須磨寺 その5

 八角堂から西に向かうと上り坂になる。

 五智如来と呼ばれる、金剛界曼荼羅の中央に描かれる如来の石像がある。

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五智如来の石像

 写真の右から順に、阿閦(あしゅく)如来、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来大日如来阿弥陀如来、宝生(ほうしょう)如来である。

 大日如来以外の4体の如来は、それぞれが大日如来の一面を表した如来とされている。五智如来は、密教の5つの智慧を象徴した存在である。

 五智如来像の隣に、平清盛が創建したとされる出世稲荷が建っている。

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出世稲荷

 出世稲荷は、元々清盛が福原に遷都した時に、都の守り神として、湊川のほとりに建てたものである。

 その後、立身出世、事業成功の神様として、庶民に崇敬された。

 明治中期に、湊川の改修に伴い、出世稲荷は平家にゆかりの深い須磨寺境内に移されたという。

 出世稲荷の隣には、鮮やかな色彩の三重塔がある。私が史跡巡りで訪れた17番目の三重塔になる。

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三重塔

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 見た所、新しい三重塔である。昭和59年に再建されたものらしい。旧塔は、約400年前の文禄大地震で倒壊したという。

 内部に大日如来を祀り、四方扉の内面に真言八祖像と六ヶ国語による般若心経を刻銘しているそうだ。

 私が今まで史跡巡りで訪れた三重塔の中では、最新のものである。

 この三重塔の周りには、四国八十八ケ所のご本尊となっている石仏が囲んでおり、その石仏の前のガラス板の下には、四国八十八ケ所霊場のお砂を埋めてある。

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四国八十八所お砂踏み霊場

 ここを参ることにより、四国八十八ケ所を実際に巡ったのと同じ御利益があるという。

 さて、三重塔の隣には、五猿のオブジェが置かれている。

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五猿

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おこらざる

 見ざる、言わざる、聞かざるの三猿は著名だが、それに「おこらざる」と「見てござる」を付け加えて五猿としている。よく見ると、おこらざるの像は、「かんにんぶくろ」を持っている。

 ふざけているようにも見えるが、こういうお茶目なオブジェを置くのも真言宗寺院の特徴である。

 三重塔の西隣には、須磨の仇浪(あだなみ)親子地蔵が祀られている。

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須磨の仇浪親子地蔵

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 須磨の仇浪とは、大正から昭和初期に何度も舞台上演されたり映画化された演題である。

 明治27年播磨国美嚢郡に生まれた豪農の娘土居愛子は、大正2年に二十歳で淡路の川上家に嫁入りした。しかし家庭不和が原因で、大正4年に、愛子は須磨沖を航行中の汽船から、2歳の愛娘初音と共に身を投げて死んだ。

 2人の遺体は須磨浦に漂着し、近くの須磨寺で葬儀が営まれた。

 同年、家庭不和から母子心中した2人の悲劇を、脚本家羽様荷香が、当時の神戸新聞に、「須磨の仇浪」という題名で連載した。

 これが世間の注目を浴び、同年2人を弔うため、この親子地蔵が造立された。

 現代よりも女性の地位が低く、離婚も容易ではなかった当時には、大いに世間の同情を集めた出来事だったようだ。

 その隣には、平敦盛首塚がある。

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敦盛公首塚

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 今年11月8日の「敦盛塚」の記事で紹介した敦盛塚は、敦盛の胴を埋めた塚だと伝えられている。

 首は須磨寺まで運ばれて、首実験を行われ、ここに手厚く葬られたようだ。塚の前で敦盛の冥福を祈った。

 首塚の前には、シベリア満蒙戦没者の慰霊碑が建っている。

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シベリア満蒙戦没者慰霊碑

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慰霊碑後ろのシベリアの地図

 昭和20年8月9日、ソビエト連邦軍は、日ソ中立条約を破棄して、突如満州朝鮮半島南樺太、千島列島に侵攻を開始した。

 この際、ソ連の捕虜となった日本軍兵士等は、シベリアの収容所に収容され、強制労働をさせられた。

 シベリアの雪原で、多くの日本人が亡くなった。亡くなった日本人は、墓標もない凍土の下に葬られた。

 この慰霊碑は、ソ連崩壊前で、遺骨収集や墓参もままならなかった昭和57年に建てられたものである。 

 慰霊碑の前のクマの石像は、「ミーシャ熊」という愛称で呼ばれていて、頭を撫でると、一弦須磨琴で演奏された「異国の丘」という曲が流れる仕掛けになっている。

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ミーシャ熊

 私が20年前に須磨寺を訪れた時は、ミーシャ熊の頭を撫でても曲が流れてこなかった。ふと見るとミーシャ熊の像に、「ミーシャ熊はお休み中です」と書いた貼り札が貼ってあった。故障中だったのだ。20年経って、ミーシャ熊は眠りから覚めたと見える。

 さて、須磨寺には奥の院がある。境内からエレベーターで奥の院の近くの裏山駐車場まで上ることが出来る。

 エレベーターのある建物には、敦盛に関する美術品が多数展示してある。中でも敦盛が愛用の笛を吹いている日本画が優美であった。

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敦盛の画

 奥の院の周辺には、七福神真言宗で重視されている十三仏が祀れらていて、山中に参拝コースが広がっている。

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奥の院の参拝コース

 参拝路の最も奥には、波切不動明王の石像が祀られ、弘法大師を祀る奥の院のお堂がある。

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波切不動明王

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奥の院のお堂

 お堂の賽銭箱の手前には、大きな五鈷杵が置かれ、五鈷杵に五色の紐が結ばれている。

 この紐がお堂の中の弘法大師像とつながっていて、五鈷杵を撫でると、弘法大師と御縁を結ぶことが出来るとされている。

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五鈷杵と弘法大師

 奥の院のお堂の前には、遠く高野山奥の院の方向を向いた遥拝所がある。

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高野山奥の院遥拝所

 いつか弘法大師が今も入定しているという高野山奥の院に行きたいものだ。

 ところで、須磨寺南側にある須磨大池には、明治中期に1000本の桜が植えられて、明治末期には遊園地も作られ、桜の名所となっていた。

 今は、池もかなり埋め立てられ、桜の本数もかなり減ったようだ。往時ほどではないが、池の周囲を桜が囲んでいた。

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須磨大池

 桜の季節の須磨寺も、いいものかも知れない。

 参拝して、須磨寺は、ユーモアと包容力のあるお寺だと感じた。慰霊の寺として、これからも人々の崇敬を集めることだろう。

須磨寺 その4

 宝物館を出て石段を登ると、ようやく唐門に辿り着く。

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唐門

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 須磨寺は、かつては7堂12坊を有する大寺であったが、戦乱の世を経て衰退し、幕末には、本堂、大師堂、仁王門しか残っていなかった。

 明治中期以降境内が整備され、今の伽藍が整った。この唐門も、明治以降の再建だろう。

 唐門を潜ると正面に見えるのが本堂である。

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本堂

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 本堂は、慶長七年(1602年)に、豊臣秀頼が再建したものらしい。

 本堂内部には、仏像を安置する宮殿(くうでん)と仏壇がある。外側の本堂よりも古く、応安元年(1368年)の作である。宮殿と仏壇は、共に国指定重要文化財である。

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本堂内陣

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宮殿と仏壇

 宮殿に祀られている御本尊・聖観世音菩薩坐像は、現在の神戸市兵庫区和田岬沖の海中から引き揚げられたとされる。元々は会下山の北峯寺に祀られていたが、仁和二年(886年)に御本尊がこの地に移され、須磨寺が開創された。

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観世音菩薩坐像

 御本尊と両脇侍象の写真が、亜細亜万神殿に掲げられていた。優美で静かな智慧を感じさせる仏像だ。

 御本尊の両脇には、不動明王毘沙門天が祀られている。

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不動明王立像と毘沙門天立像

 この内、不動明王立像は、兵庫県指定重要有形文化財である。

 本堂には、この他に、鎌倉時代の作で、国指定重要文化財となっている木造十一面観音立像が安置されている。

 本堂の東隣には、明治36年1903年)再建の護摩堂がある。

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護摩

 護摩堂は、護摩行を行うお堂である。内部には、護摩壇の奥に不動明王を中心とした5体の仏像が安置されている。

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護摩堂の仏像群

 中央の不動明王は、大日如来の憤怒の面の化身と言われている。不動明王は、五大明王の中心となる明王である。

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不動明王坐像

 不動明王は、八大童子という従者を引き連れているとされるが、この中で不動明王の両脇侍として、掛軸等によく描かれているのが、矜羯羅(こんがら)童子と制吒迦(せいたか)童子である。

 不動明王の向かって右側には、合掌している白い肌の矜羯羅童子役小角こと神変大菩薩が祀られている。

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矜羯羅童子神変大菩薩

 不動明王の向かって左側には、赤色の肌をした制吒迦(せいたか)童子と、猪に乗って矢をつがえた仏法の守護神・摩利支天が祀られている。

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制吒迦童子と摩利支天

 像はどれも色彩鮮やかで、新しいものだが、密教本来の絢爛たる世界を見せてくれる。

 護摩堂の東側には、南北朝時代の作で、兵庫県指定重要有形文化財となっている石造十三重塔がある。

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石造十三重塔

 ほとんど風化していない、均整の取れた美しい姿の十三重塔だ。

 その南側には、二代目の弁慶の鐘を掛けた鐘楼がある。実際に弁慶が使ったとされる初代弁慶の鐘は、昨日紹介したように、宝物館に収蔵展示されている。

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二代目弁慶の鐘を掛けた鐘楼

 本堂の西側には、弘法大師空海を祀る大師堂がある。

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大師堂

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弘法大師

 この弘法大師像は、「須磨のお大師さん」と呼ばれ、毎月20・21日の縁日には、参拝客で賑わうという。お大師さんは今も民衆に慕われている。

 大師堂の隣には、源義経平敦盛の首実験をした時に腰かけた、「義経腰掛の松」がある。

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義経腰掛の松

 この松の前に、敦盛の首を洗ったという、「敦盛首洗池」がある。

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敦盛首洗池

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首洗池に咲く蓮と鯉

 ここで本当に敦盛の首が洗われたかは分からないが、今はただ鯉が泳ぎ、蓮が静かに咲いているのみである。

 寺の境内で首実験を行うことには、違和感を覚えるが、首実験と同時に死者を弔う意味もあったのか。

 熊谷直実も、義経の横に侍って、固唾をのんで自分が討ち取った若武者の首実験を眺めたことだろう。

 その隣には、経木供養所である八角堂がある。

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八角

 八角堂のある場所から南に下がると、神功皇后釣竿竹が繁茂している。

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神功皇后釣竿竹

 神功皇后三韓征伐からの帰途、肥前国松浦川で鮎釣りをした。皇后がその時に使った竹竿をここに埋めた所、繁茂したものだという。神功皇后の伝説地の一つだ。

 ここから南に行くと、立派な唐破風を持った書院がある。

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書院

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書院

 重厚感ある建物だ。書院の戸が開け放たれ、広い座敷が見えた。

 書院の隣の庫裏は、僧侶が生活する場である。

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庫裏

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庫裏

 庫裏の唐破風の入口は閉じられていた。この唐破風の入口の彫刻が立派であった。

 須磨寺は、長い間源平合戦の戦死者を弔い続けた寺である。しかし、この寺に暗さはなく、変な言い方かも知れないが、溌剌とした明るい寺である。源平合戦の戦死者たちも成仏して、今は笑って世の中を見守っているように思う。

須磨寺 その3

 源平の庭を見下ろすように建つのが、仏教寺院風の装いをした鉄筋コンクリート製の建物、宝物館である。

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宝物館

 宝物館には、須磨寺ゆかりの品々が多数納められ、公開されている。

 宝物館の手前には、「ぶじかえる」という蛙のオブジェがある。

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ぶじかえる

 ユーモラスな置物だが、須磨寺にはこういう遊び半分の置物が他にもある。宇宙に存在するあらゆるものを大日如来の化身として肯定する教義を有する真言宗の寺院には、何でも受け入れる代わりに、一種のテーマパークのようになってしまうところがある。

 さて、宝物館に足を踏み入れる。

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宝物館内部

 宝物館の展示室入口に展示してあるのが、須磨琴である。

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須磨琴

 須磨琴は、在原行平が流謫の地須磨の浜辺で拾った板片に、自己の冠の紐を結び付けて作った一弦琴が起こりである。

 その後須磨琴の弾奏は廃れてしまったが、江戸時代に覚峰阿闍梨が須磨琴の弾奏法を復活させ、当時の文人墨客の間に須磨琴の演奏が流行した。

 展示された須磨琴は、この覚峰阿闍梨須磨寺に奉納したもので、我が国に残る最古の須磨琴である。

 背後の肖像画は、在原行平を描いたものだ。

 展示室の中央には、平敦盛が所持していた二本の笛が展示してある。

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敦盛の笛

 太い方が「青葉の笛」、細い方が「高麗笛」と呼ばれている。須磨琴といい笛といい、貴族も武人も、都の雅な文化を伝えるものとして音楽を嗜んだようだ。

 須磨寺は、国指定重要文化財の「絹本着色普賢十羅刹女像」を所有している。

 原本は、現在京都国立博物館に貸出中で、複製画が展示されていた。

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絹本着色普賢十羅刹女

 南北朝時代の作で、中央には白象に乗った普賢菩薩が描かれ、その周囲に法華経を護持する鬼神である十羅刹女が描かれている。

 十羅刹女は日本風に十二単を着ている。鮮やかな色彩の画である。

 運慶作と伝えられる鬼面は、正月8日の追儺の式に使用される。

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伝運慶作の鬼面

 また、賤ケ岳七本槍の一人、片桐且元が書いて奉納した「福祥寺」の扁額があった。

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片桐且元筆の扁額

 兵庫県指定重要有形文化財の鰐口は、貞治五年(1366年)に須磨寺に奉納されたものである。

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貞治五年奉納の鰐口

 須磨寺は、源平合戦で死んだ武士たちを弔う役割を果たしてきた。

 熊谷直実は、敦盛を討ち取って以降、お互い殺し合う武士の世に無常を感じ、浄土宗開祖法然上人に弟子入りし、名を蓮生と改めた。

 直実は、敦盛を弔うため、法然上人に頼んで平氏赤旗に「南無阿弥陀仏」の名号を書いてもらった。それが赤旗名号である。

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赤旗名号

 出家して僧侶となった直実は、敦盛の木像を自ら彫って奉納した。

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直実作と伝わる敦盛木像

 その敦盛が使ったとされる矢筒や陣笠、弓も展示してあった。

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敦盛仕様の矢筒、陣笠、弓

 宝物館には、一の谷の合戦の時に、武蔵坊弁慶が陣鐘として使用したと伝わる「弁慶の鐘」が展示してある。

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弁慶の鐘

 この鐘は、元々摂津山田村(今の神戸市北区にあった村)の安養寺の梵鐘だったものだが、弁慶が長刀にこの鐘を吊るして、鵯越を行い、一の谷の合戦で陣鐘として使ったそうだ。

 弁慶の怪力を伝える品だが、さきの話が実話かどうかは分からない。弁慶の鐘は、約800年近く須磨寺の梵鐘として使われていたが、年月の経過によりひびが入ったため、今は宝物館に収められている。

 宝物館には、一の谷の合戦から800年経った昭和59年に奉納された、二科会会員木島武雄作の小石人形で表現された一の谷の合戦のジオラマが展示されている。

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小石人形による一の谷の合戦

 丁度敦盛が海に入り、直実に呼び止められるところが再現されている。

 一の谷の合戦は、平氏を水上に追い落とした戦いで、この戦いで平氏の没落は決定した。

 人間社会とは、ただの生き物である我々が、頭の中で造り出したものを実現した仮構のものである。社長や専務というものは自然界には存在せず、人間の頭の中にだけある役割である。われわれがそれを「ある」と思うから、人間社会はこの世に仮構される。

 源氏の世も平氏の世も、結局は人間の頭の中にだけあったもので、いずれは滅んでしまう。人間が考えた虚構の役割を取り払えば、そこに残るのはただの生き物の生存活動と殺し合いである。直実はそれに気づいて出家した。

 日本人なら誰もが口ずさむ「平家物語」冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」のように、仮構の人間社会にこだわる虚しさを、須磨寺僧侶の読経を聞いて、死んだ武士たちは知っただろうか。

須磨寺 その2

 亜細亜万神殿の参拝路を挟んだ向かい側には、塔頭の正覚院がある。

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正覚院

 正覚院には、愛染明王像が祀られていて、その前で僧侶がお経を唱えていた。

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愛染明王像とお勤めをする僧侶

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正覚院の欄間の彫刻

 愛染明王は、憤怒の形相をしているが、これは悟りの心から遠ざかる人々を叱咤激励するために大日如来が怒りを発した姿とされている。この怒りの表情は、人々を教え導く優しさの現れと言われている。

 ところで私事になるが、今年5月に父が死んでから、祖母の形見で父が受け継いだ小さな仏壇が私の家に来ることになった。その仏壇に位牌を置いているわけではない。言うなれば空の仏壇である。しかし、仏壇の奥に、大日如来不動明王弘法大師の掛け軸が下がっている。

 仏壇をそのまま何もせず置いておくわけにもいかないので、花と水を供え、真言宗の在家用の経本を買って来て、仏壇の前で毎晩お経と真言を唱えるようになった。

 僧侶が唱えるお経も、私が普段唱えているものと同じものだった。今まで遠い世界と思っていたお寺が、お経を普段唱え始めたことによって、身近に感じられるようになった。

 正覚院を過ぎて、鮮やかな朱色の欄干の龍華橋を渡る。

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龍華橋

 龍華橋を越えると、仁王門がある。そこからは、須磨寺の境内である。

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仁王門

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仁王像

 仁王門を潜って右手に行くと、阪神淡路大震災物故者追悼碑がある。

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阪神淡路大震災物故者追悼碑

 阪神淡路大震災では、約6500人の命が失われ、約40万棟の家屋が倒壊、焼失した。平成9年10月に全日本仏教徒会議が開かれた際、追悼碑の建立が発議され、須磨寺が用地の提供を申し出た。

 追悼碑の横には、千手観世音菩薩立像が立っている。

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千手観世音菩薩立像

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 よく見ると、千手観世音菩薩立像の背後の壁には、一面に石仏が彫られている。

 追悼碑の隣には、屋根に覆われた弘法岩という岩がある。岩上には密教法具の一つ、五鈷杵が置かれていて、岩の周囲からは水が出ており、五鈷水と称されている。

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弘法岩

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 この弘法岩、古そうに見えるが、祀られるようになったのは、震災追悼碑が建つのと同時だそうだ。

 仁王門を入って左側には、塔頭の一つ桜寿院がある。

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桜寿院

 桜寿院は、阿弥陀如来像をご本尊として祀っている。向拝の彫刻がなかなか見事であった。

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向拝の彫刻

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 桜寿院前には、与謝蕪村の句碑が建っている。

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与謝蕪村の句碑

 「笛の音に 波のよりくる 須磨の秋」という句だ。この句の笛は、笛を愛用した平敦盛を連想させる。

 蕪村も須磨を訪れ、在原行平や「源氏物語」や「平家物語」を偲びながら、この句を作ったのだろう。

 更に進むと、塔頭の蓮生院がある。不動明王を祀っている。

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蓮生院

 蓮生院の前には、11月8日の「敦盛塚」で紹介した、須磨一の谷の合戦での平敦盛熊谷直実のエピソードを再現した「源平の庭」がある。

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源平の庭

 乗馬したまま海中に入ろうとする敦盛に声をかけ、いざ戦おうとする直実の姿と振り返った敦盛の姿が、銅像で再現されている。

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振り返った平敦盛

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呼びかける熊谷直実

 なかなか迫力ある銅像だ。

 敦盛と直実のこの場面は、源平合戦というより、日本史の中の名場面の一つだろう。 

 潔い勇武の心と風流心と、無常感が溶け合った、日本人の精神世界を垣間見せてくれる場面だ。

 この二人も、相まみえた瞬間、自分たちの一騎打ちが後世の日本人に強い印象を与えることになるとは思わなかっただろう。

 敦盛の若さと潔さが、後世の人の心を打ったのだろう。

 自分が及びもつかない勇敢さや潔さを示した行動が、人々の感動を呼ぶものと思われる。

須磨寺 その1

 神戸市須磨区須磨寺町にある上野山福祥寺は、通称須磨寺と呼ばれている。真言宗須磨寺派大本山である。当ブログでも、通称の須磨寺の名で紹介する。

 真言宗には、全部で18の大本山があるが、その一つである。

 私は真言宗の信徒なので、18の大本山を訪問することと、四国八十八ヶ所の歩き遍路をすることが将来の目標だが、取り敢えず一つ目の大本山に辿り着いたわけだ。

 須磨寺は、仁和二年(886年)に光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が開いた寺院である。

 須磨寺の参道の脇に、亜細亜万神殿という、クメール様式の仏像や神像を集めた回廊がある。

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亜細亜万神殿

 京都の古美術商福丸慶久氏の好意により、同氏の知人中山流石氏が生前アジア各地で集めた神仏の石像が須磨寺に寄贈された。亜細亜万神殿は、それら石像を展示する回廊として建設された。

 平成26年に建設が始まったが、工事中の平成27年4月にネパールで大地震が発生した。

 須磨寺は、ネパール出身の僧侶と縁を持っているが、ネパールの仏教寺院が阪神淡路大震災東日本大震災で慰霊の式を行ってくれたことから、そのお礼に、今度は日本在住のネパール人の祈りの拠り所となるよう、回廊にネパール風の仏塔を建立した。

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亜細亜万神殿の回廊とネパール風仏塔

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 ネパールの首都カトマンズにあって、ネパール国民の誰もが知るスワヤンブナート寺院の仏塔を模造し、中にルンビニー(釈迦の生誕地)の砂を納め、釈迦誕生仏を祀り、周囲に摩尼車を配し、前に仏足石を置いて祈りの中心とした。

 仏塔は、元々釈迦の遺骨を納めたものが始まりで、仏教を象徴するものである。

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釈迦誕生仏と仏足石

 仏教は発祥のころ、釈迦のことがあまりに恐れ多いので、釈迦の像を造って拝むことをしていなかったそうだ。

 そんな時代には、仏足石を彫って拝んでいた。

 やがてギリシアから彫刻技術が伝わり、ガンダーラ地方で様々な仏像が造られるようになった。仏像を作る習慣は、ガンダーラからアジア全域に伝播した。

 考えようによっては、我々が拝む仏像は、源流を訪ねれば、遠く古代ギリシアからやってきたと言える。

 さて、亜細亜万神殿の回廊には、カンボジアで花開いた宗教美術であるクメール様式で制作された石造りの仏像や神像が安置されている。クメール様式は、7世紀から13世紀のカンボジアで最盛期を迎えた。

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亜細亜万神殿の回廊

 万神殿の一番南には、車輪が広がるように仏教が世界に広がることを象徴する輪宝が置かれている。

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輪宝

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 亜細亜万神殿に置かれている像は、仏像も置かれているが、大半はヒンドゥー教の神像である。

 ヒンドゥー教は、古代インドの基層信仰だが、超常的な力を持った神々を信仰する多神教である。

 仏教は、インドの民間信仰であるヒンドゥー教に押されるようになり、対抗するためにヒンドゥー教の要素も取り入れるようになった。そして7世紀に密教が成立することになる。

 密教は、ヒンドゥー教の修法であるマントラ真言)を唱えることだけでなく、ヒンドゥー教の神々を仏教の守護神として取り入れていった。

 例えばブラフマーは、宇宙そのものを神格化した存在だが、密教に取り入れられると、漢訳では梵天と呼ばれるようになり、天部の神となった。

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ブラフマーこと梵天の頭部

 ブラフマーは頭部に宝冠を被っているが、密教大日如来像や虚空蔵菩薩像は、豪華な宝冠を被っている。この辺りの造形も、仏教がヒンドゥー教から取り入れたものなのかも知れない。

 それにしても、クメール様式の神像は、優美である。アンコールワットに行った気分になった。

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三人の女神像

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国王の像

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様々な女神像

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ナーガ(蛇)の下の神像

 密教は、こうしてヒンドゥーの神々を取り入れたが、日本に渡ると今度は日本の神々を取り入れた。

 この宇宙に遍在するあらゆるものが大日如来の変化した姿とする真言密教は、あらゆる神々や考え方を吸収してきた。

 この亜細亜万神殿も、真言宗寺院だからこそ実現出来たものだろう。

 とは言え、やはり中心は仏像である。

 ナーガ(蛇)は、古代インドで最も原始的な神であるが、その蛇の下で禅定する仏陀の像がある。

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ナーガ(蛇)の下で瞑想する仏陀

 さらに、観音菩薩像もある。

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観音菩薩

 この観音菩薩像は、どうもクメールのものではなさそうだ。

 如来は悟りを開いた仏で、菩薩は悟りを目指して修行中の者という位置づけだが、観音菩薩は、大日如来が現実世界の病気や戦争や災害などで苦しむ衆生を救うため、菩薩の姿になって現れた姿とされている。

 回廊には、阪神淡路大震災13回忌の際に、慰霊のためにネパールのチベット密教の僧侶が造った砂曼荼羅の写真が架けられていた。

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曼荼羅法要の様子

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曼荼羅

 曼荼羅は、大日如来を中心とした宇宙の真理を図像化したものである。

 砂曼荼羅を作るという習慣は、日本の密教にはない。鮮やかな色彩で彩られているが、それぞれの色にも実は意味があるそうだ。

 須磨寺のほんの入り口に差し掛かっただけだが、密教が世界的な広がりを持った雄渾な宗教であることを実感した。

松風村雨堂

 綱敷天満宮から北に歩き、山陽電鉄須磨寺駅まで行く。

 須磨寺駅の東側出口のすぐ傍に、「平重衡とらわれの松跡」がある。今は小さな祠があるだけである。

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平重衡とらわれの松跡

 かつてこの辺りには、大きな松の木があったという。

 平重衡は、平清盛の五男で、平家を代表する武将だった。重衡は、寿永三年2月7日の一の谷の合戦で、生田の森に布陣していたが、源氏の軍に敗れ、須磨まで落ち延びて来た。

 重衡はこの辺りで源氏の軍に捕らわれ、ここにあった松の幹に腰をかけ、無念の涙を流したという。

 それを哀れんだ地元民は、重衡に濁り酒を差し入れした。重衡は喜び、「ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて 須磨で飲むこそ 濁酒なれ」という一首を詠んだ。

 重衡は後に鎌倉に送られ、処刑された。

 平重衡とらわれの松跡から東に歩くと、「菅の井」がある。須磨区神町5丁目になる。

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菅の井

 延喜元年(901年)に菅原道真大宰府に左遷させられた時、須磨の地に上陸し、漁民が綱を巻いて作った円座に座って休憩した話は昨日の記事で書いた。

 その時に地元の豪族前田氏が、この井戸から汲んだ水を道真に捧げた。道真は大層喜び、自画像を前田氏に与えたという。

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菅の井

 それ以来、前田氏はこの井戸を菅の井と呼ぶようになった。前田氏は、以後菅の井の水で造った銘酒「菅の井」を毎年太宰府天満宮に奉献するようになったという。

 前田氏は、神功皇后の時代から続く豪族で、ここはその屋敷跡になるという。

 菅の井の側に、菅原道真が植えたという、「菅公お手植えの松」の幹が残されている。

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菅公お手植えの松

 菅原道真ゆかりの地が、ことごとく聖蹟として祀られているというのは、思えば不思議なものだ。

 菅公の物語は、昔の人の心を打ったのだろう。

 ここから更に東に歩き、須磨区離宮前町1丁目にある松風村雨堂に至った。

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松風村雨

 三十六歌仙の一人、在原行平は、平城天皇の孫で、「伊勢物語」の主人公在原業平の兄である。

 仁和二年(886年)、行平は光孝天皇の怒りを買い、須磨の地に流された。

 行平は、今この松風村雨堂のある場所に侘び住まいをしていたと言われている。

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松風村雨

 ここから北に行ったところに、多井畑(たいのはた)村があった。村長の娘である姉妹が、汐を汲みに毎日行平宅の側を通っていた。

 行平と姉妹が出会った時、松林を一陣の風が吹き抜け、娘たちの頬を通り過ぎ、にわか雨が姉妹の黒髪に降りかかった。そこで行平は、姉を松風、妹を村雨と呼んで寵愛するようになった。

 後に行平は天皇に許され、都へ帰った。行平は、姉妹に「立ちわかれ いなばの山の峯におふる 松としきかば 今かへりこむ」という和歌を残し、形見として、かたわらの松の木に烏帽子と狩衣をかけて遺した。

 いなば(稲葉)山は、松風村雨堂の北側にあった山で、行平が月を愛でた場所なので別名月見山とも呼ばれた。

 別れても、稲葉山の側に住む松風村雨の名を聞いたら、すぐに帰ってこよう、という歌意か。

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衣掛の松

 お堂の脇に、行平が狩衣をかけた衣掛の松の幹が残されている。その横には、三代目の衣掛の松が生えている。

 松風村雨姉妹は、行平が去った後、行平の旧居跡に庵を結び、観世音菩薩を祀り、行平の無事を祈った。

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観音堂

 二人が祀ったとされる、観世音菩薩を安置するお堂が中央にある。その脇には、多くの供養塔が集められている。 

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供養塔

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松風村雨の供養塔

 中央の供養塔には、松風村雨と彫られている。

 この姉妹の逸事は、中世になって謡曲の「松風」でも取り上げられている。

 さて、松風村雨姉妹は、晩年は多井畑村に帰って没したと伝えられる。

 須磨区多井畑にある多井畑厄除八幡宮の近くに、松風村雨の墓と伝えられる二基の五輪塔がある。

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松風村雨の墓

 小さな五輪塔で、実際のところはどうか分からぬが、このささやかさが松風村雨の墓に相応しく感じた。

 すぐ近くに、一の谷の合戦で敗れてこの場所で自害した落武者の墓も並んでいた。

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落武者の墓

 須磨という地は、海と砂浜と松と風と月の名勝だ。後世の日本人に、須磨が風流の地だという印象を与えたのが、行平と松風村雨の物語だろう。

 後世の文人は、行平が侘び住まいをして月を愛でたというイメージに憧れて、この地を訪れた。

 紫式部は行平に仮託して、「源氏物語」の須磨の巻を書いた。芭蕉も蕪村も行平を夢見て須磨を訪れたことだろう。

 たった数人の男女の物語が、後世の人のその地の印象を決定づけることがあるのだ。

綱敷天満宮

 村上帝社から国道2号線を東に進み、神戸市須磨区神町2丁目に入る。2号線北側に鎮座するのが、菅原道真公を祭神とする綱敷(つなしき)天満宮である。

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綱敷天満宮鳥居

 菅原道真公が藤原時平の讒言により失脚し、大宰府に船で向かう途中、須磨沖に差し掛かった。

 風波が高く、航海が困難になったため、道真公は須磨に上陸した。

 地元の漁師は、松の木陰に漁網の綱を丸めて円座として、そこに道真公を座らせて歓待したという。

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この松の木陰で道真公が休憩したと伝えられる。

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綱敷の円座像

 綱敷天満宮の境内には、道真公が休憩した松と伝えられる「影向(ようごう)の松」の幹が保存されている。

 おそらく、道真公が生きていた時代の松ではなく、その何代か後の松だろう。

 また、地元漁民が道真公を迎えた円座を象った像が祀られている。

 当ブログ令和元年7月20日の「飾磨の天満宮」で紹介したように、姫路市飾磨区構の津田天満神社も、別名綱敷天満宮と称し、漁師が綱を渦巻き状に敷いて道真公を座らせたという、須磨の綱敷天満宮と全く同じ伝説を伝えている。

 道真公没後から76年経った天元二年(979年)に、地元の漁民が道真像を祀ったのが、綱敷天満宮の起こりである。

 鳥居の前には、神戸市須磨区出身の詩人竹中郁の「綱敷天満宮奉賛歌」の詩碑がある。

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竹中郁の詩碑

 竹中郁は、昭和モダニズムを代表する詩人だが、地元の綱敷天満宮を愛していたことだろう。

 拝殿の前には、道真公の幼い時の銅像と、道真公の母子像が並び立っている。

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幼い菅公像

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菅公母子像

 母子像の下には、道真公の母君が歌ったとされる、「ひさかたの 月の桂も 折るばかり 家の風をも 吹かせてしがな」という歌が刻まれている。

 この歌はいつ読んでも凄まじい歌だなと思う。遠い月に生える桂の木を折るぐらいの我が家の風を吹かせたいという、息子の立身出世を願う母君の気持ちの過大さが表れている。

 いくら何でも、息子に期待を掛け過ぎているのではないかと思ってしまう。それとも他意があるのだろうか。

 自身を失脚させた藤原家と朝廷にあれだけの祟りを与えたとされる道真公も、おそらく強い出世欲を持っていたことだろう。

 人間の上昇志向は、世を進歩させる力の源泉でもあるので、一概に悪いとは言えない。

 境内には、ご鎮座1000年を記念して、昭和54年に建てられた塔がある。

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鎮座1000年の記念の塔

 形は三重塔を模しているが、中に人が入る構造にはなっていない。当ブログでは、今まで訪れた三重塔を数えて来たが、この塔は人が内部に入る構造になっていないのでカウントしない。

 拝殿と本殿は、新しいものである。柱や桁の朱色が鮮やかだ。

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拝殿

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拝殿前の狛犬

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本殿

 ところで天満宮と言えば牛である。道真公は、丑年に生まれ、丑年に亡くなったとされる。

 道真公は、普段から牛を可愛がっていた。道真公が没した時は、公の棺を曳く牛が悲しんで涙を流し、動かなくなったと伝えられている。

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集った子牛たちの像

 また、道真公と言えば梅である。境内の東側には、梅が植えられている。

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境内東側の梅林

 梅林の中央にある石碑は、吟道摂楠流を創始した吟道家藤原摂楠の記念碑である。

 道真公は、大宰府で、「東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」という歌を歌った。

 京の自邸の庭に咲く梅に、遠い大宰府まで匂いを届けてほしいと願う歌だ。

 道真公は、日本の歴史を代表する大怨霊となった人だが、それだけ自己の地位と名誉に執念を燃やしていた人だったのだろう。

 日本人は復讐を果たす物語が好きだが、才能ある人が讒言によって転落し、失意の死を遂げた後、怨霊となって国に復讐し、最後は神として祀られたという道真公の物語に、自分の胸の内にある鬱屈したものが晴れる思いがするのだろう。

 今は学問の神様として人々の願いを受ける道真公こと天神様は、人間臭くて優しい神様だ。