦争を賛美していた。戦争が終わると、同じ人たちが急に民主主義と米国を賞賛し、平和主義を唱え始めた。

 これは日本人の節操のなさを表すと共に、現実に順応するしたたかさと逞しさを表している。

 鷗外は若い頃に、学問と芸術の自由を重んじる気風があったドイツの大学で学び、帰朝してからは、批評家として古い因習に縛られた日本の医学や文学の世界を盛んに批判した。

 その一方で、古くから日本人に馴染みのある儒教的な孝の道徳を終生大事にした。

 鷗外は、社会を発展させる先進的な考え方と、社会を安定させる伝統的なものの捉え方のバランスを取ることに生涯努めた。

 戦争と敗戦という激動の時代を挟んでも、鷗外文学の価値がいささかも変動しなかったのは、そのためであったろう。

「鷗外全集」の歴史 その二

 鷗外全集刊行会版「鷗外全集」は、昭和2年(1927年)10月に最終巻の第18巻を刊行して完結した。

 しかし、前回の記事でも書いたように、この18巻本には、巻数の制限と一巻毎のページ数の都合上、収録できなかった著作がいくつかあった。

 鷗外の著作を再編の上収録するため、昭和4年(1929年)6月から昭和6年(1931年)11月にかけて鴎外全集刊行会から刊行されたのが、「鷗外全集」普及版であった。

「鷗外全集」普及版(鷗出版提供)

 普及版は、全20巻の予定で刊行された。

 前回の全集に収録されなかった翻訳小説「みれん」や、アショカ王の事蹟を書いた「阿育王事蹟」、警句集の「智慧袋」「心頭語」なども、この全集で初めて収録された。

 面白いのは、鷗外が上官から文学に関するものを書くなと咎められ、九州小倉に異動させられた頃に、九州の地方紙に偽名で発表したものが、この全集から収録されたことである。昭和4年まで、世間では、これらの小倉時代の著作が鷗外のものだという認識がなかったのだろう。

 この普及版には、内容見本があり、初めて各巻に月報が付いた。

 「鷗外全集」普及版の内容見本は、古書市場でも時たま見かけることがある。私も一冊入手した。

「鷗外全集」普及版内容見本

 こういうものを購入するときに、改めて実感するのはネット社会の便利さである。

 私が若い頃は、目当ての古書を購入しようと思えば、各古書店が出している古書目録を入手して目を皿のようにして読むか、直接古書店に足を運んで書棚を虱潰しに見るしかなかった。

 今は「日本の古本屋」というサイトで、欲しい古書を検索すれば一発で出てくる。わざわざ店に足を運ばずともネットで注文して手に入れることが出来る。

 昔なら、こんな内容見本を入手するにも、交通費を使って全国の古書店を渡り歩く必要があった。

 内容見本の表紙にあるように、普及版は、一冊一円三十銭だったらしい。昭和元年(1926年)から昭和5年(1930年)にかけて、円本ブームというものが興った。改造社が1冊1円の「現代日本文学全集」を刊行したことがブームの始まりである。1円は当時の大卒初任給の約2%であったらしい。大卒初任給が約20万円の時代なら約4,000円である。1冊1円の全集本は、当時は廉価なものであった。それまでの全集本が、いかに高価だったかがこれで分かる。

 またこの時には、普及版の約3倍の値段の特装版の刊行も計画されていたらしい。

特装版に関する欄

 だが、この特装版の実物を目にした人は、鷗外研究家の中にもいないらしい。実際には出版されず、計画だけで終わったのだろう。

 今の時代には、文学全集を買って読む人など絶無に近いが、円本がブームとなった当時は、まだまだ広範な全集の読者層があったようだ。

 「鷗外全集」普及版も、この円本ブームに乗った企画だったのではないか。

 だが売れ行きはよくなかったらしい。昭和5年(1930年)7月の第10回刊行から、国民図書株式会社が鷗外全集刊行会から撤退した。

 鷗外は、漱石と比べて人気は低く、全集の売れ行きも漱石とは比較にならないほど悪い。

 そのため、「鷗外全集」はいつの時代も全巻予約購読という形で販売されている。書店での一冊ごとのばら売りはされていない。

 この普及版もそうであった。

「鷗外全集」申込はがき

 内容見本に、全巻一括購入の申込はがきが挟まれていた。昭和4年にこの内容見本を手にした人は、ついに「鷗外全集」を注文しなかったらしい。おかげで私は当時の申込書を目にすることが出来た。
 また、いつの時代も「鷗外全集」の企画の足を引っ張るのは、医事・軍事篇である。鷗外の全著作を集成するという全集の名目上、鷗外の著作に他ならない医事、軍事に関するものも収録しないわけにはいかない。

 ところが、世の鷗外愛好家と言えども、鷗外が書いた医学論文や、医学・衛生学に関する著作を読みたいという人はほとんどいない。

 そのため、普及版では、第18巻から第20巻までの医学篇を不用とする人は、それを除外して予約できるようにした。

「医学篇の選択自由」の欄

 だが、医学篇を選択した人があまりにも少なかったためか、結局医学篇の3巻は刊行されなかった。

 普及版は、第17巻で刊行が打ち切られた。

 私は、鷗外の全著作に目を通したいという意志から、岩波書店版第三次「鷗外全集」の医事・軍事篇のすべてに目を通した。

 流石にドイツ語で書かれた論文は読めなかったが、鷗外が日本語で書いた医学、衛生学に関する著作は、意味は分からぬまでも全部読んだ。

 鷗外が陸軍の米食中心の糧食行政を主導したおかげで、日露戦争で陸軍の兵に脚気で死ぬものが続出したという批判がある。

 海軍は、科学的な理由は分らぬが、米食よりパン食の方が脚気の発生を抑えられるという経験則を基に、パン食を進め、結果陸軍より脚気の発症を大幅に抑えることが出来た。

 その後、小麦に脚気抑制に効果的なビタミンBが含まれていたことが分かり、脚気の原因が究明された。鷗外が現役の軍医だった時代には、まだビタミンは発見されていなかった。

 鷗外が書いた医学や衛生学の著作は、まだビタミンの存在も分かっていない時代のものである。

 そんな時代の医学論文を読むことに、そもそも意味を認めがたい。その上、鷗外の医学・衛生学の著作は、文語文で書かれており、実験器具や外国語の用語にも漢字が当てられていて、とても読みにくい。

 これを読むことに意味があるとしたら、日本の医学の発展の歴史の一断面を見るということか、鷗外の書いたものは全て読みたい、という気持ちを満たすことにしかない。

 それでも、例えば陸軍の衛生学の教科書であった「衛生新編」は、全集本で2巻を占める分量があり、鷗外最大の著述である。鷗外研究において、これを無視することはできない。

 最後の「鷗外全集」が刊行されてから、もう50年以上経ったが、いまだに新しい全集の刊行が計画されないのは、医事・軍事篇のある限り、「鷗外全集」が商売として成り立たないからだろう。

 さて、この普及版からは、月報が各巻に付録としてつくようになった。

 私は、普及版の実物は目にしたことがないが、前回の記事で紹介した「鷗外全集刊行会版『鷗外全集』資料集」に、普及版の月報の写しが載っている。

「鷗外全集」普及版月報

 この月報第一号に載った、菊池寛の「鷗外氏の歴史小説」などは、一読して我が意を得たりと興奮した。

 鷗外さんの歴史小説は、その手法も題目も、あくまでもリアルである。決してウソを書かない。鷗外氏以後に出た歴史小説は、芥川氏のものにしろ、自分のものにしろ、虚構がある。が、鷗外氏にはそれがない。飽くまでも、理責めである。煉瓦を一枚宛畳みあげていったように理責めである。何処にもごまかしがない。アヤフヤがない。整然として、義理明白である。

 鷗外の歴史小説に全く虚構がないかと言えば、それは違うが、使った史料をそのままほとんど手を加えずに表に出すところがある。なぜ鷗外はそうしたのか。その作品に出てくる人の評価を自分でせずに、読者や後世にゆだねようとしたのか。どうもそういうことでもなさそうだ。

 鷗外の歴史小説には、史料に手を加えることが、その時代に生きた人に対する侮辱だと思っているかのような、過去に生きた人に対する尊重の姿勢がにじみ出ている。

 たとえば芥川龍之介の「羅生門」にしろ「地獄変」にしろ、歴史時代を題材とした彼の小説は、単にその時代に舞台を借りて、作品内で芥川の思想を述べているだけのものが大半である。

 思想を述べる芥川が近代人であるため、近代人の苦悩のようなものが歴史時代の人の口を通して語られる。舞台を現代に設定していないために、現代への批判にもなっていないし、平安時代の人が語るにはあまりに近代的な内容のことが、作中人物を通して語られていて、歴史ものとしても読めない。「上手に書いた寓話」の域を出ない。

 私は若い頃は芥川を才能ある人だと思っていたが、鷗外を読んだ後に芥川のものを読むと、自分の独りよがりの苦悩を、過去の時代を借りて語っているだけのように思えた。その作品からは、作品の舞台となる時代に生きた人々への敬意は微塵も感じられない。きつい言い方かも知れないが、この芥川の過去への態度が、そのまま芥川の最後にもつながっているような気がする。

 その芥川が書いた鷗外についての文が、普及版の月報第一号に載っている。「鷗外先生のこと」という短文だ。

 又夏目先生の御葬式の時、青山斎場の門前の天幕に、受付を勤めしことありしが、霜降の外套に中折帽をかぶりし人、わが前に名刺をさし出したり。その人の顔の立派なる事、神彩ありとも云ふべきか、滅多に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎とあり、おや、先生だつたかと思ひし時は、もう斎場へ入られし後なりき。

 芥川が感銘を受けた鷗外の表情は、鷗外の深い学識から来たものか、戦場での過酷な経験から来たものか、過去に生きた人々への敬意から来たものか分らぬが、尋常ならざるものだったことだろう。

「鷗外全集」の歴史 その一

 私が鷗外森林太郎を尊敬し、鷗外の全文業を集成した「鷗外全集」を敬重していることは、令和2年4月12日の当ブログの記事、「鷗外全集」に書いた。

 私が鷗外の何に惹かれているのかは、この記事にあらましを書いたので繰り返す必要はないと思っている。

 今回書きたいのは、鷗外の著作の内容ではなく、著作を伝えてきた媒体としての「鷗外全集」やその他の選集の類の歴史である。

 どんなものにも時間の経過とともに「歴史」と呼んでよい閲歴が生ずる。国家や民族だけでなく、書物にも場合によっては歴史と呼んでよい閲歴が生まれることがある。

 鷗外という、わが国の歴史に残る文人の全集なら猶更である。

 私は、今まで数種類の鷗外の全集や選集を買い集めただけでなく、内容見本や月報集なども購入してきた。

 今回は、それらの資料を基に鷗外のアンソロジーの歴史を振り返ってみたい。

 さて、鷗外が死去したのは、大正11年(1922年)7月9日である。今から103年前のことだ。

 鷗外は、漱石と異なって、弟子というものを作らなかった。しかし、生前の鷗外の周囲には、鷗外を敬愛する人々の集まりが自然と形成されていた。

 鷗外没後すぐに、鷗外の薫陶を受けた人たちが、鷗外の全著作を集成した全集を編纂することを計画した。

 編纂に当たったのは、賀古鶴所(鷗外の東大医学部時代からの年長の友人、陸軍軍医、日本の耳鼻咽喉科学を確立、有名な鷗外の遺書を筆記した)、平野萬里(歌人、鷗外の長子於菟の乳兄弟)、入澤達吉(医者、日本の内科学を確立)、小島政二郎(小説家、俳人)、永井荷風(小説家)、吉田増蔵(漢学者、宮内省図書寮で鷗外と元号を研究し、鷗外の「元号考」の後を継いで完成させた。昭和という元号を考案した)、小山内薫(劇作家)、与謝野寛(歌人)、山田孝雄(国文学者)、濱野知三郎(漢学者)、鈴木春浦(劇評家、鷗外の翻訳の口述筆記を担当した)の11名である。

 生前の鷗外の著作を出版していた国民図書株式会社、春陽堂、新潮社の三社が共同して鷗外全集刊行会を作り、先の編纂者たちの編纂による「鷗外全集」を刊行した。

鷗外全集刊行会版「鷗外全集」(文京区立森鷗外記念館提供)

 この最初の「鷗外全集」の第一回配本(第4巻)が刊行されたのは、大正12年(1923年)1月30日である。最終巻の第18巻が刊行されたのは、昭和2年(1927年)10月21日である。

 この全集には、内容見本もなく、月報もない。各巻の巻末に、編纂者たちが書いた編纂後記が収録されている。

 私はこの全集は入手していないし、実物を目にしたこともない。その代わり、鷗出版という出版社が出した「鷗外全集刊行会版『鷗外全集』資料集」という書物を入手した。

鷗外全集刊行会版「鷗外全集」資料集

 この資料集には、最初の「鷗外全集」の編纂後記の抜粋が収められている。これを読むと、最初の「鷗外全集」を出版するに際しての、編纂者たちの並々ならぬ苦労を知ることが出来る。

 文学者の著作全部を集大成するのは、それだけで大変な労力を要する。生前刊行された単行本だけでなく、雑誌や新聞に載った文章、生原稿なども収集し、各テキスト毎の字句の違いを校正して、全集に載せるべき決定稿を決めなければならない。

 「鷗外全集」には、文学に関するものだけでなく、軍医としての鷗外が発表した医学、衛生学関係の論文、著作も収められた。

 文学者に馴染みのない医学系の雑誌や陸軍内の文書の類からも著作が集められた。

 鷗外が死去したのが大正11年(1922年)7月で、最初の全集が刊行され始めたのが大正12年(1923年)1月である。ほとんど見切り発車で刊行が進められたと見てよい。

 第何巻にどんな著作を収めるか、編纂者たちで刊行前に話し合っていたようだが、刊行中に今まで世に知られていなかった著作が続々と見つかった。それを収録していく過程で、巻の内容が膨らみ、当初の予定を変更せざるを得なくなった。

 例えば鷗外の名訳で知られるシュニッツラー原作の長編翻訳小説「みれん」などは、第16巻に収録される予定だったが、他の翻訳小説を収録するため割愛されたようだ。

 何よりも、全集刊行中の大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が発生したことが、出版に多大な影響を与えたようだ。鷗外全集刊行会の印刷所と製版もこの震災で全焼し、各編纂者の自宅にも被害が及んだ。

 震災で刊行に遅れが生じただけではない。何よりも残念なのは、鷗外の作品の一つがこの時に失われたことである。

 第16巻の編纂後記にて小島政二郎が書いている。

 この巻は誠に不幸な巻である。この巻を出す順序になって、半以上校正が進んでいた時、丁度あの大地震にぶつかって、原稿を焼いてしまった。その中には、二度と手にはいらぬものがあった。それは、ヒルシュフェルドの「死する権利」である。これは先生の口訳を、彼の鈴木春浦が筆記したまま、どこへも発表されずにしまったものである。(中略)でも、これはごくの短編で、原稿紙で十枚そこそこのものであった。

 鷗外の書いたものを全て読みたいと思い、全集を通読した私にとって、「ごくの短編」であっても、この時燃えて消えてしまった鷗外の原稿があったというのは、返す返すも残念である。

 しかし、このことで鈴木春浦を責めることはできない。鈴木春浦は、全集のために最も劇しく奔走し、蒐集と筆写の労を取った人であった。

 震災に際しては、自宅から焼け出され、火災が収まるまで家族と共に墨田川の水中に立つこと7時間に及んだ。さらにこの時、彼の母親と弟一家は焼死した。

 震災後、鈴木はバラック小屋にて避難生活を送り、最初の「鷗外全集」が完結する前の昭和2年4月20日に病没した。

 鈴木は、鷗外がドイツ語で書かれた小説や戯曲を、辞書も見ずに、原文から日本語に「そら」ですらすら口約するのを筆記した人物で、生前の鷗外に可愛がられた。

 「諸国物語」の名訳も、鈴木が筆記したものである。鈴木は何とか鷗外の恩に報いたいという気持ちと、鷗外の著作に不朽の価値があるという信念を持っていたことだろう。

 関東大震災という災害を乗り越えて、最初の「鷗外全集」が刊行されたのは、何よりも生前の鷗外を知る人たちの、鷗外への敬慕の情の深かりしがためであったろう。

 鷗外の没後すぐに、不完全ではあれ、彼の著作が集大成されたことには、感謝するしかない。