廣峯神社

 姫路市街の北側に聳える広峰山の中腹にあるのが、廣峯神社である。

 広峰山は、往古、白幣山と呼ばれ、人々が神の山と崇め、神籬を建てて、素戔嗚尊と五十猛尊を祀ったという。

 社伝によると、神功皇后三韓征伐に出兵する際、白幣山で素戔嗚尊に勝利を祈願した。皇后は、無事勝利すると、帰路に白幣山に登って大祭を執行し、小宮を奉納されたという。

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廣峯神社鳥居

 天平五年(733年)、遣唐使として唐に渡っていた吉備真備が、帰路にこの地に寄港した際に神託を受け、聖武天皇に奏上した。翌年、聖武天皇の勅命で真備公が社殿を建立し、廣峯神社と社名を定めた。

 素戔嗚尊は、神仏習合の過程の中で、釈迦が説法した祇園精舎の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)と同一神とされた。

 廣峯神社は、牛頭天王を祀る社としては、京都の八坂神社と並んで、古い歴史を誇る。

 天禄三年(972年)には、現在地に大規模な社殿を造営し、現在荒神社が建つ場所から神々を遷座した。

 現在の本殿は室町中期に、拝殿は桃山時代に再建されたものである。 

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参道

 表門に至る石段は、工事中で立ち入ることができなかった。石段の途中にある国指定重要文化財の宝篋印塔も見ることが出来なかった。

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表門

 表門は、元禄十年(1697年)の建築で、装飾の少ない簡素なものである。

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拝殿

 拝殿は、幅が十間もあり、広角レンズのRX100でも全体像を1枚に収めるのに苦労する。

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拝殿正面

 400年以上昔の古びた拝殿で、いかにも暴れん坊の素戔嗚尊の社殿に相応しい。

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拝殿内部

 拝殿の柱も、罅が入っていて古い木材であると分かる。向こうに見える本殿は、柱を朱塗りにしている。

 拝殿、本殿共、国指定重要文化財である。

 本殿は檜皮葺の簡素な佇まいだが、この本殿の特徴は、裏に「九つの穴」が開いていることである。

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本殿

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本殿裏の「九つの穴」

 吉備真備は、日本に陰陽暦学を広めるため、素戔嗚尊牛頭天王(本殿中央)、御后神の奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)を歳徳神(本殿右側)、御子神の八王子を八将神(本殿左側)に配し、日本の暦の神とした。

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「九つの穴」の説明板

 九星のうち、自分の誕生年に当てはまる星の穴に、祈願事を書いた「九つの穴守り」を投げ入れ、祈願するのだそうだ。

 現在、奥宮である荒神社がある場所が、現在の本殿、拝殿が出来る前に社殿があった場所とされる。

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荒神

 荒神社は、春日造りの小さな社殿であるが、薄い板を積み重ねた杮葺きの屋根が見事である。

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荒神社の屋根

 荒神社には、素戔嗚尊の荒魂(あらみたま)を祀っている。パワースポットという観点で見たら、ここが最もパワーを漲らせている筈である。

 荒神社の隣には、吉備真備公を祀る吉備社がある。こちらは新しい社殿であった。

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吉備社

 
 ところで、廣峯神社は、黒田官兵衛ゆかりの神社として名高い。官兵衛の祖父、黒田重隆は、備前福岡から播州にやってきて、廣峯神社の神官と一緒に家伝の目薬を売って財をなしたという伝説がある。

 廣峯神社では、大正時代まで目薬が売られていたという。神社の周辺には、かつて目薬を売った御師たちの邸跡が残っている。

 黒田官兵衛は、廣峯神社を尊崇する気持ちが厚かったと言われているが、驚くべきことに、今廣峯神社拝殿の西隣に、官兵衛神社の建設が進んでいる。

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官兵衛神社完成予想図

 大河ドラマ黒田官兵衛」の放送から発案されたことだろうが、黒田官兵衛はこれを見てどう思っていることだろう。

 自分が信仰していた神社のすぐ隣に、自分が神として祀られると知ったら、誰でも面映ゆくなるだろう。

 せめて、本殿の裏にひっそりと建てて欲しかった。

 拝殿の東側には、息吹木(いぶき)という霊木があった。

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神木「息吹木」

 天禄三年(972年)に社殿をこの地に移した時に、この辺りに生えていた松の木のうち1株を残したものだそうだ。

 地球上で1000年以上を生きる生物は、考えてみれば樹木くらいしか思い浮かばない。そう思えば、樹木は畏敬すべき存在である。
 この木に、吉備真備が来た時や、黒田重隆が目薬を売っていたころのことをつい質問したくなった。

 

姫路ところどころ

 姫路城の北東側には、姫路市立美術館がある。

 かつて、姫路城が陸軍第10師団の駐屯地だった時に、兵器庫・被服倉庫として使われていた赤レンガの建物が、今は美術館として利用されている。

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姫路市立美術館

 この建物は、明治38年に建設され、大正2年に増築された。戦後は長い間、姫路市役所として使用されていた。

 昭和55年に、姫路市役所は現在の姫路市安田4丁目の建物に移転となる。この建物は、大改修工事の後、昭和58年に姫路市立美術館として開館した。

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 赤レンガに瓦葺という、いかにも明治を彷彿とさせる建物だ。

 赤レンガ越しに、姫路城を見ることが出来るが、これも明治の光景のようで中々いいものだ。

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姫路市立美術館と姫路城

 美術館の前には、ブルーデル作「モントーバンの戦士」などの彫刻が置かれている。

 姫路市立美術館の北隣には、兵庫県立歴史博物館がある。

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兵庫県立歴史博物館

 ここには、姫路城を始めとする兵庫県内の建造物の模型や、様々な出土品、仏像などを展示している。

 姫路城東大柱は、昭和の大修理で傷んだ根元を交換したが、交換された東大柱の根元部分が展示してある。

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旧姫路城東大柱

 割れた柱を鉄の輪で補強して、何とか使い続けていたのが分かる。

 またフロアには、15分の1の姫路城天守の模型が展示してある。

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姫路城天守模型

 兵庫県立歴史博物館は、1階、地階部分は無料である。ここだけでも結構見るものがある。

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獅子・狛犬

 愛玩犬のように可愛らしい阿形の獅子、吽形の狛犬が展示している。鎌倉時代中期の作だ。鎌倉時代の愛犬家の彫刻師の作か。

 地階には、兵庫県内の国宝建造物である、浄土寺本堂や鶴林寺太子堂、朝光寺本堂、一乗寺三重塔の模型が展示している。内部の木組みが見られるようにしてある精巧な模型だ。

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浄土寺本堂模型

 これらの国宝建造物にも、これからの史跡巡りで出会うことになるだろう。その他にも、兵庫県内の廃寺から発掘された瓦などが展示されている。それらの写真は、今後の回で紹介しようと思う。

 有料ゾーンの2階では、「へんがお」と題した展覧会が催されていた。仏像や絵巻や仮面などの様々な文化財の中で表現された表情を集めた展覧会である。写真撮影OKであった。

 江戸時代の「酒呑童子絵巻」がユーモラスで面白かった。丹後大江山に住む酒呑童子という鬼を、源頼光藤原保昌が退治するという物語である。

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酒呑童子絵巻

 酒呑童子の手下の鬼が、源頼光から毒酒を振る舞われる場面だが、鬼の表情がユーモラスである。それにしても、現代の漫画よりも遥かに手の込んだ絵である。高価だったろうから、庶民が眺めることは出来なかったのではないか。

 また、城好きにはたまらないかも知れないが、日本に現存する12天守の同一縮尺の模型が展示してあった。

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現存12天守の模型

 こうして見ると、圧倒的に姫路城が大きいが、離れた場所に展示してあった江戸城天守模型は姫路城天守の倍くらいあった。しかし、大きいだけで美しさでは姫路城には及ばない。

 兵庫県立歴史博物館から眺める姫路城天守も有名なアングルのひとつだ。

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兵庫県立歴史博物館から見る姫路城天守

 兵庫県立歴史博物館の北側には、姫路市立図書館があるが、2階に日本城郭研究センターがある。ただしここは観光地ではなく、内部を公開しているわけでもない。

 そこから北東に行った姫路市野里慶雲寺前町に、慶雲寺という臨済宗妙心寺派の寺がある。

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慶雲

 慶雲寺は、嘉吉三年(1443年)に創建された。開山時は、天台宗の寺であった。

 慶雲寺には、お夏清十郎比翼塚があることで有名である。

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お夏清十郎比翼塚

 お夏清十郎の悲恋話は、寛文年間に実際にあった話で、それを井原西鶴が「好色五人女」に書くなどして、世間に広まった。

 室津の造り酒屋和泉屋の息子清十郎は、美男子であった。清十郎は、19歳で姫路の旅籠屋但馬屋の手代となるが、そこで但馬屋の娘お夏と恋仲となる。しかし、お夏の父但馬屋九左衛門は、二人の仲を認めない。お夏と清十郎は駆け落ちするが、すぐさま捕えられる。清十郎には店の大金を持ち出したという濡れ衣が掛けられる。清十郎は刑死し、清十郎の死を知ったお夏は狂乱して、そのまま行方不明となる、という話である。

 この比翼塚は、二人の純愛に打たれた但馬屋が建てたものだとされる。

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比翼塚

 日本版「ロミオとジュリエット」といったところか。日本の封建時代には、家や出自のしがらみが悲劇の元となったが、しがらみが少なくなった現代には、悲劇が生まれる要素は少なかろう。

 この二人にかける言葉は見つからないが、隣り合う2つの塚を見ると、何故か今は幸せそうだと感じた。

三日月

 かつて兵庫県佐用郡三日月町という自治体があったが、平成17年に、佐用郡佐用町に合併された。

 旧三日月町周辺は、江戸時代には三日月藩という藩が領域支配していた。 

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三日月藩乃井野陣屋跡

 元禄十年(1697年)、幕府は、津山藩森家の改易に伴い、分家の森長俊に播磨国三日月1万5千石への所領替えを命じる。翌年に三日月に入領した長俊は、山麓扇状地である乃井野を適地として、ここに陣屋を作った。

 三日月藩森家は、明治維新後の廃藩置県まで、代々三日月藩主を務めた。

 今、乃井野の地に建つ陣屋跡は、平成8年以降の発掘成果を元に復元されたもので、平成17年に完成した。

 復元されたのは、陣屋門と物見櫓である。

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物見櫓

 新築復元された建物の中で、物見櫓だけは唯一江戸時代からの遺構である。

 物見櫓は、寛政三年(1791年)以前に出来た建物で、廃藩置県後はあちこちに移築され、小学校や村役場、公民館の建物として利用された。

 平成13年に、礎石などを発掘調査して、現在のように元の位置に移築された。

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物見櫓の裏側

 物見櫓は、土日には公開されているが、私が訪れたのは平日だったので、中には入れなかった。

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中御門

 復元された中御門なども、なかなか立派であった。

 陣屋門の裏手には、かつての藩庁があった広大な扇状地が広がる。

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藩庁の跡地

 乃井野陣屋跡の隣に、歴代藩主を祀る列祖神社があるが、その隣に広業館という建物があった。

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広業館

 中を覗くと、柔道の畳が敷いてあり、武道場として今も使われているような様子だった。

 説明書きによると、広業館は、三日月藩の藩校として建てられたが、明治になって、建物の一部が移築されて小学校舎となった。昭和55年に、建物は列祖神社境内に移築され、記念館として保存されることになったという。

 見るからに昔の小学校校舎で、三日月藩の藩校時代の建物がどこに残っているのかは分からない。

 広業館は、「兵庫県の歴史散歩」にも記載がなく、来てたまたま見つけたものである。何だか得をした気分になる。

 乃井野陣屋跡から少し北に行くと、最明寺という寺がある。ここには、国指定重要文化財北条時頼座像がある。

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北条時頼座像収蔵庫

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北条時頼座像説明板

 この最明寺は、鎌倉幕府の五代執権の北条時頼が出家後に訪れて、自らの座像を彫って置いていったという寺である。

 北条時頼は、仏門に入り、最明寺入道と号した。旅僧として諸国を行脚し、正元元年(1259年)から文応元年(1260年)にかけて、3カ月この地に滞在した。村人の庇護を受け、この地を立ち去る際に、和歌一首と座像一体を残していったという。

 時頼は、執権時代は裁判制度強化に努め、幕権の強化を図った。後世、名君と呼ばれた。

 最明寺の北条時頼座像は、カツラの寄木造で、僧体の像である。鎌倉後期の優作であるらしいが、見ることが出来ない。

 乃井野の陣屋から西に行き、新宿の集落に入る。この辺りは、かつての美作道の中川駅があったとされる場所である。

 中川駅の遺跡は発掘されていないが、昭和35年に新宿の集落の山裾で発見された新宿宝篋印塔の銘に、「播磨国中津川」と刻まれていたため、この辺りが中川であることが確認された。

 新宿宝篋印塔を見に行ったが、何と倒れていた。

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倒れた新宿宝篋印塔

 人為的なのか、自然現象なのかは分からないが、悲しむべきことである。兵庫県指定文化財であるため、兵庫県教育委員会に連絡でもしようかと思う。 

 新宿宝篋印塔には、嘉慶二年(1388年)と刻まれており、そのころにはこの地域は中津川と呼ばれていたことが分かる。

 昨今の市町村合併で、古くからの地名がどんどん消滅しているが、1000年後には、今何気なく使っているものが、過去の地名を特定する有力情報になるかも知れない。

 新宿の集落には、考古資料が出土した高畑古墳の跡地がある。

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高畑古墳跡

 また、古墳近くの葡萄畑の中に、新宿廃寺の跡がある。今は、当時の礎石が置かれているだけである。出土した瓦の文様から、奈良時代の寺院跡であると分かった。

 当時は、駅の近くには寺が建てられていた。ここに廃寺があるということは、やはり中川宿もこの近くにあったのだろう。

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新宿廃寺の礎石

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礎石

 最近、遺跡の上に下手に新しい建物を再建されるより、こういう剥き出しの礎石だけがある方がいいと思うようになってきた。かつてこの上に建物の柱が立っていたと想像する方がわくわくする。

 礎石の上に、誰が置いたのかは分からないが、付近から出土したと思われる当時の瓦片と土器片が置かれていた。

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礎石の上の瓦と土器片

 こんな瓦片や土器片を見て愛しいと思うようになってきたら、好古癖も行きすぎなのだろうか。

 いずれにしろ、人々が生きてきたという事実は、尊重すべきものである。

旧制姫路高等学校本館・講堂

 射楯兵主神社を見終わり、姫路市山野井にある姫路文学館に行く。

 ここは、播州ゆかりの文学者である、和辻哲郎椎名麟三、又祖先が播州出身だった司馬遼太郎の資料などが展示してある。

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姫路文学館北館

 私が訪れたのは月曜日で、休館日であった。姫路文学館には北館と南館があり、両方安藤忠雄氏の建築である。こういうモダンな建物が、文化財として見做される日が来るのだろうか。

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姫路文学館南館

 姫路文学館は、元々姫路屈指の実業家である濱本八治郎の敷地跡に建てられている。濱本八治郎の別邸として建っていた邸宅が、現在望景亭という名称で残っている。国登録有形文化財に登録され、無料公開されている。

 望景亭は、大正初期に完成した和風建築である。

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望景亭を遠望する。

 中に入れないのが残念である。しかし、姫路城天守を振り返り、心を慰める。

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姫路文学館から眺める姫路城大天守

 姫路市では、条例により、姫路城大天守よりも高い建物を建てることが出来ない。姫路市にはタワーマンションは建てられないのだ。なので、お城から離れていても、ふとした建物の隙間から、天守が見えたりする。

 気を取り直し、姫路市新在家本町にある、兵庫県立大学環境人間学部を訪れる。

 ここは、かつての旧制姫路高等学校があった場所である。

 旧制高等学校とは、旧帝国大学予科としての役割を受け持ち、戦後の高等学校とは全く異なる。

 帝国大学では、英語やドイツ語を使った専門的な授業を行うので、予科である高等学校のうちにそれらに備えた教育をみっちり行う必要があった。全国の旧制高等学校卒業生の人数と、帝国大学の入学定員がほとんど同じだったので、戦前は旧制高校に入ればほぼ無試験で帝国大学に入学できたという。昔は、旧制高校に入学することがエリートの証であった。

 入学すれば、もう将来が約束されたようなものなので、入学後は勉強せずに遊ぶ学生も多かったという。

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旧制姫路高等学校本館

 教育内容も、今の高校教育とは異なり、大学の一般教養課程に近い内容だったという。

 旧制姫路高等学校は、大正7年の高等学校令に基づいて、大正12年に開学した。

 旧制姫路高校の本館と講堂が、現在の兵庫県立大学環境人間学部のキャンパスに残っている。今では、本館を「ゆりの木会館」と呼ぶ。

 ゆりの木会館前の門柱は、姫路高等学校時代から残っているものである。

 大学構内に入り、守衛さんに質問すると、ゆりの木会館と講堂は、外からなら写真撮影はしても良いとのことだった。

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ゆりの木会館(旧制姫路高等学校本館)

 ゆりの木会館は、アーチ状の廊下と白いペンキで塗られた木製の壁が瀟洒で美しい。

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ゆりの木会館の北側

 まさに学問の府、といったところである。

 講堂は、堂々たる建築物である。

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旧制姫路高等学校講堂

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同じく講堂

 旧制高等学校は、大正7年の高等学校令で、全国に多数出来たが、戦後の教育改革で、昭和25年に廃止となった。

 旧制高校は、戦後に廃止となってからは、旧制大学に吸収されるか、戦後に出来た新制大学教養学部文理学部の母体となった。ほとんどの旧制高校が、現在各都道府県にある国立大学の母体となった。姫路高等学校は、戦後神戸大学教養学部の姫路分校となる。

 神戸大学姫路分校は、昭和40年に神戸市灘区六甲台に移転した。その後旧制姫路高等学校の本館と講堂を受け継いだのは、兵庫県立姫路短期大学である。姫路短期大学は、平成10年度に兵庫県姫路工業大学環境人間学部に吸収され、今はその後身である兵庫県立大学が姫路高等学校の本館と講堂を管理している。

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旧制姫路高等学校の学生像

 旧制高校の学生の典型的なスタイルが、「バンカラ」と呼ばれた、白線入り学生帽にマント、高下駄という姿である。彼らはこの姿で寮歌を高吟して街を歩いた。講堂前の姫路高等学校の学生の銅像が、旧制高校の学生の典型的な姿を表している。

 旧制高校学生の粗野で野蛮な見てくれは、外見にとらわれずに真理を追究する学徒としての誇りと自負と気概に満ちたものである。

 全国に旧制高校の遺構が残っているが、近代の文化遺産の仲間入りをしている建物もあるだろう。古い校舎というのも、いいものである。
 

射楯兵主神社

 姫路城の南東に、射楯兵主(いたてひょうず)神社がある。ここは、播磨の国16郡の神々を祀っているので、播磨国総社とも呼ばれている。地元では単に「総社」と呼ばれることが多い。結婚式場としてもよく使われる。

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大鳥居

 この神社の本殿には、射楯大神と兵主大神の二柱の神が祀られている。

 射楯大神は、五十猛命(いそたけるのみこと)とも称し、素戔嗚命の息子とされる。日本中に檜や楠を植樹して、日本の森林を作ったとされる神様である。

 兵主大神は、大己貴命(おおなむちのみこと)とも称し、過去に紹介した播磨国一宮の伊和神社の祭神伊和大神と同一神とされる。

 いずれにしろ、出雲の匂いを強く感じる神社だ。 

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神門

 「播磨国風土記」に、因達里(いだてのさと)の由来として、

因達(いだて)と称ふは、息長帯比売命(中略)渡りましし時、御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す。故、神の御名に因りて、里の名と為す

とある。

 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)は、神功皇后のことである。射楯大神は、神功皇后が朝鮮征伐のための航海をした際に、皇后の乗る船に下りて来たらしい。瀬戸内海沿岸には、神功皇后の朝鮮征伐説話由来の神社が多数あるが、この神社もその一つである。

 因達里は、現在の姫路城北西部にあたるとされる。当時はこの辺りまで海が迫っていたのだろう。

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拝殿

 また、社伝によれば、欽明天皇25年(564年)6月11日に兵主大神の影向(ようごう、神や仏が仮の姿で現れること)があり、飾磨郡伊和里水尾山に、大己貴命(兵主大神)を祀ったと伝えられている。

 飾磨郡伊和里は、現在の姫路市街の中心部を指すと言われている。伊和大神を祀る伊和の一族が、今の姫路まで進出してきて、伊和大神を祀ったということなのだろうか。

 社伝では、寛平三年(891年)に、兵主大神に射楯大神を併せ祀り、射楯兵主神社と号したとされる。

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本殿

 本殿の屋根を見ると、南側に向かって小さな屋根が二つ抜き出ており、ここに二柱の神が祀られていることが分かる。

 また、養和元年(1181年)に、射楯兵主神社播磨国16郡の名高い174座の大小明神を合わせ祀り、播磨国総社と称するようになる。

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播磨国16郡の神々を祀る。

 そういえば、伊和神社にも播磨国16郡の神々が祀られていた。この2つの神社は、兄弟のように似ている。

 射楯兵主神社の特色ある祭りとして、一ツ山大祭と三ツ山大祭がある。

 一ツ山大祭は、60年に一度(次回は2047年)、三ツ山大祭は、20年に一度(次回は2033年)行われる祭りである。

 兵庫県立歴史博物館に展示してあった、三ツ山大祭の写真を見るとイメージを掴みやすい。

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三ツ山大祭で造られる山の模型

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平成5年の三ツ山大祭

 三ツ山大祭では、写真のように、高さ16メートルの三ツ山を作り、それを神々の依代(よりしろ)にする。

 三つの山はそれぞれ二色山/五色山/小袖山と呼ばれ、二色山には播磨国の大小明神、五色山には九所御霊(くしょごりょう)大神、小袖山には天神地祇(国中の神々)をお迎えする。
 三つの山にお迎えした神々を、本殿の射楯大神、兵主大神が、この時特別に神門の屋根の上に設けられる門上殿でお出迎えして、共に国の平安と発展を祈る。

 一ツ山大祭では、山を一つだけ作り、そこに神々をお迎えする。藤原純友天慶の乱の平定を祈るために始められたそうだ。

 伊和神社でも、一ツ山大祭と三ツ山大祭が行われるが、こちらは一ツ山大祭が21年に一度、三ツ山大祭が61年に一度行われる。

 射楯兵主神社の三ツ山大祭の三ツ山は、伊和神社を囲む三つの山、白倉山、花咲山、高畑山を象っているとも言われる。

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伊和神社を囲む三ツ山

 こうして見ると、兵主大神は、やはり宍粟郡の伊和の地から姫路に進出してきた人々が祀ったのだろう。

 この三ツ山大祭は、天文二年(1533年)に、播磨国守護職赤松晴政の下知により、二十年に一度行うことが定められたそうだ。

 赤松氏は、関ケ原の合戦で消滅してしまった播磨の名族だが、播磨の文化財や祭りの由来には必ずと言っていいほど顔を出す。播磨の文化には、赤松氏の影が付き添っている。 

 境内には、他に、源頼光(みなもとのよりみつ、げんらいこう)が大江山の鬼退治をした時に持って帰った鬼の首を埋めた場所にある「鬼石」や、姫路城天守に祀られる長壁大神を祀る長壁神社がある。

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鬼石

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長壁神社

 射楯兵主神社は、昭和20年の姫路空襲で、社殿や社宝が全て焼けてしまった。残ったのは、神社の南側に建つ、慶安五年(1652年)に名君榊原忠次が寄進した石造鳥居(最初の写真)くらいである。

 今の社殿は、昭和28年ころに再建されたものである。境内西側に建つ朱塗りの総社御門は、平成18年に再建されたものである。

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総社御門

 射楯兵主神社の神紋は、赤松氏と同じ「二つ引両」と「三巴紋」である。

 伊和大神と赤松氏という、播磨ゆかりの神と武家に関係の深い射楯兵主神社だが、是非、2033年に行われる次回の三ツ山大祭を見てみたいと思った。

 それまでの我が国の平穏を願うばかりである。

姫路城 その6 附好古園

 長かった姫路城シリーズも今日で終わりである。

 姫路城大手門を出て、内曲輪の周囲を歩くことにする。

 姫路城の内曲輪は、水が満々と湛えられた濠に囲まれている。

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姫路城の濠

 こうして見ると、B29のレーダーが濠の水を捉えた反応を見て、操縦手がこの辺を沼と判断したのも分かる気がする。

 姫路城は、いつの季節にきてもいいかと思うが、私は桜の季節が一番いいと思う。

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濠の向こうの天守

 上の写真の、石塁上の木は桜である。桜が咲けばどれだけ綺麗か、想像がつくだろう。

 この写真には写っていないが、手前の歩道沿いには柳も植えられている。柳の新緑と桜越しに見る天守は、大げさかも知れないが、涙が出るほど美しい。

 さて、姫路城の南西側には、姫路市制100年を記念して、平成4年に開園した日本庭園、好古園がある。かつて姫路城西御屋敷があった跡地に作られた庭園である。

 園内には、全部で9つの庭がある。全てを紹介することは出来ないが、それぞれ特色がある庭である。

 最も広い「御屋敷の庭」は、姫山原生林を借景とした池泉回遊式庭園である。

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御屋敷の庭

 大池には錦鯉が彩を添えている。

 また、好古園内には、茶室双樹庵がある。京都の数寄屋大工が技術の粋を傾けて作った本格的茶室である。双樹庵の前には、茶の庭が広がる。

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双樹庵と茶の庭

 他にも、苗の庭、流れの平庭、夏木の庭、松の庭、花の庭、築山池泉の庭、竹の庭がある。

 私は、瀬戸内海のアカマツの林をイメージした、松の庭が好きである。

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松の庭

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築山池泉の庭の鯉

 昔は日本庭園などさっぱり面白くないと思っていたが、不思議と年齢を重ねると、こういうものを良いように感じ始める。自然そのままの素材を生かしながら人の手を加えて作庭された日本庭園と、素材の味を生かす日本料理は似ているような気がする。

 好古園を出て、濠の周りを時計回りに歩く。

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千姫の小径

 姫路城西側の濠と船場川の間には、千姫の小径と呼ばれる土の道がある。春は桜、秋は紅葉が奇麗で、毎日散策してもいい道だ。

 千姫の小径を通って、城の北側に出る。観光客が城を北側から眺めることは少ないと思われる。北側からは、東小天守とロの渡櫓を手前に控えた大天守を見ることができる。

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北側から見た天守

 どこから見ても堂々とした姿である。

 城の西側に出る。帯郭櫓(腹切丸)の石垣の勾配が素晴らしい。

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西側から見た天守と帯郭櫓

 石垣の勾配と、帯郭櫓の建物と屋根の形が合うように、全体を計算して造られている。石垣の上辺がカーブしているのも珍しい。

 この城の全体の布置結構を考えた人は、何者なのだろう。桂離宮の設計者の小堀遠州は、歴史に名を残しているが、姫路城の全体を設計した人の名は伝わっていない。複数の人が設計に携わったのかも知れないが、これだけの統一感と調和の取れた城を見ると、1人の設計者が全体を構想したのではないかと思ってしまう。

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 この角度から見上げると、石垣下部の角度と大天守の角度が同一に見える。

 少し引いて見ると、石垣の高さとその上の建物の高さの比率や、大天守を頂点とし、大天守から離れるにつれて低くなる建物の配置が絶妙であることが分かる。

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西側から眺める姫路城

 各建物の屋根の頂点を線で結んでみると、富士山のような円錐形になる。私は、姫路城シリーズの初回で、姫路城を富士山に比べたが、あながち間違っていなかったのか。

 こうして横から姫路城を見ると、白鷺というより、白い帆を張って堂々と進む帆船のように見える。

 三島由紀夫は小説「金閣寺」の中で、金閣を時間の中を航海する船に例えたが、私は姫路城こそ時間の中を旅する船であると思う。

 時間の荒波を切り裂き、数々の危機を乗り越えながら進んできた姫路城が、これからの時代も、無事に航海を続けていくことを切に願う。

姫路城 その5

 姫路城大天守1階から、イの渡櫓に入る。入り口は、これまた分厚い扉である。

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イの渡櫓への入り口

 イの渡櫓を通り、国宝東小天守に入る。東小天守内には、昭和の大修理の際に作られた、姫路城の1/20の軸組構造模型が展示されている。

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軸組構造模型

 昭和の大修理は、姫路城の全解体修理だった。この軸組構造模型は、安全と効率的な工事のための検討用に作られた。

 昭和の大修理が、いかに一大事業であったかが分かる。

 ロの渡櫓を通り、乾小天守に入ると、今度は、姫路城総構の復元模型が展示されている。

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姫路城総構の模型

 総構とは、城の一番外側の濠と土塁に囲まれた城郭全体を指す。これが最も広い意味での姫路城である。内曲輪、中曲輪、外曲輪を合わせて総構となる。外曲輪は、町人が住んだエリアである。

 明治時代に姫路に鉄道が敷かれたころ、まだ総構の遺構が残っていたので、鉄道を総構内に敷くことが出来なかった。今の山陽本線JR姫路駅と播但線JR京口駅は、丁度総構の外側ぎりぎりに置かれた。その後に出来た山陽電鉄姫路駅は、総構の土塁の上に作られた。つまり、かつては、JR姫路駅のすぐ北側の、山陽電鉄姫路駅あたりまでが「姫路城」だったわけだ。

 西小天守は、天守見学路の出口になっている。ここで靴を履いて外に出ることになる。

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西小天守の出口

 西小天守から出てしばらくすると、目の前に化粧櫓を手前に控える西の丸の全体が目に入る。

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西の丸

 また、天守南側の備前丸(本丸)から見上げる大天守と西小天守の姿は相変わらずの威容だ。惜しむらくは、一部修復工事中で覆いがかけられていることだ。

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備前丸から見上げる大天守と西小天守

 備前丸を横切り、備前門から二の丸へ向かう。

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備前

 門の右側に、巨大な石が使われているが、これは石棺である。姫路城築城時、あまりに大量の石を使うため、石不足になり、宝篋印塔の石や古墳から発掘された石棺までが石垣に転用された。

 二の丸に行くと、播州皿屋敷で有名なお菊井戸がある。井戸があると、誰もが中を覗きたくなると見える。

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お菊井戸

 お菊井戸の由来は、姫路城大天守が出来る100年ほど前の、永正年間の話が元となっている。この話を書いた「播州皿屋敷実録」は、江戸期の成立である。内容は荒唐無稽で、作り話であろうと思われる。この井戸も、フィクションの「播州皿屋敷実録」が書かれてから、お菊井戸とされたのではないか。

 工事中の「ぬの門」を通る。この門の扉も鉄製である。手抜かりはない。

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ぬの門

 更に石垣を利用した埋門である「るの門」を通過する。

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るの門

 中南米の古代遺跡の門のようだ。 

 るの門を過ぎて、菱の門から三の丸に出て、上山里下段石垣を観る。

 この石垣は、ほとんど加工しない凝灰岩やチャートを使った野面積みという工法で積まれている。信長の安土城石垣と積み方は同じで、天正年間に、秀吉が姫山に三層の天守を築いたときの石垣であると思われる。

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上山里下段石垣

 古風で野性味溢れる石垣だ。

 さて、姫路城築城前の姫山には、称明寺というお寺があり、地域の豪族や役人の墓があったという。

 姫路城を築城するときに、寺を別の地に移し、寺にあった墓石などの仏石を石垣に多数利用したという。

 三の丸の下山里に、石垣改修の時に出てきた仏石を利用して建てた五輪塔などの供養塔が祀られている。

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下山里の供養塔

 墓石を使って石垣を作るなどというのは、罰当たりと思ってしまうが、それほど石が不足していたのだろう。石の来歴というものも面白いものだ。

 三の丸には、池田輝政の大天守建築から昭和の大修理まで、大天守を支え続けた旧西大柱が展示されている。

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旧西大柱の覆屋

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旧西大柱

 旧西大柱を見ると、割れて内部が腐朽している。よくこれで昭和まで大天守を支え続けたものである。

 華麗な城も、構成要素に分解していけば、ただの石だったり、木材になる。姫路城の漆喰や瓦も、元は土である。姫路城は木と石と土と僅かな鉄で作られているわけだ。それが組みあがって城になるとは、考えてみれば不思議なことだ。

 そう思うと、この建築に捧げられた労力と時間は、途方もないものであると実感できる。手を抜けばすぐに劣化してしまうだろう。

 これをどうにかして、次世代に引き継いでいかなければならない。