養父神社 後編

 養父神社本殿の奥にあるのが山野口神社であるが、そこに至るまでの参道の脇に、末社迦遅屋(かじや)神社がある。

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迦遅屋神社

 迦遅屋神社の祭神は、奥津彦命奥津姫命猿田彦命、表米親王であるが、別名猫の宮とも呼ばれ、鼠除けの神様として信仰されている。

 但馬は養蚕の盛んな地域であるが、養蚕農家にとって鼠は大敵であった。養蚕農家はこぞってこの宮に参拝したことだろう。

 さて、この奥にある山野口神社は、山の神様である大山祇(おおやまずみ)命を祀っている。

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山野口神社

 別称は「山の口の大神」と呼ばれ、流行病と「つきもの」を退ける神様として信仰されている。

 社殿は説明板では元禄年中の建築とされているが、施されている彫刻が明らかに中井権次一統のものであり、実際は江戸時代中期以降の建築と思われる。

 唐破風下の虹梁や木鼻、手挟みの彫刻が素晴らしい。

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山野口神社の彫刻

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木鼻の彫刻

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 本当に稠密な見事な彫刻である。

 養父神社の社務所は、神社境内との間に谷を挟んだ場所にある。その谷間に朱色の鉄橋がかかっている。

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朱色の橋

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社務所

 社務所の建物は、江戸時代後期から明治時代ころにかけての建築かと思われる、丈の高い古民家風の建物である。

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神符神札授与所

 神符神札授与所も、木材に古びがついていて、いい味を出している。

 この社務所の裏に、養父市指定文化財となっている石造宝篋印塔がある。

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石造宝篋印塔

 塔身の正面には、胎蔵界大日如来を現わす梵字の阿字があり、その左右に「大願主木□□□」「応安二年巳酉八月日」と刻まれている。

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塔身正面

 応安二年(1369年)に建てられた宝篋印塔だが、昭和30年ころまで社務所北側の庭園内に倒れていたらしい。

 江戸時代には、養父神社の別当寺(神社を管理する寺院)として水谷山普賢寺があったそうだ。今社務所のある場所がかつての普賢寺で、この宝篋印塔は普賢寺に建っていたものなのかも知れない。

 社務所から山側に歩くと、小さな滝がある。

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神の滝

 位置的に山野口神社の少し奥になる。弥高山から染み出た清冽な水がここで滝になっているわけだ。

 さて、養父神社を氏神とする養父市場の街は、江戸時代には宿場町で、町の中心にはかつて参勤交代の大名が宿泊した本陣の建物がある。

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養父市場の旧本陣

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 ところで養父市場は、鯉の養殖が盛んな地域である。

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養父市場の養殖鯉

 養父市場には、細長い町筋に沿って円山川から用水路が引かれ、そこで鯉が養殖された。

 養殖は江戸時代には行われており、当時は食用鯉が養殖されたが、昭和12年ころに新潟県から錦鯉が移入された。

 戦時中に一時衰えたが、戦後になって本格的に鑑賞用の錦鯉が養殖されるようになった。

 現在全国に普及している墨色の混ざった「黒ダイヤ」系の錦鯉は、養父市場で作られた品種らしい。

 さて、但馬と言えば但馬牛である。神戸牛、松阪牛近江牛といった和牛は、全て但馬牛から分かれた品種である。

 円山川対岸には、但馬牛を売買する但馬家畜市場がある。

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但馬家畜市場

 農業や養蚕、牛馬の飼育を行ってきた養父郡の人達からしたら、衣食住の神様である倉稲魂命を祀る養父神社は、自分たちの生活を守ってくれる神様である。

 静かな養父市場の街並みを眺めて、養父神社の御加護は今も確かに続いていると感じた。

養父神社 前編

 満福寺の参拝を終え、かつて宿場町であった養父市養父市場に向かう。

 ここにある養父神社は、但馬では、粟鹿神社、出石神社と並ぶ古社である。

 但馬三宮とも呼ばれている。

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鳥居

 創建は第10代崇神天皇の御代とされる。ほとんど伝説の領域である。

 平安時代に成立した「延喜式」では、名神大社に列せられている。

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随身

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 祭神は、倉稲魂(うかのみたま)命、少彦名命大己貴命、但馬道主命、船帆足尼(ふなほそこね)命の五柱である。

 倉稲魂命は、いわゆる稲荷神のことであるが、この神社にはお稲荷さんのような朱の鳥居や狐の像があるわけではない。

 養父神社に祀られる倉稲魂命は、穀物、養蚕、牛馬の神様であるそうだ。但馬の重要な産業の守り神というわけだ。

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拝殿

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 拝殿の前には、一風変わった狛犬が置かれている。瓦石で作られた狼の狛犬である。

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狛狼

 この狛狼は、明治21年に制作されたものである。

 なぜここに狼が置かれているのかは分からない。

 神社の説明板には、養父神社の社殿と、本殿の奥にある山野口神社の社殿は、元禄九年(1696年)の建立と書いている。

 実際のところは、江戸時代後期の建築になるそうだ。

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拝殿に掛かる扁額

 養父神社の背後には、弥高(いやたか)山という山があるが、かつては弥高山そのものを御神体として祀っていたらしい。

 養父神社は、弥高山の入口に設けられた神社だったのだろう。

 本殿は、檜皮葺、権現造の古びた社である。

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本殿

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棟の上の鬼飾り

 本殿正面千鳥破風の上には、鬼飾りが備え付けられている。養父大明神の威徳を現わすかのようだ。

 本殿は、なかなか複雑な屋根の形状をしている。

 背後から見ると、四面の斗供から飛び出た尾垂木が目立つ。

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本殿の背後

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斗供の尾垂木

 複雑な斗供の組物が見事だ。この建物は、近年、兵庫県登録有形文化財になったそうだ。

 境内には、多くの末社がある。

 五社神社は、但馬五社に祀られる五つの祭神を祀る社とされている。

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五社神社

 但馬五社は、絹巻神社、出石神社、小田井縣神社、養父神社、粟鹿神社である。

 養父神社境内の五社神社に祀られる祭神は、天熊人命天照大神素戔嗚尊月読命五十猛命だが、但馬五社の主祭神とは異なる。何故なのだろう。

 斎神社の紹介記事で書いたが、但馬五社の神様は、円山川下流の開拓を話し合い、その結果、養父大明神が代表として斎大明神に開拓工事をお願いすることになった。

 この五社神社は、養父神社で但馬五社の神様が話し合ったことを現わしているのではないか。

 伝説では、円山川下流の開拓工事をした斎大明神に、養父大明神が御礼参りをしたとされているが、後にその故事が祭礼となった。それが今も行われるお走り祭りである。

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神輿を納める倉

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神輿

 お走り祭りでは、養父神社から出発した神輿が、片道約20キロメートルの斎神社まで渡っていく。

 本殿の側の倉に、明治初年から平成まで百数十年の間お走り祭りに使われた神輿が保存されていた。

 神輿を担ぐときの気持ちは、晴れ晴れしいものだろう。

 また、末社御霊神社の社殿は、応安年間(1368~1375年)に建てられたもので、養父神社の旧本殿であるらしい。

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御霊神社

 御霊神社の祭神は、国生みの神、伊弉諾尊伊弉冉尊である。

 この社殿が本当に応安年間の建立であれば、但馬有数の古い建造物である。

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御霊神社唐破風の下の彫刻

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蟇股の彫刻と亀甲紋

 私には御霊神社の建設年代は分らないが、彫刻や意匠は、どことなく南北朝時代のもののように見える。

 養父神社は、地理的に但馬国の丁度中心にある。但馬の開拓があまり進んでいなかった頃には、養父神社の周辺が但馬の文化の中心として機能していたのかも知れない。

新宮山満福寺

 斎神社の参拝を終え、県道70号線を北上する。

 養父市十二所の新宮山の山上にある伽藍、満福寺を訪れた。ここは、真言宗の寺院である。

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満福寺山門

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山門の仁王像

 満福寺山門の仁王像は、新しい像だが、彩色鮮やかで、なかなか迫力ある像だ。

 山門を過ぎると参道の苔むした石段があり、途中石造地蔵像や宝篋印塔がまとめられた一角がある。

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参道の石段

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参道途中の地蔵と宝篋印塔

 満福寺は、聖武天皇天平年間(729~749年)に行基菩薩により開基された。

 創建時に、一人の翁即ち新宮権現が現れた。新宮権現は、和歌山県新宮市の熊野速玉大社の祭神である。

 新宮権現が寺院の守り神となり、それからこの山は新宮山と呼ばれるようになった。

 そして、新宮山満福寺周辺は、熊野信仰の霊場になった。

 熊野本宮に祀られた十二の権現を十二所権現というが、満福寺のある場所の地名も十二所という。

 姫路市街にも十二所線という道路があるが、十二所という地名があるところは、かつて熊野権現が信仰された場所である。

 参道の石段を上ると、正面に立派な本堂がある。

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本堂

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 本堂唐破風の下には、見事な霊獣の彫刻が施されている。丹波柏原の彫刻師、中井権次一統の作品である。

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唐破風下の彫刻

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 なかなか豪快な彫刻群だ。

 この本堂が建てられたのがいつかは分らないが、中井権次の彫刻があるということは、江戸時代中期以降の建築だろう。

 満福寺には、弘仁年間(810~824年)に弘法大師空海が来錫し、それから真言秘密の道場となった。

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修行大師像

 満福寺は、一時七堂伽藍十九坊を数える大寺院であったが、天正八年(1580年)の秀吉の但馬攻めで焼亡した。

 その後の寛文年間(1661~1673年)に、出石藩主小出吉重により再建された。

 私が本堂のガラスの嵌った引き戸を開けると、引き戸にひっついていたヤモリが地面に落ちて走って逃げた。

 私が引き戸を開けた音を聞いて、客殿の方から初老の女性が出てきた。女性は、お手伝いで満福寺の留守番をしている方だった。許可を得て本堂内を参拝させてもらった。

 私は本堂に入り、正面の本尊に対面した。

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本尊の観音菩薩坐像

 本尊は手に蓮華の花を持っていたので、観音菩薩像であると思われる。

 手を合わせて、観音菩薩真言と般若心経を唱えた。

 本堂に連なる客殿の襖には、仏伝に関する絵画が描かれている。近くで見ることは出来なかったが、客殿の中はさながら仏国土のような厳かな空間だろう。

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客殿玄関

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客殿

 満福寺は、但馬聖人と呼ばれた江戸時代後期の儒学者・池田草庵が若いころに修行した寺院である。

 池田草庵は、修行の途中、仏教よりも儒学に興味を覚え、寺から出奔したそうだ。

 さて、満福寺の本堂を出て、車に乗り、奥の院を目指した。

 満福寺の奥の院までは、舗装道路が続いており、車で行くことが出来る。

 奥の院には、秘仏千手観音菩薩立像を祀る観音堂がある。

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観音堂

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 秘仏千手観音菩薩立像は、33年に1度開帳される。次の開帳は西暦2053年である。

 この観音堂の彫刻がまた素晴らしい。これも中井権次一統の作品だろう。

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観音堂の彫刻

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 ところで観音堂の南側には、ちょっとした空き地がある。

 昭和48年の発掘調査で、そこから中世墓が出てきたそうだ。中世には、死後自分の骨を霊山に埋めてもらう習慣があったそうだ。

 最近、寺院や仏堂で線香の匂を嗅ぐと、やたらと親しみを感じるようになった。

 私は昨年父が死んだ時に、父の枕元で僧侶が枕経を上げるのを見て、人は死んでしまえば、生前に達成したことや、地位の上下、財産の多寡に関わらず、ただお経を唱えられる存在に過ぎなくなることを実感した。

 どうせただお経を上げられるだけの存在になるなら、生きている間に自分がお経を上げたらいいのではないかと思い始め、祖母の形見の仏壇の前でお経や真言を唱え始めた。

 最近は、近所の大師堂などに行ってお経を唱えるようになった。

 誰かの冥福や何かのためにお経を唱えているのではない。ただお経を上げるために上げている。

 それに何か意味があるかと言えば、何も意味がないような気がするが、何となく気持ちが落ち着くので続けている。

 お経や真言を唱えることで、少なくとも千数百年間続けられてきた営みに参加しているということは言えると思う。

養父市 斎神社

 今年の6月以来、久々に但馬を訪れた。播但連絡道路の朝来インターチェンジで下りて、県道70号線を北上する。

 県道70号線沿いの兵庫県養父市長野にある斎(いつき)神社を訪れた。

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斎神社鳥居

 斎神社の創建は、聖武天皇天平二年(730年)と言われている。

 祭神は、天太玉(あめのふとたま)命、手置帆負(たおきほおい)命、彦狭知(ひこさしり)命の三柱で、古くは斎大明神と呼ばれていた。

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斎神社の両部鳥居

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斎大明神と書かれた扁額

 斎神社は、さほど有名な神社ではないが、但馬地域の開発に関わりのある重要な神社である。

 神代には、今の豊岡市街のある円山川下流域は、泥海に覆われていた。

 但馬五社(但馬の著名な五つの神社)の神様が、円山川下流域の開発について、額を寄せ合って相談した結果、土木の神様である斎明神にお願いすることになった。

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斎神社参道

 養父神社の祭神養父大明神が、鮭の背に乗って川を遡り、ちきり渕から斎大明神に工事のお願いをしたところ、斎大明神は快く引き受けた。

 そして、斎大明神が円山川河口の瀬戸を切り開くと、泥海が引いて忽ち肥沃な土地が現れたという。

 その後但馬五社の名代として、養父大明神が斎神社に御礼参りをした。この御礼参りが、祭礼として現在も続けられているという。

 それが毎年4月15、16日に行われる、お走り祭りという祭礼である。

 養父神社の神輿が担がれて、養父神社から斎神社までの往復40キロメートルという道程を練り歩くという奇祭である。

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お走り祭りを描いた絵馬

 斎神社の拝殿には、養父市指定文化財となっている、「斎神社のお走り祭り絵馬」が掛けられている。

 明治32年に地元の絵師が斎神社に奉納した絵馬で、江戸時代のお走り祭りの様子が描かれている。

 古代の豊岡盆地は泥海の広がる巨大な沼のような場所だったのだろう。豊岡の南側の養父に住む人々が、斎神社周辺の土木技術に長けた人々の助けを借りて、円山川下流域の開発をしたことが、伝説化したのではないか。 

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斎神社拝殿

 ところで、斎神社は、平成21年8月10日未明に発生した豪雨災害により、社殿背後の土砂が崩れ、本殿と拝殿が押し流され全壊した。

 拝殿はその後新築されたようだ。本殿は、倒壊前の彫刻や木材を生かしながら再建されたのだろう。見事な彫刻を持つ本殿が甦っていた。

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拝殿と本殿

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本殿

 本殿向拝蟇股の龍の彫刻や、脇障子の彫刻は特に素晴らしい。拝殿の中に、彫刻の写真が掲示されている。

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向拝蟇股の龍の彫刻

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龍の彫刻の写真

 斎神社の彫刻は、姫路市飾磨の屋台彫刻の名工である3代目松本義廣が昭和11年に彫ったものだそうだ。

 2つの脇障子の彫刻は、物語性を感じさせる名作である。

 一つ目は、本殿向かって左の脇障子に彫られた八岐大蛇退治の図である。

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脇障子の「八岐大蛇退治の図」の彫刻

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 雲の中を蠢く八岐大蛇は、尾に草薙剣を巻いている。素戔嗚尊は、十拳剣を握りしめ、酒樽を前にして八岐大蛇に立ち向かっている。左上には、櫛稲田姫の後ろ姿が彫られているという。

 勇壮豪快な作品だ。

 2つ目は、本殿向かって右側の脇障子に彫られた、「天の岩屋戸の図」である。

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脇障子の「天の岩屋戸の図」の彫刻

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 素戔嗚尊の乱暴狼藉に怒って、注連縄の張られた天の岩屋戸に姿を隠した天照大御神を、左側の天鈿女(あめのうずめ)命が踊って誘い出し、それにつられて天照大御神が岩屋戸を少し開けた隙に、天手力雄(あめのたぢからお)命が岩屋戸に手をかけて引っ張る姿が彫られている。
 中央には朝の到来を告げる鶏が彫られている。何とも御目出度い彫刻だ。

 本殿には、その他にも様々な神獣が彫られていて、見どころがある。

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木鼻、手挟みの彫刻

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軒下の彫刻

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 本殿をよく見ると、所々新材が組み入れられているのが分る。
 私が参拝していると、高校生くらいの年齢の女子が一人で参拝にきて、私に挨拶してきた。

 車やバイクで来た様子もないので、恐らく地元の女子高生だろう。地元の若者にとっても、この神社は大切に敬うべき社となっているのを実感した。

 拝殿の向かい側には、摂社の楯縫神社が建っている。

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楯縫神社

 楯縫神社の社殿は、宝暦十年(1760年)に建てられたもので、昭和12年に現本殿が完成するまで、斎神社の本殿として祀られていたものである。

 楯縫神社社殿の両脇には、大黒天と恵比須様の彫刻が彫られている。

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大黒天の彫刻

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恵比須様の彫刻

 何とも御目出度い社殿だ。

 また、大正12年に奉納された砂岩製の灯籠には、蔦の葉が垂れる独特の彫刻が施されていて目を惹いた。

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砂岩製灯籠の蔦の彫刻

 参拝を終えて参道の石段を下りる時、見事なイチョウの巨木があることに気づいた。

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参道のイチョウ

 私が参拝した10月9日は、10月とは言えまだ気温が高く、イチョウの葉は夏のように青々としていた。見事なイチョウの木を見ると、寿命が延びた気がする。

 いい神社に参拝すると、気持ちが晴々として、清々しい気分になる。

 こういう気分は、他の事では味わうことが出来ない。秋の朝の涼しく透き通った空気を吸うような清々しさだ。
 神気を感じるいい神社というものは、その神社の著名度や、社殿の立派さとは関係がない。
 忘れられたように町中や山麓にぽつんと建つ小さなお社でも、参拝すれば清々しい気持ちになることがある。そういう神社がいい神社である。

 ただの気のせいなのかも知れないが、気のせいにしてもこういう気分が味わえるなら、いい神社には参拝したくなる。

八上城跡 後編

 高城山の頂上が近づいてきた。八上城跡の主郭付近に接近する。

 八上城跡は、高城山の頂上付近に、本丸、二の丸、三の丸、岡田丸、右衛門丸という曲輪群を有する連郭式山城である。

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八上城跡縄張図

 頂上に近づくと、まず目に入るのが右衛門丸である。

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右衛門丸

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右衛門丸を囲む石垣

 右衛門丸には、城主の屋敷があったようだが、城主がこの高地に常駐していたわけではあるまい。あくまで籠城時に住んだ屋敷だろう。

 この右衛門丸は、主郭の一番西にある。その上にあるのが三の丸である。

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二の丸から見下ろした三の丸

 三の丸は、それほど広い曲輪ではない。南方の谷間に対する防御陣地だったと言われている。

 三の丸の上には二の丸がある。

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三の丸から見上げた二の丸

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二の丸の城門付近

 二の丸は、主郭の中で最も広い曲輪である。城の防御において、最も重要な役割を果たしていたと思われる。

 二の丸の入口付近には、かつてあったと思われる城門の礎石が残されている。

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二の丸城門の礎石

 数百年の時を経て、静かに残る礎石には、どこか趣がある。

 二の丸に上がると、かなり広い空間が広がっている。

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二の丸の空間

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本丸から見下ろした二の丸

 馬が走り回ることも出来そうな広さだ。実際のところは、当時はここに建物が建ち並んでいたことだろう。

 この二の丸からの眺めが頗るいい。

 西を望むと、眼下の三の丸の向こう側に、篠山城下の街並みや、篠山盆地が広がる。

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二の丸から西を望む

 また、二の丸から北側を望むと、先日紹介した土居の内も視野に収めることが出来る。

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二の丸から北を望む

 上の写真真ん中あたりに、小さいが土塁に囲まれた土居の内が見える。

 本丸は、それほど大きな曲輪ではない。現代の一般的な民家が一軒その上にようやく建つかというほどの大きさだ。

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本丸

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本丸への道

 本丸の上には、信長に滅ぼされた八上城波多野秀治公の表忠碑が建っている。

 波多野秀治は、大正天皇即位の大嘗祭にともない、史上の功臣300余人に贈位した際に、従三位を贈られている。

 秀治が、永禄三年(1560年)に正親町天皇即位の礼を上げた際に、金銭面、軍事面で援助したことが評価されたようだ。

 この石碑は、大正時代に従三位贈位を記念して建てられたものだろう。

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波多野秀治公表忠碑

 応仁の乱で東軍(細川方)についた波多野氏は、戦功を上げて、因幡国八上郡から丹波国多紀郡に移って来た。

 波多野氏はその後力を蓄え、大永七年(1527年)に管領細川高国を放逐し、天文七年(1538年)には守護代内藤氏を攻略した。

 守護、守護代を追い出して、実力で丹波を制圧した波多野氏は、名実ともに戦国大名となる。

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波多野秀治表忠碑

 丹波を制圧した波多野氏の前に、畿内の覇者三好氏が立ちはだかる。波多野氏は、永禄年間(1558~1569年)には三好軍とその家臣松永久秀軍の攻撃を何度も受けた。

 その都度、八上城は敵の攻撃を跳ね返した。

 その三好氏も松永久秀も、畿内に進出してきた織田信長に蹴散らされる。

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本丸から見下ろした岡田丸

 畿内を制圧した信長は、山陰道攻略のため、明智光秀丹波に派遣する。

 光秀は、服従せぬ波多野秀治の立て籠もる八上城の周囲に支城を建てて包囲し、兵糧攻めにした。

 天正七年(1579年)、光秀の謀略により捕らえられた波多野秀治らは、安土城に身柄を移されて処刑される。

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岡田丸から見上げた本丸

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本丸の石垣

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 八上城跡の本丸の周囲には、石垣が積まれている。小さく平たい石が積み重ねられていて、穴太衆の石垣とは異なる様子だ。

 戦国時代の山城には、基本的に石垣は使われなかったので、この石垣は波多野氏を攻略し、新たに八上城を支配することになった明智氏か、その後に城主となった前田氏あたりが築いた石垣だろう。

 今の城の縄張りも、波多野氏の時代のものがそのまま残っているかは分からない。

 波多野氏のように、一国を実力で手にした戦国大名は多いが、そこから数か国を領有する戦国大名に成長するには、更に一段高い能力が必要だったようだ。

 篠山盆地の西に日が傾き始めた。戦国の波多野氏の盛衰を思いながら下山した。

八上城跡 前編

 元々因幡国八上郡の国人であった波多野氏は、応仁の乱で戦功を上げ、丹波国多紀郡郡代となり、丹波に進出することとなった。

 波多野氏は移転先の根拠地に八上の名をつけた。出身地の因幡国八上郡の名を忘れなかったようだ。

 その後、波多野秀通は、永正十二年(1515年)に標高約459メートルの高城山の上に城を築いた。

 それが八上城である。

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高城山

 高城山は、篠山市街の南東に聳える秀麗な山で、その形から丹波富士と呼ばれている。 

 高城山は、篠山の町のどこからでも目に入るが、逆に言うとそこに城を築くと、篠山盆地の全てを視野に入れることが出来るわけだ。

 八上城跡を見学するため、私は高城山北麓にある春日神社の登山口から登ることにした。

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八上城跡の登山経路図

 麓の案内板にある右衛門コースという経路で登ることにした。このコースは、右衛門丸という曲輪に出るコースで、右衛門丸、三の丸、二の丸、本丸という主要な曲輪の全てを通過する。

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麓の春日神社の鳥居

 春日神社の両部鳥居を潜って進むと、道はそのまま登山道となる。

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登山道

 最初、道はなだらかで、杉林や竹林の中を歩くことになる。

 しばらく行くと、主膳屋敷跡という台地が左手に見えてくる。

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主膳屋敷跡

 ここに八上の政庁となる屋敷が置かれていたのだろう。山城は合戦のための備えとして築かれたもので、武士たちは常時城に出勤するわけではない。平時は城に最小限の見張りを置いて、普段は麓の屋敷で仕事をした。合戦に際しては城に籠ることになる。

 ところで先日紹介した青山歴史村の一角に、八上城の屋敷門として使用されていた高城屋敷門が移転保存してあった。

 かつてこの主膳屋敷跡にあった門なのかも知れない。

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高城屋敷門

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高城屋敷門の脚

 八上城は、波多野氏の滅亡後も、明智氏や八上藩前田氏、篠山藩松平(松井)氏の拠点として、慶長十四年(1609年)の篠山城完成まで使用された。

 この屋敷門の脚を見ると、小さな虫食いの穴が開いている。この穴と表面の風化度合いから、かなり古くから使用された木材だと思われる。

 この屋敷門は、波多野氏の時代からのものか、その後の明智氏、前田氏、松平氏の時代のものかは分からないが、八上城にあった建物の中で、唯一現存する貴重なものである。

 この門は、八上城が廃城となった後は、篠山城下の武家屋敷の門として転用され、昭和44年まで篠山郵便局の敷地にあったという。平成10年に現在地に遷された。

 主膳屋敷跡からしばらく歩くと、前田主膳正供養塔が見えてくる。

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前田主膳正供養塔

 前田主膳正は、前田玄以の息子の前田茂勝のことで、慶長七年(1602年)に八上城主となったが、藩政を省みず放蕩し、諫めた家臣に切腹を命ずるなどしたため、慶長十三年(1608年)に幕府から改易とされた。

 先ほどの主膳屋敷跡は、その名から前田茂勝の屋敷跡を指すのかも知れない。

 ここから山道を登って行く。整備された登山道で登りやすい。

 先に進むと、鴻の巣と呼ばれる曲輪に至った。

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鴻の巣

 鴻の巣は、西側に突き出た尾根上に築かれた曲輪の跡である。山の中腹あたりにある。

 木々が生えていて眺望が効かないが、西から来る敵に備えた最下段の曲輪である。

 更に進むと、下の茶屋丸という曲輪跡に出る。

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下の茶屋丸

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下の茶屋丸からの眺望

 下の茶屋丸からは、篠山盆地が一望の下に見下ろせる。八上城跡は、このような曲輪の跡が残されているが、元々城に迫る敵を観察出来る場所に曲輪が築かれているので、曲輪跡からの眺めは好い。歴史好きでなくとも、八上城跡はハイキングコースとして十分楽しめる。

 更に進むと、中の壇という曲輪跡がある。

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中の壇

 中の壇は、平坦な道の途中にある。ほっとした敵を迎え撃った場所だろう。

 また、山の斜面に掘られた竪堀も残されている。

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竪堀の跡

 竪堀は、山の斜面を攻め上がって来る敵兵が左右に展開するのを妨げるための防御機構である。

 ここを過ぎて歩いていくと、馬の背のような尾根の上を行くようになる。

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尾根道

 こういう尾根道を歩くと、「ああ、山城を歩いているなあ」という気分になる。

 更に上がると、上の茶屋丸という曲輪の跡がある。

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上の茶屋丸

 八上城は、最終的に明智光秀が指揮する織田軍の攻撃に晒され陥落するが、戦国時代には、信長登場まで畿内の覇者だった三好家とその家臣松永久秀の攻撃を幾度も受けた。

 この城は、実戦経験豊富な、戦う城だった。

 ひょっとしたら、今まで見た曲輪の上でも、血で血を洗う激戦が繰り広げられたのかも知れない。

 江戸時代に築かれた石垣や天守のある城より、実戦豊富な戦国山城の方が好きである。

篠山郊外の史跡

 篠山の城下町の散策を終え、篠山郊外の史跡を訪れた。

 先ず訪れたのは、丹波篠山市北にある曹洞宗の寺院、医王寺である。

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医王寺

 医王寺に祀られているのは、薬師如来である。お寺というより、お堂というくらいのささやかな建物だ。

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医王寺の本堂

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境内の薬師如来

 医王寺の境内には、兵庫県指定文化財、天然記念物の「医王寺のラッパイチョウ」がある。

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医王寺のラッパイチョウ

 この医王寺のラッパイチョウは、漏斗状(ラッパ状)になった葉が全体の1割を占めるという。

 イチョウは、恐竜が地球上を歩いていた約2億年前から生息する、現在の地球上で最古の姿を残した樹木である。

 ラッパ葉はイチョウの原始葉で、茎が葉になる進化の途上を示すものである。茎の性質を残した葉と言える。

 現代人にとって、地上の植物に葉があるのは当たり前だが、実はこれも進化の過程で獲得された機能である。

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医王寺のラッパイチョウの葉

 言うなれば、医王寺のラッパイチョウは、植物の茎が葉に進化した途上の姿を残していると言える。

 このイチョウの変異が受け継がれた時間の気の遠くなる長さからすれば、人間の残した史跡など足元にも及ばない。

 まあ、我々が持つ脊椎も、約5億3千万年前に登場した地球上初の脊椎動物ヤツメウナギから受け継いだものなのだから、考え方によれば、我々の脊椎の方がイチョウより古いと言えるかも知れない。

 ところで、ラッパイチョウの隣には杉が立っていて、イチョウの根と杉の根が絡んでいた。

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イチョウ(右)と杉(左)

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絡んだイチョウと杉の根

 杉は神社でよく神木とされ、イチョウは寺院によく植えられている。いわば神社と寺院を象徴する樹木同士だが、この絡んだ根を見て、神と仏が同居する日本の信仰の姿を思い浮かべた。

 この医王寺の境内にも、神様であるお稲荷さんが祀ってあった。

 ここから車を東に走らせ、丹波篠山市川原にある御刀代(みとしろ)神社を訪れた。

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御刀代神社の鳥居

 この御刀代神社の隣が、丹波黒豆の畑になっていて、丁度農家の人が黒豆を収穫していた。思わず黒豆の味と触感を思い浮かべた。

 御刀代神社の境内には、祭神の第27代安閑天皇を祀るお社と、修験道の神様である蔵王権現を祀るお堂が並び建っている。

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お社とお堂

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お社前の狛犬

 お社前の狛犬には、狛犬の子が戯れている。微笑ましい狛犬だ。

 それにしても何でここに安閑天皇を祀っているのだろう。調べてみると、神仏習合の考えでは、蔵王権現安閑天皇と同一視されていたという。

 蔵王権現は、吉野の金峯山寺の本尊となっている。修験道の祖、役小角吉野山で修行していた時に蔵王権現の存在を感得したことから、吉野にお祀りされるようになった。

 蔵王権現は、密教にも登場しない、修験道独自の、そして日本独自の神仏である。

 安閑天皇が武芸に優れていたため、いつしか蔵王権現の化身とされた。安閑天皇は6世紀の在位で、役小角は7世紀の人物である。およそ100年の開きがある。

 安閑天皇蔵王権現が同一視されるようになったのは、修験道が形を整えた平安時代以降ではないか。

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安閑天皇を祀るお社

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 明治の神仏分離の際、蔵王権現を祀っていた神社からは蔵王権現が撤去され、その代わり祭神を安閑天皇にしたところが多いという。

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蟇股の龍の彫刻

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脇障子の彫刻

 御刀代神社のお社は、小さいながら彫刻が凝っている。

 さて、その蔵王権現の銅製の立像を祀るのが、隣のお堂である。

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銅造蔵王権現立像を祀るお堂

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銅造蔵王権現立像が兵庫県指定文化財となったことを書いた板

 ここに祀られる銅造蔵王権現立像は、丹波修験道の行場、御嶽山にあった。

 文明十四年(1482年)、丹波修験道は、大峯山を中心とする大和修験道との争いに敗れ、御嶽山の寺院は焼き払われた。蔵王権現立像は、現在の丹波篠山市真南条上の龍蔵寺に遷された。

 その後、御刀代神社に遷されたという。雨乞い、マムシ除けの霊験があるとされ、地元の信仰を集めている。

 昭和62年に、銅造蔵王権現立像は兵庫県指定文化財となった。

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お堂内部

 お堂内を見てみたが、蔵王権現厨子の中で保管されていて、当然姿を見ることが出来なかった。

 さて次なる目的地、丹波篠山市大渕にある「土居の内」を訪れた。

 土居とは、中世に地元の土豪や国人、名主の住む集落や居宅を外敵から守るために周囲に築かれた土塁のことである。

 土塁の外には堀も設けられた。

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土居の内

 この土居の内は、中世の土居がそのまま残る場所である。かつての土豪の居館は、今は一般の民家になっているが、民家の周りを囲む土塁と堀がそのまま残っている珍しい場所である。堀は、水田になっていたものを復元したものらしい。

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土居の内

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 今の日本には、安土桃山時代以降に築かれた城や、江戸時代後期に建てられた武家屋敷は僅かに残っているが、室町時代以前の武士の居館で現存するものはない。再現されたものはあるかも知れないが、私の知る限り当時のものは残っていない。

 ただの武士の家は、残す価値が認められなかったのかも知れない。

 この土居の内は、土塁ではあるが、中世の地方武士の居館の姿を彷彿させるものとして、価値があるものと感じた。