摂取山念仏寺

 極楽寺の北隣には、浄土宗の寺院、摂取山念仏寺がある。

念仏寺

 創建は、天文七年(1539年)である。

 念仏寺は、元々は現在地とは違う場所に建っていた。慶長年間には、この場所に秀吉の正室北政所の別邸があった。

観音像と太閤秀吉・北政所館跡の碑

 徳川の世になってから、家康が北政所館跡を破却し、ここに念仏寺を移転させた。

 秀吉が残した足跡を悉く破壊した家康の執念は凄まじいものがある。

 本尊は、快慶作と伝えられる阿弥陀如来立像である。

本堂内部

阿弥陀如来立像

 確かに衣文の彫が流麗である。名品の香りがする。

 本堂は、元禄十六年(1703年)の有馬大火災により焼失し、正徳二年(1712年)に再興された。

 この本堂は、有馬最古の建物である。

 本堂の隣には、七福神の一柱の寿老人を祀る寿老人堂がある。

寿老人堂

寿老人像

 寿老人は、道教の神仙の一人とされている。不老長寿の霊薬の入った瓢箪を持ち運び、長寿と自然との調和を象徴する牡鹿を従えている。

 本堂の前には、白象の木像や、少年法然上人(勢至丸)像がある。

白象の木像

少年法然上人像

 寺の庭園には、樹齢約250年以上の沙羅双樹が植えてある。沙羅双樹は、釈迦が涅槃に入った時に、その四方に二本ずつあった木である。

念仏寺の庭園

沙羅双樹

 他の新しい沙羅双樹とは、幹の醸し出す古さが全く異なる。古い木の貫禄は、人を畏敬させるものがある。

 沙羅双樹の花が咲く季節になると、白い花が一面に咲く。釈迦の生涯を偲ぶことが出来るだろう。

 念仏寺から東に行くと、銀泉の外湯の銀の湯がある。

銀の湯

 今回有馬温泉に来て、結局湯には浸からなかった。

 私はいつも史跡を巡ることに一生懸命で、食事にはほとんど時間をかけず、買い物は一切しない。

 一種の史跡原理主義だが、それがこのブログが長続きした原因だろうと思っている。

極楽寺 太閤の湯殿館

 温泉寺の東隣に、浄土宗の寺院、極楽寺がある。

極楽寺

 極楽寺の創建は古く、推古天皇二年(594年)に聖徳太子により建てられたと伝わっている。

 それが本当なら、恐らく有馬で最古の寺院になると思われるが、これはあくまで伝説の領域の話だろう。

 極楽寺は、元はここより東にある石倉の地に建っていた。建久二年(1191年)の有馬温泉の再興を機に、現在地に移転したという。

 ご本尊は、厭救(おんぐ)上人作の阿弥陀如来像である。

阿弥陀如来坐像

 金色に輝く御像である。

 平成7年の阪神淡路大震災により、極楽寺の庫裏が倒壊した。庫裏の再建工事のため土地を掘ると、安土桃山時代の遺構が見つかった。

 この遺構は、太閤秀吉が有馬温泉に築いた湯山御殿の跡であることが分かり、平成9年には神戸市指定史跡になった。

 平成11年に、湯山御殿の跡に、発掘された遺物を展示するための資料館として、太閤の湯殿館がオープンした。

太閤の湯殿館

 太閤の湯殿館の前には、湯山御殿の庭園が再現されている。発掘された庭園は、埋め戻されているが、その上に再現されたものである。

発掘された湯山御殿の庭園

再現された湯山御殿の庭園

 太閤の湯殿館に入ると、湯山御殿の遺跡から発掘されたものや、有馬温泉の歴史に関する資料、特産物などが展示されている。

太閤の湯殿館の内部

 実際に地下から発掘された岩風呂や蒸し風呂の遺構が、そのまま展示されている。

発掘された岩風呂

岩風呂の遺構

 発掘された岩風呂の遺構は、石組みに囲まれた浴槽である。天然の岩盤の亀裂を利用して、浴槽に湯が流れ込むようになっていた。浴槽の底には、湯垢の酸化鉄が沈殿していたそうだ。

 蒸し風呂の遺構の上には、蒸し風呂の建屋が再現されている。

蒸し風呂の建屋

蒸し風呂の遺構

 ところで、風呂に入る時に湯に浸かるようになるのは、江戸時代以降のことで、それまでは風呂と言えば蒸し風呂であったそうだ。今でいうサウナである。

 蒸し風呂では、発汗作用を高めるため、内部に菖蒲を敷いたり、生木や常緑樹の葉を焚きものとして使ったりした。

 多くの汗をかいた後、かけ湯をして汗を流したそうだ。

秀吉が愛用した入浴道具

 太閤秀吉も、この岩風呂や蒸し風呂に入っていたことだろう。

 湯山御殿跡からは、安土桃山時代の瓦や陶磁器類が見つかっている。湯山御殿で使われていたものだろう。

湯山御殿の鬼瓦

発掘された陶磁器類

赤志野の筒茶碗

 唐津備前丹波、志野などの日本各地の陶器だけでなく、中国景徳鎮の磁器なども見つかっている。高級品ぞろいである。

 秀吉一行は、湯治をしながら茶の湯も楽しんだことだろう。

 また、天正十一年(1583年)に、有馬温泉に湯治に来る本願寺光佐をもてなすよう、秀吉が湯山惣中に出した書簡の複製も展示されていた。

湯山惣中に秀吉が出した書簡の複製

 舒明天皇の昔から、有馬温泉は有力者が湯治する場所であった。

 秀吉の死後、徳川の世になると、湯山御殿は破却された。

 家康は、秀吉の権力を示す建造物を徹底して破壊したが、湯山御殿もその一つであった。

 破却された湯山御殿の上には、浄土宗の寺院である極楽寺や念仏寺の建物が建てられた。

 秀吉の時代を示すものとして、今でも地上に残っているのは、極楽寺の南側にある石垣とその上の帯曲輪である。

石垣

帯曲輪

 また、極楽寺の前には、豊太閤之塔と呼ばれている石造五輪塔がある。

豊太閤之塔

 秀吉を偲ぶため、いつの頃にか建てられた塔であるらしい。

 権力者が交代すると、過去の権力者の遺産は清算されることが多い。これは、現代の民主主義の世界でも、政権交代後に起こり得ることである。

 それにしても家康による秀吉の遺産に対する徹底した破壊ぶりは、憎悪すら感じさせる。

 天下を握るには、非情さが必要だったということか。

湯泉神社

 伝説では、有馬温泉を発見したのは、国造りの神様の大貴己(おおなむち)命と少彦名(すくなひこな)命の二神とされている。

 二神が薬草を探して全国を旅をしていると、有馬の地で三羽のカラスが、赤い湯に傷を浸して治療しているのを見た。

有馬の三羽烏

 以後、有馬温泉は湯治場として知られるようになった。これが、伝説上の有馬温泉の始まりである。

 以降、第34代舒明天皇や第36代孝徳天皇有馬温泉行幸したという記事が、「日本書紀」に見える。

 神亀元年(724年)に、行基が有馬を訪れて、温泉寺を開き、有馬温泉を整備した。

行基の像

 温泉寺の北側に、有馬の三羽烏行基の像が建っている。有馬温泉の始まりを表すモニュメントである。

 鎌倉時代には、仁西という僧が、12の宿坊を建てて、温泉地として発展させた。

 有馬温泉を発見した大貴己命と少彦名命を祭神とするのが、温泉寺と隣接する湯泉(とうせん)神社である。

湯泉神社鳥居

 湯泉神社は、かつては温泉寺の境内にあったが、明治16年に現在地に移された。

 湯泉神社の参道は、温泉寺の境内から始まっている。

 温泉寺境内南側にある鳥居を潜ると、湯泉神社への石段が始まる。

参道

 参道脇には、丈高い杉が林立している。朝の冷たい空気の中、こんな参道を歩くのは気持ちがいい。

参道の杉

 参道の途中に妙見堂がある。妙見大菩薩を祀るお堂である。

妙見堂

妙見堂蟇股の彫刻

妙見堂境内の石仏

 妙見堂が温泉寺と湯泉神社のどちらに所属する建物なのかは分からない。

 過去には温泉寺と湯泉神社は、一体だったから、この問いにあまり意味はないのかも知れない。

 妙見堂を過ぎて石段を上がって行くと、湯泉神社の境内に至る。

湯泉神社二の鳥居

湯泉神社境内

 湯泉神社は、当初大貴己命と少彦名命の二神を祭神としていたが、鎌倉時代の熊野信仰の高まりと共に、熊野久須美(くすみ)命も祭神に加えられた。

拝殿

 そのため、当社には、鎌倉時代後期の作である「絹本著色熊野曼荼羅」が伝えられている。国指定重要文化財である。

 また、有馬温泉には、250年前から続く入初(いりぞめ)式という伝統行事がある。

 毎年正月二日に、有馬温泉を発見した大貴己命と少彦名命の二神と、温泉を再興した行基と仁西に感謝を捧げる行事である。

拝殿唐破風の彫刻

蟇股の三羽烏の彫刻

 湯泉神社の御神体と、温泉寺の行基像、仁西像を輿に乗せ、神職、僧侶、旅館の主人、芸妓が扮した湯女(ゆな)が、輿の周囲に古式ゆかしい練行列を組んで式場に向かう。

 式場では、湯女が泉源からくみ上げた初湯を湯もみし、適温になると旅館関係者が初湯を行基像、仁西像にかけるという。

本殿

 有馬温泉の湯治場としての歴史は、神話の時代から現代まで、絶えることなく続いている。温泉街の人々も、そんな街の歴史を大事にしている。

 考えてみれば、日本の歴史も似たようなものである。日本人が、先人の営みに思いを馳せ、そこから繋がっている今の生活をありがたく大切に思うこと。この積み重ねこそが、歴史というものだろう。

 

有馬山温泉寺

 善福寺の参拝を終え、神戸市北区有馬町の温泉街を散策する。

 温泉街に入ると、平成13年にオープンした金の湯がある。外湯もある公衆浴場である。

金の湯

 金の湯の入口の前には、日本第一神霊泉と刻まれた碑が建っている。

日本第一神霊泉の石碑

 また、金の湯店頭には、秀吉の馬印である瓢箪を模した温泉水の吐出口がある。

瓢箪の温泉水吐出口

 有馬の町中を散策すると、溝から湯気が立っているのが目につく。

溝から立つ湯気

 この町を訪れるならやはり冬がいい。冬の朝の柔らかい日差しの中、温かい湯気が町のあちこちから立つのを見るのはいいものだ。

 金の湯から東に行くと、昔ながらの温泉街の細い路地がある。

温泉街の路地

 温泉街を歩くと、古い日本の風情が味わえる。

 さて、金の湯から南に歩くと、黄檗宗の寺院、有馬山温泉寺の石段が見えてくる。

 石段を登ると、堂々とした佇まいの本堂が見えてくる。

温泉寺への石段

温泉寺境内

 温泉寺は、神亀元年(724年)に行基がこの地を訪れ、有馬温泉を開いた時に、自ら薬師如来像を彫って安置したのが始まりである。

 寺には、行基の像と共に、鎌倉時代有馬温泉を復興させた仁西の像も祀られている。

本堂

 本堂の前には、二基の大きな石造五輪塔が建っている。

本堂正面

二基の石造五輪塔

 左塔は平清盛の供養塔、右塔は慈心房尊恵の供養塔とされている。鎌倉時代中期から後期の作で、神戸市指定有形文化財である。

 尊恵は、今の宝塚市にある清荒神清澄寺の僧侶で、「法華経」の熱心な信者であった。

 伝説によると尊恵は、生前閻魔庁に四度招かれて、閻魔大王と語らったという。

尊恵の供養塔

 承安二年(1172年)に閻魔大王法華経会に招かれた尊恵は、大王から、「平清盛は普通の人ではない。慈恵僧正(中国天台宗の中興の祖)の生まれ変わりだ。毎日三度偈を唱えて称賛している」と言われた。

 蘇生した尊恵は、清盛にこのことを伝えた。清盛は大いに喜んだという。

 当時清盛は、大輪田泊の修復に際し、「法華経」の持経者千人を集め、千僧供養を行ったりしていた。

平清盛の供養塔

 尊恵が安元元年(1175年)に閻魔庁を訪れた時には、大王から「法華経」の入った経箱を、日本無双の勝地で閻魔王宮の東門に当たる有馬温泉山の如法堂に納めることを勧められ、実際に納めたという。

 温泉寺の本尊は薬師如来像だが、薬師如来の守護神である十二神将の像も祀られている。その中の木造波夷羅(はいら)大将立像は、国指定重要文化財になっている。

木造波夷羅大将立像と木造毘沙門天立像

 室町時代の作で、鋭い刀法で写実的に刻まれた彫刻である。

 平安時代後期の作である木造毘沙門天立像は、神戸市指定有形文化財である。

 温泉寺は、天正四年(1576年)に火災で全焼したが、秀吉の正室北政所(ねね)によって再建された。

本堂

 温泉寺は元は真言宗の寺院だったが、元禄年間(1688~1704年)に黄檗宗の寺院になった。その後再度火災で堂宇が焼失した。

 天明年間(1781~1789年)に現在の本堂が再建された。

 温泉寺の歴史は、有馬温泉の歴史と共にある。怪我や病気を治すために有馬温泉を訪れた人々は、必ずこの温泉寺の薬師如来も拝んだことだろう。

 町と共に歩んできた寺は、町がある限り滅びることはない。

川向家住宅 善福寺

 1月28日に摂津の史跡巡りを行った。先ずは、神戸市北区の有馬方面を訪れた。

 神戸市北区有野町唐櫃(からと)にあるのが、18世紀後半に建てられた農家の川向(かわむかい)家住宅である。

川向家住宅

川向家住宅入口付近

 隣には現代の民家が建っていて、この家に住んでいた川向家の子孫の方が住んでいるものと思われる。

 正面の建具も、板戸2枚と明障子という簡素なものである。

 内部の見学は出来ないが、四間取であるらしい。

建物正面の縁側

入母屋造の屋根

 茅葺の入母屋造の屋根は、綺麗に整備されている。

 日本のかつての農村生活を彷彿とさせる建築である。兵庫県指定文化財である。

 ここから有馬温泉に向かった。

 有馬温泉の中央には有馬川が流れている。有馬川にも温泉から湧き出た水が流れ込んでいるものと見えて、川底が硫黄の色をしている。

有馬川

硫黄色になった有馬川の川底

 有馬温泉は、日本三古泉の一つとされている。第34代舒明天皇が飛鳥から湯治に訪れたという伝承が残っている。

 太閤秀吉も愛した名湯である。有馬川には、太閤橋と、秀吉の妻ねねの名を冠したねね橋が架かっている。

太閤橋

ねね橋

 ねね橋の袂には、ねねの銅像が建っている。

ねねの銅像

 ねねの銅像から南は、有馬温泉のメインストリートの太閤通である。

 私が訪れたのは、朝早くだったが、特にアジア系の外国人観光客が沢山訪れていた。

太閤通

 太閤通を南下すると、右手に曹洞宗の寺院、善福寺への石段がある。

善福寺への石段

山門

 善福寺は、僧行基が有馬の温泉寺を開いた時、落葉山水月庵として開いた法相宗の寺院である。創建は神亀四年(727年)である。

 建久二年(1191年)に僧仁西が温泉寺を再興した時、水月庵も再興された。

本堂

 本尊は、一光三尊阿弥陀如来である。インドの月盖(げつがい)長者が鋳造したもので、新羅王から聖徳太子に渡ったという仏像である。

 後に多田源氏の祖、源満仲の念持仏となり、川辺郡の多田院に安置された。

 正慶二年(1333年)、善福寺の本尊として多田院から移された。このころに、寺号も水月庵から善福寺になったようだ。

 善福寺が曹洞宗の寺院になったのは、17世紀初頭で、現在の本堂は宝暦七年(1757年)に建てられたものである。

本堂内部

 善福寺には、国指定重要文化財聖徳太子無仏像と、秀吉が千利休に命じて作らせた阿弥陀堂釜という寺宝がある。

 聖徳太子無仏像は、桧の寄木造りで、胎内に運慶四代の「法印湛幸」と「湛賀」の銘がある。鎌倉時代中期の作である。

 当時は太子信仰が盛んで、太子像が各地で作られた。

本堂

 阿弥陀堂釜は、本尊が祀られていた阿弥陀堂の住持の頭の形を面白がった秀吉が、利休に命じて当時天下一の釜師と言われた与次郎に作らせたものという。

 境内には、樹齢約270年の糸桜がある。

糸桜

 桜の季節に来たら、さぞ美しいことだろう。

 温泉は人を活気づかせる。温泉が豊富にある国に生まれて、幸せだと感じる。
 

千足装飾古墳

 造山古墳の南西側には、第1古墳から第6古墳まで、全部で6つの陪塚がある。

 陪塚は、主となる古墳の被葬者の家臣が葬られた古墳である。

 造山古墳に葬られた被葬者の臣が、これらの陪塚に葬られたことだろう。

造山古墳と陪塚の模型

 今日は6つの陪塚の中で、特に千足装飾古墳と呼ばれている第5古墳を中心に紹介する。

 造山古墳の前方部の南西端からは、6つの陪塚が眺められる。最も近くにあるのが、第1古墳である。

第1古墳

 第1古墳は、榊山古墳とも呼ばれている。直径約35メートルの円墳で、神獣鏡、銅鈴、馬形帯鈎が発掘された。

 造山古墳からは、近年綺麗に整備された第5古墳の千足装飾古墳がよく見える。

千足装飾古墳

 古墳に近づくと、秀麗な前方後円墳であることが分かる。

千足装飾古墳

 千足装飾古墳は、5世紀前半に築かれた。3段に築盛され、規模は全長約81メートル、後円部の直径約63メートル、後円部の高さ約7.4メートルである。前方部が短い帆立貝形古墳と呼ばれる形式の古墳である。

千足装飾古墳の空撮写真

 古墳は、平成22~26年に発掘調査された。古墳の形に沿った溝が見つかり、そこから埴輪片が多数発掘された。

発掘された埴輪

 円筒埴輪や朝顔形埴輪の他に、矢を入れる容器の靫形埴輪も見つかっている。

発掘された靫形埴輪

 築かれた時には、古墳上に埴輪が多数並んでいたことだろう。

 古墳の被葬者は、弓矢に象徴された武備を好んだ人物であろう。

 発掘調査後、古墳は築造当時の姿に復元された。

古墳への階段

 墳丘上には、階段で登っていくことが出来る。

後円部

 前方部と後円部の上には、築造当時のように、復元された円筒埴輪や朝顔形埴輪が並べられている。

前方部上の埴輪

後円部上の埴輪

 又、後円部上には、復元された家形埴輪などが置かれている。

家形埴輪

 家形埴輪を見ると、当時既に壁や窓や縁側がある家屋があったことが分かる。

 庶民は窓も壁もない竪穴住居に住んでいただろうが、豪族は床板と壁のある家に住んでいたようだ。

 後円部には、第1石室と第2石室の2つの石室があった。吉備地方では最古の横穴式石室である。

第1石室の入口

 第1石室は、午後3時までなら見学可能である。私が訪れた時は、既に時間が過ぎていて、見学できなかった。

 入口から羨道を通って、遺体が埋葬されていた玄室に至る。羨道と玄室の間には、玄門があるが、玄門は大きな1枚板で閉塞されているという。

 玄室の壁は、安山岩を積み上げて作られている。

玄室

 玄室の壁は、高価な朱色で塗られている。

 朱色の壁に囲まれた中に、石障という石の一枚板で四角に囲まれた空間がある。ここに被葬者が埋葬されていた。

 石障には、直弧文という模様が刻まれていた。

直弧文

玄門

 石室全体の造りは、横穴石石室発祥の地である北部九州の古墳の石室に似ており、石障があるところは、九州中部の古墳に似ているという。

 玄室の安山岩は、讃岐から産出されたものである。

 吉備の豪族は、瀬戸内海航路を通じて、四国や九州とよく連絡していたのだろう。

千足装飾古墳

 千足装飾古墳の隣には、直径約35メートルの円墳である第4古墳がある。

 ここからも、円筒埴輪や家形埴輪、短甲型埴輪が発掘されている。

第4古墳

 当時の日本では、古墳や石室の造形が、最先端の土木技術の見せ所だったのだろう。

 埴輪を見ると、古墳時代の日本の家屋や武具の姿を思い浮かべることが出来る。

 中国吉林省で見つかった広開土王の碑を見ると、日本は4世紀後半には大軍を半島に送り込めるほど国力が充実していた。

 玄界灘対馬海峡にて、大軍を乗せた艦隊を航行させることが出来た。

 その後の5世紀前半の日本は、国内で巨大古墳を次々と築造した。

 文献資料がないので詳細は分からぬが、4世紀後半から5世紀前半の日本は、古代日本において、国力が一つのピークとなった時代だろう。

造山古墳

 守福寺宝殿の見学を終えて南下し、岡山市北区新庄下にある巨大前方後円墳、造山古墳を訪れた。

造山古墳の後円部(北東から南西に向け撮影)

後円部(南から北に向け撮影)

 造山古墳は、全国4位の大きさを誇る古墳である。

 1位は全長約486メートルの仁徳天皇陵、2位は全長約425メートルの応神天皇陵、3位は全長約365メートルの履中天皇陵である。

 4位の造山古墳は、全長約350メートルである。

造山古墳の全景(南から北に向け撮影、右が後円部)

造山古墳の全景(西から東に向け撮影)

 トップ3の古墳は、いずれも天皇陵として宮内庁が管理している。管理は厳重で、陵墓に立ち入ることは出来ない。

 ところが造山古墳は、天皇陵ではないため、誰でも古墳に登って見学することが出来る。

 造山古墳の全長は、エジプトのクフ王のピラミッドより大きく、秦の始皇帝陵とほぼ同じ大きさであるという。

 造山古墳は、「足で踏むことが出来る世界最大のお墓」なのである。

造山古墳の資料館

 造山古墳の南東側に駐車場があり、そこに資料館があるが、資料館は午後3時に閉館となる。私が訪れた時は既に閉館していた。

 造山古墳は、この駐車場のある南東側から登ることが出来る。

 下の鳥瞰図の写真を見たら分かるが、古墳は三段に築盛されている。

 ただし、古墳の南東側は、1段目、2段目が削られ、住宅地になっている。

造山古墳の鳥瞰図

 造山古墳が築造されたのは、5世紀初頭とされている。丁度仁徳天皇の時代である。

 葦守八幡宮の記事で紹介したように、この辺りは、応神天皇の妃であった兄媛(えひめ)命の出身地で、応神天皇が兄媛命の兄・御友別(みともわけ)命やその子らに領地を与えた場所である。

 被葬者は分からないが、恐らく応神天皇の厚遇を受けた御友別命の一族が築いた古墳であろう。

前方部(南西から北東に向け撮影)

前方部の南西端

 古墳は三段に築かれ、かつては葺石で覆われていた。各段の上には、円筒埴輪が巡らされていた。

 古墳からは、楯、靭(ゆき)、蓋(きぬがさ)、家の形を模した形象埴輪が見つかっている。

 後円部には、埋葬施設があるようだが、まだ発掘は行われていない。

 吉備全体を統括した首長級の人物が葬られていることだろう。

後円部を南から北に望む

古墳のくびれ部分

前方部に登る道

 古墳に登ると、この古墳の尋常ならざる巨大さが実感出来る。

 全てを人工的に築いたのではなく、元々あった丘陵を削ったり盛り土をしたりして築いたのだろう。

前方部から後円部を望む

前方部中央から後円部を望む

後円部

 造山古墳の前方部からは、阿蘇山の溶岩から出来た石棺が発見されており、後円部からは讃岐の安山岩で出来た板石が発掘されている。

 当時の吉備が、九州や四国にも影響を及ぼしていたことがこれで分かる。

後円部の空撮写真

後円部の墳頂

 空撮写真で見ると、後円部の墳頂はそれほど広く見えないが、実際に登ってみると、実に広大である。

 眼下の住宅が小さく見える。

眼下の住宅

 また、古墳から東側を望めば、高松地区まで平野が続いているのが眺められる。遠く最上稲荷の赤鳥居が見える。

古墳から高松地区を望む

 後円部から前方部を見ると、前方部の先端部分は木々に覆われている。この中に、荒神社という小さな祠がある。

後円部から前方部を望む

 再び古墳中央の鞍部に降りて、前方部の先端に近づいていく。

鞍部から前方部に近づく

前方部の先端部

前方部の先端から振り返った後円部

 前方部の南西端には、荒神社という小さな祠がある。

 この境内に、阿蘇溶結凝灰岩製の石棺が置いてあったのだが、見学時には気が付かなかった。

荒神

 上の写真の鳥居の左側に、屋根に覆われた石棺が写り込んでいる。この石棺が、造山古墳から発掘されたものなのか、別の古墳から発掘されたものがここに置かれたのか、今では分からないらしい。

荒神

荒神社本殿

 造山古墳は、近くにある6基の陪塚と共に、国指定史跡となっている。

北西側から見た後円部

北西側から見た前方部

 古墳は土で出来た人工の建造物である。これ程大きな建造物を見ると、その規模に圧倒される。

 造山古墳は、自由に立ち入って見学できる古墳としては日本最大である。この古墳は、もっと注目されてもいいと思う。

 これほどの規模の古墳を築こうと思ったら、延べ10万人以上の人員が、数か月以上の労働をしなければならなかっただろう。

 労働者に与える食事の量も膨大であっただろう。

 造山古墳は、それ自体の大きさから、当時の日本の国力に思いを馳せることが出来る場所である。

 古代の我が国の偉大さを実感することが出来る場所である。