徳守神社

 妙願寺から西に歩き、津山市宮脇町の徳守神社に至る。

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徳守神社

 徳守神社の祭神は、天照大神である。天平年間(729~749年)にこの地に勧請されたという。

 当社は、中世には、田中郷富川宿の鎮守であったが、天文八年(1539年)の尼子・山名両氏の合戦により焼失した。

 初代津山藩森忠政は、慶長九年(1604年)に津山城築城の手斧始として徳守神社の社殿を再建し、津山の総鎮守とする。城下町を形成するのに、まず土地の神様を大切にお祀りしたのだ。

 更に藩主森長継が、寛文四年(1664年)に現在の社殿を再建した。

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徳守神社神門

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 徳守神社の拝殿、幣殿、本殿は、長継により同時期に建てられたものである。

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拝殿

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拝殿の向拝

 社殿は全て銅板葺きの屋根を持ち、簡素な姿である。

 拝殿、幣殿、本殿の三殿は、岡山県指定重要文化財である。

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拝殿から本殿方面を写す

 本殿は、津山地方にしかない中山造りという様式である。美作国一宮である中山神社の本殿と同形式の本殿だ。

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幣殿と本殿

 中山造りは、入母屋造りの屋根に唐破風の向拝が付く様式である。中山神社本殿は、国指定重要文化財で、息を呑む壮大さだが、徳守神社本殿は、中山神社本殿をそのまま小さくしたようだ。

 この本殿は、組物と蟇股の彫刻が見事で、江戸時代初期の神社建築の典型例であるそうだ。

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本殿の組物

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蟇股の彫刻

 さて、津山市内では、今年8月1日の当ブログ記事で紹介した大隅神社と並んで、徳守神社の秋の祭礼は華やかで大がかりだ。

 神輿が町中を進行するが、幕末からはだんじりが繰り出すようになった。

 徳守神社の神輿は、森長継が社殿を再建した寛文四年(1664年)に初代の黒塗りのものが作られた。明和二年(1765年)に一度修理された記録がある。

 現在も使われ続けている金色の二代目神輿は、岡崎屋伊兵衛らの発起により、氏子の総力を挙げて制作され、文化八年(1811年)に新調された。

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徳守神社神輿

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 二代目神輿は、その後明治31年に修理され、平成23年にも大修理を行い、現在に至っている。

 総高280センチメートル、屋根部分縦横共210センチメートルで、神輿としては非常に大きい。

 担ぎ上げるのに輿守が70名必要とされ、その大きさと華麗さから、日本三大神輿の一つとされているらしい。

 神輿は神様の乗り物である。津山城下総鎮守の神輿なのだから、津山市民にとって最も大事なものの一つだろう。この神輿は津山市重要有形民俗文化財である。

 番外編になるが、境内の一角にお花善神社という小さなお宮があった。

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お花善神社

 お花は、津山藩森家の家老職・原十兵衛の下で侍女をしていた女性であった。

 お花は勝間田の実家から出て、原家の屋敷に侍女として出仕したが、容貌美麗であったため、原十兵衛の寵愛を受けた。

 ある日、お花が原十兵衛の愛児の子守をしていたところ、ふとした過ちからその愛児が縁から落ちて死んでしまった。

 原十兵衛夫人は激怒し、愛児の仇としてお花を惨殺する。その殺し方があまりにむごたらしかったので、お花の死後しばしば祟りをなし、原家には鳴動異変が絶えなかったという。

 原家は、お花の怨霊を鎮めるため、邸内に小祠を作って祀った。これがお花善神社の由来である。

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徳守神社の狛犬

 元禄十年(1697年)、森家は津山を改易となり、赤穂藩主となる。原家も赤穂に移ったが、お花の同情者や信仰者はお祭りを絶やさず香華が続いた。一時大円寺に移されていたが、明治初年の神仏分離令により、徳守神社境内に移され、現在に至っている。

 お花善神社は、現在は逆境にある女性の守り神として、遠近からの参拝が絶えないという。

 現在の津山市の原型を作ったのは森家である。史跡を巡ると、その影響の大きさを実感する。

 森忠政は、津山城の建築だけでなく、城下の町割りや、寺社の再建なども構想したことだろう。慶長八年(1603年)に津山入りした忠政は、新しい国造りにさぞ意気込んでいたことと思う。

法雲山妙願寺

 津山市の中心にある百貨店天満屋に車を駐車して、徒歩で津山城下の寺社等を巡ることにした。

 最初に訪れたのは、平沼騏一郎首相の旧宅を復元した知新館である。津山市南新座にある。

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知新館

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 平沼騏一郎は津山出身の法曹家で、検事総長大審院(現在の最高裁)院長を歴任したのち政界に進出し、司法大臣や枢密院議長などを務めた。昭和14年1月に第35代内閣総理大臣となったが、同年8月、同盟国ドイツがソ連との間に独ソ相互不可侵条約を締結したのを受けて、「欧州の天地は複雑怪奇」なる言葉を残して内閣総辞職をした。

 ドイツのヒトラーソ連スターリンがまともな信義に基づいて条約を結ぶはずもなく、条約締結直後にドイツはポーランドに侵攻し、同時に東からポーランドに攻め入ったソ連と同国を分割した。ドイツは独ソ相互不可侵条約があるため、背後のソ連国境との防衛に兵力を割く必要がなく、全軍を西欧に集中させ、ベネルクス3国とフランスを征服する。フランス征服後の1941年6月に、ドイツは条約を破ってソ連に侵攻する。

 国際情勢は、世界各国が自国の利益を最大化するために動いているという目で見て初めて理解できる。同盟国ドイツが日本と敵対するソ連と不可侵条約を結んだ意図を見抜けなかった平沼は、政治家として一寸ナイーブだったと思う。

 知新館は、昭和13年に、平沼騏一郎古稀の祝いに、法曹界や郷土の有志が、平沼騏一郎生家を元の地に復元したものである。

 昭和25年に津山市に寄贈され、昭和63年まで津山郷土館として利用されていた。私が訪れた日は休館日だった。

 知新館から北に歩き、津山市戸川町にある浄土真宗の寺院、法雲山妙願寺を訪れた。

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妙願寺山門

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森家の鶴丸紋の入った瓦

 妙願寺は、元々森氏旧城下の美濃国金山に建立された寺院である。

 津山藩初代藩主森忠政の父・森可成(よしなり)は、信長配下の武将で、美濃国金山城主だった。猛将として信長の尾張統一、美濃攻略戦で活躍したが、元亀元年(1570年)の浅井朝倉連合軍との戦いで戦死する。可成の長男・可隆もこの戦で戦死する。

 可成の妻は、この時夫のみならず、長男の可隆も失ったことから、浄土真宗に帰依し、剃髪して仏門に入り、妙向尼と称するようになった。

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妙願寺に建つ妙向尼石像

 その後信長は勢力を拡大し、浄土真宗門徒を率いる石山本願寺と衝突し、全面戦争となる。日本史上最大の宗教戦争となる石山戦争である。

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妙願寺本堂

 信長は、今の大阪城の地にあった石山本願寺を総攻撃しようとした。

 浄土真宗門徒の妙向尼は、本願寺の危機を救うため、信長と本願寺との間に和睦を成立させるため奔走した。天正八年(1580年)に両者の間で和睦が成立した。

 信長は、妙向尼に提案した和睦の条件の一つとして、美濃金山の地に浄土真宗の寺院妙願寺を建立した。

 妙向尼は、慶長元年(1596年)に没した。本願寺は、妙向尼の功績を讃えて彼女の肖像画を描いた。

 妙向尼の六男忠政が津山藩主になった際、妙願寺も津山に移転した。元和三年(1617年)のことである。

 元和七年(1621年)、西本願寺門主准如が、妙向尼画像を妙願寺二代目住職紹向に贈った。

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妙向尼画像説明板

 妙向尼画像は、戦国武将夫人の肖像画として岡山県下で最も古いものである、岡山県指定重要文化財となっている。

 妙願寺は、妙向尼消息も所蔵している。こちらも岡山県指定重要文化財となっている。

 その他にも、森忠政書簡、妙願寺板戸障壁画、庫裏及び客殿が津山市指定重要文化財である。

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妙願寺庫裏及び客殿

 妙向尼の6人の男子のうち、長男・可隆は父可成と共に元亀元年に戦死し、次男・長可は小牧長久手の合戦で徳川軍に敗れ戦死した。三男・成利(蘭丸)、四男・長隆、五男・長氏は、3人とも信長の小姓となっており、本能寺の変で信長に従い明智勢に討たれた。

 出家して妙願寺に僧侶として入っていた六男・忠政が唯一生き残り、還俗して森家の家督を継ぎ、徳川の世になってから津山藩主となり、森家の血統を残した。

 夫が信長の躍進に貢献し、3人の子が信長の小姓となっていたからこそ、信長は妙向尼の意見に耳を傾け、本願寺と和睦したのだろう。

 妙願寺の静かな境内に佇み、夫と5人の子を戦乱で失った妙向尼の数奇な生涯にしばし思いを致した。

津山郷土博物館 後編

 当ブログ今年2月3日の「旧勝北町の史跡」の記事で、津山市役所勝北支所の前にある宝篋印塔二基を紹介した。

 この辺りからは昭和57年の国道53号線拡幅工事の際に、中世の墓地の遺跡が見つかった。観音堂遺跡という。

 観音堂遺跡からは、古備前の骨蔵器や、青磁の碗が発掘された。

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古備前の骨壺

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青磁

 骨蔵器は、どっしりした渋い味わいの壺だ。津山市指定重要文化財である。

 将来自分が墓に入ることを考えると、生前どんな生活をしていようと最後はただ骨壺に入る骨になるわけだから、自分の骨壺くらい生前に選んでおいてもいいと思った。

 青磁碗は、12世紀前半の中国南宋の時代に、浙江省龍泉窯で焼かれたものと言われている。

 津山藩の初代藩主森忠政は、大坂冬の陣、夏の陣に出陣した。冬の陣は、非常な激戦となり、徳川方は力では大坂方を屈服させることは出来なかった。

 東軍は、鉄砲の弾避けに竹束を用いたが、激しい銃撃に対応できず、多くの死傷者が出た。

 家康は弾避けとして諸大名に鉄盾を与えたが、森忠政にも鉄盾が与えられた。

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鉄盾

 鉄盾には、弾痕があり、戦いの激しさを物語っている。鉄盾は、津山城下の鎮守である徳守神社が所有しており、津山市指定文化財となっている。

 森家の次に津山藩主となった越前松平家の祖先である松平忠直率いる越前勢は、大坂夏の陣真田幸村を討ち取り、大坂城一番乗りの武勲を上げた。そのことは津山藩松平家の誇りだったのだろう。

 大坂夏の陣の部隊配置を描いた「元和元年五月御陣図」が藩に伝えられていて、今ここに展示されている。

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元和元年五月御陣図

 この図は、岡山県指定重要文化財である。

 展示品の中で一際目を惹くのは、広島大学工学部が作成した津山城の復元模型である。

 この模型は、150分の1のサイズで制作されているが、高さは視覚的効果を高めるため、約1割増しの136分の1のサイズで再現されている。

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津山城模型 南側

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津山城模型 東側

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津山城模型 北側

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津山城模型 西側

 津山城天守は五層五階の楼閣だが、幕府が津山城天守が五層あることを見咎めたので、藩は四層に見せかけるため、四階の屋根だけ板葺きにしたと伝えられている。

 もしこの城の遺構が全て残っていたら、確実に国宝に指定されていただろうと思う。惜しい事だ。

 模型の横には、津山城本丸建物の上に載っていた本丸瓦があった。

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津山城本丸瓦

 津山藩は、文献資料も多く残している。享和二年(1802年)の津山藩松平家町奉行日記なおの日記類が展示してあった。

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津山藩町奉行日記

 町奉行日記の赤い矢印で示している行に、城下で疱瘡が流行したことが書いている。医学が発達していない当時は、伝染病への恐怖感も今と比べられないほど強かっただろう。

 また、津山藩松平家が、参勤交代の際に、藩主の乗る輿に近い武士に持たせていた熊毛槍鞘が展示されていた。

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大身槍熊毛槍鞘付附黒熊毛鞘

 熊毛槍鞘は、文字通り槍の鞘を熊毛で装飾したものである。

 江戸時代に入って、戦乱の世が遠ざかると、槍が実戦で使われることがなくなり、段々と装飾品としての要素が出て来た。

 大名行列が通る時、最も目立つのは、高い位置に掲げられる槍鞘である。諸大名は趣向を凝らした鞘を作らせ、行列時には高々と掲げさせた。熊毛槍鞘は、岡山県指定重要文化財である。

 恐らく藩主が被るための葵の紋の入った兜があった。

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藩主の兜

 家康の直系子孫が藩主を務める親藩の誇りを示す兜である。

 思えば日本の主要都市は、ほぼ全て城下町である。江戸時代に各藩の城下町として整備された町が、近代に入って都市になっていった。

 津山もその様な城下町の一つである。そんな町の象徴となるものは城であり、藩主の武具であり、城下の大商家である。そのどれもが形を変えながらでも残っている津山は、幸福な町と言えるだろう。

津山郷土博物館 前編

 つやま自然のふしぎ館の東隣には、旧津山市庁舎を利用した津山郷土博物館が建っている。

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津山郷土博物館

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 津山郷土博物館の建物は、昭和8年に津山市政施行を記念して建てられたもので、約50年間津山市庁舎として使用された。

 津山市内の鉄筋コンクリート造りの建物の草分け的存在で、昭和初期の典型的な官庁建築の特徴を有しているらしい。

 この時代のものらしい直線基調のアールデコ様式の建物であるが、玄関から入ると、内部も1920年代の欧米建築を思わせるアールデコ調である。

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玄関ホール

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正面の大理石の階段

 正面の大理石の階段は、創建時の輝きを未だ失わない。この建物は、昭和57年まで津山市庁舎として使用されていたが、昭和63年から津山の郷土の歴史的遺物を展示する郷土博物館として利用されている。

 1階には、津山盆地で見つかった化石を元に作られた、水棲哺乳類パレオパラドキシアの骨格復元模型が展示してあった。

 昨日の記事でも紹介したように、かつての津山周辺は海であり、温暖な浅瀬が広がっていたという。 

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パレオパラドキシアの骨格復元模型

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パレオパラドキシアの絵

 復元模型の背後にパレオパラドキシアの絵が描いてあった。現代において海中に棲む哺乳類は、クジラやアシカなど鰭のある動物だが、こんな明瞭な足を持った海棲哺乳類はいない。どうやら樹木の生い茂る浜辺と海中を行き来していたようだ。

 郷土博物館には、旧石器時代から江戸時代までの遺物が収蔵展示されている。

 旧石器時代打製石器などは、わざと技巧を凝らしたわけではないだろうが、芸術的な美しさだ。

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角錐状石器

 岡山県勝央町植月北から出土した袈裟襷文銅鐸は、岡山県指定重要文化財である。

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袈裟襷文銅鐸

 岡山県内では最古級の形式の銅鐸であるらしい。

 美作地方からは陶棺がよく出土するが、ここにも多数の陶棺が展示していた。

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陶質家形陶棺

 中でも美作国分寺の跡を継いだ国分寺が所有する須恵器製の陶棺は、見たことのない珍しいものである。全国の須恵器の中でも最大級の作物ではないだろうか。

 2階に上ったが、階段の踊り場もアールデコ調である。

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2階の階段踊り場

 美作国は、和銅六年(713年)に備前国から分かれる形で設立された。美作国成立後、行政庁である美作国府が出来たが、その後天平十三年(741年)の聖武天皇による国分寺建立の詔に基づいて、美作にも国分寺国分尼寺が建立された。

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美作国分寺の模型

 当ブログ今年2月8日の記事で、美作国分寺跡、国分尼寺跡を紹介したが、津山郷土博物館に展示されている国分寺の模型の様に、七重塔を控えた大伽藍があったようだ。 

 寺院跡から発掘された軒丸瓦、軒平瓦も展示してあった。

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美作国分寺の軒丸瓦と軒平瓦

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美作国分尼寺の軒丸瓦、軒平瓦

 国分寺は当時の日本の華と呼ばれていた。宗教のみならず、その地域の文化の中心だったようだ。

 今年7月24日の「美作の古墳 2」の記事で紹介した西吉田1号墳からの出土品も展示してあった。

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西吉田1号墳からの出土品

 写真中央の鉄鉗など、現代の工具箱の中に入っていてもおかしくない形状だ。西吉田1号墳は、5世紀後半に築造された古墳である。このころには、大工道具も揃って来ていたようだ。

 私は今まで多くの郷土資料館を見学したが、どこに行っても展示されている内容は似ていて、地域による差があんまり感じられない。美作の陶棺だけは、他の地域ではまずお目にかかれないが、後はそれほど差を感じない。昔から日本には、文化的に均質なところがあったのだろう。

 日本の地域が封建領主ごとに分裂していた室町時代から江戸時代までは、地域の特色が出てきている。現代日本はまた均質な時代に戻っている。

 これからの日本に、あっと驚く奇抜な文化が出てくるのを期待するものだ。

つやま自然のふしぎ館 後編

 つやま自然のふしぎ館第9室には、極地の生物だけでなく、南米の動物の標本も展示されている。

 ジャガーの標本など、今にも襲いかかってきそうな迫力だ。

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ジャガーの標本

 一方木からぶら下がるナマケモノは、なんとものどかな風情だ。これでよく今まで生存競争を生き延びてこられたものだ。

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ナマケモノの標本

 説明書きを読むと、ナマケモノは週に1回、排泄のために樹上から地上に降りてくるそうだ。

 第10室の爬虫類・両生類コーナーには、美作地方に多く生息する国の特別天然記念物オオサンショウウオのホルマリン漬けの標本が展示してあった。

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オオサンショウウオの標本

 見れば見るほど不思議な生き物だ。

 第11号室の日本の鉱石・岩石コーナー、第12号室の世界の珍鳥コーナーは割愛する。

 第13号室のオーストラリアの動物コーナーで目を引くのは、カモノハシである。

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カモノハシの標本

 見ての通りくちばしと足ひれがあるが、立派な哺乳類である。雄は後ろ足の蹴爪から毒を発するらしい。

 第14室の日本及びアジアの野鳥コーナーには、見覚えのある野鳥の標本が多数あるが、代表はやはり鷹だろう。 

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クマタカの標本

 クマタカは、日本列島の九州以北の山間部に生息する。日本の空の生態系の頂点に位置する。山歩きをしている時に遭遇したいものである。

 第15室は、西アジア・アフリカの動物コーナーだ。

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ジャイアントイランドの標本

 ジャイアントイランドは、スーダン辺りに生息している。牛の一種だが、こちらを見つめる表情に魅かれて写真に収めた。

 百獣の王ライオンもいるが、さすがに剥製ではたてがみが寝てしまって、ちょっと元気がないように見える。気の毒だ。

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ライオンの標本

 館の廊下の一角に、昭和37年8月に津山市西松原の吉井川の川底から見つかったヒゲクジラの化石が展示されていた。

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ヒゲクジラの化石

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 展示されている化石は実物で、津山市指定文化財になっている。

 発見したのは当時中学3年生だった男子たちで、川遊びをしている時に見つけたのだろう。

 このヒゲクジラは、約2千万年前に生息していたものと見られている。約2千万年前の津山は、海の底だったようだ。

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ヒゲクジラの全身骨格の図

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約2千万年前の日本列島付近

 約2千万年前の日本列島周辺の図が展示してあったが、今の日本列島の姿形など全くない。

 プレートテクトニクスによる地殻変動は、まだ数億年は続くようだから、今から約2千万年後には、今の日本列島も跡形もなくなっていることだろう。

 私が巡っている日本の史跡も、そのころには全て消滅していることだろうし、人類自体が今と同じ姿をしているか分らない。現生人類が誕生してまだ約20万年である。

 今我々が大切に思っている事物が、いずれ跡形も無く消え去ることはどうやら避けられないようだ。

 今自分が生きている間だけ楽しく充実していればよいという考え方も間違ってはいないが、我々が永久にあると思い込んでいる物事も永久ではないという視点は、時折思い出してもいいのではないかと思う。

 そうすれば、気分が楽になることもあるだろう。

つやま自然のふしぎ館 中編

 つやま自然のふしぎ館の2階に上る。

 第5室は、「日本とアジアの動物」がテーマだが、いきなり牙を剥きだした2頭のトラが出迎えてくれる。

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第5室の展示

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アムールトラスマトラトラ

 シベリア地方に生息するアムールトラ(写真右)と、インドネシアに生息するスマトラトラ(写真左)が並んでいるというのは、自然界ではあり得ず、ここでだけお目にかかることが出来る。

 展示されているオラウータンの剥製は、明治初頭に日本に輸入されたものの一つで、剥製の世界のビンテージの一つだろう。

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オラウータンの標本

 オラウータンの手の長さには瞠目する。我々人類の祖先も樹上で生活していたのだろうが、気候変動で住んでいた土地が乾燥して木から降りざるを得なくなって手が短くなり、二足歩行をしだした。

 オラウータンと言えば、私はどうしてもエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人事件」を思い出す。

 第6室は、世界の鳥を展示している。どうも大きな猛禽類に目が行ってしまう。最も大きいのは、中東とアメリカ大陸北部に生息するヒゲワシだ。翼を広げれば、3メートルはあるそうだ。

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ヒゲワシの標本

 「アラビアンナイト」に出てくる怪鳥ロックのモデルになった鳥と言われている。

 南欧やアフリカ、インドに生息するシロエリハゲワシは、チベットで行われる鳥葬で死者の肉を啄む鳥として有名だ。

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シロエリハゲワシ

 死肉を効率的に食べられるように、嘴や首の長さも進化したように見える。

 第7室の北米大陸の動物コーナーに行くと、アメリカバイソンやトナカイが出迎えてくれる。

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アメリカバイソンやグリズリー

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トナカイ

 トナカイの角を見ると、何の必要があってこんな形になったのか、理解しがたい。何か意味があるのだろう。

 第8室は、日本の野生動物のコーナーだが、親しみある動物たちを目にして、何だか家に帰ってくつろいだかのような安堵感を感じる。

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日本の動物たち

 ところで館では、人肉を食べた北海道のヒグマの胃袋から出て来た人体の一部の写真が展示してあった。

 ヒグマの恐ろしさを改めて思い起こさせてくれる展示だったが、よく考えて見ると、自分達の食用に牛や豚や羊を大量に飼育し、膨大な魚を捕獲したり養殖して、次々と殺しては胃袋に入れていく我々人類の方が、余程恐ろしい存在ではないか。

 私は別に人間が他の動物を食べることに反対しているわけではないが、自分たちが地球上の生物の中で、圧倒的に他の生物の命を奪っている存在であることは認識した方がいいと思う。

 最近仏教の勉強をしていて、欲を制するとはどういうことかを考えているが、食欲は無くすことは出来ない。

 有機物は有機物を食べることでしか生命を維持できない。植物は例外的に二酸化炭素と水と日光で生命を維持できるが、動物は必ず植物を含めた他の生命を食べなければ生きていけない。砂や石などの無機物を食べても生きられないのだ。生きるということは、他の命を奪うことだという冷厳な現実からは逃れることは出来ない。自分たちの命をつなぐ日々の食事には感謝しなければならないと思う。

 ところで当館展示の圧巻は、第9室のホッキョクグマミナミゾウアザラシだろう。

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ホッキョクグマの標本

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ミナミゾウアザラシの標本

 写真ではこの迫力は伝わらないが、現地で見ると、ホッキョクグマミナミゾウアザラシも驚くほどの巨体である。この2体の標本が対面する形で展示されている。

 ところで、この2匹は、北極と南極という両極に分かれて生息しており、通常顔を合わせる事はない。

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ホッキョクグマミナミゾウアザラシの対面についての説明板

 説明板を読むと、この館がこの2匹の対面を売りにしているのが分かる。

 つやま自然のふしぎ館を設立した森本慶三は、錦屋を経営した先祖代々が蓄積した富をつぎ込んでこの館を設立し、自分の脳や臓器も展示品として館に提供した。自分の全てをこの館に賭けたと言ってもいいのではないか。

 展示品を熱心に見学する子連れの家族で賑わう館の様子を見ると、森本慶三の望んだものは実現したのではないかと思える。

つやま自然のふしぎ館 前編

 道路を挟んで、森本慶三記念館の東隣にあるのが、昭和38年に開館した、つやま自然のふしぎ館である。

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つやま自然のふしぎ館

 森本慶三は、津山有数の富豪だった錦屋を継いだが、途中で自分の商才の無さに気づいて錦屋を廃業してしまった。

 錦屋には莫大な富があったが、森本はその資産をキリスト教の布教のために使い、津山基督教図書館と津山基督教図書館高等学校を設立する。

 森本慶三には、以前から自然科学博物館を設立したいという夢があり、高等学校夜間部の建物が生徒増で手狭になったのを機に、高等学校夜間部を他に移転させ、元の建物跡を利用して津山科学教育博物館をオープンさせた。昭和38年のことである。

 平成16年に、津山科学教育博物館は、つやま自然のふしぎ館と名称を変えて今に至っている。

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つやま自然のふしぎ館の建物

 つやま自然のふしぎ館の建物は、キリスト教系の高等学校の建物跡らしく、軒下に十字架が飾られている。

 このつやま自然のふしぎ館は、珍名所として書籍で紹介されるなどしており、一部にはよく知られた名所である。

 森本慶三は、終戦直後から動物の標本(剥製)を展示する博物館を開くことを計画しており、世界中から絶滅危惧種も含めた野生動物を集めて剥製にし、ここに展示した。

 ワシントン条約が締結される前に作成された剥製が大半で、今では入手不可能な剥製が多い。開館から半世紀以上を経ているが、時を経て増々その展示品の価値は上がっている。

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アカハナグマの標本

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ウリボウの標本

 剥製は、死んだ動物の内臓等を取り出して防腐処理をし、プラスチックで作成した目や舌を嵌め込んで完成させる。この博物館の剥製は、どれも生きているかのようなリアルさを持っている。

 展示される動物の標本は約800点、化石や鉱石、昆虫の標本等を含めれば、展示品の総数は約2万点となる。

 驚嘆すべき博物館である。

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セントバーナード犬の標本

 ちなみに全館写真撮影は可である。

 本物の動物を使って標本を造っているので、動物の実寸大を把握することが出来る。

 入口近くにあるセントバーナード犬は、いまにも吠えそうなリアルさだ。

 私の世代にとって、セントバーナード犬は、アニメ「アルプスの少女ハイジ」や、スティーブン・キング原作の恐怖映画「クジョ―」のイメージがある。

 ところで、つやま自然のふしぎ館は、全館で展示室が15室もある。よくもここまで集めたなという展示品が並ぶ。

 第1室には、世界の化石が集められている。

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第1室

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地球史の年表

 現代は、新生代第四紀沖積世である。沖積世は始まってまだ1万年にしかなっていない。40億年以上の生命の歴史からすると一瞬の事だ。

 この1万年は、気候変動が激しい地球の歴史の中で、比較的温暖で気温が安定している。そのおかげで人類は農業を始め、人口を増やし、文明を築くことが出来た。あと1万年この幸運が続くかは分らない。現代人類は、幸運な時代に生まれた。

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三葉虫の化石

 ところで、史跡巡りを始めて気づいたが、地球上で最も風化せずに残る物は、岩石である。

 人間が作った木造建造物などは、兵乱や災害ですぐに失われる。金属も錆びていく。生物はすぐに死んでしまう。生物の中で最も長寿なのは、樹木だと思われるが、それでも1万年を超える樹齢のものはない。

 1万年単位でものを捉えた時に、残る物は石である。人間が作ったもので、1万年以上前から残っているものは、縄文土器を除けば石器しかない。

 生物の殻や骨も、石化すれば数万年どころか数億年後でも残る。三葉虫の化石は4億年前のものだ。今から4億年も経てば、日本列島はおろかアメリカ大陸もユーラシア大陸もなくなっている。その時代に、今の人類が造ったもので何が残っているかというと、石造物か石化した人の骨だろう。

 第1室には、恐竜時代の背景画の前に絶滅危惧種の哺乳類の標本が展示している。

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絶滅危惧種の展示

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キンシコウの標本

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ユキヒョウクロヒョウの標本

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クロヒョウの展示

 ユキヒョウクロヒョウに、自然界で遭遇するのは極めて困難だ。

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キリンの標本

 キリンの標本は、流石に立たせたら1階の高さに収まらないので、座らせて展示している。

 背景画には、既に絶滅した恐竜や哺乳類の絵が描かれている。現生人類も含めて、現在地球上に生息している生物も、いずれは死に絶える運命にある。地球環境が変れば環境に適応できた生物が生き残る。

 かつて地球上の酸素濃度が今よりもはるかに高い時代には、肺を持たず酸素を効率的に取り入れられない昆虫類も巨大化することが出来た。

 かつての巨大昆虫からすれば、酸素濃度の減った今の地球環境など生存不可能な地獄である。しかし現生人類にとっては適応しやすい環境である。

 地球温暖化が問題になっているが、温暖化は現生人類にとって不都合なだけで、将来この温暖化に適応して新たに誕生する生物種からすれば、温暖化した地球は自分たちを生み出してくれた「幸運な」環境になる。

 第2室の人体の骨格と動物の骨格コーナーには、驚くべきことに、当館の創設者森本慶三の脳を含む臓器がホルマリン漬けで展示してあった。遺言で自分の臓器の展示を望んだそうだ。

 自然の造形の神秘を感じたのは、キングコブラの骨格である。

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キングコブラの骨格

 見事な背骨と肋骨のつらなりだ。脊椎の登場は、生命の歴史の中でも画期的なことだった。

 脊椎の無い甲殻類や昆虫は、外殻だけで自重を支えるのに限界があるので、身体を大きくするのに限度がある。水の浮力に頼れる海中のエビやカニがかろうじて大きくなれた。

 脊椎を初めて備えた魚類から進化した爬虫類と我々哺乳類は親類同士である。

 第3室の貝類のコーナーには、世界中の貝類の殻が展示されている。ここに並ぶカタツムリの殻を見て、カタツムリが貝類の一種であることを改めて認識した。

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日本中のカタツムリの殻

 ところで写真のカタツムリは、ほとんどが日本の種である。日本国内だけで、こんなにも多くの種類のカタツムリがいるのだ。人間は、兵庫県新潟県で種が変るということはない。だがカタツムリは変わるのだ。それだけ環境の変化に敏感な生き物なのだろう。

 第4室の昆虫コーナーには、驚くほどの数の昆虫の標本が展示してある。

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揚羽蝶の標本

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コガネムシの標本

 写真の様に、コガネムシにもこれだけの種類があるのだ。これだけの数の標本を見ると、環境適応と自然選択の結果、生物の種が変化してきたというダーウィン自然選択説が、実感として納得できる。

 つやま自然のふしぎ館の展示品の物量には、訪れた人にそう思わせるだけのパワーがある。

 自然界は日々変化している。太古からの気の遠くなる時間の中で、生物は現れては滅んできた。現代もその最中で、我々人類も生物の一種である以上、決して例外的存在ではない。

 そう思うと、自然界は冷酷かも知れないが、千変万化に富んだ豊饒な世界でもある。