岡山市 東山墓地 中編

 大西祝の墓から東側は、ちょっとした高台になっている。

 その高台の上にあるのが、池田長発(ながおき)の墓である。

f:id:sogensyooku:20210307151712j:plain

池田長発墓

f:id:sogensyooku:20210307152307j:plain

池田長発墓誌

 池田長発は、天保八年(1837年)に幕府直参旗本家の池田長休の四男として江戸にて出生した。

 長発は、備中国井原の領主池田長溥の養子となった。幕府直轄の学問所昌平黌(しょうへいこう)にて学び抜群の成績をおさめた。

 長発は、文久三年(1863年)には、満26歳で外国と交渉を行う外国奉行に抜擢される。

 当時の幕府は、横浜港を含む5港を開港していたが、国内で攘夷派が巻き返しつつあった。長発が外国奉行になって直ぐに、攘夷派浪士が横浜でフランス人士官を殺害する井土ヶ谷事件が起こった。

 幕府はフランスに謝罪すると共に、攘夷派の怒りを鎮めるために横浜港の鎖港を求めるため、パリに遣欧使節団を派遣した。その団長に長発が抜擢された。

 遣欧使節団は、途中エジプトに立ち寄り、ピラミッドを見学した。長発らは初めてピラミッドを見た日本人となった。

 さて、遣欧使節団はパリでフランスと交渉し謝罪と賠償を行ったが、結局横浜港閉鎖の条件は飲ませることが出来なかった。

 長発はヨーロッパ文明が圧倒的に進んでいることを実感して、日本に帰ってから、幕府に対しむしろ開国することを建白した。

 このため、長発は職を解かれ、蟄居を命ぜられた。

 しかし慶応三年(1867年)、長発は幕府から赦され、勝海舟と共に幕府海軍奉行に就任した。だが健康不良のため数か月で職を辞し、領地の井原にて隠棲した。

 長発は、明治12年(1879年)、井原にて没した。享年42。

 長発の墓の隣には、長発の妻蜂谷氏の墓石がある。南側には、長発の子孫の墓石が並んでいる。

f:id:sogensyooku:20210307155152j:plain

池田長春、長世墓

 池田長発は非常に優秀な人物だったろうが、このような人物がいても幕府の滅亡は防げなかった。

 攘夷すべしという世論を、幕府の力では抑えられなかったのである。

 今から考えれば、外国人に日本の土を踏ませないという攘夷の思想は、日本の発展を阻害する有害な思想としか考えられない。当時の幕閣の有識者もそれは分かっていたが、開国策を正面から実行すると井伊直弼のように暗殺されたりした。

 後世から見れば、どう考えても誤った思想であっても、その時代には世の中に大きな影響力を持つことがある。こういう事は、現代にも将来にも起こり得ることである。

 さて、次に手代木勝任(てしろぎかつとう)の墓を訪れた。勝任の墓は、東山斎場のすぐ西側の高台の上のブロック塀に囲まれた一角にある。

 手代木勝任は、文久九年(1826年)、会津に生まれた。

 勝任は、幕末の会津藩主で京都守護職となった松平容保重臣であった。京都奉行、京都所司代新選組を指揮し、京都を跋扈する攘夷派を取り締まった人物である。

f:id:sogensyooku:20210307161742j:plain

手代木勝任夫婦の墓

f:id:sogensyooku:20210307161825j:plain

f:id:sogensyooku:20210307162315j:plain

手代木勝任墓誌

 会津戦争では、会津若松城に立て籠もって官軍に抵抗した。会津若松城が陥落したとき、城から脱出して以後は東北諸藩の降伏交渉を行った。

 勝任は、戊辰戦争後、明治政府により蟄居を命ぜられたが、有為の人物だったのだろう、明治5年には赦され、明治政府に仕官することとなった。

 明治11年には岡山区長となり、明治37年、岡山にて没した。享年78。

 なお、勝任は死に臨んで、実弟京都見廻組隊長だった佐々木只三郎坂本龍馬を暗殺したと告白した。

 次に野村小三郎尚赫(しょうかく)の墓を訪れた。野村小三郎は、岡山藩士野村尚志の子として生まれた。

 小三郎の生年は不詳だが、おそらく嘉永七年(1855年)である。明治3年(1870年)、数え年16歳にして陸軍省兵学寮の留学生に抜擢され、フランスに留学し、軍事学を学んだ。

 しかし明治9年(1876年)、留学先のフランス・アメリーレバンにて22歳で病没した。

f:id:sogensyooku:20210307164512j:plain

野村尚赫墓

f:id:sogensyooku:20210307164613j:plain

 私は東山墓地を訪れる前に、ある程度目的の墓石の位置を知っておこうと、ネットで検索したが、この野村尚赫の墓を探すのに非常に苦労した方の記事を目にした。

 私も現地で発見するまで少し苦労したので、参考までに尚赫の墓の位置を書いておく。

 東山斎場の東側に、広い南北道がある。この南北道を北に向かって歩き始めると、すぐ右手に、南北道側に向いている野村尚赫の墓が見える。ただし尚赫の墓の手前に別の新しい墓があるので、少し分かりにくい。

 尚赫の墓の側には、父尚志の墓もある。

f:id:sogensyooku:20210307170158j:plain

野村尚志の墓

 尚赫の墓石の側面には、「明治九年六月二十六日於仏蘭西国卒享年二十有二」と彫られている。

f:id:sogensyooku:20210307164656j:plain

尚赫墓石側面の銘

 実は、尚赫の墓は、死没したフランス・アメリーレバンにもあるそうだ。尚赫がもし日本に帰ってきていたら、日本陸軍を支える人物になっていただろう。返す返すも残念である。

 尚赫の墓の隣には、阿井千賀之墓と刻まれた墓石がある。すぐ隣にあるので、尚赫と何らかの所縁のある人物なのだと思われるが、今のところ何人だか分かっていないそうだ。尚赫の母親の名でもないらしい。今となっては、もはや野村家の子孫もこの人が誰だったか知らないだろう。
 プルーストの「失われた時を求めて」ではないが、大いなる時の力は、あらゆるものを風化させていく。
 死んで100年もしたら、誰からも思い出されることもなくなる人生、生ある間は、せいぜい思い切り生きるべきではないかと思う。

岡山市 東山墓地 前編

 コロナ特措法に基づく兵庫県の緊急事態宣言が明けたので、久々に史跡巡りに出かけた。

 今日は岡山市最大の墓地である東山墓地に眠る3名の人物の墓を紹介する。

f:id:sogensyooku:20210306204330j:plain

東山墓地

 東山墓地は、岡山市街の東にある平井山の上に広がる。地名で言えば、岡山市中区平井1丁目になる。

 非常に広大な墓地で、見渡す限り墓ばかりである。

 ここには、幕末から近代にかけて、岡山が輩出した、或いは岡山で活躍した人たちが多く眠っている。

 私は山川出版社の「歴史散歩」シリーズを杖にして史跡巡りを続けているが、東山墓地に数ある墓の中でも、「岡山県の歴史散歩」に載っている墓を訪ねることにする。

 最初に訪ねたのは、上代淑(かじろよし)の墓である。

f:id:sogensyooku:20210306204811j:plain

上代淑墓(向かって右隣りが炭谷小梅の墓)

f:id:sogensyooku:20210306204900j:plain

 今まで史跡巡りをする中で、広い墓地の中を墓を捜し歩いて難儀したことがある。特に真夏の炎天下の墓地巡りは苦痛である。「歴史散歩」シリーズの文章だけを頼りに探しても、なかなか目当ての墓に辿り着けない。

 いつも決め手になるのは、やはりスマートフォンでの検索である。先人がネット上にアップした墓の写真の背景の山や木の形、背後に写っている建物の屋根の色や形と現地の風景を見比べながら、目当ての墓の位置を特定していく。

 そうやって苦労の果てに目当ての墓の前に立った時の達成感たるや、なかなかのものである。

 歴史上の偉人や著名人の墓参りをする人を掃苔家と言うが、最近では墓マイラーとも呼ばれている。

 私も、後続の墓マイラー達が目当ての墓を探しやすくするため、ヒントとなる写真と文章を残しておくことにする。

 東山墓地の中心には、東山斎場の建物が建っている。東山斎場の南側には駐車場があり、その駐車場の東側の細い道を南に下れば、上代淑の墓がある。

 上の写真の、上代淑の墓石の真後ろに写っている建物が、東山斎場である。

f:id:sogensyooku:20210306210011j:plain

上代淑墓の墓誌

 上代淑は、松山藩上代知新の娘として、愛媛県松山市にて明治4年(1871年)に出生した。

 父の上代知新が大阪で新島襄と出会い、洗礼を受けてキリスト教徒となった時、淑も洗礼を受けた。

 淑は、梅花女学校で教育を受けて教師となり、岡山市の山陽女学校に赴任した。

 淑は、生涯を同校での女子教育に捧げた。山陽高等女学校の校長を何と51年務め、岡山の女子教育に貢献した実績のため、岡山市名誉市民となった。昭和34年没。享年89。

 淑の墓の隣には、父親の知新の墓もある。上代家の墓石には、十字架が浮き彫りにされている。

f:id:sogensyooku:20210306211216j:plain

上代家の墓

 そういえば、この辺りの墓石には、十字架が刻まれているものが多い。岡山のキリスト教徒がこの一角に墓を多く建てたのだろうか。

 上代家の墓の東隣にあるのが、炭谷小梅の墓である。

f:id:sogensyooku:20210306211431j:plain

炭谷小梅の墓

 炭谷小梅は、嘉永三年(1850年)に岡山城下に生まれた。岡山県の教育・衛生の近代化に努めた中川横太郎の愛人となった。中川がキリスト教の布教に熱心だったので、その影響を受けて受洗した。

f:id:sogensyooku:20210306212129j:plain

炭谷小梅墓

f:id:sogensyooku:20210306212223j:plain

炭谷小梅の説明板

 炭谷小梅は、受洗後キリスト教の布教に努めたが、明治20年(1887年)に中川横太郎と離別し、石井十次の孤児院事業に協力した。
 石井十次については、丁度1年前の令和2年3月7日の当ブログ「岡山孤児院発祥地 安仁神社 紅岸寺跡」の記事で紹介した。岡山市孤児院を開設した医師である。

 炭谷小梅は、石井夫妻の孤児院事業を助け、「岡山孤児院の母」と呼ばれたという。大正9年没。享年69。この墓は岡山孤児院の有志が建てたが、いつ建てられた墓かは分からない。

f:id:sogensyooku:20210306212805j:plain

 炭谷小梅の墓は、長い間存在が忘れ去られていた。隣の上代淑の墓は、今でも山陽女子高等学校の生徒が清掃活動に訪れている。平成11年、上代淑の墓の掃除に訪れた女子生徒が、隣にある墓石が炭谷小梅の墓であることに気づいた。炭谷小梅の墓の「発見」である。 

 上代淑が没したのは、炭谷小梅から遅れること39年である。同じキリスト教徒で、子供の教育に携わった上代淑が、孤児の救済に尽くした炭谷小梅の墓の隣に眠ることを選んだのかも知れない。

 上代家の墓のすぐ南にあるのが、大西祝(はじめ)の墓である。

f:id:sogensyooku:20210306213902j:plain

大西家の墓

f:id:sogensyooku:20210306214008j:plain

大西祝の墓

f:id:sogensyooku:20210306214110j:plain

 大西祝は、元治元年(1864年)に岡山藩士木全正脩の息子として生まれ、母方の実家大西家に養子に入った。

 大西は、同志社英学校に入学し、新島襄の下で受洗し、キリスト教徒となった。明治22年(1889年)、帝国大学文科大学哲学科(現東京大学文学部)を首席で卒業し、東京専門学校(現早稲田大学)、東京高等師範学校(現筑波大学)で教鞭を取った。

 大西祝は、日本哲学の父と呼ばれた。明治33年没。享年36。京都帝国大学文科大学の設立のために奔走している途中であった。

 まあとんでもない才人だ。

 大西祝は、同じキリスト教徒である内村鑑三が不敬事件で第一高等学校の教職を追われた時、内村鑑三の味方に立った。

 内村が、第一高等学校の教育勅語奉読式の時に、勅語に書かれた明治天皇宸筆の御名に対し最敬礼をしなかったことが不敬とされた事件である。

 事の是非は別にして、当時は不敬を犯せば非難囂々となって職を辞さなければ収拾がつかなくなるような社会情勢であった。

 そんな世間一般の常識の中、非難された内村の味方に立った大西祝は、単なる才人というだけでなく、気骨のある人物だったのだろう。

 大西の墓石に文学博士と誇らかに刻まれているが、当時博士号を取るのは至難の業で、その分野の日本有数の権威でなければ取れなかった。

 森鷗外は医学博士、文学博士の両方を持っていて、それを名刺に態々刷らせている。

 ただし鷗外は、死別とともに生前の交際や権威は全て意味をなさなくなると分かっていたので、遺言により墓石には自分の名前以外は彫らせなかった。

f:id:sogensyooku:20210306215747j:plain

大西絹の墓

 大西祝の墓の隣には、妹の大西絹の墓がある。大西絹は、山陽女学校の舎監を務めた人である。上代淑とも縁のあった人物だ。

 今日紹介した3名の人物については、私自身今まで何も知らなかった。墓参りをきっかけに、調べてみて3名の事績を初めて知った。

 「歴史散歩」シリーズに載っている史跡は、興味のあるなしに関せず全て訪れるという当ブログの方針のおかげで、上代淑の父の名ではないが、新たに知ることが多い。

 今まで興味を持たなかった人物の墓を訪れるのも、新たな発見があっていいものだが、やはり自分が関心を持つ人物の墓に行ってみたい。

 私は掃苔家ではないが、いつか東京三鷹禅林寺にある、尊敬する森鷗外の墓は拝したいものである。

湊川隧道

 神戸市を代表する河川である現在の新湊川は、六甲山系の再度山麓から発した天王谷川と石井川が合流する菊水橋付近を始まりとし、そこから南西に流れ、会下山(えげやま)下の新湊川トンネルを通って神戸市長田区に至り、苅藻川に合流して大阪湾に流れている。

 明治34年までの湊川は、菊水橋から南に流れ、現在の新開地本通が通る場所を流れて、今川崎重工業神戸工場のある場所から大阪湾に注いでいた。

f:id:sogensyooku:20210303204420j:plain

湊川と新湊川湊川隧道のホームページより)

 旧湊川は、ひとたび大雨が降ると、六甲山から流れ出た土砂とともに氾濫を繰り返し、流域に大きな被害がもたらしていた。

 当時の湊川は、洪水の危険性が非常に高く、洪水から市街を守るため、両側に高さ8メートルの堤防を備えていた。

 上の図のように、明治時代には神戸市街のど真ん中に、高さ8メートルの堤防を有する旧湊川が流れていたのである。     

 神戸市の交通は、旧湊川のために東西に分断されていた。鉄道も神戸駅から西にはつながっていなかった。

 そのため、古くから、湊川の流路を変える土木工事を行う必要性が叫ばれていた。

 明治29年(1896年)に発生した旧湊川の洪水により、流域は大きな被害を受けた。そのため湊川付け替え工事の機運が高まり、ついに工事が開始された。

 明治34年(1901年)に付け替え工事は完成した。湊川は、上の図のとおり、菊水橋から西に流路を変え、会下山(えげやま)の下を通る湊川隧道内を流れ、苅藻川に合流してそのまま海に流れるようになった。

 旧湊川の河川跡と堤防は削平され、その上に新しい町が出来た。これが現在の新開地である。

 新開地は神戸と兵庫港の間に位置し、土地が広く、立地条件が良いため、映画館や劇場や芝居小屋などが軒を並べ、「西の浅草」と呼ばれて繁栄した。

 だが神戸大空襲によって新開地の街並みは焼失し、戦後は神戸の中心が新開地から三宮に移った。

 この湊川の付け替え工事の際に、会下山の下に掘削されたのが、近代土木技術を用いた日本最初の河川トンネル、湊川隧道である。

f:id:sogensyooku:20210303210321j:plain

湊川隧道吞口側(上流側)の坑門跡

f:id:sogensyooku:20210303210715j:plain

f:id:sogensyooku:20210303210751j:plain

 当初は会下山の南側の平地に新湊川を流すことが計画されていたが、洪水を恐れる地元住民の反対で計画変更し、会下山の下に隧道を掘って、そこに川を流すことになった。 

 湊川隧道の内部は、円形断面の煉瓦覆工であった。湊川隧道は、平成31年に国登録有形文化財に指定された。

 平成7年1月17日の阪神淡路大震災で、湊川隧道も内部に罅が入るなどの損害を被った。

 震災後、復興事業として、湊川隧道の2倍の断面積を有する新湊川トンネルが建設され、新湊川は新湊川トンネルの中を流れるようになった。

f:id:sogensyooku:20210303211531j:plain

湊川トンネル上流側坑門

 新湊川トンネルは、湊川隧道の北側に掘削された。しかし、新トンネルが出来てからも、明治時代の土木遺産である湊川隧道はそのまま残された。

 現在でも、湊川隧道内部は定期的に一般公開されている。湊川隧道上流側坑門から隧道内を覗くことができるが、坑門側はコンクリートで覆われていて、煉瓦は見えない。

f:id:sogensyooku:20210303211951j:plain

湊川隧道の上流側坑門内

 さらに奥に進めば、煉瓦で覆われた明治時代の坑道を見学することが出来る。

 昭和3年(1928年)に湊川隧道を上流側に延伸させることになり、元の上流側坑門は地中に埋まった。

 震災後の新湊川トンネル建設工事に際し、地中に埋まった旧上流側坑門は撤去されたが、坑門最上部に嵌め込まれていた要石は、現在の上流側坑門前に展示されることになった。

f:id:sogensyooku:20210303212243j:plain

旧上流側坑門の要石

f:id:sogensyooku:20210303212326j:plain

 要石は、明治期の湊川隧道を今に伝える石材である。

 さて、湊川隧道の下流側に行くと、下流側坑門がほぼ明治時代当時のままの姿で残っている。

f:id:sogensyooku:20210303212832j:plain

湊川隧道下流側坑門

f:id:sogensyooku:20210303212924j:plain

f:id:sogensyooku:20210303213005j:plain

 震災後に新しく作られた新湊川トンネルは、下流側坑門前で旧湊川隧道と合流している。下流側坑門のトンネル断面積は、旧湊川隧道時代よりも拡大されている。

 しかし、煉瓦と石で積まれた坑門の姿は、明治時代のままである。

 坑門には、「老子」から引用された「天長地久」の文字が刻まれた石が嵌められている。

f:id:sogensyooku:20210303213437j:plain

湊川隧道(新湊川トンネル)下流側坑門

f:id:sogensyooku:20210303213526j:plain

天長地久の文字

 天地の悠久の営みを畏れる気持ちを表している。

 私は長い間兵庫県に住んでいるが、まさか今ある新開地に、明治時代まで川が流れていたとは知らなかった。

 湊川付け替え工事にしても、兵庫運河掘削にしても、明治時代の神戸は都市改造を大胆に進めていた。

 神戸市は、戦後になっても、須磨区垂水区の山を削って出た土砂を用いて埋め立て工事を行い、ポートアイランド六甲アイランドなどの人工島を作り、山を削った場所にはニュータウンを作った。

 そんな神戸市の在り方の是非はともかくとして、都市の変化の歴史というものも、辿っていけば面白いものだと思われる。



 

柳原蛭子神社 福海寺

 能福寺から北西に向かって歩き、阪神高速道の高架を潜り、その先にある神戸市兵庫区西柳原町にある柳原蛭子神社を訪れた。

f:id:sogensyooku:20210301203553j:plain

柳原蛭子神社

 柳原蛭子神社は、地元では「柳原のえべっさん」と呼ばれている。えびす神は、七福神の一柱で、釣竿を持ち鯛を抱えた姿で有名である。

 七福神の神様は、ほとんどがインドや中国発祥の神様だが、えびす様は日本独自の神様で、記紀神話にも出てこない神である。

 いつしか記紀神話に出てくる蛭子(ひるこ)や事代主神と同一視されるようになった。

 えびす様は、漁業や商売繁盛の神として祀られている。現世利益を体現したような神様である。えべっさんにお参りする人は、堂々と「儲かりますように」と祈る。そこには金儲けに対する後ろめたさは微塵もない。

 柳原蛭子神社の創建の由来ははっきり分からないが、元禄時代にはここに鎮座していたらしい。昔、蛭子神を祀る西宮神社の神輿が海上を兵庫津まで渡御する儀式があったそうである。そのためか、この地にも蛭子神が勧請されたのだろう。

 私が参拝した1月11日は、丁度十日えびす大祭の最終日だった。コロナ特措法に基づく緊急事態宣言発令の直前で、さすがに例年より人出は少なかったが、それでも参拝者の熱気で境内は暖かかった。

f:id:sogensyooku:20210301205717j:plain

楽殿

 神楽殿には、鯛や鰤が奉納されていた。えびす様も見事な海の幸にさぞお喜びだろう。

f:id:sogensyooku:20210301205858j:plain

楽殿に奉納された魚

 十日えびす大祭は、3日に渡って行われる。1月9日は宵えびす、1月10日は本えびす、1月11日は残り福と呼ばれる。

 9日の宵えびすでは、淡路人形浄瑠璃の福神楽戎舞が奉納される。えびす様が酒を飲んで上機嫌になり、船に乗って沖に出て、鯛を釣ってめでたしめでたし、という舞だ。参拝客は家内安全商売繁盛を祈念して、えびす様から福をもらう。

f:id:sogensyooku:20210301210603j:plain

拝殿

 例年より少ないとは思うが、拝殿前には参拝客が行列を作っていた。商売人などは、特に気合を入れて参拝することだろう。

f:id:sogensyooku:20210301210745j:plain

本殿

 柳原蛭子神社の社殿も、神戸大空襲で焼失した。戦後社殿は復興されたが、老朽化したため、平成22年に新社殿に建て替えられた。えべっさんの社殿は、新しければ新しいほどいいような気がする。

 柳原蛭子神社の隣には、臨済宗の寺院、福海寺がある。

 柳原蛭子神社福海寺の間の道が、旧西国街道で、昔はここに兵庫の町の惣門である兵庫西惣門があった。

f:id:sogensyooku:20210301211832j:plain

兵庫西惣門跡

 上の写真の左側の道が旧西国街道で、ここが兵庫の町の入口だった。ここに江戸時代まで門が建っていたわけだ。

 柳原蛭子神社の敷地北側に、西国街道兵庫西惣門跡の石碑と、惣門の形を模した看板が建っている。

f:id:sogensyooku:20210301212042j:plain

兵庫西惣門跡

f:id:sogensyooku:20210301212135j:plain

 兵庫の町の東側の出入り口には、湊口惣門が建っていた。ここから南の街並みは、碁盤の目のように整然としている。

 柳原蛭子神社の東隣にある福海寺は、大黒天を祀る寺で、十日えびす大祭と同じ日に大黒祭を執り行う。

f:id:sogensyooku:20210301212741j:plain

福海寺

 大黒天は、ヒンズー教シヴァ神のことである。インドでヒンズー教に対抗する形で登場した密教が、シヴァ神密教の中に取り込んで仏法の守護神にした。シヴァ神は、マハーカーラと呼ばれた。マハーは「大」という意味で、カーラは「暗黒」という意味である。密教経典が漢語訳された時に、大黒天という呼び名が誕生した。

 元々の大黒天は、青黒い体で憤怒相をした怖い姿の神様だった。

 大黒天は密教と共に日本に伝来したが、いつしか出雲大社の祭神・大国主神と音が通じるので習合された。

 元々シヴァ神は破壊と豊穣の神だが、日本では国造りの神様・大国主神と習合されて豊穣の面だけが強調されるようになり、ついには米俵の上に乗り、打ち出の小槌を持って福袋を担いだ福々しい姿で表されるようになった。

f:id:sogensyooku:20210301214111j:plain

福海寺本堂

 福海寺本堂前にも、ちゃんと米俵が奉納されている。

 本堂に祀られる大黒天は、福々しい姿ではなく、黒い体に憤怒の面持ちをした姿であった。本来の大黒天の姿だったので、安心した。しかしよく見ると、米俵に乗って、金色の打ち出の小槌を持っている。

f:id:sogensyooku:20210301214327j:plain

大黒天像

 米俵に乗っているところからして、大黒天は日本では農業の神になったようだ。えべっさんが漁業の神なら、大黒さんは農業の神である。魚と米という、日本の食を支える二大産物の豊饒を齎す神様が、柳原には並んで祀られているということになる。

 ところで、福海寺の創建は、足利尊氏に関連している。

f:id:sogensyooku:20210301215413j:plain

太平記合戦図

 建武三年(1336年)、兵庫の地で南朝方の新田義貞軍に敗れて追われた足利尊氏は、福海寺の前身である針ヶ崎観音堂に避難して難を逃れた。

 その後尊氏は、九州に落ち延びて再起し、湊川の合戦で南朝方を破って室町幕府を成立させる。康永三年(1344年)、尊氏は、自分を守ってくれた針ヶ崎観音堂の地に福海寺を建立する。そして足利氏が昔から信仰する大黒天を祀ったという。

 また福海寺境内には、平清盛公遺愛の時雨の松の石碑がある。

f:id:sogensyooku:20210301220103j:plain

平清盛公遺愛時雨之松碑

 昔、福海寺から少し東に行った三川口町の辺りに、平清盛公が愛した時雨の松があった。時雨の松は、青葉から玉露を垂らし、霊験あらたかだったという。その松も神戸大空襲で燃えてしまい、明治35年福海寺住職によって時雨の松の傍に建てられた石碑だけが残った。

 この石碑は、今は福海寺境内に移され、ひっそりと境内に佇んでいる。

 福海寺の東隣には、臨済宗の寺院、福厳寺がある。

f:id:sogensyooku:20210301220623j:plain

福厳寺

f:id:sogensyooku:20210301220704j:plain

 福厳寺は、14世紀初めに仏燈国師が開いたとされ、元弘三年(1333年)に後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出し、京に向かう途中、赤松円心楠木正成と合流した場所とされている。

 後に北朝方と南朝方に分かれて争った2人の武将が、この時は鎌倉幕府討滅のために力を合わせていたわけだ。

 今日はえびす様と大黒様という、招福の神様を紹介した。人間が富や安定した生活を求めるのは、自然なことで決して悪いことではない。こうした人間の自然な欲と直結した神様は、これからも長い間信仰を集めるものと思われる。

宝積山能福寺 後編

 神戸の市街地にある寺院の伽藍で、戦前から残る木造建築は稀である。昭和20年の神戸大空襲により、木造の寺社建築はほとんど焼失してしまった。

 私が今まで訪れた神戸市街地の寺院の伽藍は、戦後に鉄筋コンクリートで再建されたものばかりである。

 これは神戸だけでなく、米軍の空襲を受けた日本の都市は全てそうだろう。

 もし京都が空襲を受けていたり、当初のアメリカの計画通り核兵器が投下されていたら、今の京都の文化財はなかっただろう。

 能福寺の本堂も、戦争で焼けてしまったが、戦後になって京都にある歴代皇族墓所の月輪御陵の拝殿が能福寺に下賜され、本堂として移築された。

f:id:sogensyooku:20210228204939j:plain

本堂

 能福寺本堂は、神戸市街の主要寺院では珍しい木造の本堂である。

 月輪御陵は、京都東山の泉涌寺の裏にある歴代天皇の御陵であるが、その拝殿として、月輪影殿が建っていた。

 月輪影殿は、九条公爵家が所有していたが、昭和28年に能福寺に特別に下賜された。

f:id:sogensyooku:20210228205757j:plain

月輪影殿(能福寺本堂)

f:id:sogensyooku:20210228205840j:plain

 確かに月輪御陵の唐門と能福寺本堂は雰囲気が似ている。扁額にも九条家の紋が入っている。

 なぜ能福寺がこのような特別扱いを受けたのか。それは、この寺が、京都青蓮院門跡の院家であったからだろう。

 青蓮院は京にある天台宗の寺院で、天台宗三門跡の一つである。門跡とは、代々皇族や摂家が出家して門主を務める寺院のことで、門主のことも門跡と呼ぶ。

 青蓮院は、中でも親王が門跡に就任する宮門跡の一つで、格式が高かった。

 門跡には、親王が幼年で就任することが多い。幼年の門跡に礼儀作法や学問、文芸を教授する役割を持ったのが、院家と呼ばれる師範役である。院家は朝廷公認の役職であった。

 能福寺は、明治時代になって院家制度が廃止されるまで、青蓮院門跡の院家職を務めた寺院であった。

f:id:sogensyooku:20210228211330j:plain

月輪影殿(能福寺本堂)

f:id:sogensyooku:20210228211415j:plain

 院家は、幕府とも公然と対応出来る立場で、門跡が空位の時は、門跡公式代理を務めた。

 能福寺は、江戸時代初期から二百数十年に渡って院家職を務めた寺院であり、京より西では唯一の院家職寺院であるらしい。

f:id:sogensyooku:20210228211752j:plain

本堂の屋根

f:id:sogensyooku:20210228211827j:plain

本堂の側面

 この本堂は、月輪御陵の拝殿として明治16年(1883年)に建造された。どことなく華麗な王朝文化の香りを伝える建物である。

 平成7年1月の阪神淡路大震災で大破したが、檀信徒が総力を結集して平成9年12月に修復工事が完了し、旧姿に復した。

f:id:sogensyooku:20210228212229j:plain

月輪拝殿説明板

 この本堂内には、昭和28年に播州(神戸市西区)の太山寺から請来された阿弥陀三尊像が祀られている。

f:id:sogensyooku:20210228212638j:plain

御本尊の説明板

 太山寺は、私が播磨の史跡巡りで最後に訪れた天台宗名刹だが、天台宗は旧院家である能福寺を戦災から復興させるため、昭和28年に本堂と本尊を揃えたのだろう。

 また、昨日紹介した兵庫大仏の台座の中には、永代祠堂があるが、その中心に国指定重要文化財の木造十一面観音立像が安置されている。

 この像は、ヒノキの一木造で、宝暦年間(1751~1764年)に近江国甲賀郡善水寺から和田神社に移されたもので、明治の神仏分離令により、能福寺が和田神社から譲り受けた。

 境内には、幕末の兵庫津の豪商、北風正造の顕彰碑がある。明治29年に建てられた石碑だ。

f:id:sogensyooku:20210228214359j:plain

北風正造の顕彰碑

 北風正造は、古代から続く兵庫の豪商北風家に婿養子に入った人物で、幕末には勤皇派を資金面で援助した。

 幕末に佐幕についた姫路藩と官軍が一触即発となった時、双方の仲介を行い、金十五万両と引き換えに、姫路城と姫路城下が戦火に曝されることを防いだ。

 明治に入ると、兵庫港の新川運河の開削発起人になり、湊川神社創建の建議を行い、現在のJR神戸駅の土地を無償提供するなどした。今の神戸の街を築いた偉人の一人である。

 北風正造顕彰碑の隣には、昨年2月9日の「播磨町 蓮花寺」の記事で紹介したジョセフ彦が書いた英文を刻んだ、ジョセフ・ヒコの英文碑がある。

f:id:sogensyooku:20210228215643j:plain

ジョセフ・ヒコの英文碑

f:id:sogensyooku:20210228215756j:plain

 ジョセフ彦は、嘉永三年(1850年)に仲間と船で漂流中に米船に救助され、アメリカに渡って英語を学び、日米修好通商条約締結時に、アメリカ側の通訳として来日した人物である。

 ジョセフ彦は、文久二年(1862年)以降は日本で過ごした。この石碑は、明治25年ころに、能福寺住職がジョセフ彦に頼んで、寺の縁起を英文で起草してもらったものを刻んだものである。

 神戸港にやってきた外国人が、能福寺の兵庫大仏を見に多数参拝するので、外国人向けの縁起を刻んだ石碑を建てたのだろう。

 伝教大師最澄の開基から、清盛の出家、平氏の滅亡と平清盛廟所の破却、院家職就任、兵庫大仏の建立と戦時の回収、空襲による伽藍焼失、戦後の復興、震災からの復興と、能福寺の歴史を駆け足で紹介したが、中軸にあるものはやはり最澄が教えた仏道への信仰だろう。

 文化にまで高まった信仰は、歴史の荒波を乗り越えて、後世に受け継がれていくのだろう。

宝積山能福寺 前編

 札場の辻跡から西に約150メートル歩いた先に、天台宗の寺院、宝積山能福寺がある。

 地名で言うと、神戸市兵庫区逆瀬川町となる。

f:id:sogensyooku:20210227183012j:plain

能福寺

 能福寺は、伝教大師最澄の開基とされている。延暦二十四年(805年)、最澄が唐からの帰路に大輪田泊に上陸した。住民は最澄を歓迎し、堂宇を建立して教化を請うた。最澄は自作の薬師如来像を堂に据えて寺院を開き、能福護国密寺と称した。

 平清盛は、仁安三年(1168年)、この能福寺で剃髪出家したという。その時の清盛の師は、円実法眼という僧であった。

f:id:sogensyooku:20210227193417j:plain

能福寺と兵庫大仏

 治承四年(1180年)、福原に移った平氏一門は、能福寺に帰依した。

 円実法眼の弟子となった清盛の甥の小川忠快法印が七堂伽藍を整備し、兵庫随一の勢力を誇る寺院となった。能福寺は、その威容から、八棟寺とも呼ばれた。

 養和元年(1181年)、清盛は京で病死した。寺伝によれば、清盛の遺体は荼毘に付され、遺骨は円実法眼により八棟寺に運ばれ、境内に埋葬されたという。

f:id:sogensyooku:20210227194221j:plain

平清盛墓所 八棟寺殿 平相国廟所

 しかし平氏滅亡後、八棟寺(能福寺)はことごとく破壊され、清盛の墓所も破壊されて所在が分からなくなった。

 弘安九年(1286年)、執権北条貞時平氏の栄枯盛衰を哀れみ、近くに清盛の供養塔を建てた。これが、今年2月17日の記事で紹介した清盛塚である。

 昭和55年、清盛公800回大遠忌を記念して、能福寺平清盛墓所平相国廟が再建された。

f:id:sogensyooku:20210227194929j:plain

平相国廟

 廟所中央には石造十三重塔が建つが、これが清盛の供養塔だ。

 その右側には、清盛の出家の師である円実法眼の供養塔である宝篋印塔が建つ。

f:id:sogensyooku:20210227195131j:plain

円実法眼供養塔

 この宝篋印塔は、鎌倉時代の作である。

 石造十三重塔の左隣にある九重塔は、小川忠快法印の供養塔とされている。

f:id:sogensyooku:20210227195525j:plain

九重塔

 この九重塔も鎌倉時代の作とされている。

 境内には、慶応四年(1868年)1月に発生した神戸事件の責任を取って自決した滝善三郎の供養塔が建っている。

f:id:sogensyooku:20210227195756j:plain

滝善三郎供養塔

 神戸事件が発生したのは、大政奉還後、明治新政府が樹立されたが、まだ戊辰戦争中だった慶応四年1月11日である。

 西宮の警備のため西国街道を東進していた備前藩兵の行列が、神戸三宮神社前に差し掛かったころ、行列をフランス水兵が横切ろうとした。

 これを無礼と見なした備前藩士滝善三郎が、フランス水兵に槍で突きかかり軽傷を負わせた。

 これが原因で、備前藩兵とフランス水兵との間で銃撃戦が発生した。備前藩は外国人居留地の予定地を見に来ていた各国公使をも水平射撃した。

 現場に居合わせたイギリス公使パークスは激怒した。居留地保護の名目で、神戸港沖に停泊していた米英仏艦隊から外国兵が上陸して備前藩兵を追い払い、神戸の中心地を占拠した。

f:id:sogensyooku:20210227201550j:plain

神戸事件の説明板

 外国は明治新政府に関係者の処罰と滝善三郎の処刑を求めた。

 当時の明治政府は、まだ攘夷を唱えていたが、流石に外国の圧力の前に非現実的な攘夷方針を撤回し、関係者の処罰の求めに応じることとなった。

 滝善三郎は事件の責任を負い、兵庫津の永福寺で、外国人代表立会の下、割腹自決した。

 神戸事件は、明治新政府が成立してから初めて経験した外交事件であり、朝廷が攘夷から外国和親に方向転換したきっかけとなった事件である。

 神戸市民は、責任を負って自決し、事件を解決に導いた滝善三郎を称えて永福寺に供養碑を建てた。昭和8年には、木製の供養碑に替えて現在の石造供養塔が建てられた。

 永福寺は昭和20年の神戸大空襲で焼失したが、残っていた滝善三郎供養塔が昭和44年に能福寺境内に移転された。

 滝善三郎は、江戸時代の武士の定めに従って行動し、自決した人だが、その昔ながらの行動が、新日本を開くきっかけになったのは興味深い。

 能福寺平氏滅亡後、暦応四年(1341年)に震災により全焼したが、慶長四年(1599年)に長盛法印により再建された。

 明治初年の神仏分離令により、仏教界は大きな打撃を受けたが、兵庫の豪商南条荘兵衛の発願により、明治24年(1891年)に能福寺に巨大な盧遮那大仏が建立された。兵庫大仏と呼ばれ、奈良、鎌倉の大仏と並んで日本三大仏と呼ばれた。

f:id:sogensyooku:20210227203314j:plain

胎蔵界大日如来像(兵庫大仏)

 兵庫一帯は、当時神戸第一の繁華街であり、兵庫大仏には参詣客も多く訪れ、香の絶える間もなかった。

 しかし昭和19年5月、大東亜戦争で資源不足に悩まされた日本政府が出した金属回収令により、巨大な兵庫大仏はハンマーで叩き壊されて回収されてしまった。

 地元市民は戦後も兵庫大仏の復活を望み続け、市内の有力企業の協賛を得て、遂に平成3年5月に2代目兵庫大仏である胎蔵界大日如来像が完成した。

f:id:sogensyooku:20210227204238j:plain

2代目兵庫大仏

 今の兵庫大仏は、仏師の西村公朝が監修したとされている。

 建てられて30年になるが、優しい表情をしたなかなか美しい仏像だ。

 最澄が日本帰国後初めて開いた寺院の法灯を守るかのように、優美な大仏が優しい眼差しを投げかけている。

来迎寺 札場の辻跡 岡方惣会所跡

 大輪田泊の石椋のすぐ北東に、浄土宗の寺院、来迎寺(築島寺)がある。

 地名で言うと、神戸市兵庫区島上町2丁目に建っている。島上町は、承安年間(1171~1175年)に、平清盛が造った人工島の経ヶ島の上に出来た町である。

 来迎寺は、元々はここから北西の三川口町の辺りにあったとされるが、いつしかこの地に移転したそうだ。

f:id:sogensyooku:20210225202635j:plain

来迎寺

 清盛は、北側を山に囲まれた天然の要害で、良港の大輪田泊のある現在の神戸市兵庫区周辺を気に入り、ここに皇居を移そうとしたが、結局は計画のみで終わった。

 清盛は、大輪田泊を拡張し、日宋貿易の拠点港にするため、人工島経ヶ島の築造工事に取り掛かった。

 経ヶ島の築造工事は、暴風雨によってなかなか進まなかった。陰陽博士に占わせると、「これは竜神の祟りである。30人の人柱と一切経を書いた石を沈めると工事は成就するだろう」と言われた。

 そこで清盛は生田の森に関所を設け、人柱にする人を捕え始めた。捕まった人やその家族は嘆き悲しんだ。

f:id:sogensyooku:20210225204408j:plain

来迎寺本堂

 清盛の小姓だった17歳の松王丸は、清盛に「人柱は罪が重いです。私一人を身代わりに沈めて下さい」と懇願した。松王丸は30人の人柱の身代わりに入水し、無事経ヶ島の工事が終わった。

 経ヶ島の名の由来は、一切経を書いた石を沈めたことから来ているとされている。

 天皇は松王丸の犠牲を悲しみ、その菩提を弔うため、来迎寺を建立したという。

f:id:sogensyooku:20210225204623j:plain

松王小児入海之碑と妓王妓女塔

 来迎寺境内には、松王丸の供養塔である、松王小児入海之碑と、清盛が寵愛した白拍子である妓王、妓女姉妹の供養塔がある。

f:id:sogensyooku:20210225204914j:plain

松王小児入海之碑

 この松王小児入海之碑が、松王丸が入水した当時に建てられたものかどうかは分からない。

 当ブログ今年1月28日の記事「大和島 絵島」の記事で、絵島の上に建つ宝篋印塔が松王丸の供養塔とされていることを紹介した。それが事実なら、明石海峡を挟んで、松王丸の供養塔が二つあることになる。

 松王小児入海之碑の隣には、妓王妓女塔がある。

f:id:sogensyooku:20210225205429j:plain

妓王妓女塔

f:id:sogensyooku:20210225205507j:plain

 妓王妓女姉妹は、平清盛が寵愛した白拍子である。

 白拍子とは、平安時代末期から鎌倉時代に流行した歌舞の一種で、男装の遊女や子供が、今様や朗詠を歌いながら舞った。白拍子を舞う舞妓も、いつしか白拍子と呼ばれるようになった。

 清盛の心が別の白拍子、仏御前に傾くに及び、妓王妓女は世の無常を嘆いて出家し、嵯峨野に庵を結んだ。今の妓王寺である。

 平氏滅亡後、妓王妓女は、兵庫の八棟寺(今の能福寺)に来て、平氏一門の菩提を弔ったという。

 世の移り変わりは早く、無情なものである。

 さて、来迎寺から西に約150メートルほど歩くと、札場の辻跡がある。

f:id:sogensyooku:20210225211059j:plain

札場の辻跡

 札場とは、幕府の布達などを高札に書いて掲示する高札場のことである。

 都と大宰府を結ぶ山陽道は、元々は今の神戸市街のある場所を直線状に通っていたが、鎌倉時代に兵庫津が発展するに従い、兵庫の町に立ち寄るために道がV字になった。

 江戸時代の西国街道は、この旧山陽道を踏襲している。

f:id:sogensyooku:20210225211851j:plain

札場の辻跡

f:id:sogensyooku:20210225211814j:plain

西国街道の図

 兵庫の町の北東の出入口は、湊口惣門と呼ばれ、北西の出入口は柳原惣門と呼ばれた。

 湊口惣門から南西に伸びる西国街道は、この札場の辻跡で直角に折れて、北西に向かう。

 現在も札場の辻跡の角で道は直角に曲がっている。

 上の写真の地図を見ても、JR神戸駅前を除けば、江戸時代に西国街道が通っていた場所に、今も道が通っているのが分かる。

f:id:sogensyooku:20210225212921j:plain

「大和田」「右 京」と刻まれた標柱

 江戸時代には、幕府が新しい方針を高札に書いて、この札場に掲示するたびに、人だかりが出来たことだろう。

 札場の辻跡から北東に歩くと、本町公園がある。公園の西側に、岡方惣会所跡の碑が建っている。

f:id:sogensyooku:20210225213303j:plain

岡方惣会所跡の碑

 江戸時代には兵庫津の行政区域は、北浜、南浜、岡方に三分されていた。

 これを三方と言い、大坂町奉行所が三方を支配していた。

 三方にはそれぞれ惣会所が置かれ、名主が惣代や年寄を指揮して行政を行った。

 岡方は、兵庫津のうちで海に接していない地域で、その岡方の惣会所が置かれていたのがこの地である。

 この岡方惣会所跡の碑のある場所は、モダンな石造りの洋館の敷地内であった。

f:id:sogensyooku:20210225213925j:plain

旧岡方倶楽部

f:id:sogensyooku:20210225214010j:plain

旧岡方倶楽部

 この洋館が一体何なのか興味を覚えたが、調べてみると、どうやらこの建物は、兵庫の商人たちが地域の社交場として昭和2年に建設した岡方倶楽部の跡らしいことが分かった。

 この建物は、地元では神戸大空襲と阪神淡路大震災を生き延びた奇跡の建物と呼ばれ、平成25年からは兵庫津歴史館岡方倶楽部として神戸市が管理している。

f:id:sogensyooku:20210225214419j:plain

f:id:sogensyooku:20210225214454j:plain

 最近新聞記事を読んでいると、イオンモール神戸南店の南側に、元は大坂町奉行所の勤番所だった初代兵庫県庁の建物を復元し、兵庫津ミュージアムという名称で兵庫津の歴史を紹介する施設とする計画が進んでいると書いていた。

 地元の兵庫県民も、兵庫津の歴史はほとんど知らない。かく言う私も今回史跡巡りをするまで知らなかった。

 自分の住む県の歴史を知ることは、いいことではないかと思う。