本荘八幡宮 

 下津井城跡の見学を終え、倉敷市児島通生(かよう)に向かった。

 児島通生に、湊岬という海に突き出した山がある。この山上にあるのが、湊山城跡である。

湊山城跡

 湊山城は、児島半島にあった常山城の支城で、常山城主上野隆徳の家臣山田菊次郎が城主を務めた。

 天正三年(1575年)、備中高松城を攻略した毛利方の小早川隆景吉川元春の攻撃により落城した。

 小規模な城だったらしいが、いまでは城跡に至る道が私道になっていて、通行が禁止されているので見学は出来なかった。

湊山城跡方面への道

 さて、湊岬から北に走り、水島臨海工業地帯を北西に望む宮山という丘陵上にある本荘八幡宮を訪れた。

 本荘八幡宮は、宮山東方にある真言宗の寺院、般若院の鎮守として、大宝元年(701年)に宇佐八幡宮から神霊を勧請し、創建されたと伝えられている。

 弘安九年(1286年)八月に再建されたとも伝わっている。 

 このあたりは通生本荘という西園寺家の荘園であったため、本荘八幡宮の名称となったそうだ。

本荘八幡宮の鳥居

 宮山の麓に一の鳥居が建つ。一の鳥居には、享保三年(1718年)の銘がある。

享保三庚子歳の銘

 一の鳥居を過ぎるとすぐに、不思議な水盤のようなものがある。

水盤

 巨大な石の上に流線形の模様が彫られている。その上の石碑に、この石造物の由来が刻まれている。

水盤の由来

 それによると、この水盤は、弘化四年(1847年)八月に、福田岩吉という人が本荘八幡宮に奉納したもののようだ。

 下津井の燈籠崎の海中にあった、8940貫の重さのある巨石を、船に繋いで引き上げ、弘化四年の7月17日から8月5日までの間に社頭に運び込んだ、という内容が書かれている。

 水盤の左側に石造の樋があり、その先に井戸がある。

石造の樋と水盤

樋の先の井戸

 井戸から汲んだ水を樋に流して、水盤に水を流し楽しんだのだろう。

 願主は、風流心からこのようなものを奉献したのだろうか。

 さて、水盤を右手に見て、ここから宮山を登っていく。

 参道の途中に2本の石柱が建っている。

石柱

 この石柱は、手前の小さな石柱によれば、嘉永七年(1855年)六月に下津井吹上の仲買たちが奉献したものらしい。

 先ほどの水盤と言い、この石柱といい、本荘八幡宮が下津井の漁民や商人たちに厚く信仰されていたのが分かる。

 ここから更に登っていくと、擬宝珠の付いた玉垣に挟まれた参道の先に神門が見えてくる。

本荘八幡宮の参道

神門

 神門を潜ると正面に拝殿がある。八幡宮は、大概銅板葺の屋根を持つ簡素な社殿であることが多い。本荘八幡宮も果たしてそうであった。

拝殿

狛犬

本殿

 本荘八幡宮の中で最古の建造物は、本殿裏の瑞垣内に建っている花崗岩製の鳥居である。

 この鳥居は、三の鳥居として参道内に建っていたが、この場所に移された。

 笠木、島木、額束、貫、亀腹が完存する美しい鳥居である。

鳥居

応永二十八年の銘

 鳥居には、応永二十八年(1421年)の銘がある。約600年前に建てられた鳥居である。

 鳥居はところどころ黒ずんでいる。戦火の焼け跡と見られる。

 この鳥居は、全国的にも珍しい在銘の古い石造鳥居であるため、国指定重要文化財になっている。

 鳥居に刻まれた年号の銘を見るのが好きだ。時代を超えても変わらぬ人々の氏神への崇敬の念が窺われるからである。

 

下津井城跡 後編

 本丸の南側にあるのが二の丸跡である。

二の丸跡

下津井城跡の縄張り図

 下津井城跡の中では、この二の丸跡からの眺めが一番いい。そのためか、東屋もある。

二の丸跡から眺めた櫃石島

 ここから下津井の町並みや、瀬戸内海の眺めが堪能できる。

 二の丸跡の南側の切岸の下半分は、石垣で覆われている。

二の丸跡南側の石垣

 石垣の南側にも結構広い曲輪がある。ここを西に行くと、昨日紹介した大手跡に至る。

 二の丸跡から東に歩くと、北側に土塁が延びる通路がある。

二の丸跡と三の丸跡の間の通路

 通路を過ぎると三の丸跡がある。三の丸跡は広い曲輪である。

三の丸跡

 三の丸跡の南側には、下津井の町に見せるように石垣が組まれている。

 丹波の黒井城跡のように、住民に城の威厳を見せるための「見せる」石垣だろう。

三の丸跡南側の石垣

 隙間なく組まれた石垣である。岡山県地震が少ない地域である。400年近い年月が経っても、ほとんど崩れていない。見事な石垣だ。

 三の丸跡の東側にも石垣があるが、こちらは南側の石垣と比べて隙間もあり、少し崩れた様子だ。

三の丸跡東側の石垣

 「見せる石垣」の方を気合を入れて作ったことが窺われる。

 三の丸跡と中の丸跡の間には、掘割がある。人工的に掘って作られた谷間である。城の防御機構の一つである。

掘割跡

 この掘割跡は、今では登山道になっている。しかしこれだけの掘割を掘削したら、膨大な土砂が排出されたことだろう。

 掘割を越えて東に進むと中の丸跡がある。ここも広い曲輪である。

中の丸跡

中の丸跡に建つ観音菩薩の石仏

 下津井城が現役のころに、下津井の沖を通る船からこの城を眺めたら、天守を有し、その前面に石垣を巡らした、壮大な城に見えたことだろう。

 だが今の下津井の人々からすれば、先祖代々約400年親しんできた眺めである。

 住民に威厳を示すために石垣が組まれた城だが、今や地域に完全に溶け込んだ、親しみが持てる城跡になっている。

下津井城跡 前編

 下津井の町並みの北側に聳える城山の山上にあるのが、下津井城跡である。

 下津井城は、天正九年(1581年)ころに備前、美作の覇者となった宇喜多直家が築城した。

下津井城跡

 関ケ原の合戦後、小早川秀秋の家臣平岡石見守が在城したが、慶長八年(1603年)に池田忠継が岡山藩主となると、老臣の池田出羽守長政が城代となり、現在に残る下津井城の縄張りを築造した。

 下津井城跡は、今では岡山県指定史跡になっている。あまり有名ではないが、結構立派な石垣が残る城跡である。

 下津井の町からも、三の丸南側の石垣が見える。

三の丸南側の石垣

 下津井城跡は、今では瀬戸大橋架橋記念公園の一部になっている。

 城山の山上には、公園エントランスゾーンの駐車場があり、そこまで車で行くことが出来る。

 駐車場から城跡までの道は平坦である。苦労せずとも、規模の大きな城の遺構を見学できる。

瀬戸大橋架橋記念公園案内板

 私はスイフトスポーツを駐車場にとめて、歩いて馬場跡広場まで行った。

馬場跡広場

 馬場は、城兵が軍馬を繋養したり騎馬の修練をした場所である。

 馬場跡広場の南側に西の丸跡がある。馬場跡から見ると、西の丸跡は切岸の上にあり、切岸は石塁となっている。

西の丸跡北側の切岸

 西の丸跡の切岸の西側に回ると、石塁の前に観音菩薩の石仏があった。

西の丸跡西側の切岸と石仏

石仏

 花崗岩に彫られた石仏で、少し風化している。

 下津井城は、池田長政の後は、荒尾但馬守、池田由之、池田由成が城主となった。

 池田由成が城主だった寛永十五年(1638年)、一国一城令により下津井城は廃城となった。

 観音菩薩の石仏は、西国三十三所霊場各地の観音菩薩像を模したものだろう。下津井城が廃城になってから、地元の人が祀ったものだろう。

 切岸の上の西の丸跡は、周囲を土塁に囲まれている。

西の丸跡

 西の丸跡の南側は、城山の南側の崖に面している。そこから下津井の町と海を見下ろすことが出来る。

西の丸跡の南側

 西の丸跡から東に歩くと、土橋が見える。はっきりと残った土橋である。

 土橋の側面は、石垣で固められ、その南北は空堀になっている。

土橋

土橋側面の石垣

 土橋を渡って東に行くと、櫓跡西側の広場がある。

櫓跡西側の広場

 正面に見えるのは、櫓跡の石垣である。

 この櫓跡西側の広場から南に歩くと城の大手跡がある。

 大手は城の表玄関のようなものである。城には南側の下津井の町から登ったものらしい。

大手跡

 この大手跡を登ると、櫓跡西側に出るわけだが、櫓跡西側の石垣は、下津井城跡の一つ目の見どころである。

櫓跡西側の石垣

 石垣の隅の弧を描いた石の積み方が、江戸時代初期の石垣の特徴を持っている。

 この石垣の上は、櫓が過去に建っていたと思われる長方形の空間であった。

櫓跡

櫓跡の東側

 この櫓跡から東には、一段高くなった切岸がある。ここが本丸跡である。

本丸跡の切岸

本丸跡への石段

 本丸跡は広々とした空間である。

本丸跡

 本丸跡の北側に、一段高くなった場所がある。

 ここが下津井城跡の天守台跡である。

 天守台跡は、城山の最高所でもある。天守のある城が、下津井にかつてあったのだ。

 天守台跡に立って南を見ると、本丸跡の広場の向こうに瀬戸内海と島々が見える。

天守台跡からの眺め

下津井城跡の石碑

 下津井城跡を散策中、人とすれ違うことはなかった。

 これだけの遺構を備えた城跡で、散策しやすい場所でありながら、観光客はほとんどいない。

 もう少し人々に知られてもいいような立派な城跡である。

港町下津井 後編

 むかし下津井回船問屋の2階には、下津井の信仰や漁に関する資料が展示してある。

むかし下津井回船問屋2階への階段

 江戸時代中期には、お伊勢参りと同様に、讃岐の金毘羅さんも一生に一度は参詣したい場所とされ、全国から参詣者を集めた。

 金毘羅さんとは、象頭山金毘羅大権現のことで、今は金刀比羅宮という神社になっている。

 金毘羅さんへの参詣道は、金毘羅往来と呼ばれ、道沿いに旅籠や茶屋、道標が出来て参詣客で繁盛した。

金毘羅往来

 下津井と讃岐の丸亀の間は、波も穏やかで航路も短いことから、金毘羅参りや四国八十八ヵ所霊場参りの参詣客を運ぶ渡海船の発着場になった。

 江戸時代中期には、讃岐の金毘羅大権現と、備前由加山蓮台寺瑜伽大権現の両方に参る「対参り」が特に御利益があると信じられた。「ありがたいのは金毘羅さん、なんのかんのと瑜伽さん」と言われ、片側しか参らないのは「片参り」としておかげが少ないと言われた。

対参り

 金毘羅大権現は、讃岐国象頭山垂迹した神様(権現)とされ、本地仏薬師如来であった。

 明治時代の神仏分離廃仏毀釈により、金毘羅大権現本地仏として祀られていた薬師如来像は撤去され、その後行方不明となった。讃岐における金毘羅大権現信仰は廃絶し、金毘羅大権現大物主神を祀る金刀比羅宮という神社になった。

左から祇園神社、金毘羅大権現瑜伽大権現の札、札入れ

 金毘羅大権現本地仏薬師如来像は行方不明となったが、両脇侍仏である不動明王像と毘沙門天象は破却を免れ、明治時代に備前真言宗の寺院、金陵山西大寺の牛玉所殿(ごおうしょでん)に移され、今ではそこで金毘羅大権現の本体として祀られている。(令和2年7月4日の当ブログ「金陵山西大寺後編」の記事参照)

sogensyooku.hatenablog.com

白峯大権現、金毘羅大権現の札入れ

 もし現代において、金毘羅大権現瑜伽大権現の対参りをするのなら、備前西大寺蓮台寺に参拝するのが本当だろう。

 金毘羅大権現は、釈迦が説法した霊鷲山護法善神クンビーラのことで、インドでは水神とされ、それが転じて日本では海上交通の安全を守る神様とされた。

江戸時代中期の船磁石

 むかし下津井回船問屋では、江戸時代の船磁石が展示されていた。下津井を発着した船主や下津井の漁民も、航海の安全を金毘羅大権現に祈っていたことだろう。

 また、金毘羅参りをする江戸時代の道者の姿が展示してあった。

金毘羅参りの道者の姿

 白装束を纏い、手甲、脚絆で手足を固め、草鞋を履き、金剛杖を突き、数珠を繰り、金剛鈴を振りながら陀羅尼(真言)を唱えて歩いたのだという。

 不思議なことに、この姿を見た時に、自分が本当にしたいことは、こういう格好をして陀羅尼を唱えながら聖地を巡礼することだと雷に打たれたように感じた。

 この道者の恰好を見ることが出来ただけで、下津井に来た甲斐があったと思った。

 さて、下津井は漁港である。下津井は潮流が速く、岩にしがみついたマダコの身は引き締まり、格別の味だと定評がある。

蛸壺漁で使われる蛸壺

 下津井では、1500メートルほどのロープに、15メートル間隔で100個の蛸壺を付けて海底に沈める。これで一本というが、1隻の漁船が三十本の蛸壺付きロープを丸2日漁場に沈める。引き上げた時に1割の蛸壺にマダコが入っていたとしても、300杯の大漁である。これを一本釣り漁法というらしい。

ハゼ漁で使われたハゼ壺、ハゼ網

 潮流のきつい下津井沖は、天から与えられたような豊かな漁場である。

 北前船の交易港で、金毘羅参りの参詣客を乗せる船の発着場でもあった下津井は、江戸時代中期以降は、備前有数の賑わいをみせていたことだろう。

 美しい多島海を目前に控えた天然の良港下津井は、まことに恵まれた場所だと言えよう。

 

港町下津井 前編

 下津井は漁港であり、タコ漁で有名である。

下津井漁港

 下津井には、タコ料理で有名な保乃家(やすのや)がある。私がまだ24歳のころ、保乃家でタコのフルコース料理を食べて、あまりの美味しさに感激した記憶がある。

 今は漁港の下津井だが、江戸時代から明治時代には、北前船が寄港する商港として繁栄していた。

 祇園神社のある浄山の麓から東に延びる道沿いには、昔の商家や蔵が並んでおり、岡山県の町並み保存地区になっている。

下津井の案内板

 町並み保存地区の中心に、むかし下津井回船問屋という、昔の回船問屋を改築して資料館とした建物がある。

下津井町並み保存地区

むかし下津井回船問屋

 下津井は、児島半島の最南端に位置する港町である。

 瀬戸内海は、下津井のあたりで狭くなることから、この辺りは古くから「西国の喉首」と呼ばれ重要視された。

 南北朝時代には、九州から東上した足利尊氏が、1000艘の船団を率いて下津井に立ち寄ったという。

昭和15年に下津井町役場が発行した下津井港の鳥観図

 江戸時代には、下津井に岡山藩の在番所が置かれ、参勤交代のために瀬戸内海を航海する西国大名の応接に当たった。

 江戸時代中期以降は、蝦夷地と西国の交易船である北前船の寄港地として栄えた。

北前船の模型

 蝦夷地で獲れたニシン粕は、児島湾や備中沿岸の干拓地で栽培されていた綿、菜種、豆、藍の肥料として需要があった。

 ニシン粕を詰め込んだ俵を満載した北前船が下津井に寄港し、ニシン粕を降した。その替わりに綿、古着、塩、豆などが積み込まれ、蝦夷地や奥羽に運ばれていった。

 北前船は、幕末には「一航海一千両の利益」と言われるほど莫大な利益を上げたという。

 回船問屋は、北前船から降ろされたニシン粕や、帰り荷として北前船に積み込まれる繰綿などを取り扱う問屋で、店の通り土間は常に開け放たれ、積み荷が行き来していた。

通り土間

 通り土間を抜けると、問屋の裏には蔵が多数ある。

回船問屋裏の蔵

 北前船の積荷は、こういった蔵で保管されていたのだろう。今ではこれらの蔵は、展示会場や土産物屋、レストランになっている。

回船問屋主屋の裏側

 回船問屋に入ってすぐ右手は、商談をする店の間である。帳場とも呼ばれる。

 冬には火鉢を囲んで商談が行われたという。

店の間

主人や番頭が座る場所を囲む帳場格子

 帳場では、主人や番頭が座る場所を木製帳場格子(結界ともいう)で囲んで、その中に帳場机、硯箱、銭箱、帳面などを置いた。

 その背後には、帳場箪笥が置かれ、その上に神棚が祀られ、商売繁盛を願って毎日燈明が上げられていた。

通りに面した障子と蔀戸

 店の間の通りに面した側の建具は、下は透かしの腰高千本格子で風が通り、上は障子で中央に可動式の覗き窓がついている。

 障子の内側は蔀戸になっていて、昼間は上げていた。

 通りに面した一階の建具は全て取り外し可能で、祭りの日は取り外され、通りと店の間が一体の祭りの舞台になったという。

 一階の奥には、床の間のついた座敷もある。今は、様々な備前焼の作品が展示してあった。

床の間のある座敷

 北前船は、明治に入って鉄道が運輸の主力になってから衰退した。北前船の寄港地だった西日本各地の商港も衰退した。

 鉄道のように、事故のリスクが低く、運輸費が安い手段が主力になるのは当たり前のことである。

 しかし、一航海一千両と呼ばれた船が下津井港に現れた時の町の活気を思うと、リスクと背中合わせの海の男の商売には、ロマンが感じられるものである。

下津井 祇園神社

 下津井の町の真ん中に、海に突き出た小山がある。標高約22メートルの浄山である。

 この浄山の上に鎮座するのが、祇園神社である。

浄山

一の鳥居 文政十三年(1830年)の銘あり

 この浄山には、かつて長浜城という城があったという。

 室町時代に、長浜城の鎮守として長浜宮が創建され、祭神は長浜大明神と称された。

 江戸時代後半に、長浜宮は素戔嗚尊を祀る祇園宮と合祀され、祇園神社と称するようになった。

境内への石段

 私が祇園神社を訪れた時は、丁度アジア系の外国人観光客の一団が参拝していた。

 この神社の境内からは、西方の海景がよく見える。海の眺めがいい場所に、木製のベンチがある。外国人観光客は、ベンチに腰をかけて、海を眺めながら歓声を上げていた。

境内から眺める海景

 特に、ここから西に浮く六口島は、国の天然記念物の象岩があることで名高い。

六口島

下津井西側の海景

 冷たいが、海からの風が心地よい。

 海の眺めを堪能した後、拝殿に近づいた。素戔嗚尊を祀る神社は、祇園神社と呼ばれることが多い。

 京都の祇園にある八坂神社も、素戔嗚尊を祀る神社である。

 日本では、神仏習合により、釈迦が説法したというインド祇園精舎の守護神である牛頭(ごず)天王と素戔嗚尊が、何故か習合された。

拝殿

 今日本で素戔嗚尊を祀る神社は、明治の神仏分離令までは、祇園精舎の守護神牛頭天王を祀っており、祇園社と呼ばれていた。京都の八坂神社も、江戸時代までは祇園社という名称であった。祇園の地名はそこから来ている。

 下津井の祇園神社も、牛頭天王を祀っていたころの名残が社名として残ったのだろう。

 拝殿に近づいてみると、なかなか豪華な彫刻が施されている。

社頭の備前焼狛犬

拝殿唐破風下の彫刻

 拝殿の向拝の下は、格天井になっていて、政治家の中川一政が揮毫した祇園神社の扁額が掛かっている。

格天井

扁額

 外国人観光客は、拝殿の参拝を済ませると帰ってしまったが、この神社の見どころは、拝殿の背後にある、二棟の本殿である。

手前(西側)が祇園宮、奥(東側)が長浜宮

 東西に二棟の本殿が並んでいるが、東側が、室町時代から祀られていた長浜大明神こと長浜神を祀る本殿の長浜宮である。

長浜宮

 この長浜宮の彫刻が、なかなか見事である。

扉の龍の彫刻

蟇股の麒麟

木鼻の彫刻

手挟みの彫刻

 牛頭天王こと素戔嗚尊を祀る隣の祇園宮は、長浜宮と比べれば、質素な佇まいである。

祇園宮の向拝下

蟇股の彫刻

手挟みの彫刻

 また、本殿側に向く拝殿背部の千鳥破風の中と、その屋根の下にも、彫刻が施されている。

本殿の間に見える拝殿背部の千鳥破風

千鳥破風の彫刻

拝殿背部の彫刻

 これらの社殿は、祇園宮が合祀された江戸時代後期に建てられたものだろう。彫刻もそのころに彫られたものだろう。

 本殿の西側に、長浜宮、祇園宮と刻まれた石の扁額があった。

長浜宮、祇園宮と刻まれた石の扁額

 かつて鳥居の上に掛けられていたのだろうが、何らかの理由で外されたのだろう。

 本殿の裏には、二つの末社があり、その後ろに石垣が組まれた台地があった。

本殿裏の末社

本殿裏の台地

石垣が組まれた台地

台地の上

台地の上の切断された石仏

 この石垣が組まれた台地が、かつての長浜城の遺構なのかどうかは分からない。

 台地の上に、丁度頭部のあたりで切断された石仏が置かれていた。神仏分離までは、祇園神社にもこの石仏が堂々と祀られていたのだろう。

 明治の廃仏毀釈で、それまで神社にあった仏像や三重塔が破壊されたり移動させられたそうだが、この石仏も明治の廃仏毀釈によって破壊されたものだろう。

 台地の下に瓦が散乱していた。ひょっとしたら、この台地の上には、かつて鐘楼か仏堂があったのかも知れない。

城山から見下ろした浄山と祇園神

 この神社にも、今まで紆余曲折があっただろうが、いずれにしても海に臨んだ祇園神社は、常に海風が吹きめぐる気持ちの良い神社である。

 御祭神も、温かい気持ちで町を見守っておられることだろう。 

田土浦坐神社

 鷲羽山から下りて、倉敷市下津井田之浦1丁目にある田土浦坐(たつちのうらにまします)神社に参拝した。

 この神社は、鷲羽山の西側の斜面の中腹に鎮座する。

田土浦坐神社の鳥居

 鳥居の先に急な石段があり、その先に社殿がある。鳥居は明治19年に建立されたものである。

 鳥居の前には下津井の民家が密集している。民家の間を人一人がようやく通ることが出来る細い道が、鳥居につながっている。江戸時代からある路地だろう。

鳥居の前の民家

民家の間の路地

 空襲に遭っていない集落や町には、このような古くからの細い道が残っていることが多い。

 現在舗装されていても、こういう道は、遥か昔から使われている道である可能性が高い。こんな細い道にも、歴史と情緒を感じることが出来る。

 さて石段を登ると、二の鳥居があり、その先に境内と拝殿がある。

二の鳥居

拝殿

 田土浦坐神社の祭神は、海の神様である大綿津見(おおわたつみ)神である。

 江戸時代までは、祭神は、田土明神と呼ばれていた。田土浦と呼ばれたこの地域の鎮守様である。

 拝殿の瓦には、「田」の字が刻まれている。

拝殿の瓦

 江戸時代までの日本各地の神社の祭神は、明神号で呼ばれていた。住吉大社であれば住吉大明神、春日大社であれば春日大明神である。

 平安時代以降、神仏習合が進むと、明神、大明神は、日本の民を救うために現れた仏の化身であるとする本地垂迹説が有力となり、明神号は仏教と関連付けられた。

境内から眺める瀬戸大橋と櫃石島

 しかし、明治政府が出した神仏分離令により、仏教由来のものを神社から排除するという指針が示され、仏教と関連付けられて捉えられていた明神号は神名から外された。  

 明治以降、祭神の名は、記紀に出てくる神々の名で呼ばれるようになった。

 今でも神社に行くと、明神号が書かれた明治以前の扁額が残っていることがある。

海と狛犬

 史跡巡りを続け、各地の神社仏閣や信仰の山に残る神仏の祀り方を現地で実際に見ると、明治より前の神仏習合修験道こそが日本人が古くから培ってきた真の伝統であり、明治政府が打ち出した神仏分離とそこから生まれた国家神道はかなり無理をして新たに創出された「伝統」であったと感じる。

本殿

 皇室にゆかりのある神々を祀った神社に高い社格を与え、天皇に忠義を尽くした功臣や軍人を祀る神社を新たに創建した大日本帝国国家神道制度は、神々の子孫である万世一系天皇が日本の統治者であり、天皇に忠義を尽くした人物が偉人であるとする皇国史観や、天皇を統治者とした大日本帝国憲法下の政治制度と一体のものであった。

本殿

 これはこれで、国民に強烈な一体感を与え、大日本帝国が短期間で強国となり得た原動力となったが、これが日本の伝統文化であるかというと、どうもしっくりこない。

 私も過去には、このような皇国史観に基づく保守思想を抱いたことがあったが、史跡巡りを始めて、明治の神仏分離が、各地方で伝承されてきた信仰に齎した歪みを見るにつけ、大日本帝国皇国史観国家神道は、むしろ旧来の伝統を壊した上に新たに創出された「伝統」であると感じるようになった。

田土宮と書かれた扁額

本殿唐破風下の力士の彫刻

 民衆の間に自然と受け継がれてきたものこそ真の伝統である。皇国史観が日本の真の伝統であるならば、戦後の歴史教育が戦前から大きく変わったとしても、それは民衆の間に生き残った筈である。

 それが残らなかったということは、最初から皇国史観は日本に根付いた伝統ではなかったということである。

本殿

 一方で、天皇や皇室に対する素朴な敬愛の気持ちや、神社や寺院の違いにあまりこだわらずに参拝する素朴な信仰心、地元で伝承されたお祭りや仏事は、戦後も国民の中に残った。

 このように時代を超えて民衆の間に残るものは、本物の伝統であろう。

 山川草木悉皆(さんせんそうもくしっかい)成仏という、意識のない自然界にも仏性が宿るという日本仏教の考え方と、自然をそのまま神として祀る神道の考え方には、確かに親和性がある。いずれ、再び神仏習合の時代が自然とやってくることだろう。

本殿

 さて、山の中腹にある田土浦坐神社の境内からは、海と下津井の町並みが見える。

 海が見える神社が私は何故か好きである。田土明神は、遥か昔から、下津井の町と海を、ここから見守ってきたことだろう。