蓮台寺客殿の拝観客用入り口から建物内に入る。黒光りのする床板が敷かれた広々とした空間が広がる。
入り口から奥に進むと薬師如来座像が出迎えてくれる。
客殿内には、見事な障壁画で飾られた座敷が複数ある。中には、江戸時代を代表する画家・円山応挙の障壁画で囲まれた座敷があった。
だが応挙の障壁画の間は、照明もなく、暗すぎて写真には写せなかった。
薬師如来の前を過ぎると、不動明王立像を祀った部屋がある。その部屋の壁には、能面が数多く掲げられている。
不動明王を見ると、いつも力を与えられる気がする。最近、自宅の庭に不動明王の石像を祀ろうかと考えているくらいである。お不動様には、嘘もごまかしも通じない気がする。
客殿には、由加山に参拝に来た岡山藩主や家臣たちが宿泊したが、藩主が宿泊した部屋が、「群仙の間」である。
群仙の間は、柴田義董が描いた「群仙の図」という障壁画で飾られている。
この部屋は、客殿の中でも最も簡素な部屋である。
藩主は家臣たちに金箔の襖の入った部屋を与え、自身はこの部屋で休んだという。歴代岡山藩主の人柄が偲ばれる部屋だ。
確かに落ち着く部屋だ。夏の盛りなのに、開け放されたこの部屋は、割合涼しい。こんな部屋で寝てみたいものだ。
様々な座敷の周囲を板敷の廊下が巡っている。
廊下にも様々な展示物がある。弘安二年(1279年)に鋳造された梵鐘は、岡山県指定重要文化財である。
この味のある古鐘は、大坂四天王寺三昧院領本庄の観音寺の鐘として鋳造されたが、文和四年(1355年)に備前国室山満願寺の鐘になり、天保年間(1830~1844年)に蓮台寺が入手したという。
その古鐘の隣には、藩主が使用した湯殿のレプリカが展示されている。
この湯殿より、現代の一般民家の風呂の方が確実に快適である。現代の庶民の暮らしは、かつての藩主の暮らしを遥かにしのぐほど豪華で快適になった。
なんだかんだ言って、人類は時代と共に着実に豊かになっている。
次は、幅二間半(約5メートル)の大床がある大床の間である。
この大床の間は、藩主が宿泊した時に、家臣たちが茶の間として使用した部屋である。
床の間に掛けられているのは、狩野派の絵師・法橋周得が描いた「八方睨みの獅子図」である。
どこから見てもこちらを睨んでいるように見えるという画法で描かれている。
大床の間の障壁画は、狩野派の絵師、菅蘭林斎が描いた「垂綸の会」である。
周の文王が馬車から下りて、釣りに余念のない太公望を軍師として招聘する場面を描いたものである。
岡山藩には、池田光政以来、賢臣を重用する伝統があるが、家臣がお茶の間に使う部屋の障壁画に文王と太公望の絵を選んだというのが、岡山藩らしい。
家臣に、太公望のような賢臣になってもらいたいというメッセージも込められているのだろう。
次の孔雀の間は、30畳の大広間で、藩主参拝時に家臣たちの集会所として利用された。
天井も高く二重の欄間が付いている。
障壁画は、大床の間と同じく菅蘭林斎作の「松、桜、牡丹に孔雀図」である。
孔雀は仏法守護の霊鳥とされている。孔雀だけでなく、松も桜も牡丹も細密に描かれた見事な襖絵である。
孔雀の間の前の廊下に展示されている「祈りの綱」は、客殿建築当時に女性たちが由加山に奉納した黒髪で編まれた綱である。
この綱は、客殿建築のための資材の運搬や吊り上げに使われたそうだ。当時の地元女性たちにとって、如何に由加山が心の支えになっていたかが分かる。
次の八仙の間は、池田家付きの医者や郡奉行が利用した部屋である。
この部屋の障壁画の「仙境の八賢人図」も菅蘭林斎の作だ。
また廊下の板戸に描かれていた鹿の絵が、本物の鹿のように細密に描かれていた。
今にも動き出しそうな絵だ。
客殿で最も格式の高い部屋は、「御成の間」である。この部屋は撮影禁止であった。
御成の間は、藩主が家臣を謁見する間だが、部屋はL字型になっていて、藩主の座る間の隣に、藩主の間よりも一段高い間がある。そこは、家臣達の間からは見えないようになっている。
この間は、藩主よりも身分の高い皇族や貴族が臨場した時に座る間である。
この最高所の間の火頭窓に、狩野派の絵師・安井春調斎作の「梅に禽鳥図」が描かれている。
日本では、人の高貴さは、花や鳥に象徴されている。
客殿の上には、不動明王を祀る奥の院権現堂があるが、客殿から権現堂までの斜面に庭園が築かれている。
客殿は、建築から200年以上経過しているが、由加山で最も見どころの多い建物である。
岡山城御殿は明治維新後に破壊され、岡山城天守も戦災で焼け落ちた。現代に岡山藩の威風を伝える建物として残っているのは、由加山蓮台寺客殿くらいなものだろう。
その当時の技術の粋を集めて築かれた建物は、長い間残るものである。