知足

 昨年末から、明治書院の「新釈漢文大系」を読み始めた。

 今は第9巻の「古文真宝(前集)」上巻を読んでいる。

 中国の古典を読んでいると、子供の頃から私が求めていたものはこれだという思いを強くする。

 子供の頃から、風がよく通る、畳が広々と敷かれた座敷で、自分が一人で書物を読むところを思い描いて、そんな生活こそ理想の生活だと考えていた。

 そんな場所で読む書物に何が相応しいか。

 私が今まで読んできた三島由紀夫森鷗外や日本古典や仏典は、それなりに相応しいもののように思えたが、どれも近いようでピタリと来なかった。

 最近読み始めた漢籍は、まさに私が思い描いていた理想の生活の核心にピタリと嵌ったのである。

明治書院「新釈漢文大系」の古本

 昨日、「古文真宝(前集)」の陶淵明の詩、「讀山海経」を読んだ。

 私の気持ちと似た気持ちを、陶淵明漢詩にしているように感じた。

孟夏草木長 繞屋樹扶疎

(夏の初め、草木は伸びて 家を取り巻いて樹々ははびこっている)

衆鳥欣有託 吾亦愛吾盧

(多くの鳥は身を寄せる所があるのを喜んでいるが 私もまた身を安んずるわが小屋を愛して暮らしている)

既耕亦已種 時還読我書

(すでに畑を耕して、種まきも済んだ 時にまた私は書物を読む)

窮巷隔深轍 頗回故人車

(路地の奥に引っ込んで、貴人の車の通る轍の深い道から隔たって住み 尋ねて来る昔馴染みの友人の車も度々めぐらして帰らせた)

欣然酌春酒 摘我園中蔬

(喜んで春の酒を酌み 自分の畑の野菜を摘んできて酒の肴にする)

微雨従東来 好風与之倶

(微かな雨が東の方から来て 好い風がそれに伴って吹いて来る)

汎覧周王伝 流観山海図

(詳しく周王の伝を読んで あまねく「山海経」の絵図を観る)

俛仰(ふぎょう)終宇宙 不楽復何如

 (読書して天を仰ぎ地に俯く間に宇宙の全てを見る これが楽しくなければ、何が楽しいというのか)

 静かな茅屋で自然を友にして、古い書物を読み、宇宙を思う。

    貧しくとも自分の生活に満足した、知足(足るを知る)の境地である。

 だが私は陶淵明のように酒を嗜まない。李白は、酒を飲まずに陶淵明の真似をする輩を笑った。酒を飲まなければ、この境地には至れないか。

 孔子が始め、孟子荀子が継承した儒学と、老子が始め、荘子が継承した道教は、目指す向きが異なるが、共通する部分もある。

 それは、知足ということである。今の己に満足するということである。

 孔子は、「論語」の一番初めにこう書いている。

人不知而不愠 人知らずして愠(うら)みず

(自分の学徳が世間で認められなくても、不平不満を抱かない)

   「論語」学而第一

 人が学問をするのは、自分のためや人のためにするものであって、人に認めてもらうためにするものではない。

 学問は自分の努力で進めることが出来るが、それを他人が認めてくれるかどうかは他人次第であって、自分の努力でどうすることも出来ない。

 自分の努力で左右することが出来ないことに、心を遣うことは、無駄なことである。

 そう考えて世間を見てみると、世の人の多くは、自分を認めてもらうために、無駄な心労を重ねている。

 曰く「俺はこんなに頑張っているのに、誰も認めてくれない」、曰く「私ばかりがこんな苦労をしている」、曰く「もっと私を見てほしい」、曰く「なぜあいつばかりが認められる」、曰く「俺のインスタはフォローが伸びないのに、あいつのインスタはフォローが伸びている」、曰く「LINEが既読スルーされた」等々。書くだけでしんどくなってくる。

 他人に認めてもらいたいということは、自分の評価を他人に委ねるということである。自分の人生を他人に譲り渡すようなものである。他人の評価は常に安定しない。他人に自己の評価を委ねていては、穏やかに人生を過ごすことが出来ない。そしてその他人は、結局のところこちらの人生の責任を取ってくれないのである。

 孔子は、自分の人生の主役は自分であることを宣言したのである。自主的な人物でなければ、世の中で信頼を得、人の役に立つことは出来ないと言ったのである。

 知足は「老子」に出て来る言葉である。他人のものを得ようとせず、今の自分の境遇に満足するということである。

故知足之足、常足。

(足ることを知って満足すれば、いつも不足を感ずることはない)

  「老子」倹欲第四十六

 どこで満足するのかを決めるのは他人ではなく自分である。

 「中庸」は、仏教でいう「般若心経」のようなもので、儒教の精髄を短い文章にしたものである。

 「中庸」の作者は、孔子の孫の子思と言われているが、伝説の域を出ない。

 「中庸」の第三節は、私が一読して感激した一節である。

君子素其位而行、不願乎其外。

(世に出ては、君子は自分の当面する位置、境遇において道を行うことに最善を尽くし、みだりに他人の境遇を羨まない)

(中略)

君子無入而不自得焉。

(君子はどんな境遇に入ろうとも、常に自主自由に道を行うのである) 

   「中庸」第三節

 他人を羨まず、他人の評価に拘らず、今現在の自分の置かれた境遇でベストを尽くすということだ。

 考えてみれば、人生の秘訣は、これ以上を出ないのである。 

 他人を羨まず、自分の人生に満ち足りた思いをなす。これはなかなか難しい。

 森鷗外は、東京大学医学部を卒業し、陸軍に入っては軍医としての最高の官位である陸軍省医務局長、陸軍軍医総監になった。

 陸軍を退官してからは、帝室博物館総長兼宮内省図書頭となり、日本の文化財管理の最高責任者になった。

 文学者としては、漱石と並ぶ近代日本文学の文豪として称せられ、その作品は、我が国の文章の規範として、永遠に後世に残るものである。

 日本史上、これほど自己実現を成し遂げた人も珍しい。だがそんな鷗外も、自分の人生に何か満ち足りぬものを感じていた。

 鷗外は、49歳の時に書いた半自伝小説「妄想」にこう書いた。

 こう云う閲歴をして来ても、未来の幻影を逐うて、現在の事実を蔑にする自分の心は、まだ元のままである。人の生涯はもう下り坂になって行くのに、逐うているのはなんの影やら。

   森鷗外「妄想」

 鷗外ほどの人物でも、自分が本当に求めていることが何だか分からず、知足の境地に至っていないのである。

 我々凡人が、どんなに努力しても、鷗外の学識と名声には到達できない。その鷗外とて、自分の人生に満足することが出来なかったのである。

 知足するには、如何に最高の学歴を経ても、最高の学識を得ても、出世して最高の官位に辿り着いても、歴史に残る仕事をして名声を得ても、無駄なのである。

 他人の物差しではなく、自分の物差しで自分に満足しなければならないのである。

 「論語」の中で、なかなかユーモラスで、道教にも通じる一節がある。

子曰、飯疏食、飲水、曲肱而枕之。楽亦在其中矣。

孔子が言った。粗末な飯を食い、水を飲み、腕を曲げて枕にして寝る。楽しみはその中にある)

   「論語」述而第七

 大宮殿に住んで、数多くの臣下や妻妾を従え、巨万の富を得た王様でも、知足していなければ、心の不安を拭い去ることは出来ない。

 一方で粗末なあばら屋に住んでいて、粗食を食い、水を飲み、肱を枕にして寝ていても、知足していれば、満ち足りた思いになることが出来る。

 これは、孔子が他人の評価に左右されない、「道」を自分のものにしていたからであろう。

 我々凡人が道に至るのは難しい。一旦道を目指すという気持ちを捨てて、先ほど引用した「中庸」第三節にあるように、他人を羨まず、自分の置かれた境遇でベストを尽くすということを続けるしかないだろう。

 子供の頃、父と一緒に風呂に入った時、父は私によく、「お前はお前や」と言った。

 父は、中国古典など読んだことはなかったろうが、私に言いたかったことは、今まで私が書いたようなことであろう。

時計について 2

 令和元年10月10日の「時計について」という記事で、私はSEIKOのSARB035を愛用していると書いた。

 ところが、令和4年5月に、愛用していたSARB035が突然止まってしまった。どうやらゼンマイが切れてしまったらしかった。その時点で、購入してから、約7年経過していた。

 SARB035は、自動巻きの機械式時計であった。高い時計はいらないと思っていたが、機械式時計にこだわって、国内で販売されている機械式時計の中で最も安いSARB035を買ったのであった。

 購入当時で、SARB035は約38,000円であった。その前に使用していたオメガ・スピードマスター・プロフェッショナルが、4年ごとのメンテナンス費用が約40,000円かかることを思えば、新しいSARB035を購入してもよかった。

 だが、SARB035のゼンマイが切れてしまった時点で、私の中で、機械式時計への気持ちはなくなってしまった。

 定期的にメンテナンスが必要な時計は、もう私には必要ないと思ったのである。

 そこで、クォーツ時計を探すことにした。

 スマートフォンがある時代に、そもそも腕時計が必要なのか?と思われる方もおられるかも知れないが、私は腕時計をして育った世代である。外出した時に腕時計をしていないと、何か忘れ物をしたみたいで落ち着かない。又、時間の確認のためにいちいちスマートフォンを開くのも面倒くさい。ぱっと腕時計を見て時間を確認したい。

 機械式であるならば、中の機械にこだわりを持つところであるが、クォーツはどんなものでも中身は同じであると思った。

 そうとすれば、なるべく安いものでいいではないかと思ったのであった。

 そこで私は、俗にチープカシオ略して「チプカシ」と呼ばれる時計に興味を持った。

 最初に候補に挙げたのは、世界的なベストセラー時計、F91Wである。

CASIO F91W

 この時計、実勢販売価格は、約1,500円である。ホームセンターの時計コーナーで売っている、極めて安っぽい(誉め言葉)時計である。

 だが、アマゾンなどで調べてもらえば分かると思うが、この時計、世界各国で絶賛されているロングセラー、ベストセラー時計なのである。

 この安さで必要最低限の機能は維持されており、なおかつ日常生活防水なのである。そして、どこか1980年代っぽいレトロ感のあるデザインがいい。

 中東や南アジアではよく売れている。そのような発展途上国だけでなく、先進国の有名人や映画俳優も着けている。

 例えば、アメリカのオバマ大統領がF91Wを着けていたことは有名である。

 そして皮肉なことに、そのオバマ大統領の指示で殺害されたオサマ・ビンラディンが愛用していたことでも知られている。

 この時計は、イスラム過激派のテロリストが自作する時限爆弾の起爆装置に使われていたことでも知られている。機能が単純で、どこでも手に入るし、極めて安価であるというのがその理由である。

 イスラム教徒は、腕時計を不浄の手である左腕に着けずに右腕に着けるそうだが、このF91Wを右腕に着けているものを見たら、テロリストであることを疑えと、冗談のように言われている。

 因みに、中東やアフリカの、暑くて砂埃が舞う過酷な環境で、テロリストが愛用している製品は、他にもある。

 小銃であればロシア製のAK47、携帯対戦車擲弾発射機であればロシア製のRPG-7、車であればトヨタランドクルーザーやハイラックス、バイクであればホンダのCG125である。

 どれも単純かつ頑健、修理が容易という共通点がある。

CG125

 ホンダCG125は、今では国内では製造販売されていない。中国やパキスタン、メキシコなどでライセンス生産されている。

 ホンダが、1970年代に、道路が整備されておらず、使用環境が過酷な東南アジアや中東といった発展途上国で販売するために開発したバイクである。

 その安い車両本体価格、単純で堅牢で修理しやすい単気筒空冷OHVエンジンと、優れた燃費(リッター60キロメートルを超える)、重い荷物を載せられるように極めて頑健に作られた後輪のショックアブソーバーのおかげで、発展途上国では未だに愛用され続けている。

 アフガニスタンタリバンは、数年前に自分達の機関紙で、このCG125を「戦馬」「神が与えてくれたバイク」と絶賛していた。

 タリバンは、このCG125を使って戦い続け、ついにアフガニスタン全土を制圧した。言わば米軍に勝ったバイクである。 

 数年前から私は、マリ、ブルキナファソニジェールといったサヘル地域で勢力を広げているアルカイダ系の武装組織JNIM(イスラムムスリムの支援団)の動向をウォッチしている。

 この勢力は、いずれマリやブルキナファソの軍事政権を倒して、アフリカの一角にサラフィー・ジハード主義の国家を建設しそうな勢いを維持している。

 タリバンが、アフガニスタンから外に出ようとしないのに比べ、JNIMは、かつてのISのように、イスラム世界全域の征服を目論んでいるように見える。

 アフリカの片隅のこの勢力を、今のところ世界はほとんど注視していないが、いずれJNIMが各国のテレビニュースに出だした頃には、「もう手遅れ」という状態になっているだろう。

 現時点でも、既に一時のISに匹敵する面積の地域を支配下に収めている。

 このJNIMの戦士が使用しているのも、CG125である。彼らは、右腕に間違いなくF91Wを着けていることだろう。

 話が脱線したが、F91Wは、バンドがゴム製である。使っている内に、2~3年でバンドが切れてしまうという情報があった。

 そこで私は、同じチプカシで、バンドが金属製のA158Wを選んだ。金属製のバンドなら、切れることはない。

 令和4年5月に、私は休日に近所のホームセンターまで歩いて行って、約2,500円でこの時計を買った。

A158W

 文字盤のデザインは80年代風だが、80年代に子供時代を送った私にとって、どこか懐かしい飽きが来ないデザインだ。

 時間を確認するだけなら、これで十分である。

 本体は銀色なので金属製に見えるかも知れないが、樹脂製である。極めて薄くて軽い。着けているのが気にならない軽さと薄さだ。

 これを一度着けてしまうと、もう重い機械式時計や、ごついG-SHOCKなどは、しんどくて着けられない。

 A158Wは、ボタン式電池で動くが、普通に使っている限りは、電池は約10年もつそうだ。

 電池は100均で売っている。youtubeで交換方法が公開されていることだろう。電池が切れたら自分で交換しようと思う。

 こうして私が、チプカシ生活を始めて3年が経った。風防にも傷がついたが、元々2,500円の時計なので、全く気にならない。

 もし亡くしても、安いのでまた買えばいいくらいの気持ちでいる。

 高い時計は高い時計でいいものなのだろうが、私にとってはこの時計で十分である。  

 ひょっとしたら、この時計の千倍、1万倍の値段の時計よりも、私に満足感を与えてくれているのかも知れない。

 優れた工業製品は、値段を超えた価値を持っている。

史跡巡りの休止について

 令和元年6月2日にブログを開始してから、間もなく6年が来ようとしている。

 この間に投稿した記事の数は1365回に至った。記事の大半は、史跡巡りに関するものだった。

 次回は小豆島の北東側を巡り、小豆島全島の史跡巡りを終える筈であった。

 その次は鳥取市の史跡、その次は、「日本一危険な国宝」のある伯耆三徳山三佛寺に行くことを計画していた。

 だが、前回の阿波の史跡巡りを終えた後、どうも史跡巡りに行く気持ちが私の中でなくなってしまった。そして史跡巡りを休止しようと思った。

 私が史跡巡りを始めた理由は、元々史跡巡りに関心があったからということもあるが、ZC33Sスイフトスポーツを購入したことが大きい。

 せっかく走行性能の高い車を購入したのだから、走りを愉しむために、どこかに1人でドライブに行くことを考えた。

 目的もなくドライブするのも面白くないので、山川出版社「歴史散歩シリーズ」に載る史跡を、スイフトスポーツで巡ることを思いついた。

 元はスイフトスポーツに関する記事がメインになる予定であったが、気が付けば史跡巡りの記事がメインになっていた。

 そして記事を書いている内に面白くなって来て、ここまで続いたのである。

 勿論、このようなブログの読者になって下さって、読んで下さる方々がおられるということも、記事を書き続ける励みになっていた。

 そのような方々には誠に申し訳なく思っているが、今までのような形で史跡巡りを続ける気持ちがどうもなくなってしまった。

 これは、昨年末から読み始めた「新釈漢文大系」の影響が大きい。

 私は、「新釈漢文大系」の「論語」「大学・中庸」「小学」「孟子」を読み終え、今「荀子」を読んでいる。

 まだ儒教の核心と言ってよい経書は読んでいないが、今まで数冊の儒教の典籍を読んだだけで、大げさな言い方かもしれないが、私の内面に革命的な変化が起きた。

 この革命的変化の内容については、機会があればまた書いてみたいが、個人の人生観の変化などに興味を持たれる方も少ないだろうから、私の独言のようなものになるだろう。

 変化という言葉を使ったが、どちらかというと長い人生を彷徨してきて、ようやく探し求めていた宝の山に辿り着いた、という感覚に近い。

 そしてその宝の山は、例えれば一本の粗末な竹の杖のようなものであった。この竹の杖は、捉え方によれば万能の杖になるが、人によれば無価値なただの粗末な杖である。

 私にとって、この杖は、価値ある杖であった。そのため、史跡巡りよりも中国の古典を読むことが私の人生の優先事項になった。

 そして、それと同時に仏教への関心が急速に薄れていった。

 以前は、退職した後は、徒歩での四国八十八箇所巡礼や、全国の山岳霊場巡りをしてみたいと思っていたが、そういう気持ちもなくなった。

 神仏を敬う気持ちに変わりはないが、頼るところは神仏ではなくなったのである。

 史跡巡りを続けて会得したことは、現場から物事を考えるという習慣がついたということだった。

 それまでは、書物だけを頼りに、日本とは何かを考えていた。

 史跡巡りを続けると、時代と共に風化したものや、風化せずに残っているものを実物として目にすることが出来る。

 また、地元で大事にされているものが何かも見えてくる。

 例えば、寺社を訪れると、江戸時代まで当たり前だった神仏習合の痕跡に遭遇することが多かった。

 備前西大寺には、明治初頭まで讃岐の金毘羅大権現に祀られていた仏像があった。

 淡路の東山寺には、明治初頭まで京都の石清水八幡宮に祀られていた仏像があった。

 明治政府が進めた神仏分離策が、それまでの日本の信仰を根こそぎ覆してしまったのを実感した。

 明治時代には、神仏分離と同時に、日本各地の神社の祭神が、記紀神話に基づいて変更され、神社の社格制度が始まった。

 そして日本神話に基づいた万世一系天皇を中心とする政治制度と、それを支える神社制度、国民に対する神話・歴史教育が、一体のものとなった。

 これが、大日本帝国を支えた「万古不易の国体」であるが、これを創出した幕末から明治初年にかけての国学思想は、国学者が書物の知識を基に考え出したものであった。自分の理論に都合の悪い歴史上の事実は、殊更無視するところから成り立っている。

 いわば机上の空論である。

 史跡巡りを始める前の私も、どちらかと言うとこの机上の空論に傾斜していた。

 だが史跡巡りの現場に行くと、この机上の空論が、地域や民衆に根差した伝統文化でなかったことがすぐに分かった。

 これが地域や民衆に根差した伝統であったならば、戦後になって日本の神話を学校で教えなくなっても、民衆は神話教育を復活するよう国に求め、国が応じなくても家庭や地域で子供たちに神話を教えた筈である。

 そのような運動が起きなかったという事は、大半の日本人が、大日本帝国を支えた神話教育を、自分達の伝統文化として捉えていなかったということになる。

 元々国民に根付いた伝統でないものを、一部の知識人や政治家や軍人が伝統と捉えて、国民に浸透させようとしても、完全に浸透することはない。

 ただ、神話の知識の有無に関わらず、地元の神社の祭りは戦後も続けられた。この素朴な敬神感情こそが、地域と民衆に根付いた伝統だったのである。

 この敬神感情は、豊作豊漁を与えてくれる自然への畏敬の感情から来ている。

 史跡巡りをすることで、私の日本の伝統文化に対する見方は変わったのである。

 もう一つ史跡巡りを続けて分かったのは、日本の寺社の背後には山があり、その山には巨石があることが多いということである。

 逆に言うと、山中に巨石があると、十中八九その近くや麓に寺社がある。

 日本に寺が建てられたのは、仏教が伝来した6世紀以降である。神社の建物も、寺院が建てられるようになってから、寺院に対抗して建てられるようになった。

 それまでは、神々が宿るとされた山や滝や巨石が、そのまま御神体として祀られていた。

 これらの御神体は、記紀神話が成立する以前から神聖視されて祀られていたものと思われる。

 これら人に畏敬される山や滝や巨石に、昔の人は神を感じ、仏教伝来後は仏を感じて、その傍に寺社を建てた。

 そうすると、これら山や滝や巨石こそが、天皇記紀神話の成立以前、仏教伝来以前から崇拝されてきた、日本の信仰の根源ということになる。

 ここに思い至った時、日本が日本たる所以は、日本の風土にあることに気づいた。日本の風土が神であるならば、なるほど日本は文字通り神国であった。

 ユダヤ人は、パレスチナから追放されて世界中に散り散りになっても、ユダヤ人としての信仰を保ち続け、離散してから約2,000年後にユダヤ人国家を再建した。

 これは、祖国を離れて世界中のどこに行っても変わらない、ユダヤ人としてのアイデンティティーがあったからこそ可能だったことだろう。

 逆に日本人は、海外に移民すると、すぐに現地に同化してしまう。ユダヤ人街や中華街のように、日本人が海外で日本人街を作って住んでいるという話は聞かない。

 日本人の信仰とされる神道は、日本の風土を神々としたものである。

 日本人を日本人たらしめているのは、日本の風土であって、日本の風土を離れれば、日本人は信仰的にも文化的にも、日本人ではなくなるのではないか。

 確かに春は桜が咲き、秋は紅葉が色づく場所から離れて、なおかつ日本人であるのは難しい。

 逆に言えば、日本の風土を敬い、それに親しめば、誰もが日本人になり得るということではないか。

 今後の日本は、海外からの移民が増えて、このままいけば、日本の住民の大半が、外国にルーツを持つ人々になる時代が来るのも、そう遠い出来事ではないと思われる。

 それでも私が日本文化の不滅を信じているのは、日本の風土さえ残り、それを敬う人がいる限り、いかに日本の人種構成が入れ替わっても、日本は日本であり続けると考えているからである。

 私が、大移民時代の到来を楽観視しているのは、こういう理由からである。

 私は高校時代に三島由紀夫の著作を全て読んで、その後日本の神話を勉強して、保守的な思想を持っていると自認していたが、史跡巡りを続けて現場から考えた結果、それまでの自分の抱いていた保守思想が、実は保守思想ではなかったことに気づいた。

 そして、もっと根源的に日本を捉えるようになった。これは、書物の知識だけでは得られなかったことである。

 さて、史跡巡りを休止すると書いたが、完全にやめたわけではない。これからも史跡を訪れることはあるだろう。今までのように、「歴史散歩シリーズ」に基づいた史跡巡りをやめるというだけである。

 また、ブログをやめたわけでもない。これまでのように、頻繁に記事を更新することはなくなるだろうが、書きたいことを書きたい時に書くような、気ままなスタイルになるだろう。

 例えば前方後円墳の発生や、私が住む播磨の地誌、「播磨国風土記」や「峯相記」などについては、書いてみたいテーマである。

 ZC33Sスイフトスポーツについても、まだ乗り続けるつもりだから、書くこともあるだろう。

 これはあくまで、一旦の区切りであると考えている。

瓶浦神社 千鳥ヶ浜

 大塚国際美術館の見学を終えて、鳴門市鳴門町土佐泊浦福池にある瓶浦神社を訪れた。

瓶浦神社

鳥居の扁額

 瓶浦神社の祭神は、大海龍王神である。

 奈良時代に、薩摩国から素焼きの大瓶を朝廷に献上するために航海していた船が、鳴門沖で沈没した。

 霊亀年間(715~716年)に、海中から船に積まれていた大瓶が見つかり、引き上げられてここに祀られたのだという。

瓶浦神社

狛犬

 大瓶は、今も瓶浦神社の御神体として祀られているという。

 瓶を御神体として祀る神社も珍しかろう。

 海上安全、豊漁、雨乞いの祈願に霊験あらたかで、付近住民の尊崇を集めているそうだ。

拝殿

本殿

 瓶浦神社は、これからも鳴門沖を航行する船舶の航海安全を見守り続けることだろう。

 大毛島から橋を渡って、北隣の島田島に渡った。

 鳴門市瀬戸町室田ノ浦の、田ノ浦集落の南側に、半島のように海に突き出た山がある。

田ノ浦南側の山

 この山の上に、田ノ浦古墳群があるという。

 ネット上にもこの古墳群に関する情報がほとんどない。

 とにかく山の上に登ってみようと思った。

山裾

 とは言え、明確な登山道はない。

 過去に人が通った跡と思われる獣道のようなものを登って行った。

 山頂近くに、円墳のようなものがある。

円墳

 一見して、これが古墳かどうか分からなかった。

 だが近づいてみると、石棺の蓋と思われる石材が地表に露出しているのが分かった。

 石の下を少し掘ってみると、すぐに穴が空いた。この下は空洞であろう。

露出した石棺の蓋

石棺の蓋の下の空洞

 間違いなく、石棺の蓋である。

 古墳の一つに辿り着いたことで、私は満足した。

 尾根を歩くと、他にも石棺の石材と思われる石が散乱している場所があった。

散乱する石材

 田ノ浦古墳群の古墳がいつの時代のものか、私には分からない。

 田ノ浦の北側には、室という集落がある。

室の集落

 この室の集落の南側の山中に、室古墳群があるという。

室の裏山

 しかしこの山に登る道がどこか分からず、室古墳群の見学は、諦めるしかなかった。

 大毛島に戻って、鳴門市鳴門町土佐泊浦大毛にある千鳥ヶ浜を訪れた。

千鳥ヶ浜

 ここは、吉川英治の小説「鳴門秘帖」の舞台となった場所である。

 ここからは、大鳴門橋がよく見える。

千鳥ヶ浜から眺める大鳴門橋

 千鳥ヶ浜に接して、陸繋島の網干島がある。

網干

 この網干島は、岩石だらけの島で、ウバメガシが全島を覆っている。 

網干

 「徳島県の歴史散歩」によると、ここに西行の雨宿り岩があるとのことだった。

 島の周辺を歩いたが、荒涼たる岩が転がるばかりで、どれが雨宿り岩か分からなかった。

網干島の岩

 島の海側に面する岩が褶曲構造になっているのが分かった。

褶曲した岩

 西行の雨宿り岩は見つけることが出来なかったが、その代わり西行の時代よりも遥かに古い大地の脈動を知ることが出来た。

大塚国際美術館 その10

 サルバドール・ダリは、1936年から1939年まで続いたスペイン内戦を予期するかのような絵を描いた。

 それが、「ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造:内戦の予感」である。

ダリ「ゆでたインゲン豆と柔らかい構造:内戦の予感」(1936年)

 荒涼とした大地の上に、バラバラになったかのような人体が描かれている。

 ダリはこの絵を、スペイン内戦勃発の5か月前に書いたという。

 スペイン内戦は、左派の共和国人民政府と右派のフランコ率いる反乱軍が争った内戦である。

 左派をソビエト連邦とヨーロッパ各国の共産党員が支援し、右派をナチス・ドイツファシスト党率いるイタリアが支援した。

 最終的に反乱軍が勝利を収め、フランコファシズムに基づいた独裁体制を築いた。

 ピカソが描いた有名な「ゲルニカ」は、ドイツが「義勇軍」としてスペインに派遣した爆撃機が、ゲルニカの町を爆撃して破壊した出来事を描いたものである。

ピカソゲルニカ」(1937年)

 ピカソは、古都ゲルニカナチスドイツの空爆で破壊されたことに衝撃を受けてこの絵を描いた。

 戦争の悲惨さを描いた絵としては、歴史上最も著名な絵である。

 今現在も戦いが続くウクライナ戦争は、よくこのスペイン内戦と比較される。ウクライナ戦争は内戦ではないが、ウクライナとロシアとをそれぞれの友好国が支援して、戦いが続いているところは似ている。

 スペイン内戦で軍隊を実戦投入して勝利し、自信を深めたヒトラーは、スペイン内戦終結後、ヨーロッパ制圧に向けて動き出した。

 スペイン内戦の結果と同様、ウクライナ戦争の帰結が、今後の世界の趨勢の大きな分かれ目になるだろう。

 現代絵画のコーナーで最後に紹介するのは、アンディ・ウォーホルの「マリリンの二連画」である。

アンディ・ウォーホル「マリリンの二連画」(1962年)

 ポスターやレコードのジャケットなど、商業美術の世界で成功したアンディ・ウォーホルは、ポップアートの生みの親でもある。

 シルクスクリーンの転写技法を用いて、大衆社会の同一性をテーマにした作品を量産した。

 この「マリリンの二連画」は、1962年に自殺したマリリン・モンローの栄光と死を描いたものだ。

 大衆化社会のスターとして、大衆に「消費」されたマリリン・モンローは、この作品でも「消費」されている。

 西洋絵画は、最初は英雄を描き、次にキリストやマリアなどの聖人を描き、次に人間を描いたが、最後はその人間もただ消費される存在になってしまった。

 ポップアートは、商品経済という現代の神を描いたものと言えるだろう。

 現代絵画を見終わると、一度大塚国際美術館の屋上にある庭園に出た。

大塚国際美術館の屋上庭園

 数多くの陶板画を見て疲れた心を暫し休めた。

 再度館内に入り、次は、1階と2階に展示されているテーマ展示を観た。

 テーマ「食卓の情景」で感心したのは、やはりゴッホの絵だった。

ゴッホ「ジャガイモを食べる人々」(1885年)

 32歳のゴッホが、食卓を囲んでジャガイモを食べる貧しい農家の人々を描いた絵だ。

 実直に労働して日々の糧を得る人々の生活を、ゴッホがいかに大切に考えていたかが、しみじみと伝わってくる作品である。

 「空間」のテーマ展示の中では、エル・グレコの「無原罪の御宿り」が印象的であった。

エル・グレコ「無原罪の御宿り」(1607-1613年)

 聖マリアが、原罪なしにその母、聖アンナの胎内に宿ったという場面を描いた絵である。

 宗教的に重要な場面を、地面から遊離した空想的な空間の中に描いたものだ。

 この絵は、元々は信仰の対象として描かれた絵である。

 信仰が薄れた後も、独立した芸術作品として鑑賞に耐え得る絵であったため、古典として残ったのだろう。

 先ほどのアンディ・ウォーホルの作品は、マリリン・モンローを知らない将来の人が観て、なお芸術的価値が認められれば、人類の古典として未来に残るだろう。

 そうでなければ、マリリン・モンロー同様、現代人に消費されたというだけで終わることだろう。

 「空間」のテーマ展示の中には、イタリア・ミラノのブレラ絵画館の、ティンレット作「聖マルコの遺体の発見」の展示を再現したものがあった。

ティンレット「聖マルコの遺体の発見」(1562-1564年)

 アレクサンドリアで聖マルコの墓が発見され、828年に、聖マルコの遺体が、アレクサンドリアからヴェネツィアに移されて安置された様子を、騙し絵のような空間の中に描いた絵である。

 日本の絵巻物のような物語絵を、部屋の中に描いたようなものか。

 テーマ展示「時」のコーナーにあった、ゴーギャンの作品は、大塚国際美術館シリーズの最後を飾るに相応しい作品である。

ゴーギャン「われわれは何処から来たのか?われわれは何者であるのか?われわれは何処に行かんとしているのか?」(1897年)

 タヒチに滞在していたゴーギャンが、病気や孤独と戦う中で、娘の死を知ってショックを受け、自殺を決意して描いた作品、「われわれは何処から来たのか?われわれは何者であるのか?われわれは何処に行かんとしているのか?」である。

 人間が生死の営みを続けることの意味を問うた作品である。

 神は描かれていないが、宗教画のような重みを持つ作品だ。

 これを描いた時のゴーギャンの精神状態は、かなりつらいものだったろうが、人は大きなテーマのことを考える時に、ストレスから解放される感覚を持つ。

 ゴーギャンは、自身の精神的苦悩から、人間が生きることの意味に疑問を感じてこの作品を描いたのだろう。

 だが、この様な作品を描くこと自体、ゴーギャンがまだ人間が生きることに意味を見出していることを示している。

 われわれが何者であるのか、ということは、人類という種族が絶滅して初めて明らかになることだろうが、残念ながらわれわれにはその結論は分からない。

 われわれに出来ることは、日々の務めをこつこつ果たしていくことしかないだろう。

 

大塚国際美術館 その9

 次は、ミレイ作の「オフィーリア」である。

ミレイ「オフィーリア」(1851-1852年)

 オフィーリアは、シェイクスピアの「ハムレット」に出て来る女性で、ハムレットに冷たくあしらわれて、発狂して川に落ちて死んだ。

 ミレイは、時代物の衣装を着た女性を浴槽に浮かべて写生し、イギリスの田舎の草花の中に描いた。

 一つ一つの草花に意味があるらしい。

 ルソーの「蛇使い」は、ルソーが母親から聞いたインド旅行の話に想を得て描いたものだ。

ルソー「蛇使い」(1907年)

 黒い蛇と蛇使いが印象的な、幻想的な作品である。

 この時代の絵画は、単なる写実を離れて、想像の世界を描いたものが多くなる。

 ギュスターブ・モローの作は、今のアニメーションのイラスト画に通ずるものがある。

モロー「クレオパトラ」(1887年)

モロー「まぼろし」(1876年)

 「まぼろし」は、サロメが祝宴の席での舞の褒美として、ヨハネの首を所望するところを描いたものだ。

 人間は物質的に豊かになると、現実世界を超えたものを想像するようになる。

 ヨーロッパ人も、このころには物質的に豊かになったようだ。

 クリムトの作品も、同様のロマンティシズムに溢れている。

クリムト「接吻」(1907-1908年)

 クリムトは、ラヴェンナの教会で観たモザイクを一つのきっかけとして、黄金様式という黄金を多用した作品を描くようになった。

 この作品も、その一つである。

 圧巻の展示は、ダヴィッドの「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠」である。

ダヴィッド「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠」(1805-1807年)

 皇帝となったナポレオンが、皇后となった妻ジョゼフィーヌに戴冠する場面を描いたものである。

 原作の実物大に復元された本作は、かなり大きなものである。

 これほどの大作を、破綻なくまとめた技量は大したものである。

 注文者のナポレオンは、この作品をいたく気に入ったそうだ。

 次のムンク「叫び」は、当館で記念撮影する人が最も多い「人気作」である。

ムンク「叫び」1893年

 ムンクが、思わず恐怖に叫びだしたくなるような自己の精神的不安を描いたものである。

 ムンクは悲痛な気持ちでこの作品を描いたのだろうが、その気持ちと裏腹に、世界中で不思議と愛されている作品である。

 同じムンクの「マドンナ」も、どことなく心穏やかでない作者の気持ちを写している。

ムンク「マドンナ」(1893-1894年)

 赤い帽子を被って、恍惚とした表情となったこの全裸の女性は、聖母マリアではないだろう。

 このモデルの女性が何者かは分からぬが、ムンクは、モデルの女性に永遠の生命を与えたと言えよう。

 さて、ここからは、20世紀以降の現代絵画を紹介する。

モディリアーニ「若い小間使い」(1918年)

 モディリアーニは、転地療養先の南仏ニースで出会った若い小間使いを描いた。

 瞳のない小間使いは、どことなく疲れた表情のように見える。

 スペインに生まれたピカソは、20歳で芸術の都パリに行く。

 彼の「自画像」は、20歳の自分を描いたものである。

ピカソ「自画像」(1901年)

 大切な友人が自殺して世を去った後に描いた自画像である。

 背景の暗い青色が、彼の苦悩の深さを物語る。

 シャガールの「イカロスの墜落」は、シャガールが90歳近くになって描いた作品である。

シャガールイカロスの墜落」(1974-1977年)

 イカロスは、ギリシア神話に出て来る神様で、太陽に挑んだ罪で最後は海に墜落するのだが、シャガールが描いたイカロスは、シャガールの故郷のヴィテブスクの村人の上に墜ちようとしている。

 故郷の人々は、どこか楽し気である。

 ヴィデブスクは、第二次世界大戦で荒廃したが、この頃には復興していたそうだ。

 人々が希望を抱いて生きている様子は、この世に生きていて最も目にしていたいものである。

大塚国際美術館 その8

 近代絵画の紹介を続ける。

 次はコローの「マントの橋」である。

コロー「マントの橋」(1868-1870年)

 コローはフランス印象派の画家で、風景画をよく描いた。

 私の妻は大学で絵を学んでいて、かつてはよく絵を描いていた。川の絵が多かった。

 このコローの絵は、きっと妻好みだろうと思って、スマートフォンで写真を撮ってLINEで妻に送信した。

 ボヌールは19世紀フランスの女性画家である。

 ボヌールの「ニヴェルネ地方の耕作」に描かれた涎を垂らす牛の描写は、実に精細で正確無比である。

ボヌール「ニヴェルネ地方の耕作」(1849年)

 ここまで絵を観て気づいたが、展示されている19世紀の絵の大半がフランスの画家のものであった。

 この時代のフランスは、他国に先駆けて共和制を実現していた。

 これは人間の精神の自由と芸術の発展が、軌を一にしている証明になるのではないか。

 マネの「笛を吹く少年」は、平面的に人間を描いている。

マネ「笛を吹く少年」(1866年)

 当時フランスで流行していた日本の浮世絵の影響があるのかも知れない。

 ルノワールの「マルゴの肖像」は、しばしばルノワールのモデルを務めたマルグリト・ルグランを描いたものである。

ルノワール「マルゴの肖像」(1878年

 この絵が描かれた翌年に、マルグリトは亡くなったらしい。

 ルノワールは、貧しい彼女の医療費や葬式代を出してやったそうだ。

 モネの「日傘の女」に描かれた女性は、背景の空や足下の草と一体化し、風景の一部の様になっている。

モネ「日傘の女」(1886年

 この絵のモデルは、モネと同棲中の女性の娘、シュザンヌであろうと言われている。

 フランスの日光と風を感じさせてくれる絵だ。

 モネの「印象、日の出」は、印象派の名の由来となった絵である。

モネ「印象、日の出」(1872年)

 モネが幼少期から青年期までを過ごしたル・アーヴルのセーヌ河口の日の出の様子を描いたものである。

 この絵は1874年のパリの展覧会に出品され、印象派という名称が生まれる原因となった。

 朝日を浴びて刻々と変化する海面の印象を描いた作品である。

 ずっと観ていたくなる不思議な作品だ。

 ドガの「舞台の踊り子」は、ドガが描いた踊り子の絵の中で最も有名なものである。

ドガ「舞台の踊り子」(1876年)

 この作品が描かれた丁度10年後に、鷗外森林太郎がドイツに留学する。

 鷗外はドイツで女性と交渉を持ったようだが、帰朝してその記憶を「舞姫」という小説に書いた。

 鷗外が書いた舞姫は、この作品に描かれたようなものだったろう。

 とすれば、官費留学生の鷗外と舞姫の恋は、初めから成就するものではなかった。

 ロートレックは、フランスの貴族の出で、数多くのポスターを描いた画家である。

ロートレックムーラン・ルージュにて」(1892年)

 ムーラン・ルージュは、1889年にパリに開店した社交飲食店である。

 ロートレックは、ムーラン・ルージュの宣伝用ポスター制作の依頼を受けて、この作品を描いた。

 19世紀末には、イラスト、ポスター、挿絵といった商業芸術が成立していた。

 ミレーはフランスの貧しい農民の絵を多数描いた。

ミレー「晩鐘」(1857-1859年)

 「晩鐘」は、夕刻の教会の鐘の音を聴きながら、1日の労働に感謝を捧げる農民夫婦を描いている。

 19世紀は、神なき時代の始まりであるが、まだ地方に行けば、敬虔なカトリックの信仰は生きていたのである。

 19世紀フランスでは、日本の浮世絵が流行したが、モネの「ラ・ジャポネーズ」も彼の日本趣味が描かせたものである。

モネ「ラ・ジャポネーズ」(1876年)

 モネが日本の着物を着た妻カミーユを描いたものである。

 こうして見ると、芸術は国境をやすやすと越えて、お互いに影響を与え合うことが分かる。

 今日は今までフランスの作品ばかり紹介してきたが、初めてフランス以外の作品を紹介する。

 ロシアのクラムスコイの最高傑作と呼ばれる「見知らぬ女」である。

クラムスコイ「見知らぬ女」(1883年)

 「見知らぬ女」は、ロシアの「モナ・リザ」と呼ばれる作品である。

 中央に描かれた女性が何者かは分かっていない。金持ちの愛人、高級娼婦、小説の女主人公など、色々と推測されている。

「見知らぬ女」

 冷たく気位の高い顔立ちでありながら、どことなく悲しみと深い憂いを湛えたような表情をしている。

 この謎めいた雰囲気が、この絵の魅力となっている。

 セザンヌの「リンゴとオレンジ」は、静物画の傑作だろう。 

セザンヌ「リンゴとオレンジ」(1895-1900年)

 中央のリンゴを中心とする三角構図で、白いテーブルクロスの皺が独特の味わいを出している。

 ゴーギャンの「マリアに祈る」は、タヒチ人が肩にキリストを載せたマリアを拝んでいる絵である。 

ゴーギャン「マリアに祈る」(1891年)

 マリアとキリストも、タヒチ人のような姿である。

 ゴーギャンは、エジプトや東南アジアの原始美術に関心を持っていたが、マリアに祈りを捧げる二人の女性の姿は、インドネシアのボロブドゥール寺院の浮彫彫刻のポーズを写したものである。

 そのゴーギャンと共同生活をして、喧嘩別れをしたのがゴッホである。

ゴッホ「自画像」(1889年)

 激しい気性の持ち主だったゴッホは、ゴーギャンと別れる際に自分の耳を切り落としたという。

 一説には、フェンシングの名手だったゴーギャンが、ゴッホの耳を切り落としたとも言われている。

 いずれにしろゴッホはこの事件を機に精神病院に入院する。

 ゴッホの「自画像」は、精神の平衡を失した人が描いたように見える。

ゴッホ「アルルのゴッホの部屋」(1889年)

ゴッホローヌ川の星月夜」(1888年

 ゴッホは生前全く評価されなかったが、死後に評価が高まった。

 20年以上前に兵庫県立美術館で開催されたゴッホ展に行ったことがあるが、ものすごい観客数であった。

 遠く離れた日本でも、ゴッホは人気のある画家である。

 ゴッホの「ローヌ川の星月夜」を観ると、ゴッホが夜空に感じた美が身に染みて、なんだか切ない気持ちになる。