最上稲荷 その5

 七十七末社が祀られているエリアの中心に、旧本殿の霊応殿が鎮座する。

霊応殿

 霊応殿は、最上稲荷で最古の建造物である。

 寛保元年(1741年)に、妙教寺七世日道聖人によって再建された。

 奥から順に、本殿、誦経堂、拝殿、前堂の四棟から成っている。

前堂

前堂の彫刻

前堂の天井

 四棟とも総欅造りで屋根は檜皮葺である。

 前堂は、拝殿の長い向拝のようなものである。

拝殿

拝殿の屋根

 拝殿と誦経堂の間は一体化している。

 神社建築の拝殿があると同時に、本尊に経を上げる誦経堂を有しているのが、神仏習合の寺院らしい。

拝殿、誦経堂から本殿にかけて

誦経堂

 誦経堂には、華頭窓があり、寺院建築であることが分かる。

 誦経堂の前面の天井は折り上げ格天井になっている。格式の高い空間である。

 「最上位」と書かれた扁額の周囲は、麒麟の微細な彫刻が施されている。

誦経堂の前面

折り上げ格天井

扁額と麒麟の彫刻

 また誦経堂前面の戸にも、印象的な彫刻が施されている。

誦経堂前面の戸の彫刻

 霊応殿本殿は、播州赤穂木津村の大工野村家慶、野村家規を棟梁として建築された。木津大工の作例の一つである。

 霊応殿に伝わる棟札にもその旨が書いている。野村家に伝わる文書にも、本殿建築の次第が書いてあるそうだ。

本殿

 本殿は、内外共に三間仏堂の様式を持っており、寺院内の稲荷社という要求を満たした建物であるという。

 霊応殿は、昭和49年に曳屋工法により現在地に移築された。以前は、現本殿の霊光殿がある場所に建っていたのだろう。

 旧本殿の霊応殿は、岡山市指定重要文化財となっている。

 さて、霊応殿の周囲を、七十七末社の祠が取り囲んでいる。

霊応殿を囲む七十七末社

 霊応殿を囲む七十七末社は、いずれも立派な祠に祀られている。

 この中に、七十七末社中の四天王と呼ばれる、羽弥御崎(はやみさき)天王、荒熊天王、日車(ひぐるま)天王、大僧正天王の四社がある。

羽弥御崎天王

 羽弥御崎天王のご威徳は商業で、商売繁盛の願いを満たしてくれるそうだ。

 虹梁や尾垂木の彫刻が見事で、国登録有形文化財である。

 荒熊天王のご威徳は軍事で、勝負必勝、武道向上の願いを叶えてくれる。

荒熊天王

 こちらも蟇股や虹梁の彫刻が見事である。国登録有形文化財である。

 因みに、国登録有形文化財となっている末社は、全部で20社あるが、全てを紹介することは出来ない。

 大僧正天王のご威徳は火難で、火難消除の願いを叶えてくれる。消防士は、この末社を参拝するといいのではないか。

大僧正天王

 四天王の最後に紹介する日車天王のご威徳は、文学(学問)で、学業成就の願いを叶えてくれるらしい。

 さすがにここは参拝者が多く、写真を撮るために近づくのに手間がかかった。

日車天王

 日車天王の建物も、国登録有形文化財である。

 ずらりと並ぶ末社群を見ると、人の望みや願いには際限がなく、娑婆世界には人々の欲望が渦巻いているのを実感する。

 昨日の記事にも書いたが、人間の生存本能を無くすことは出来ない。欲は人を苦しめると同時に、人を前に進める強力な力を持っている。

 願掛けをする多くの参拝客を見て、むしろこちらも元気をもらうような、頼もしい気持ちになった。

最上稲荷 その4

 本殿(霊光殿)の東側には、宝光閣という建物がある。

 和風建築だが、建物の下を煉瓦アーチ橋が支えていて、その下を道路が通っている。

宝光閣

宝光閣の下部の煉瓦アーチ橋

宝光閣

 和風建築と煉瓦の組み合わせは、いかにも明治らしい。

 大客殿から宝光閣、本殿の間は、木造の渡り廊下がつないでいる。

 宝光閣と渡り廊下は、国登録有形文化財である。

渡り廊下

 さて、ここまで本尊である最上位経王大菩薩を祀る本殿や、一塔両尊四士を祀る根本大堂などを見てきた。

 ここまでは、言わば最上稲荷の表の顔である。本殿の裏側から始まる七十七末社を祀るエリアからが、最上稲荷の本領が発揮されるエリアである。

七十七末社の説明板

 七十七末社には、最上位経王大菩薩にお仕えして、縁結びや縁切り、厄除けなどの役割を担い、衆生を救済するために活動する七十七の神様が祀られている。

 七十七末社に祀られる神様は、それぞれ天王と呼ばれ、最正位という位が付いている。

 稲荷神と習合した最上位経王大菩薩にお仕えする神様となると、白狐であろう。

七十七末社

 七十七末社は、小祠に祀られているのもあれば、題目石という、「南無妙法蓮華経」のお題目を刻んだ石の形で祀られているものもある。こちらは稲荷信仰でお塚と呼ばれるものと同じであろう。

題目石

 七十七末社の前には、その末社のご威徳が書かれたプレートが備え付けられている。

 例えば、七十七末社の第77番の最正位福崎天王のご威徳は、抽籤(くじびき)で、勝負事を司っている。

第77番 最正位福崎天王

ご威徳を書いたプレート

 龍王山側に行くと、題目石の形で祀られた末社がずらりと並んでいる。

 それぞれの末社のご威徳にあやかろうと、数多くの参拝客が末社に線香を上げて祈りを捧げている。

題目石の末社

 確かに、個々に分かり易くご威徳が定めてあると、お参りする方もお参りしやすい。

 言葉は悪いかもしれないが、さながら願い事のATMだ。自分の願い事を叶えてくれる末社を何度も訪ねる参拝客も多いだろう。

 私は、一つ一つの末社のご威徳を見ながら通り過ぎた。

雪法天王、光仲天王、人走天王

 上の写真の題目石には、雪法(きよのり)天王、光仲(みつなか)天王、人走(ひとはせ)天王の3つの末社が祀られている。

 雪法天王のご威徳は美麗で、美人成就の願いを叶え、光仲天王のご威徳は仲裁(なかなおり)で、仲裁成就の願いを叶え、人走天王のご威徳は逃走(はしりびと)で、尋ね人を見つけてくれるそうだ。

 ある人は、疑問に思うかもしれない。最上稲荷は仏教寺院である。本尊最上位経王大菩薩の本体である「法華経」は、この世界に存在すると思われるものは、全て実体がないという一切皆空の教えを説いている。

 衆生の欲望や願い事は、いかにもこの一切皆空に反している。それなのに、なぜ最上稲荷は、人々の願い事を叶えようとするのだろう。

 「法華経」には、方便という言葉が何度も出てくる。巧妙な手段という意味で用いられる。

 人々の能力には個人差がある。覚りの世界にすぐに入ることが出来る人もいれば、そうでない人もいる。仏は、人々の個々の特性に合わせて、様々な方便を用いて教えを説き、最終的に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)という最上の覚りの世界に導く。

 「法華経」第三品の「譬喩品」には、仏の方便の用い方を譬喩を用いて説いている。

 ある豪邸が火災になった時に、火に気が付かずに邸の中で遊び戯れる子供達を外に逃がすために、豪邸の長者が、子供達に門の外に並べた牛車、鹿車、羊車という乗り物の玩具を示しておびき出す。

 子供達は喜んで外に出る。長者は、外に出てきた子供達に対し、最初に示した玩具ではなく、邸宅内からは見えなくらい大きな最高の乗り物を見せる。子供たちは歓喜してその乗り物に乗る。

 火災に遭った豪邸(火宅)は、我々の人生の譬えである。いつか終わる人生の中で遊び戯れていても、最後は焼け死んでしまう。

 仏は、火宅から人々を救い出すために、分かり易い教えで人々を誘い出す。そして最後に最高の教えを説いて、人々を覚りの世界に導くのである。

 最上稲荷末社が叶える人々の願いも、譬喩品で説く玩具のようなものであろう。

 最上稲荷の境内は、「法華経」の世界を具現化していると言っていい。私が七十七末社最上稲荷の本領と言ったのは、そのためである。

 さて、七十七末社の中央には、縁の末社がある。

縁の末社

 ここには、縁結びをご威徳とする縁引天王と、離縁をご威徳とする離別天王を並べて祀ってある。

縁引天王(右)と離別天王(左)

 良縁を得たい人は、先ず離別天王にお参りして悪縁を絶ち、次に縁引天王にお参りして良縁を結ぶのがよいという。

縁結絵馬

縁切札

 縁引天王の参拝者は、縁結絵馬に願い事を書いて、良縁撫で石の前で願い事を念じ、良縁撫で石を反時計回りで一周して、左手で石を撫でる。

良縁撫で石

 離別天王の参拝者は、縁切札に願い事を書いて、縁切撫で石の前で願い事を念じて縁切札を2つに引き裂き、縁切撫で石を時計回りに一周して、右手で縁切撫で石を撫でる。

縁切撫で石

 そうすれば、それぞれの願いが叶うという。

 ちなみに離別天王が離別してくれるのは、人との縁だけでなく、病気や煙草、賭け事癖もあるという。自分の嫌なところと離別したい人も、ここに参ればいいだろう。

縁の末社のお塚

 縁の末社の隣には、本殿に祀られる三面大黒尊天を勧請した三面大黒堂(金運堂)がある。

三面大黒堂

 三面大黒堂を巡る水盤には、報恩大師の開基以来の歴史を有する厳開明王池から移した霊石を納めていて、この水盤に浸したものを浄化するという。

 三面大黒堂に祀られる三面大黒尊天は、正面に大黒天、向かって左に毘沙門天、向かって右に弁財天のお顔を持っている。

 三面とも金運成就のご威徳をお持ちであるが、大黒天は商売繁盛、毘沙門天は必勝成就、弁財天は恋愛成就のご威徳をお持ちであるらしい。

三面大黒尊天の絵馬

 三面大黒尊天をお参りすれば、まさにいいことづくめである。

 仏陀は、この世が縁起から成り立っていることを覚った。縁起とは、この世界の全てのものが、相互に補完しあった関係性の中にあり、独立して存在するものはないという意味である。

 例えば私の体は、私が日々摂っている水と食料から出来ている。私の周りを包む空気と気圧がなければ、体を維持することも出来ない。水と食料と空気がない中で、私の体を維持するのは不可能である。そうとすれば、私の体というものは、この宇宙に独立して存在しているのではないことになる。

 縁起の法則からすれば、全てのものは、他のものとの縁の中で仮に和合してあるに過ぎない。縁は時間と共に変化するので、仮に和合してあるものは変化して、一秒たりとも同じ存在ではない。これが諸行無常である。

 諸行無常であるが故に、全ての存在に我という実体はない。諸法無我である。諸法無我であることを実感すれば、我執を離れ、涅槃寂静の世界に入る。

 この諸行無常諸法無我涅槃寂静を仏法の三法印という。この三法印が、仏教の核心である。

 そうとすれば、我々が我(自分)だと思っているものの正体が明らかになる。それは単に自分の生命や仲間達の生命を維持し、子孫を残し、繁栄したいという生物としての本能に他ならない。

 ところが、仏教がいくら諸法無我を唱えても、生身の生き物である我々が、生物としての本能を失うことは出来ない。

 覚りの世界に安住して、社会維持のために働かないという出家者のような生活を、人類全体がとることは出来ない。

 だが、より良く生きたいという願望がある限り、それが叶えられない苦しみは続く。

 「法華経」が説いた菩薩道は、この世界が虚妄であると理解しながら、苦しむ人々のために社会に働きかけ続けることである。

 最上稲荷の七十七末社は、その菩薩道を示しておられるのだろう。

最上稲荷 その3

 最上稲荷の広大な境内の東側には、客殿や根本大堂といった古い木造建築が建つ一角がある。

 昭和になってから建てられた仁王門と霊光殿を見た後に、ようやく古い寺院の雰囲気を味わうことが出来た。

根本大堂の周辺の図

山門

 国登録有形文化財の山門を潜って、根本大堂のある区画に入った。

 山門は、重厚な四脚門である。

 山門を入って左手には、大正5年に妙教寺二十世日勝聖人によって再建された大客殿がある。これも国登録有形文化財である。

大客殿

大客殿唐破風

唐破風下の彫刻

 大客殿は、東西に長い立派な建物である。大客殿内では、お屠蘇を振舞っているようで、参拝客が続々と大客殿の中に入って行った。

大客殿

 さて、大客殿より奥に、明治14年妙教寺第十八世日諒聖人により再建された根本大堂がある。こちらも国登録有形文化財である。

根本大堂

 根本大塔には、日蓮宗の本尊としてよく祀られる一塔両尊四士と、日蓮聖人、報恩大師が祀られている。

 一塔両尊四士とは、宝塔に「南無妙法蓮華経」と書かれたお題目を祀り、その左右に釈迦如来多宝如来の両尊を祀り、その左右に上行菩薩無辺行菩薩浄行菩薩安立行菩薩の四士を祀ったものである。

根本大堂正面

扁額

 根本大堂の扁額は、四囲を八匹の龍が取り巻くものであった。八大龍王尊を表しているのだろう。

 大客殿と根本大堂の前には、樹齢約400年の大イチョウがある。

イチョウ

 400年前は、丁度花房職之により最上稲荷が再建された頃である。

 最上稲荷山妙教寺の復興を記念して植えられたものだろうか。

 境内には、昭和52年に、大東亜戦争における比島(フィリピン)での戦没者を慰霊するために建立された比島観音があった。

比島観音

 この比島観音像は、比島での戦いで戦没した約50万人の軍人軍属在留邦人を供養するため、最上稲荷を信仰する戦友が建立したものであるという。

比島観音

比島観音の石碑

 実は私の妻の母方の祖父が、大東亜戦争で、陸軍歩兵連隊の砲兵をしていて、マレー戦役、シンガポール攻略戦、フィリピン攻略戦に従事した。

 祖父は、戦争を生き延びて、復員することが出来た。既に鬼籍に入っているが、私も一度だけお会いしたことがある。

 妻は、亡くなった祖父の足跡を偲ぶため、フィリピン攻略作戦の戦史資料を渉猟していた。

 そのため、私も比島の戦没者を他人のように思えない。

 最上稲荷は、懐の深い神様のようにお見受けする。戦没者の様々な気持ちも、温かく受け入れて下さっているに相違ない。

最上稲荷 その2

 最上稲荷の寺域は広大である。

 背後の龍王山の山頂には奥之院がある。

最上稲荷の参拝コース

 私は先ず、最上稲荷を開基した報恩大師の御廟に詣でようと思った。

 境内は参拝客でごった返していたが、御廟のある最上霊園に行くと、私1人しかいない。静かな気持ちになった。

報恩大師御廟への石段

 霊園の石段を登っていくと、最高所に報恩大師の御廟がある。

 備前に寺院を沢山建立した報恩大師の終焉の地は、備中であったようだ。

 報恩大師が亡くなったのは、延暦十四年(795年)である。

報恩大師御廟

 ここから麓を見返すと、高松地区が一望できる。大鳥居から最上稲荷まで続く県道は、参拝客の車で渋滞している。

 まだ続々と参拝客が来るようだ。

報恩大師御廟から見下ろした高松地区

 さて、御廟に詣でて報恩大師に挨拶を済ませ、境内に戻った。

 仁王門の奥の石段の上には、最上三神を祀る本殿(霊光殿)がある。

本殿

 本殿に祀られている最上三神は、「法華経」を神格化した最上位経王大菩薩と、八大龍王尊、三面大黒尊天のことを指す。

本殿

 本殿は、昭和54年に建造されたものである。巨大な建物だ。

本殿

 それにしてもすごい数の参拝客だ。

 本殿内では、僧侶による祈祷が行われている。祈祷を受けたい人は、祈祷料を払えば本殿内に入ることが出来る。

祈祷中の本殿内

 最上三神のうち、本尊の最上位経王大菩薩は、「法華経」の精神を心にして、慈悲を以て人々の苦しみを和らげ、五穀豊穣、商売繁盛、開運招福など様々な利益を与えて下さるそうだ。

 八大龍王尊は、水を司る神様で、旱魃や水難を退散して下さるとのこと。

 三面大黒尊天は、魔障を払い人々に幸福を授ける神様で、施福神、福徳神、憤怒神の三つの顔を持っているそうだ。

本堂の扉の神紋

 報恩大師が開基した龍王山神宮寺は、秀吉の備中高松城攻めで焼亡した。

 本尊の最上位経王大菩薩の像は救い出され、龍王山中腹の八畳岩の下に祀られたという。

 その後、この地を領した花房職之が、慶長六年(1601年)に日蓮宗の日円上人を招聘し、稲荷山妙教寺として再建したそうである。

 それにしても最上稲荷は、これほど多くの人の願いを受け続けて、よくも苦しくならないものだ。

 むしろ、人々のよりよく生きたいという願いを吸収して、どんどん充実しているかのようなパワーを感じさせてくれる。

最上稲荷 その1

 佐古田堂山古墳の上から北方を望むと、龍王山が目に入る。

 その麓に祀られているのが、最上(さいじょう)稲荷という日蓮宗のお寺である。正式名称を最上稲荷山妙教寺という。

 岡山市北区高松稲荷に鎮座する。

龍王

 最上稲荷は、京都府伏見稲荷大社、愛知県の豊川稲荷と並んで、日本三大稲荷の一つとされている。

 最上稲荷は、明治の神仏分離を免れ、今でも神仏習合の信仰形態を残す仏教系の「お稲荷さん」である。

 参道の入口には、最上稲荷開山1200年の昭和47年に建てられた大鳥居がある。

大鳥居

 鉄骨・鉄筋コンクリート製で、高さ27.5メートル、柱の直径4.8メートル、完成時は日本一の高さを誇る鳥居だった。

 全体がベンガラ色に塗装されている。ベンガラは、古くから魔除けとして使われた。 

 扁額は、岡山県高梁市成羽町吹屋のベンガラ豪商西江家に伝わる江戸期ベンガラで塗装されていて、「紅柄(べんがら)」の字が金色に書かれている。

大鳥居の紅柄の扁額

 私が訪れた1月6日は、まだ正月の内である。最上稲荷には、初詣客と思われる家族連れなど、ものすごい数の参拝客が訪れていた。

 昔伏見稲荷大社に行ったことがあるが、伏見稲荷は、外国人観光客が多い。最上稲荷の参拝客は、見たところほとんど日本人である。

 最上稲荷は、岡山県下の寺社では、最大の初詣客を集める寺である。

 大鳥居から最上稲荷まで、2キロメートルはあるが、その間は車がぎっしり連なって延々渋滞している。

 最上稲荷の周囲には、広い駐車場が幾つも用意されている。その駐車場に何とか車をとめて、目についた石造の鳥居の方に向かった。

石造の鳥居

 この鳥居が、最上稲荷の参道商店街の入口であった。参道前には、沢山の露天が並んでいる。

 参道商店街に入ると、両脇に昭和の香りのする商店が軒を連ねている。参道は狭い。上りと下りの人の列が、ようやくすれ違うことが出来る混雑ぶりである。

参道入口

 私も、参道の途中にある老舗の食堂で、昔ながらの中華そばを食べた。

 腹ごしらえをして、ゆるやかな上り坂の参道を登っていく。

 最上稲荷の開基は、備前四十八寺を建立した報恩大師である。

 天平勝宝四年(752年)、孝謙天皇の病気平癒の勅命を受けた報恩大師は、龍王山中腹にある八畳岩の上で祈願した。

参道途中の石碑

 すると報恩大師は、白狐に乗った最上位経王大菩薩を感得した。報恩大師は、最上位経王大菩薩の尊像を刻み、祈願を続けた。孝謙天皇の病は無事癒えた。

 その後、延暦四年(785年)、桓武天皇の病気の際にも、報恩大師が尊像に祈願したことにより天皇の病が快癒した。

 これを喜んだ桓武天皇の命により、現在の地に「龍王山神宮寺」が建立された。

 これが、現在の最上稲荷の発祥である。

 参道を歩き続けると、石材製の仁王門が見えてくる。

仁王門

 日本寺院の木造の仁王門と比べると、異色の建築物である。安置されている仁王尊像も、金色に塗られた派手な像である。

仁王尊像

 この仁王門は、昭和25年に旧仁王門が火災で焼失したことから、昭和33年に火災に強い石材で再建されたものである。

 仏教考古学者石田茂作の発案で、東大工学部教授の岸田日出刀の設計により、インドの殿堂様式を取り入れて建造された。

 当時日本唯一だった金色の仁王尊像は、仏師福崎日精により制作されたものである。

 仁王門は、今では国登録有形文化財となっている。

仁王門

仁王門の中心

 仁王門の裏側には、金色の仁王尊像と対になるような形で、一対の白銀色の狐の像が安置されている。

白銀色の狐の像

 それにしても、なぜ仏教とお稲荷さんが習合しているのだろう。

 本尊の最上位経王大菩薩は、「法華経」のことである。「法華経」は、大乗仏教では「諸経の王」と呼ばれるほど、大乗経典の中で重きを置かれている。

 天台宗日蓮宗では、「法華経」が最も尊ばれている。

 この最上位経王大菩薩が、何故か稲荷神の使いの白狐に乗って報恩大師の前に現れたのだという。

 お稲荷さんは、五穀豊穣、商売繁盛、開運招福などの現世利益を与えてくれる衣食住の神様である。

 最高位の仏教経典と、現世利益を与えてくれるお稲荷さんが習合すれば、様々な願いを持つ人々にとっては、もはやこの上なく有難い神仏であろう。

 最上稲荷のこの参拝客の多さも頷ける。

 最上稲荷に祀られる神仏は、最上位経王大菩薩の他に、八大龍王尊と三面大黒尊天がある。

 この三神は、最上三神と呼ばれ、本殿(霊光殿)に祀られている。

手水舎の龍の像

 八大龍王尊は、龍王山に棲むとされる水の神様である。日本各地に祀られている龍神は、水の神様である。日本の古くからの蛇神信仰から来たものと思われる。

 稲荷神と蛇の関係は深い。稲荷系の神社に行くと、「お狐さん」の像だけでなく、「巳(みー)さん」と呼ばれる白蛇の像が祀られていることが多い。

 稲荷神は稲の神様である。稲作に水は欠かせない。お稲荷さんと龍神との関りが深いのは当然だろう。
 最上稲荷は、インドのヒンズー教の聖地を思わせるような、賑やかで民衆的な多神教的空間であった。
 ここを参拝したことで、日本人にとっての信仰について、深く考えることが出来た。

佐古田堂山古墳

 最上稲荷の巨大な鳥居を潜って、岡山県道241号線を北上する。

 右手にある岡山市北区平山の集落の中に、小高い丘陵がある。

 この丘陵上に、全長約150メートルという大きな前方後円墳がある。岡山県指定史跡の佐古田堂山(さこだどうやま)古墳である。

佐古田堂山古墳

 この古墳は、後円部が南東側に、前方部が北西側にある。上の写真右側の林が茂っているところが、後円部である。

 この古墳に登るなら、北西側からである。

北西側から古墳に登る

 古墳の北側に、農業の研究施設がある。写真の門扉は、その研究施設の門扉である。

 門扉は閉まっているが、門扉の脇から古墳に上がって行くことが出来る。

 さて、上がって行くと、三段になった前方部が見えてくる。

三段になった前方部

 坂古田堂山古墳は、5世紀の古墳と言われている。5世紀に築かれた三段の古墳が今に残っていたのなら、大したものである。

 グーグルマップで見てみると、上空から見ても古墳全体が三段になっているように見える。

 三段とも古墳であるとしたら、かなり規模が大きな古墳である。

 最上段の前方部だけでも、規模は大きい。

最上段の前方部

最上段の前方部と奥の後円部

 最上段の前方部に上がると、綺麗に整備されている。前方部の原型を確認することが出来るが、後円部は林に覆われ、形が見えない。

前方部から後円部を望む

後円部

 藪に遮られているので、前方部から真っ直ぐ後円部に登ることは出来ない。

 後円部のはたから振り返ると、前方部がなかなか広いことが分かる。

後円部側から前方部を望む

 さて、後円部に登る道はないものか探してみると、後円部西側に、林がまばらになっている箇所があったので、そこから入っていった。

後円部への登り口

 それでも、ある程度藪をかき分けねばならない。しばらく行くと、後円部の墳頂が見えてきた。

墳頂に向かって登る

 墳頂は、意外と木がまばらで、枯葉に覆われた広い空間があった。

墳頂部

 後円部からは、木々の間から前方部を見下ろすことが出来た。

後円部から見下ろした前方部

 吉備地方には、5世紀に巨大な前方後円墳が続々と築かれた。この佐古田堂山古墳も、その一つである。

 佐古田堂山古墳は、自然の丘陵を利用して造られたとはいえ、なかなか立派な古墳である。

 当時の吉備地方は、大和王権と関係が深く、経済力も強大だったのだろう。当時は、大和が圧倒的な力で全国を支配していた訳ではなかろう。

 この古墳を眺めながら、まだ中央集権が進んでいなかった時代の大和と吉備の緊張した関係を想像してみた。

文英の石仏群 後編 大崎廃寺跡

 岡山市北区三手の集落にある臨済宗の寺院、真福寺にも、四体の文英の石仏がある。

真福寺

本堂

 真福寺の山門を潜ると、正面に本堂がある。山門から入って左に行くと、無縁仏の墓石が多数ある。

 この墓石群の左側に、文英の石仏がある。

無縁仏の墓石

四体の文英の石仏

 これらの石仏は、今まで見た文英の石仏と比べ、小さな石仏である。

 近寄ってみると、どれも個性豊かな表情をしている。

文英の石仏

 覚えずこちらも微笑みたくなるような表情だ。

 三手の集落から北上して、低山の間にある大崎の集落に行く。

 大崎の集落の田の中に、浮島のように残された大崎廃寺跡がある。

大崎廃寺跡

 大崎廃寺跡からは、白鳳時代の寺院の瓦と基壇の一部が発掘されている。どうやら南向きの伽藍配置だったようだ。

 この辺りは、奈良時代の楢見里に比定されているため、楢見廃寺とも呼ばれている。

大崎廃寺跡

 この大崎廃寺跡には、一体の大きな文英石仏がある。

文英の石仏

説明板

文英の石仏

 肉眼では判別できないが、この文英石仏には、右側に「念仏講 文英筆」、左側に「天文四年乙未五月日」と刻んであるらしい。

 大きな延命地蔵仏である。お顔が後光と同じようにまん丸である。

 大崎廃寺跡の基壇跡と思われる台形の土地が、南北に2つ並んでいるが、その上に、小さな祠が祀られている。

基壇跡と祠

基壇跡

 この辺りは、秀吉の備中高松城水攻めに際して、水没した地域である。

 ひょっとしたら、文英もこの戦乱で亡くなったのかも知れない。

大崎廃寺跡にあった宝篋印塔の残欠

 文英は、戦火に遭っても水没しても後世に残る石仏を刻んだ。

 大崎廃寺跡の上を風が渡っている。石仏が刻まれた頃と同じような風だろう。

 この風を受けていると、文英の願いも、石仏群と一緒にまだ生きていると感じる。