生石神社 覚正寺

 兵庫県高砂市阿弥陀町生石にある生石(おうしこ)神社には、九州霧島高千穂峰の天之逆鉾、奥州塩釜神社の塩釜と並ぶ「日本三奇」の一つ、「石の宝殿」がある。

f:id:sogensyooku:20191114210832j:plain

生石神社鳥居

 大穴牟遅(おおなむち)命と少毘古名(すくなひこな)命の二柱の神が、国土経営のために出雲から播磨に出てきて、この地に至り、国土を鎮めるに相応しい石の宮殿を造ることにした。

 一夜の間に工事を進めたが、途中阿賀神の反乱の報告を受け、工事を途中で放り出して反乱の鎮定に向かった。

 反乱は鎮定されたが、石の宮殿は未完のまま残された。

 これが、今に伝わる石の宝殿とされている。二神は、この石に籠り、未来永劫国を鎮めんと言明したという。別名鎮(しづ)の岩室と呼ばれる。

f:id:sogensyooku:20191114211754j:plain

神門

 第10代崇神天皇の代に、国に悪疫が流行した。天皇の夢枕に、大穴牟遅命と少毘古名命が立ち、「吾が霊を斎き祭らば天下は泰平なるべし」と告げた。崇神天皇は、石の宝殿のあるこの場所に生石神社を建て、二神を祭った。これが生石神社の創建である。

f:id:sogensyooku:20191114212149j:plain

生石神社社殿

f:id:sogensyooku:20191114212235j:plain

拝殿

 天正七年(1579年)、秀吉は、神吉城を攻めるために生石神社を陣所にしようとした。時の生石神社の宮司は、神吉城主の弟だったため、その申し出を断った。激怒した秀吉は、生石神社を焼き払った。そのため、神社に伝わる遺物はほとんど灰になってしまった。 

 唯一梵鐘だけは持ち去られ、後日関ケ原の合戦で大谷吉継が陣鐘として使用したという。合戦後、梵鐘を手に入れた徳川方は、敵ながら見事な武将だった吉継の霊を慰めるため、今の岐阜県大垣市安楽寺に梵鐘を寄付し、朝夕撞かせたという。梵鐘は今も安楽寺に伝わり、大垣市の指定文化財になっている。

f:id:sogensyooku:20191114213344j:plain

大穴牟遅命の神座

f:id:sogensyooku:20191114213454j:plain

少毘古名命の神座

 本殿の真ん中は、通路になっていて、その先に石の宝殿が鎮座している。通路の左右に、祭神大穴牟遅命と少毘古名命が祀られている。

f:id:sogensyooku:20191114213654j:plain

通路の先の石の宝殿

 石の宝殿の前には、賽銭箱が置かれているが、赤松惣家の家紋が貼付されている。賽銭箱自体は新しいが、赤松惣家の家紋は、代々の賽銭箱に受け継がれてきたものだろう。赤松家と生石神社の関係は、よく分からない。

 石の宝殿を囲む空間が狭いので、写真の中に巨大な石の宝殿は収まりきらない。

f:id:sogensyooku:20191114214057j:plain

f:id:sogensyooku:20191114214221j:plain

 石の宝殿は、池の上に浮いているように見えるが、実は下面は池底とつながっている。

f:id:sogensyooku:20191114214514j:plain

 この池水は、いかなる旱魃の時も涸れたことのない霊水らしい。

 石の宝殿の背面には突起物がある。

f:id:sogensyooku:20191114214811j:plain

背面の突起物

 まるで昔のブラウン管テレビのような形をしている。

 石の宝殿を含む生石神社の裏は、岩山になっている。岩山を登って、上から石の宝殿を見下ろすことができる。

f:id:sogensyooku:20191114215052j:plain

f:id:sogensyooku:20191114215220j:plain

f:id:sogensyooku:20191114221512j:plain

 こうして上から見ると、どこかで石の宝殿を造ってここまで運んだのではなくて、岩山をどんどん削っていって、石の宝殿を削り出したことが分かる。

 それにしても、この石造物は一体何なんだという思いが消えることはない。いつ誰が何のために造ったかは、結局分かっていない。

 「播磨国風土記」には、聖徳太子の時代に物部守屋が造ったと書いているらしい。「萬葉集」巻三にも、「大なむち少彦名のいましけむしづのいわやは幾代へぬらむ」という歌がある。少なくとも奈良時代には、石の宝殿は遥か昔から伝わるものと認識されていたようだ。

 生石神社の裏の岩山は、観濤処と呼ばれている。登って周りを見れば、素晴らしい眺望である。

f:id:sogensyooku:20191114220551j:plain

 山頂には、大正天皇行幸の石碑が建っている。

f:id:sogensyooku:20191114220647j:plain

大正天皇行幸碑と背後の高御座山

 この岩山自体が、巨大な岩石の一塊である。石の宝殿を造る時に削り出された石屑は、近くにある高御座山(たかみくら)の山頂に捨てられたと言われている。上の写真の石碑の左側に聳える山が高御座山である。

 石の宝殿の南側は、竜山石の産地であり、観濤処からも石切場を見下ろすことが出来る。

f:id:sogensyooku:20191114221143j:plain

石切場

 生石神社の麓にある高砂市教育センター前には、天磐舟と呼ばれる舟形石棺の蓋石がある。

f:id:sogensyooku:20191114221701j:plain

舟形石棺蓋石

f:id:sogensyooku:20191114221925j:plain

 生石神社の社伝では、大穴牟遅命と少毘古名命が乗ってきた天磐舟とされている。実際のところは、5世紀末から6世紀初頭に造られた家形石棺の蓋である。

 さて、奇怪な石造物を観た後で、今度は江戸時代の徹底した合理主義者、山片蟠桃(やまがたばんとう)の墓のある覚正寺(浄土真宗)に行く。高砂市米田町神爪(かづめ)5丁目にある。

f:id:sogensyooku:20191114222352j:plain

覚正寺

 山片蟠桃は、寛延元年(1748年)に、神爪村に生まれた。本名長谷川有躬(ありみ)。大坂の豪商升屋の別家を相続し、本家の番頭として豪腕を振るった。その功績が認められ、升屋の親類並みの扱いを受け、山片芳秀に改姓した。蟠桃はその号である。

 山片蟠桃は商売の傍ら学問にも熱心に打ち込み、大坂にある学問所懐徳堂で中井竹山、履軒に儒学を、麻田剛立天文学を学んだという。又蘭学にも関心を示した。

 山片蟠桃は、徹底した合理主義者であった。20年の歳月をかけて完成させた著作「夢の代」には、地動説に基づく宇宙観、万有引力説、霊魂の存在を否定した無鬼論、日本の神話を作り話と否定する神代史批判説が書かれているらしい。

f:id:sogensyooku:20191114223432j:plain

山片蟠桃の墓

f:id:sogensyooku:20191114223524j:plain

 山片蟠桃は、晩年を生まれ故郷の神爪村で過ごしたと伝わっている。元々蟠桃の墓は国道2号線より北側の神爪墓地にあったが、墓石の風化を惜しんだ地元の有志が、平成10年に墓を覚正寺に移し、覆屋を建てたという。墓石には蟠桃の戒名である釋宗文の文字が彫られている。

 山片蟠桃は、生まれ故郷の近くにある石の宝殿のことは知っていたことだろう。合理主義者の蟠桃は、石の宝殿にまつわる言い伝えを聞いても、一笑に付したことであろう。

 神話のような想像力を膨らませる話も面白いが、徹底した合理主義的世界観も捨てがたい。しかし、どちらか一方だけになると、世の中はつまらなくなるであろう。人間同士の考え方にも、振れ幅があった方がいいように思う。

十輪寺

 兵庫県高砂市高砂町は、古い町並みが続くレトロな界隈である。

 そんな町並みの中にあるのが、高砂町横町の宝瓶山(ほうびょうさん)十輪寺である。

 空海遣唐使として唐に向けて航海中、海上安全を地蔵菩薩に祈願したところ、高砂沖で霊感を受けて無事に所願成就した。

 帰朝後空海は、地蔵十輪経の趣旨に則り、鎮護国家、航海安全の祈願所として十輪寺を開いた。弘仁六年(815年)のこととされている。

 今でも十輪寺には、伝弘法大師作の地蔵菩薩像が伝わる。

f:id:sogensyooku:20191113162354j:plain

山門

 十輪寺山門は享保二十一年(1736年)の築で、高砂市指定文化財である。

 建永二年(1207年)3月に、法然上人が船で讃岐に左遷される際に、この地の漁民の求めに応じて上陸した。法然は、殺生をする漁民であっても称名念仏をすることによって極楽往生できると教化した。その時から、真言宗の寺院だった十輪寺は浄土宗の寺院となった。法然上人を十輪寺中興第一世とする。

 山門を潜ると、目の前に現れるのは、二重寄棟造の本堂である。兵庫県指定文化財である。

f:id:sogensyooku:20191113162844j:plain

本堂

f:id:sogensyooku:20191113162927j:plain

f:id:sogensyooku:20191113163007j:plain

 本堂は、十輪寺中興第二十四世、律空悦道上人が、元禄六年(1693年)に入山して再建したものである。17世紀の様式を伝える。

 本尊は阿弥陀如来だが、その他に寺宝として、国指定重要文化財の絹本着色五仏尊像図(中国元時代)、兵庫県指定文化財の弥陀四尊図(鎌倉時代末期)、高砂市指定文化財不動明王童子図(室町時代初期)がある。いずれも見学できなかった。

 御影堂には、大永七年(1527年)に、堺の十万上人が、法然上人流罪の地である讃岐生福寺よりこの地に移した、自画讃の「宝瓶の御影」を安置している。

f:id:sogensyooku:20191113165725j:plain

御影堂

 本堂と御影堂をつなぐ回廊のかたわらに、高麗仏といわれる宝篋印塔がある。

f:id:sogensyooku:20191113165838j:plain

高麗仏

 秀吉の朝鮮出兵の際に、洲本城主だった脇坂安治が、播磨・淡路の漁師を水夫として徴発し、従軍させた。漁師らは、帰国の途中、高砂沖で遭難し、100人中96人が水死したという。それらの人々を追善するために、享保十五年(1730年)に建立された供養塔である。 

 数えてはいないが、宝篋印塔の周りの小さな石塔は、96柱あることだろう。

 回廊を潜って本堂の裏手に回ると、広大な墓地となっている。

f:id:sogensyooku:20191113170247j:plain

回廊

 墓地の中央には、中世の高砂城主、梶原景秀公の墓がある。

f:id:sogensyooku:20191113170613j:plain

梶原景秀公墓

 鎌倉幕府の創立に貢献した梶原一族は、水軍を率いてこの地に至り、文明元年(1469年)ころ、中世高砂城を築いた。天正七年(1579年)、最後の城主梶原景秀は、黒田官兵衛の仲介で秀吉に帰巡した。その子孫の一部は高砂に留まり、塩座役などを務めたという。

 近くには三浦一族の墓地がある。

f:id:sogensyooku:20191113171055j:plain

三浦一族墓

 三浦一族は桓武平氏の流れを汲み、鎌倉幕府創立に貢献した。以後三浦半島を中心に栄えたが、北条早雲に滅ぼされて、永正十五年(1518年)ころ、幼君義高公が梶原氏を頼って高砂に亡命してきた。その子孫は、江戸期を通じて「塩や甚兵衛」を名乗り、大庄屋を務めるなどし、行政面や学問の世界で功績を残した。

 墓地の片隅には、工楽松右衛門の墓がある。

f:id:sogensyooku:20191113171815j:plain

工楽松右衛門墓

f:id:sogensyooku:20191113171922j:plain

 工楽の墓は、モダンな形をしている。江戸時代の日本の港湾整備や帆船の改良に尽力した偉人の墓である。

 その他、高砂市指定文化財である大玄関、小玄関、庫裏がある。

f:id:sogensyooku:20191113172846j:plain

大玄関

f:id:sogensyooku:20191113172923j:plain

小玄関

f:id:sogensyooku:20191113173004j:plain

庫裏

f:id:sogensyooku:20191113173048j:plain

庫裏の内部

 庫裏の玄関内を覗くと、黒光りのする太い梁と柱が交差する重厚な建物だと分かった。

 ちなみに十輪寺前には公園があるが、これは昭和59年まで利用されていた国鉄高砂高砂駅の跡地である。

f:id:sogensyooku:20191113173305j:plain

国鉄高砂駅の跡

 加古川高砂間を鉄道が結んでいたというのは、今からは想像できない。それにしても、廃線というものにも独特の哀愁がある。

 さて、今回知った十輪寺を巡る人物達を思い返すと、ほとんどが航海に関連していることに気づいた。高砂は、航海上の重要地点なのだろうか。高砂の地を一度海上から眺めてみたいと思った。何か発見があるかも知れない。

高砂の寺院、高砂神社

 高砂市伊保3丁目にある膽匐山(せいぶくさん)真浄寺は、浄土真宗の寺院である。

f:id:sogensyooku:20191111205517j:plain

真浄寺

 ここには、江戸時代中期の画家・曽我蕭白の描いた障壁画があって、兵庫県指定文化財となっている。

f:id:sogensyooku:20191111205727j:plain

楼門

f:id:sogensyooku:20191111210441j:plain

楼門の龍の彫刻

 しかし、楼門の前の柵が閉ざされて、境内に入ることが出来なかった。当然障壁画も公開していない。本堂を外側から見ただけである。

f:id:sogensyooku:20191111210336j:plain

真浄寺本堂

 曽我蕭白は、奇抜な絵柄で知られる水墨画家である。曽根天満宮の絵馬といい、真浄寺の障壁画といい、曽我蕭白の作品が高砂に2つあるということは、曽我蕭白高砂の地を訪れてしばらく画の構想を練った証左ではないかと思う。

 次なる目的地、高砂市荒井町御旅1丁目にある摂取山利生寺を訪れる。浄土宗の寺院である。

f:id:sogensyooku:20191111210857j:plain

利生寺本堂

 本堂は、平成になって新築したであろう立派な建物である。本堂脇には、法然上人の銅像が建つ。

f:id:sogensyooku:20191111211037j:plain

法然上人像

 本堂の中に入ると、そこは極彩色の世界である。

f:id:sogensyooku:20191111211233j:plain

本堂内陣

 ご本尊の木造阿弥陀如来立像は、兵庫県指定文化財である。明るい本堂の中で、ご本尊だけが寂びた色をしている。人々の祈りが凝り固まってこの像になったかのようだ。

f:id:sogensyooku:20191111211422j:plain

木造阿弥陀如来立像

 ご本尊の右側には、阿弥陀三尊の来迎図が架けられていた。

f:id:sogensyooku:20191111211813j:plain

阿弥陀三尊来迎図

 浄土の姿とは、このようなものなのか。華麗な世界である。

 次なる目的地は、高砂市高砂町東宮町にある高砂神社である。

f:id:sogensyooku:20191111212553j:plain

高砂神社大鳥居

 高砂神社も毎年10月10日、11日の秋季例祭が有名である。この社頭で屋台の練り合わせが勇壮に行われる。

 祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と素戔嗚尊奇稲田姫命である。

 神功皇后は朝鮮征伐からの凱旋の途中、鹿古の水門(加古川河口)であるこの地に泊まった。

 ここで神功皇后は、大己貴命から「此處は広く西国を見渡し、近く畿内を護るに適したよい處である。われこの地に留まらん」との御託宣を得た。

 そこで、この地に大己貴命を祀ったという。これが高砂神社の発祥である。

f:id:sogensyooku:20191111213527j:plain

表門

 円融天皇の天禄年間、国内に疫病が流行した。天禄三年(972年)、高砂神社に素戔嗚尊奇稲田姫命の二柱の神を合わせ祀ったところ、疫癘がたちまち息んだという。それからは高砂牛頭天王社、又は祇園社と呼ばれた。

 高砂神社の地は、大己貴命が告げたように、要衝の地であった。

 慶長十七年(1612年)には、姫路藩池田輝政がここに高砂城を築いた。

f:id:sogensyooku:20191111215054j:plain

高砂城址の記念碑

 元和元年(1615年)には、一国一城令により、高砂城は廃止されたようだ。寛永三年(1626年)に、高砂城本丸跡に高砂神社は戻された。

 いまある社殿は、それ以降に建てられたものだろう。

f:id:sogensyooku:20191111214429j:plain

拝殿

f:id:sogensyooku:20191111214727j:plain

拝殿上のこちらに尻を向けた獅子の瓦

 本殿は、檜皮葺の簡素な建物である。

f:id:sogensyooku:20191111215522j:plain

本殿

 高砂神社は、古来から朝廷、国司、武将の尊崇が厚く、豊臣秀吉朝鮮出兵の際に立ち寄って戦勝を祈願したらしい。

 境内には、江戸時代に松右衛門帆布を発明し、択捉島に埠頭を建設した工楽松右衛門の銅像が建てられている。

f:id:sogensyooku:20191111220132j:plain

工楽松右衛門像

 高砂に生まれ、若いころから漁労に従事した松右衛門(1743~1812年)は、兵庫港に出て廻船問屋の船乗りになり、航海経験を多く積んだ。若いころから創意工夫が好きだった松右衛門は、むしろや綿布で作られた当時の帆船の帆に不満を感じ、播州名産の太い木綿糸を使った丈夫な帆布を発明した。松右衛門帆布として、たちまち全国の北前船で使用されるようになった。

 江戸幕府は、千島列島にロシア船が出没するようになったことに危機感を感じ、択捉島に埠頭を建設することにした。白羽の矢が立ったのが松右衛門であった。松右衛門は択捉島に埠頭を建設した功績を幕府から称えられ、工楽(くらく)という姓を与えられた。

 松右衛門は、その後も函館港にドックを作ったり、高砂港や鞆の浦港を改修したり、日本の航海の世界を刷新し続けた。

 播州にこんな偉人がいたことを又知ることが出来た。史跡巡りは楽しいものである。

 高砂神社が創建されてからしばらくして、境内から1本の松が生い出でた。根は一つで雌雄の幹が左右に分かれたので、地元の人は神木霊松と称えた。これが相生の松である。

f:id:sogensyooku:20191111222717j:plain

相生古霊松舎

 すると日本列島の生みの親である伊弉諾尊伊弉冊尊の夫婦神が現れ、「我は今より神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん」と告げた。それから人々は、二神を尉姥(じょうば)と呼んでこの地に祀った。

 相生の松は古来和歌にも詠まれ、謡曲の題材にもなったが、枯れてしまった。それを惜しんだ姫路藩主本多忠政は、三代目の相生の松を植える。三代目相生松は、大正13年に天然記念物に指定されたが、昭和12年に松喰い虫にやられて枯れてしまった。境内には三代目相生松の幹が保存されている。

f:id:sogensyooku:20191111223047j:plain

三代目相生松

 今は秩父宮勢津子妃殿下御命名の五代目相生松が育てられている。

f:id:sogensyooku:20191111223628j:plain

五代目相生松

 世に夫婦の道を示す尉姥の二神は、高砂神社境内の尉姥神社に祀られている。

f:id:sogensyooku:20191111223408j:plain

尉姥神社

 毎年5月21日には、尉姥祭がこの尉姥神社内で催される。能楽師が社宝の翁の面を着けて神前で舞を奉納する「お面かけ神事」などが行われる。私もかつて妻と見学したことがある。

 尉姥神社には、尉と姥の神像が祀られている。神像は、天正年間の戦乱で行方不明となったが、寛政七年(1795年)にめでたく京都で見つかり、5月21日に御遷座奉祝祭が盛大に行われた。お面かけ神事は、それ以来現代まで継承されている。

 私は日本の神話が好きだが、好きな理由は神話が妙な理屈や思想を語らずに、自然な人間の気持ちをそのまま表出しているところにある。国土や自然現象、神々の誕生が、全て伊弉諾尊伊弉冊尊の夫婦和合と離別から始まっているというのが、何とも素朴で人間臭くていい。特に「古事記」は、素朴な味わいがあっていい。
 夫婦の道というものは、昔から変わらぬ人間の永遠のテーマなのかも知れない。

曽根天満宮

 兵庫県高砂市曽根町にある曽根天満宮。ここは、菅原道真公ゆかりの神社である。

 又、松原八幡神社に優るとも劣らない勇壮な秋季例祭で知られている。例祭は、毎年10月13、14日に行われる。私が訪れた日は、既に祭りが終わった後であった。

f:id:sogensyooku:20191110193922j:plain

曽根天満宮

 祭神は、菅原家の祖神・天穂日命(あめのほひのみこと)、菅原道真公、菅原公達命(道真公御子)である。

 延喜元年(901年)、道真公は冤罪を被り、九州大宰府に左遷された。その途中、当地に立ち寄り、今の曽根天満宮の西側にある日笠山に登って、播磨灘の風光を愛でた。

 そして、日笠山の小松をこの地に植えて、「我に罪なくば栄えよ」と祈念した。これが霊松曽根の松である。

 その後、道真公の四男淳茂公が、臣13人と共にこの地に至り、道真公を祀る社を創建した。則ち、今の曽根天満宮である。

 社殿は、天正六年(1578年)の秀吉の播州攻めで焼失した。その後、少しづつ再建されて現在に至っている。

f:id:sogensyooku:20191110195051j:plain

神門

f:id:sogensyooku:20191110195209j:plain

神門の彫刻

 神門は、享保二年(1717年)の建築である。軒下の豪快な雲の彫刻が素晴らしい。

 曽根の松は、延喜元年(901年)に植えられたが、天正年間の秀吉の起こした兵火を浴びて衰弱し、寛政十年(1798年)に枯死した。それでも約900年間生き続けたことになる。

 初代曽根の松の幹は、今も古霊松を祀る建物内に保存されている。

f:id:sogensyooku:20191110195655j:plain

古霊松を祀る建物

 初代曽根の松の幹は、龍がとぐろを巻いているかのような驚くべき迫力に満ちていた。ごつごつした幹の皮が、本当に龍の鱗のようであった。残念ながら建物の格子内には目が細かいフェンスが張られていて、初代曽根の松を写真に収めることが出来なかった。だがこれは必見である。

 拝殿は、慶長十四年(1609年)、姫路藩池田輝政正室督姫の寄進で建立され、明和二年(1765年)に幣殿と共に改修された。

f:id:sogensyooku:20191110200440j:plain

拝殿

 左右非対称の特異な拝殿である。巨大な注連縄が特徴的だ。

f:id:sogensyooku:20191110200610j:plain

注連縄

 それにしても不思議なのは、「家島」「飾磨の天満宮」の回でも書いたように、道真公が訪れた場所がことごとく聖蹟として祀られているということである。

 日本の歴史上で、そんな人物が他にいるか考えてみたが、あとは神功皇后弘法大師空海くらいしか思い浮かばなかった。

 空海は言わずもがなだが、神功皇后も朝鮮征伐の際に立ち寄った瀬戸内海沿岸や九州北岸の地にことごとく神社が建てられている。

 この三人に共通することは何か。それは3人とも人智を越えた力を発揮した、あるいは発揮したと信じられたことであろう。

 「日本書紀」にも書いてあるように、神功皇后は、よく神憑り状態になったという。道真公が生前に不思議な力を発揮したとは伝わらないが、死後に起きた天変地異や疫病の流行、皇族の死が、道真公の祟りとして畏れられた。

 曽根天満宮の境内は広々としている。

f:id:sogensyooku:20191110201515j:plain

曽根天満宮の社殿

 享保二年の神門建築時に整備されたという。

f:id:sogensyooku:20191110201732j:plain

本殿

 本殿は天正十八年(1590年)に再建されたものである。瑞々しい姿なので、その後改修を経ているのだろう。

 境内には、享保八年(1723年)に曽根の庄屋河野貞清が寄進した見事な石橋がある。

f:id:sogensyooku:20191110202314j:plain

曽根天満宮石橋

 石橋は高砂市指定文化財となっている。高砂の名産竜山石製である。

 境内には江戸時代に「ほうそう神様」として信仰された石造物があった。

f:id:sogensyooku:20191110202825j:plain

ほうそう神様

 石が風化して、元々何が彫られていたか分からなくなっているが、鎌倉時代後期に造られた石仏だと言われている。

 江戸時代には、疱瘡などの難病や流行病を予防治癒する神様として信仰され、名前と年齢を書いた紙をこの石仏に貼付して祈ったそうだ。

 ところで、寛政十年に枯れた曽根の松はその後どうなったか。初代の樹下から生えてきた2代目は、その後も成長し、大正13年に天然記念物に指定されたが、昭和27年に松喰い虫のために枯れてしまった。3代目も同時期に枯れ、4代目も松喰い虫にやられて枯死した。

 今は5代目の松が育てられている。

f:id:sogensyooku:20191110203453j:plain

5代目曽根の松

 かつて曽根天満宮拝殿には、江戸時代の奇想の画家・曽我蕭白が描いた索牛の絵馬が架けられていたが、今は文化資料館に展示している。

f:id:sogensyooku:20191110203743j:plain

文化資料館

 神社の職員に尋ねると、今は文化資料館は公開していないようである。

 曽根天満宮の立派な社殿を見ると、道真公が厚く信仰されていることが分かる。

 八幡神である応神天皇と、天満大自在天神である道真公と、日本全国津々浦々に祀られる神様としてこの二柱は双璧である。

 神道では人間が死後に神として祀られるが、道真公以後、道真公ほど大々的に祀られた人物(神様)はいない。

 道真公は、今は学問の神様して崇敬されている。生きている間は不遇をかこった道真公が、神界では大きな影響力を持っていると想像したら、道真公の気持ちも少しは晴れただろうかと思って安堵する気になった。

熊山遺跡

 謎の遺跡、熊山遺跡。私が以前から行ってみたかった場所だ。

 私が、備前国和気郡熊山に、不思議な場所があることを知ったのは、三島由紀夫の小説「鏡子の家」を読んだときである。

 「鏡子の家」は戦後の虚無に直面した4人の青年のことを描いた小説だが、青年の1人である日本画家の夏雄は、スケッチに訪れた富士山から樹海を見下ろした時に、樹海の色彩の異様な変化を見て、急に世界が存在する意味が分からなくなる。

 その後、悩んだ夏雄は、霊能者に出会い、神秘の世界に誘われる。夏雄が読んだ宮地厳夫(みやぢいづお)の「本朝神仙記伝」は、明治以後にあらわれた仙人(!)について書かれた書物であるが、その中に出てくる河野至道という仙人は、死去した後に、備前国和気郡熊山の鉾杉の林の奥深くにある仙境に遷移した。後に熊山を訪れた人が、山中で神仙が奏でる絶妙な音楽を聴いたが、その中に拙い音色があった。神仙に伺いを立てると、最近神仙の仲間入りをした河野至道が、道半ばだから音が拙いのだという答えであった。

 夏雄は、その後神秘的な修行を通して、虚無的世界観から抜け出る。

f:id:sogensyooku:20191109200404j:plain

熊山登山口

 熊山は、JR熊山駅の南方約3キロメートルに位置する。現在の地名は、岡山県赤磐市奥吉原である。

 熊山の標高は、507.8メートルである。岡山県南部では最高峰だが、幸いに頂上近くまで舗装道が通じている。とは言っても、車1台がやっと通過できる道であり、対向車が来ればお手上げとなる。

 ZC33Sで延々と続く細い道を登って、ようやく山頂近くの駐車場に到着した。

 さすがに私は仙境なるものを信じていないが、車から降り立つと、確かに不思議な空気を感じる。

 登山道に入ると、鬱蒼とした薄暗い鉾杉の林が続く。登山道の右手にあるのは熊山神社である。

f:id:sogensyooku:20191109201246j:plain

熊山神社

 熊山には元々霊山寺という寺院があった。ここにあった霊山寺の権現社が、明治14年神仏分離令に基づき麓の奥吉原集落内に移された。その代わりに建てられたのが熊山神社である。

 熊山神社の境内には、児島高徳建武三年(1336年)に挙兵をした際に腰をかけ、旗を立てたとされる、腰掛岩と旗立岩がある。「太平記」にも記載がある。

f:id:sogensyooku:20191109201746j:plain

児島高徳挙兵の跡

 この神社で感心したのは、社頭の備前焼狛犬である。尻尾が幾重にも分かれている。こんな狛犬は見たことがない。

f:id:sogensyooku:20191109202039j:plain

備前焼狛犬

 銘を見ると、明治13年に造られた狛犬であった。熊山神社創建時から据えられていることになる。

 本殿には大国主命が祀られている。

f:id:sogensyooku:20191109202451j:plain

熊山神社本殿

 熊山神社から、熊山遺跡まで歩くが、途中は樹齢700年近い天然杉の林が続く。林の中に天然記念物の熊山天然杉があった。樹齢千年を超えるという。自然の神秘な力を感じる。

f:id:sogensyooku:20191109202657j:plain

熊山天然杉

 駐車場から熊山遺跡までは、ほとんどが平坦な道で、あっけなく到着した。

f:id:sogensyooku:20191109202849j:plain

熊山遺跡

 熊山遺跡とは、全国に類を見ない石積みの遺構である。方形の基壇の上に、割石を使った石積みが三段に築盛されている。

f:id:sogensyooku:20191109203613j:plain

f:id:sogensyooku:20191109203207j:plain

f:id:sogensyooku:20191109203250j:plain

f:id:sogensyooku:20191109203351j:plain

 二段目の四方には、神仏像を納める龕が造られている。上面中央には竪穴が設けられ、その中に円筒型の容器が収められていた。筒型容器の中には三彩釉の小壺と文字の書かれた皮の巻物が収められていたという。

 今では小壺と皮の巻物は失われ、筒型容器は天理大学附属参考館に展示されているという。

 この遺跡が一体何なのか、未だに分かっていないが、築造は奈良時代初期で、恐らく仏塔としての性格を備えた石積みであろうとされている。

 常識的には、奈良市の頭塔、堺市の土塔と同じ仏塔なのだろう。ただ、頭塔や土塔と異なって、鬱蒼とした山の中にあるので、ただの仏塔ではない雰囲気を出している。

 この熊山遺跡のある山頂付近には、かつて帝釈山霊山寺(霊仙寺)という寺院があった。

 建武三年の児島高徳の挙兵により焼失したが、14世紀末~15世紀に再建されたという。その後再び荒廃したが、江戸時代初期に金山寺住職円忠法印が本堂と権現社を再興し、幕末まで存続した。

 今は堂宇は跡形もなく、ただ石の遺構だけが残る。

f:id:sogensyooku:20191109205405j:plain

霊山寺の石段の遺構

 境内には、鐘楼跡や観音堂跡、本堂跡が残っている。

f:id:sogensyooku:20191109205546j:plain

鐘楼跡

f:id:sogensyooku:20191109205626j:plain

観音堂

f:id:sogensyooku:20191109205717j:plain

本堂跡

 更に、岡山県最古の正応五年(1292年)の銘のある宝篋印塔や、五輪塔がある。

f:id:sogensyooku:20191109205845j:plain

宝篋印塔

f:id:sogensyooku:20191109210037j:plain

五輪塔

 境内南側には、7世紀ころに秦氏が掘ったとされる井戸がある。これも伝説の域を出ないだろうが、少なくとも熊山遺跡の出来た奈良時代初期には、ここに何らかの寺院が建っていたことだろう。

f:id:sogensyooku:20191109210347j:plain

秦氏の掘った井戸

 ここにかつて、熊山遺跡と並んでどんな寺院が建っていたかを想像してみた。簡素で小さな寺院が相応しい気がする。

 私には仙人の奏でる音楽は聴こえなかったが、熊山は私が今まで訪れたどの史跡とも異なる雰囲気を持っていた。

 さて、麓に下りて、奥吉原の集落の奥にある、薬王寺宝生院を訪れた。

 ここには、赤磐市指定重要文化財である奥吉原宝篋印塔がある。

f:id:sogensyooku:20191109211235j:plain

奥吉原宝篋印塔

 また、今熊山神社の建つ場所に明治14年まで建っていた霊山寺権現社が移築されている。

f:id:sogensyooku:20191109211345j:plain

霊山寺権現社

 霊山寺の建物の中で唯一現存するのが、この権現社だ。熊山の上に建っているのがいかにも相応しい古式ゆかしい社殿である。

 日本人は昔から山を信仰してきた。人間社会から途絶した山に入ると、世俗と異なる空気が流れている。大自然の中で、人間は尊大な気持ちを捨てて、自分達が小さな存在であるという謙虚な気持ちになる。

 弘法大師空海も若いころは山で修行し、最後は山に帰った。山に入れば、人は生まれ変わった気分になれるのかも知れない。

和気清麻呂続編 伝足利義政供養塔・日野富子墓

  「岡山県の歴史散歩」によれば、和気町田原井堰資料館の南東の山の斜面に、9世紀のたたら製鉄炉跡である、石生(いわぶ)天皇遺跡があるとのことだったが、案内標識もなく、発見することが出来なかった。

f:id:sogensyooku:20191108211148j:plain

石生天皇遺跡のある山

 遺跡のあるという山を撮影するにとどまった。この近辺でも良質の砂鉄が採れたのだろうか。

 和気町原には、国登録有形文化財の万代家住宅主屋がある。

f:id:sogensyooku:20191108211700j:plain

万代家住宅主屋

 写真中央の民家がそうである。現在も民家として使われており、当然見学は出来ず、遠くから写真撮影をした。

 明治5年(1872年)の建築で、木造瓦葺平屋建だそうだが、どう見ても2階建である。この地方独特の、屋根を二重にした平屋建の建物らしい。

 さて、更に西に進み、岡山県赤磐市に入る。赤磐市は、平成17年に、赤磐郡山陽町、赤坂町、熊山町、吉井町対等合併して出来た市である。赤磐市南部は、岡山市ベッドタウンになっている。

 赤磐市松木には、和気清麻呂広虫の墓と伝えられる江戸時代初期の宝篋印塔がある。

 伝和気清麻呂墓所として、赤磐市指定史跡となっている。

f:id:sogensyooku:20191108212557j:plain

和気清麻呂広虫の墓

f:id:sogensyooku:20191108212811j:plain

 和気清麻呂広虫は、平安京で亡くなった。清麻呂の墓は京都神護寺にあると言われている。

 清麻呂の骨は、地元である備前美作の地に分骨されたと伝わる。この場所にも、清麻呂広虫姉弟の分骨が埋葬されているのだろう。

 宝篋印塔は江戸時代のものらしいが、室町時代の宝篋印塔に比べて素朴な姿をしており、むしろこちらの方が古く感じる。

 ここから北上し、赤磐市佐古に行くと、八幡和気神社がある。

f:id:sogensyooku:20191108214512j:plain

八幡和気神社

 田んぼの中の小高い丘の上にある。小ぶりで素朴な神社である。

 社頭には、立派な備前焼狛犬があった。

f:id:sogensyooku:20191108214651j:plain

備前焼狛犬

 拝殿に漆喰の飾りがついていて、モダンであった。

f:id:sogensyooku:20191108214921j:plain

拝殿

 この神社は、延暦三年(784年)に和気清麻呂公が、豊前国宇佐八幡宮八幡神を勧請して創建したと伝えられる。

 清麻呂公は、神託を授かった宇佐八幡宮を厚く信仰していたことだろう。

 その後和気清麻呂公の第五子真綱が宮司となり、その子孫代々が宮司として近世に至り、縁故者相継ぎ現在に至っているそうだ。

 天文年間(1532~55年)に小野田城主の祖先小野田宗右衛門尉茂行が社殿を再興、寛文七年(1667年)に池田光政公が鳥居を寄進した。本殿は元和九年(1623年)・明暦二年(1656年)・寛文七年(1667年)に改築された。

f:id:sogensyooku:20191108215525j:plain

本殿

 なかなか簡素雄勁な本殿だ。皇統護持に尽くした和気清麻呂公の故郷を八幡神が見守っているような気がする。

 さて、赤磐市沢原に天台宗の自性院常念寺がある。

f:id:sogensyooku:20191108220238j:plain

自性院常念寺

 ここは、室町幕府8代将軍足利義政の御台所、日野富子墓所があると伝えられる。赤磐市指定史跡となっている。

f:id:sogensyooku:20191108220741j:plain

常念寺本堂

 なぜこの地に日野富子の墓があるのだろう。

 日野富子は、俗に日本三大悪女の一人と言われている。応仁の乱勃発の原因を作り、東軍西軍両陣営に高利で金を貸し付け、蓄財したとされている。一方で、夫義政、息子義尚に先立たれた不幸な女性でもある。

f:id:sogensyooku:20191108222019j:plain

足利義政供養塔、日野富子

 この地に住む沢原家には、さる都の高貴な女性の自画像が伝わっている。口伝では、小河御所様の自画像といわれている。

f:id:sogensyooku:20191108222311j:plain

伝小河御所様の自画像

 小河御所とは、足利義政の隠居邸の名である。室町の幕府邸が焼けた後、日野富子が移り住み、政治に意欲を失った夫義政に代わって、息子である9代将軍義尚を補佐するために政務を行った場所である。そのため富子は小河御所様と呼ばれた。

 寺伝によれば、文明十五年(1483年)、富子は、義尚と対立したため都落ちを決意し、赤松政則の家臣で幕府の所司代を務めていた浦上則宗を頼って、沢原に安住の地を求め、静寂な日々を送ることとなった。
 延徳元年(1489年)、義尚が25歳で陣中にて病没し、延徳二年(1490年)には、夫義政が病没した。

 富子はこの地に一寺を建立、小河山慈照院と命名し、宝篋印塔一基を建立して、夫とわが子の慰霊と念仏の日々を送った。則ち今の常念寺である。  

f:id:sogensyooku:20191108223340j:plain

足利義政供養塔

 足利義政供養塔とされる宝篋印塔は、花崗岩製で基礎の下に反花座(かえりばなざ)が敷いてあって格式が高い。

 明応五年(1496年)、富子は、57歳で自庵にて没した。都からの従者沢原氏によって、夫やわが子の供養塔の傍に埋葬されたとのことである。

f:id:sogensyooku:20191108223703j:plain

日野富子

 自画像の他に、この地には日野富子ゆかりの品とされる物が伝わっているらしい。

f:id:sogensyooku:20191108223930j:plain

日野富子ゆかりの品

 沢原に日野富子が移り住み、亡くなって埋葬されたというのは全て口伝で、文献には残っていないため、本当のところは分からない。

 歴史上の事実を徹底して追求することも大切なことである。一方で、事実の周りに漂う靄のような伝承も、それが長い間人々によって大事に伝えられている以上、尊重すべきものである。

 この墓の下に眠る人物が日野富子かそうでないか、詮索せずにおくのもいいのかも知れない。

田原井堰と田原用水

 岡山藩の土木工事の偉人、津田永忠が手掛けた土木工事の中で、元禄時代の1690年前後に施工され、昭和まで約300年に渡って実用に耐えてきたのが、田原井堰である。

 井堰とは、水を他へ引いたり流量を調節するために、川水をせきとめる設備を指す。

 現在の岡山県和気郡和気町田原上には、吉井川の流量を調整する新田原井堰がある。

f:id:sogensyooku:20191105205511j:plain

新田原井堰

 新田原井堰は、昭和60年に完成した。それまでの間、吉井川の氾濫を防いできたのが津田永忠が施工した田原井堰である。

 吉井川は、流量の変化が大きく、昔から用水不足や、 洪水被害を繰返してきた。この吉井川の氾濫を抑え、ここから取水して下流の広大な水田地帯へ農業用水を送るため、田原井堰と田原用水が施工された。

 私も土木工事に関しては素人なので、井堰のイメージを伝えにくいが、同じ岡山藩が造った旭川の建部井堰が現在も未だ現役で使用されているので、その写真を掲げる。

f:id:sogensyooku:20191105210337j:plain

建部井堰(土木学会 選奨土木遺産のホームページより)

 建部井堰は、写真のような石組の井堰だが、川の流れに対して斜めに設置されている。こうして旭川の流れをある程度せき止めて、溜まった水の一部を大井手用水路に導き、下流の農業用水として利用している。

 田原井堰も、吉井川の中に石組の井堰を斜めに築いて、川の流れをある程度堰き止めて、溜まった水を田原用水に流し、18キロメートル下流の現在の岡山市東区瀬戸町の砂川まで導いていた。

 田原用水は、岡山平野南部の新田開発の農業用水としてなくてはならないものであり、岡山藩全体の収穫高を大幅に引き上げた。

 田原用水は、津田永忠の時代の前から引かれていたが、現在の形に完成させたのが津田永忠である。

 田原井堰は、昭和60年の新田原井堰建設の際に撤去されたが、新田原井堰の西側にモニュメントが残されている。

f:id:sogensyooku:20191105211353j:plain

田原井堰のモニュメント

f:id:sogensyooku:20191105212051j:plain

モニュメントの説明文

 田原井堰の全長は約500メートルに及び、約300年間実用に耐えてきたが、近代になって吉井川の水が工業用水や水道水として大量に使われるようになると、対応できなくなって引退した。

 田原井堰跡附田原用水一部は、岡山県指定の史跡となっている。

 和気町本には、和気町田原井堰資料館がある。

f:id:sogensyooku:20191105212454j:plain

田原井堰資料館

 田原井堰資料館は、田原井堰に関する資料を収集展示している。普段は閉館していて、事前に和気町歴史民俗資料館に連絡をしていなければ館内の見学はできない。私が訪れたのは月曜日で、歴史民俗資料館も閉館日だったので、館内の見学は出来なかった。

 しかし、資料館の外には、田原井堰に使われていた石を利用して復元されたモニュメントがあった。

f:id:sogensyooku:20191105212733j:plain

田原井堰の復元

 さて、田原井堰から取水された水は、田原用水を伝って下流の砂川まで流された。田原用水は、途中で小野田川と交差する。この小野田川を田原用水が越えるため、小野田川の上に水路橋が架けられた。それが田原用水水路橋(石の懸樋)である。

 石の懸樋は、昭和57年まで現役で使用されていた。国内最大級の石造の水路橋であった。

 昭和57年の小野田川の改修工事により撤去されたが、現在は岡山県赤磐市徳富に移築されて、岡山県指定重要文化財として保存されている。

f:id:sogensyooku:20191105213620j:plain

石の懸樋の構造

 図のように、小野田川の上を田原用水が越えるために造られた水路橋で、津田永忠が大坂の石工・河内屋治兵衛らに施工させ、元禄九年(1696年)ころに完成した。花崗岩製の石材を縦横に組み合わせ、石材の接合部分には、貝殻を混ぜた特殊な漆喰を使った。

f:id:sogensyooku:20191105214016j:plain

昭和57年の石の懸樋

f:id:sogensyooku:20191105214113j:plain

 写真のように、完成後約300年経った昭和57年になっても水漏れせずに使用されていたというのは驚きだ。この漆喰と石組の技術は相当なものだろう。

 移築復元された石の懸樋は、現在も独特の存在感を放っている。

f:id:sogensyooku:20191105214301j:plain

移築復元された石の懸樋

f:id:sogensyooku:20191105214348j:plain

f:id:sogensyooku:20191105214427j:plain

f:id:sogensyooku:20191105214540j:plain

 正直言って、元禄時代にこの石の懸樋を見た人たちは、目を瞠ったことだろう。

 今見ても「格好いい」と思う史跡である。大多府島の元禄防波堤を見ても格好いいと思ったが、人々の役に立つ土木工事設備は格好いい。

 田原井堰資料館の前には、石の懸樋の前後の田原用水路の構造を復元したものが展示されている。

f:id:sogensyooku:20191105215713j:plain

 

f:id:sogensyooku:20191105220919j:plain


現在の田原用水は、小野田川の地下を通っているものと思われる。

f:id:sogensyooku:20191105215758j:plain

小野田川方面から流れる田原用水

f:id:sogensyooku:20191105215854j:plain

田原用水

 田原用水は、小野田川を越えて下流まで流れているが、その先には、岡山県指定史跡である「百間の石樋」がある。

 百間の石樋は、津田永忠が、「熊野の岸険(ほき)」と呼ばれた硬い岩盤を掘削して通水させた約180メートルの用水路である。石の懸樋と並んで難工事であったそうだ。

f:id:sogensyooku:20191105220400j:plain

百間の石樋

f:id:sogensyooku:20191105220656j:plain

 岸険は、種油で岩盤を焼いて開削したとされている。

 こうして下流まで流れた田原用水の水は、岡山平野の水田を潤し、人々の生活水準を上げた。

 人々の生活を支える土木工事設備は、見るからに格好いい。300年近く人々の生活を支えた田原井堰や石の懸樋は偉大な工事と言える。

 津田永忠の名は、私も史跡巡りを始めるまで知らなかったが、この偉大な建設家の功績は、もっと世間に知られてもいいのではないかと思う。