神戸市北区山田町の農村舞台その2

 無動寺、若王子神社の参拝を終え、次に向かったのは、神戸市北区山田町原野にある天津彦根(あまつひこね)神社である。

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天津彦根神社

 今日は、農村舞台を有する神社を三社紹介するが、天津彦根神社がその一つ目である。

 祭神の天津彦根命は、記紀神話の系譜上では、天照大御神の三男である。天津彦根命を祖とする国造(くにのみやっこ)は多い。

 国造は、律令制以前の古代の地方長官のことだが、大和王権が各地を勢力下に置いた際に、地方の有力者一族を任命したものである。

 神話では、各国造の祖先は、系譜上天皇家の傍系とつながっているわけだが、それが本当かどうかは別にして、皇室と日本の有力氏族の祖先を同族とすることで、国の一体感を醸成しようとしたのが分かる。

 ちなみに皇室の藩屏・藤原氏は、天照大御神の次男、天穂比(あめのほひ)命を祖とする。

 長男・天忍穂耳(あめのおしほみみ)命の子孫が皇室である。

 さて天津彦根神社の本殿はささやかなものだったが、彫刻などは凝っていた。

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天津彦根神社本殿

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本殿の彫刻

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 天津彦根神社の有する農村舞台は、それほど大規模ではない。おそらく人形浄瑠璃を主として演ずる舞台だろう。

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天津彦根神社農村舞台

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 それにしても、神戸市北区山田町一帯は、なぜこうも農村舞台が盛んだったのだろう。

 江戸時代には、農村での演芸は原則ご法度であった。当時の農村の娯楽は、祭りぐらいだったろう。

 山田町一帯は、江戸時代には、幕府直轄領だったらしい。西播磨の奥地にも農村舞台は複数あるが、調べてみると、私が訪れた農村舞台は、全て幕府直轄領にあった。

 幕府は、諸藩と比べて、民衆の娯楽を大目に見ていたということか。

 次なる目的地である、神戸市北区山田町下谷上(しもたにがみ)にある天彦根神社を訪れた。

 神戸市立山田中学校のすぐ隣にある神社である。

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彦根神社

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本殿

 この神社の祭神も天津彦根命である。神戸市北区には、天津彦根命を祭神とする神社が不思議と多い。

 下谷上の天彦根神社農村舞台は、天保十一年(1840年)に建てられた。

 この舞台は、神戸市北区山田町の農村舞台としては規模は最大で、間口約12メートル、奥行き約8メートルもある。

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彦根神社農村舞台

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 内部は見学出来なかったが、この舞台は皿廻し式の廻り舞台、花道、太夫座、二重台、大迫り、ぶどう棚を有する。

 また、花道の一部が回転して反橋が出るという、全国唯一の機構を持っている。

 建築年代が古く、凝った機構を有する天彦根神社の農村舞台は、国指定重要有形民俗文化財となっている。

 舞台の床下を覗く隙間があったので、カメラのフラッシュを焚いて撮影したが、廻り舞台と思われる円形の機構が僅かに見えた。

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舞台の床下

 床下から人力で廻り舞台を廻すのだろう。江戸時代に、演劇上の効果を考えながら舞台を設計し、建築するのは楽しかったに相違ない。

 今思ったが、こんな仕掛けのある舞台を農村だけで作ることはできなかったろう。必ずや、舞台建築の専門家が呼ばれたことだろう。

 それを幕府の代官所が把握していない訳はない。となると、公儀の許可があって建設できたものとしか考えられない。

 江戸時代後期には、幕府の民衆支配も緩んでいたのか、敢えて緩ませていたのか、どちらかだろう。
 最後に訪れたのは、神戸市北区山田町上谷上にある天満神社である。祭神は言わずと知れた菅原道真公である。

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天満神社

 天満神社の農村舞台は、建物の中を参道が通る割拝殿式の建物となっている。

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割拝殿となっている農村舞台

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 境内に入るには、農村舞台の中の参道を歩いていくことになる。

 その先にある茅葺の建物が本殿である。

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本殿

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 しかしこの本殿、茅葺のためか、民家か辻堂のように見えて、神社の本殿らしくない。

 さて、天満神社の農村舞台は、舞台の中を参道が通っているわけだが、上演の時はどうするかと言うと、参道を板で覆って舞台にするようだ。

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天満神社農村舞台

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参道を覆う板

 この舞台の地下には奈落という部屋があり、楽屋になっているそうだ。

 天満神社農村舞台は、兵庫県重要有形民俗文化財に指定されている。

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兵庫県重要有形民俗文化財の碑

 江戸時代当時の民衆の娯楽も、後世の我々は文化として見ている。

 ということは、現代の我々の娯楽の中にも、後世文化と見なされるものがあることになる。

 私の世代が子供のころテレビ放送されていたアニメやドラマは、今では懐かしい番組程度の認識しかされていないが、その中でも優れた番組は、後世の人達に今の人達と異なる評価をされるようになるかも知れない。

若王山無動寺 若王子神社 後編

 無動寺本堂で五仏の参拝を終え、境内の西側にある鳥居を潜り、若王子神社に向かった。

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王子神社鳥居

 若王子神社は、無動寺の鎮守社として建てられた神社である。昔は若王子権現を祀っていたが、明治の神仏分離により、無動寺から独立し、若王子神社という名称となった。

 若王子神社の本殿は、永仁五年(1297年)に橘長綱が建てたと伝えられている。今の本殿は、棟札から、応永五年(1408年)に橘光綱が再建したものと分かっている。

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王子神社本殿

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本殿に鎮座する狛犬

 覆屋があることから、全貌を窺うことが出来ないが、覆屋があるおかげで、室町初期の建物にしては傷みが少ない。

 この建物は、形はオーソドックスな三間社流造であるが、屋根が二重になっていて、二重の屋根の間に一枚板の破風板が挟まっている。

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王子神社の側面

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二重の屋根

 こんな形の屋根を持つ神社建築は初めて見た。

 説明板に、覆屋で覆われる前の本殿の写真があった。大正時代の写真らしい。

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大正時代の若王子神社

 若王子神社がなぜこのような屋根を持つに至ったかは謎である。

 若王子神社本殿は、国指定重要文化財となっている。

 さて、一度無動寺境内に戻ると、奥の院への案内標識が目についた。

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奥の院への道

 奥の院は、大概山上にある。最近気が付いたが、今まで訪れた寺院で奥の院があったのは、天台宗真言宗の寺院だけであった。そういえば、禅宗や浄土系の寺院で奥の院がある寺院は聞いたことがない。

 天台宗真言宗の両方共密教系の宗派である。日本密教が山岳宗教である修験道と関係が深いことも影響しているのだろう。

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奥の院の門

 無動寺の奥の院は、境内から歩いて数分のところにある。弘法大師空海を祀る大師堂があった。 

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大師堂

 奥の院の付近には、石仏が多く祀られているが、その中にやはり役小角の石像があった。

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役小角の石像

 役小角修験道の開祖だが、真言宗の信仰の中にも取り入れられている。

 石像を見ると、高い歯の下駄を履いている。役小角は、実在の人物だが謎に包まれた人物で、死後は四国石鎚山に住む大天狗・石鎚山法起坊になったとされている。

 日本独自の信仰である修験道というものは、怪異譚に溢れていて興味深い。

若王山無動寺 若王子神社 前編

 六條八幡宮から細い道を東に走ると、道の分岐に石碑のようなものが見えてくる。地名で言えば神戸市北区山田町福地になる。

 地元で新兵衛石と呼ばれている石である。

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新兵衛石

 徳川時代、第10代将軍家治の治世(1770年ころ)の時、京都所司代で当地の領主だった下総国古河藩主土井大炊頭(おおいのかみ)が、領内巡見に際して福地を通過した。

 その時、この石の陰に身を潜めていた庄屋の子、新兵衛が突然飛び出し、土井大炊頭に村の年貢の軽減を直訴した。

 直訴は大罪であった。新兵衛はすぐに捕らえられ、有馬の藩主宿所に拘引された。

 そこで新兵衛を尋問した土井大炊頭は、15歳の若さで理の通った弁明をする新兵衛の態度に感心して、罪を問うことなく釈放し、年貢の軽減も聞き届けた。

 村人は、新兵衛が直訴の時に潜んだこの石を、記念として後世に残すことにした。

 この新兵衛石から坂を上っていくと、真言宗の寺院、若王山無動寺に至る。

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無動寺参道

 推古天皇の時代に、聖徳太子物部守屋を討伐する際に、戦勝祈願のために仏師鞍作鳥(くらつくりのとり)に造らせた大日如来像を安置したのが、無動寺の始まりと言われている。

 戦に勝った太子は、この地に七堂伽藍を整備した。

 創建当初は普教(ふく)寺と称したと伝わっている。

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苔むす参道

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無動寺山門

 その後寺院は盛衰を経たが、記録が散逸してしまって詳細は分かっていない。

 現在の堂宇は、宝暦二年(1752年)に高野山の真源阿闍梨が、寺院の荒廃を嘆いて20数年の勧進努力をした結果再建したものであるらしい。

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本堂

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庫裡

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 本堂は、江戸時代中期の建物と思えないほど新しく見えた。

 庫裡は入母屋造の茅葺の建物で、こちらの方が時代を感じさせる。

 境内に宝篋印塔があったが、かなり古いものに見えた。

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宝篋印塔

 南北朝期のものに見える。どういういわれのものなのかは分からない。

 普教寺は、明治に入ってからの廃仏毀釈の際に、末寺と合併し、寺号を無動寺と改めたそうだ。

 無動寺には、国指定重要文化財となっている五体の仏像が祀られている。

 大日如来坐像、釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、不動明王坐像、十一面観音立像である。いずれも平安時代に造られた木造の仏像である。

 当然そんな貴重な仏像は拝観出来ないだろうなと思って諦めかけると、ふと本堂に「国重要文化財五仏拝観できます」という張り紙が貼ってあるのに気付いた。

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本堂正面

 しかしどうも境内には人の気配がなく、無人に思えた。本堂正面に備えられた呼び鈴を押すと、暫くして寺のご婦人が本堂の戸を開けて出て来られた。

 拝観料は300円であった。お金を払って本堂の中に入った。

 国指定重要文化財の五体の仏像は、本堂の奥の巨大なガラス壁の向こう側に、大日如来坐像を中心に並んでいる。

 その左右に平安時代の作の多聞天持国天の像が侍している。

 こんな古い仏像が、時代を超えて現在まで複数残っているのは、感心すべきことだ。創建から江戸時代の再建までのこの寺院の歴史は分かっていないが、仏像を守るために並々ならぬ努力が払われたことだろう。

 本堂内は写真撮影不可だったので、無動寺ホームページに掲載されていた仏像の写真を掲げる。

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大日如来坐像

 五仏の中心に祀られている大日如来坐像は、木製の巨大な仏像で、非常に穏やかなお顔をされていた。

 印象的だったのは、不動明王坐像である。

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不動明王坐像

 爛爛と光る眼でこちらを見下ろしている。

 私は敬虔な気持ちになった。数珠を持たなかったが、五仏の前で線香を上げ、正座をして金剛合掌を結び、昨年亡くなった父のことを思いながら般若心経を唱えた。

 お経を唱えると不思議と静かな気分になる。ご婦人に礼を言って本堂を出た。

六條八幡宮

 帝釈山から下山して、神戸市北区山田町中にある六條八幡宮に向かった。

 今六條八幡宮のある場所は、朝鮮征伐に際し、丹生山の丹土を求めるため、この地に行幸した神功皇后の行宮址とされている。

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六條八幡宮鳥居

 長徳元年(995年)、周防国の基灯法師が神功皇后ゆかりのこの地に来て、黒木の宝殿を一宇建立し、八幡三所の神霊を勧請した。当初は若宮八幡宮と呼ばれていた。

 その後保安四年(1123年)、六條判官源為義(頼朝の祖父)が、山田庄の領主となった際、京の左女牛(さめがい)の自邸に祀っていた八幡大神をこの地に勧請し、古くから祀られていた八幡神と合祀した。

 それからは、為義の役職に因んで、六條八幡宮と呼ばれるようになった。

 その後、山田庄は平家の領地となったが、平家滅亡後、頼朝が京都六條の若宮八幡宮に山田庄を寄進した。山田庄はこのように源氏にゆかりのある地である。

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六條八幡宮境内

 六條八幡宮の特徴は、神社でありながら境内に三重塔があることである。神仏混淆時代の名残だ。

 神社にある三重塔は、全国で18棟あり、その内3棟が兵庫県にある。兵庫県にある3棟の内、私は既に丹波市にある柏原八幡神社の三重塔を見学した。2つ目がこの六條八幡宮のものである。3つ目は、養父市名草神社にある。上手くいけば、次の但馬の旅で紹介することが出来るだろう。

 六條八幡宮の境内には、神戸市の市民の木に指定されているイチョウがある。

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境内のイチョウ

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 夏の緑のイチョウは涼しげでいいものだ。

 拝殿は、吹き抜けとなった舞台のような形の建物である。

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拝殿

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 ところで六條八幡宮には、神戸市指定有形文化財となっている能舞台がある。うっかり見過ごして、ちゃんと写真に収めることが出来なかったが、上の写真の右隅にかろうじて一部が写っている。

 本殿は貞享五年(1688年)に建てられたもので、これも神戸市指定有形文化財である。一般的な流造だ。

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本殿

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本殿前の木造狛犬

 本殿の隣には、六條八幡宮が円融寺という寺院だったころの名残の薬師堂が建っている。

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薬師堂

 円融寺は、第64代円融天皇の祈願所として建てられた。円融天皇が没したのは、六條八幡宮が創建された長徳元年(995年)の4年前だから、基灯法師が円融天皇を弔うためにこの地に先ず円融寺を建て、その鎮守として八幡大神を勧請したというのが、実際の順序だったろう。

 そして明治の廃仏毀釈で円融寺が廃寺となり、鎮守の八幡神社が残ったのだろう。

 六條八幡宮の境内にある三重塔は、私が史跡巡りで訪れた20番目の三重塔である。

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三重塔

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 六條八幡宮三重塔は、文正元年(1466年)に地元の有力者鷲尾綱貞が建てたものである。

 総高17.42メートルで、檜皮葺の屋根を持つ。屋根の端が反り上がっているところは室町時代の特色をよく現わしているという。国指定重要文化財である。

 この塔は、かつては朱色に彩色されていたそうだ。今でも木材の一部に当時の彩色が残っている。

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三重塔に残る朱色

 朱色の鮮やかな三重塔もいいが、今のように木材の地肌がむき出しの三重塔もいいものだ。

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三階部分

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二階部分

 二階、三階に付けられた手摺が優美である。

 三重塔の内部には、寺院であれば大日如来像が祀られていることが多いが、神仏分離後のこの三重塔の内部には何が祀られているのだろう。

 凝った彫刻などは施されていないが、檜皮葺の屋根の反りの鋭さと斗供などの木材の組み物がひたすら美しい、観ていて飽きが来ない塔である。

 八幡信仰は、豊後国宇佐の御許(おもと)山の巨石信仰に、応神天皇八幡大神とし、その母・神功皇后を神母とする崇拝が加わり、宇佐地方に古くから伝わった仏教とも習合された信仰である。

 源氏が八幡大神氏神としたことにより、武神としても崇拝されるようになった。

 和気清麻呂が皇統護持の神勅を得たのも宇佐八幡宮である。

 八幡大神は、まさに日本の守護神のようなものである。八幡信仰の源である御許山にいつか行ってみたいと切に願うようになった。

丹生神社 明要寺跡 後編

 丹生神社の二の鳥居を過ぎて、境内に入っていく。

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丹生神社二の鳥居

 二の鳥居を過ぎると、石垣が見えてくる。

 天正七年(1579年)、三木合戦の際、多くの僧兵を有した明要寺は、秀吉と対立する三木の別所氏側に付いた。

 明要寺は秀吉軍の攻撃を受け、堂塔は焼かれた。

 私は、播州周辺の社寺を巡ってみて、ほとんどの社寺が天正の三木合戦の時に焼かれていることを知った。別所に味方した社寺は秀吉に焼かれ、秀吉に味方した社寺は別所に焼かれている。

 焼かれなくても、三木合戦後に秀吉によって朱印地を減らされた社寺は、秀吉に積極的に味方しなかったのだなと分かる。

 加古川市鶴林寺は、例外的に燃やされていないが、どんな事情があって焼失を免れたのか、知りたいところだ。

 さてこの石垣が、丹生城跡のものかどうかは分らない。

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石垣

 しかし、上部が垂直に立っているところを見ると、防御用の石垣のように見える。

 この石垣の上には、城跡として言うと、二の丸と言うべき平地がある。今は社務所が建っている。

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社務所

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 大きな建物であるので、社務所というよりは、祭事の時に地元の氏子が利用する建物といっていいだろう。

 建物の前に土俵がある。標高500メートル以上の山頂まで登ってきて相撲をする元気があるのは、子供くらいだろう。

 この先には、本殿のある台地がある。

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本殿への石段

 城跡で言うと、本丸跡だろう。

 石段を上ると、社殿がある。

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丹生神社拝殿

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本殿

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木鼻の牡丹の彫刻

 本殿の向拝の木鼻は牡丹であった。多くの神社建築では木鼻は獅子や獏といった霊獣なので、ちょっと珍しい。

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脇障子の鳳凰

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本殿前の木造狛犬

 ささやかな社殿であったが、静かな威厳を感じた。祭神の丹生都比売命に一礼した。

 境内に、小さいが寺院建築と思われるお堂があった。

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小さなお堂

 ひょっとしたら、明治の明要寺の廃寺以前からあった建物かも知れない。

 丹生山の頂上からは、南東方向がよく眺められる。

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鈴蘭台方面

 南東方向には、少し霞んでいるが、神戸市北区最大の住宅街、鈴蘭台や小倉台が見える。

 余談だが、谷崎潤一郎の「細雪」を読んだ時に、小説中に鈴蘭台という地名が出てきて驚いたことがある。

 「細雪」の舞台は、昭和13年ころの神戸阪神間の中上流階級の生活だが、戦後に出来たニュータウンのような名称の鈴蘭台が、戦前に既にあったことは新鮮な驚きであった。

 小説中の些細な発見に過ぎないが、戦前と戦後の日本が連続していることを実感した。

 さて、丹生神社の参拝を終え、明要寺の奥の院があったという帝釈山に向かった。

 帝釈山は、丹生山の隣にある山で、標高は約586メートルである。

 二の鳥居の脇から帝釈山に向かう道が分かれている。

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帝釈山への道

 麓から丹生山頂上までは約1時間かかったが、ここから帝釈山頂上までは約40分かかった。

 特に頂上手前から道が急になり、かなりへたばった。その代わり頂上からの眺めはとても好かった。

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帝釈山頂上

 かつて帝釈山の明要寺奥の院には、梵天帝釈天を祀っていたという。2つの小さな石の祠はあったが、明治の廃仏毀釈で撤去されたのか、石像はなかった。

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2つの石の祠

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 帝釈山頂上からは、南側への眺望が開けている。

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帝釈山からの眺望

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淡路島の眺望

 特に素晴らしいのは、淡路島が見渡せることである。写真ではぼんやりとしか映っていないが、肉眼では明石海峡大橋も小さくはっきり見える。

 手を伸ばせば、淡路島をにゅっと手で掴めるのではないかと錯覚するような眺めだ。

 帝釈山から下りて、麓に戻った。

 帝釈山の東側には、稚児ヶ墓山と花折山という山が連なっている。

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稚児ヶ墓山

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花折山

 秀吉軍が明要寺を焼き討ちし、僧兵を多数殺害した時、寺の稚児も多数焼死した。村人たちは憐れんで、稚児たちの亡骸を稚児ヶ墓山に葬ったという。

 またその東隣の花折山から花を折って、稚児たちの墓に供えたそうだ。

 信長軍は、延暦寺を焼き討ちしたり、一向一揆衆を皆殺しにしたり、反抗する宗教勢力に対しては、徹底した弾圧を加えたが、史跡巡りをすると、秀吉も光秀も忠実にその方針を履行していたのが分る。

 秀吉は、最終的に刀狩りをすることにより、平安時代から武力で宮廷を悩まし続けた宗教勢力を完全に武装解除させた。

 秀吉の最大の功績は、宗教勢力が武力をちらつかせて政治に容喙する日本の悪習を打ち砕いたことだと思われる。

丹生神社 明要寺跡 前編

 箱木千年家から北東方面を見上げると、次なる目的地の丹生(たんじょう)神社が山頂にある丹生山が見える。

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奥が丹生山

 丹生山は、標高約515メートルの山で、帝釈山、稚児ケ墓山、花折山などと共に、丹生山系という山地を形成している。

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丹生山史跡道しるべの説明板

 丹生山には、箱木千年家周辺に入口のある、義経道という源義経ゆかりの道からも登れるが、私はオーソドックスに丹生神社の一の鳥居からの参拝道を登ることにした。

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丹生神社一の鳥居(左奥が丹生山)

 丹生神社の祭神は、丹生都比売(にうつひめ)命である。丹生都比売命は、水銀鉱業を生業とする丹生氏の氏神である。

 神社建築の朱塗りなどに使われる丹土(たんど)は、硫黄と水銀が化合した辰砂と呼ばれる赤土である。

 古代、朱色は魔除けの色とされ、古墳の石室や棺の中にも塗られている。

 「播磨国風土記」では、神功皇后が丹生都比売命の神託を受けて丹生山にやってきて、丹土を採取して、船や武具に塗って朝鮮に出征し、無事に帰って来たという。

 丹生山は、辰砂が取れる山として、貴重な山だったのだろう。

 丹生山には、江戸時代まで、丹生神社だけでなく、明要寺という寺院があった。明治の神仏分離令により廃寺となったが、かつて平清盛が福原に遷都する構想を持った際、西の比叡山にしようと考えたほどの大規模な寺院であった。

 丹生山の登り口から頂上まで、一丁(約110メートル)毎に建てられた丁石があるが、これも清盛が建てたものと言われている。

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丹生山登り口の地蔵兼丁石

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 丹生山の登り口の道の真ん中には、地蔵があるが、その下に「従丹生山二十五丁」と彫られている。山頂から最も離れた丁石である。

 この地蔵は、流石に清盛の時代のものではなく、せいぜい江戸時代後期のものだろうと思われる。

 この地蔵から山頂まで、一丁毎に丁石が建っている。

 この地蔵のすぐ下に、丹生宝庫という、明要寺の宝物を収蔵している庫がある。

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丹生宝庫

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丹生宝庫の唐破風

 丹生宝庫には、清盛が寄進した明要寺の伽藍図や、秀吉公朱印折紙などが収蔵されているという。毎年5月5日に公開されるらしい。

 丹生宝庫には、彫刻が施された唐破風が付いているが、ひょっとしたらこの唐破風は、元々明要寺の建物に付いていたもので、明治の廃寺に際し、保存されることになったのではないかと思った。

 さて、地蔵の脇を通って、丹生山に向かって歩き始めた。登り始めてすぐ道が二股に分かれる。左側の黄色い車止めのある方が、丹生山への道である。

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丹生山への道

 途中から道が舗装され、案外登りやすい。

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登山道

 道の脇には丁石がある。この丁石は、伝説では清盛が建てたとされているが、実際は南北朝時代以降のものであるらしい。

 清盛は、丹生山と明要寺を、王城守護のための西の比叡山にしようとし、山上に比叡山の守護神、日吉山王権現を勧請した。

 山王権現は、明治まで祀られていたが、明要寺が廃寺となってからは、山王権現は丹生神社になり、丹生都比売命が祭神となった。

 山道を登っていくと、途中水音が聞こえてきた。沢が流れている。

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途中の沢

 沢沿いに舗装路を歩くと、赤いちゃんちゃんこを付けた延命地蔵が見えてくる。明要寺があったころの名残の地蔵だろう。

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延命地蔵

 この延命地蔵から左に曲がると、丹生山頂に至る。曲がって直ぐに昭和16年に架けられた石橋がある。

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丹生山への道

 橋の手前の丁石を見ると、山頂まで十一丁のところまで来たことが分かった。

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山頂まで十一丁の丁石

 橋を渡ると、俄かに道が急になった。前身汗まみれになって登っていく。

 そしてようやく山頂まで二丁の丁石まで来た。最後の丁石である。

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山頂まで二丁の丁石

 丹生神社の二の鳥居の手前の台地に、昭和後期の兵庫県知事坂井時忠が揮毫した「史蹟 丹生山城 丹生山明要寺跡」の石碑があった。

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「丹生山城 丹生山明要寺跡」の石碑

 明要寺は、多くの僧兵を有したが、南北朝時代新田義貞の将の金谷経氏が僧兵を頼って丹生山に城を築いたという。

 丹生山明要寺は、百済聖明王の王子恵が創建したと伝えられる。王子恵は、半島から技術者集団を引き連れて、明石に上陸し、明石川を遡り、勅許を得て丹生山に堂塔伽藍を建立したという。王子恵は、史実では百済王として半島で即位し、死去したとされているので、明要寺創建説話は伝説の域を出ない。

 斉明天皇六年(660年)、唐に攻められた百済は滅亡した。百済は日本の同盟国だったため、百済の王族を始め、多数の百済人が日本に難民として渡って来て定住した。

 百済の遺民が明石に上陸し、東播磨やこの地に寺院建築の技術を伝えたことはあったかも知れない。

 日本の歴史を調べると、日本は決して純血な一民族による国家ではなく、海を渡って来た様々な民族が混淆して出来た移民国家であることが分かる。

 少子高齢化が進むこれからの日本は、必然的に古代と同じく移民国家の道を歩まざるを得なくなると思われるが、私は案外日本文化はそれによって揺らぐものではないと楽観視している。

 その理由については、今後日本という国の形や、日本の行く末について触れる機会があれば書いてみたい。

神戸市北区山田町の農村舞台その1 箱木千年家

  雪見御所旧跡の見学を終え、国道428号線、通称有馬街道を北上し、神戸市北区に入る。

 神戸市北区には、あまり知られてはいないが、江戸時代から続く文化が息づいている。

 それは、神社で演じられる農村歌舞伎等の演芸である。

 丁度1年前に紹介した神戸市北区淡河町北僧尾にある厳島神社農村舞台は、現存する日本最古の農村舞台だが、神戸市北区には、他にも農村舞台を備えた神社が複数存在する。 

 農村舞台では、歌舞伎、浄瑠璃、能が演じられる。

 まず訪れたのは、神戸市北区山田町藍那(あいな)にある藍那八王子宮である。藍那の集落の中にある。

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藍那八王子宮の参道

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 藍那八王子宮の参道手前に崩れかけた蔵がある。一揺れ地震でも来ようものなら、崩れてしまいそうだ。

 参道を進むと、行く手に社殿と農村歌舞伎舞台が見えてくる。

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藍那八王子宮境内

 しかしこの農村歌舞伎舞台、茅葺の屋根に雑草が生えて、これまた崩れそうな傷みようであった。

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農村歌舞伎舞台

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 この農村歌舞伎舞台は、明治初年に建てられたものである。

 江戸時代には、農民による芝居の上演や鑑賞は原則禁止されていたようだが、実際は農村での娯楽として上演されていたようだ。

 現在の兵庫県地域は農村歌舞伎が盛んで、その中でも特に神戸市北区山田町地域は盛んだったという。

 天保十二年(1841年)から始まった、水野忠邦天保の改革による風紀引き締め策で閉鎖された大坂の芝居小屋から、職を失った浄瑠璃太夫人形遣いたちが、山田の地に流れてきたという。このころから明治30年代までが、この地域で農村歌舞伎が最も盛んに行われた時期のようだ。

 昭和中頃には、各地の農村歌舞伎も廃絶されたが、平成27年から北区農村歌舞伎上演実行委員会の主催で、農村歌舞伎が再び演じられるようになったそうだ。

 しかし、流石にこの藍那八王子宮のぼろぼろの農村舞台では演じられていないだろう。

 藍那八王子宮の社殿はささやかなものだが、意外と彫刻が立派であった。

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藍那八王子宮の社殿

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脇障子の獅子の彫刻

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 藍那八王子宮から神戸市北区山田町小河にある大歳神社に向かう。
 小河大歳神社は、本当にここは神戸市内かと思うほどの、のどかな農村地帯の中にある。

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小河大歳神社

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境内の杉

 この神社にある農村舞台は、神戸市北区山田町の中では、下谷上の天彦根神社、上谷上の天満神社のものに次ぐ規模を誇り、長殿と呼ばれているという。

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小河大歳神社の農村舞台

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 この小河大歳神社の農村舞台では、今も農村歌舞伎が演じられているそうだ。 

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小河大歳神社社殿

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本殿の覆屋

 窮屈な暮らしをしていた江戸時代の農民にとって、農村で行われる演劇は、最大の娯楽だったろう。
 さて、小河大歳神社から北上して、北区山田町衝原にある箱木千年家を訪れた。
 箱木千年家は、現存する日本最古の民家で、14世紀に建てられたものだということが分かっている。国指定重要文化財である。
 しかし、最近は閉館しているようで、私が訪れた時も閉館していた。残念である。

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箱木千年家の遠望

 箱木千年家は、藤原鎌足の末裔とされる箱木家が居住していた家である。箱木家は、衝原氏とも称し、戦国時代には三木の別所氏の家臣として秀吉軍と戦った。
 主家の別所氏が秀吉に敗れてからは、帰農して村の庄屋になったようだ。
 今も箱木千年家の東隣には、箱木さんのお宅がある。先祖代々受け継いで、今や日本最古となった家を守っていくのは、重責だろう。

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箱木千年家

 箱木千年家は、入母屋造、茅葺の屋根を持つ。今回は閉館していたが、私は約10年前に箱木千年家の内部を見学したことがある。
 床や柱が鉋ではなく打斧で削られていて、鎌倉彫のような素朴な味わいを出していた。
 箱木千年家の西側には、ダム湖の衝原湖がある。箱木千年家は、元々は今の衝原湖の湖底に建っていたが、ダムの建設に伴い、昭和52年に現在地に移された。

 江戸時代中期には、周囲の家より一際古い民家と見做され、既に千年家という名称で呼ばれていたという。

 茅と木材と土で出来た民家が、700年近く生き延びたというのは、それだけで立派なことである。

 日本は湿気の多い国で、雨風や地震に起因する災害が何度も襲ってくる。木造建築には過酷な環境だが、世界で最も木造建築が発達している国でもある。

 今ある文化財級の木造建築を後世に残すことは、それだけで挑戦的なことだ。