3月15日に備前の史跡巡りを行った。この旅は、私の最後の備前の史跡巡りになった。つまり、「岡山県の歴史散歩」に載る備前の全史跡を、この旅で踏破したのである。
最初に訪れたのは、岡山市北区御津町虎倉(こぐら)にある虎倉城跡である。
虎倉城跡は、標高約327メートルの歓喜山の上にある。
歓喜山の南側にある虎倉集落の入口の広場に、城の歴史と案内図を記した案内板がある。
ここから登山口まで道沿いに案内の看板が立っている。スイフトスポーツでようやく通れる細い道を行くと、登山口に至る。
案内板によれば、虎倉城の築城年代は定かではないが、大永年間(1521~1528年)に服部伊勢守が築城したという説がある。その後、長田庄の地頭だった伊賀勝隆が城主となり、金川城の松田氏の傘下に入った。
その子伊賀久隆の代に最盛期を迎え、備前津高郡のみならず、備中、美作にも勢力を伸ばした。
永禄十一年(1568年)、乱世の梟雄・宇喜多直家が金川城の松田氏を滅ぼすと、久隆は宇喜多氏と結びつつ勢力を拡大、天正二年(1574年)には備前に侵入してきた毛利勢の小早川隆景の軍勢を三宅坂で破った。
だが宇喜多直家は、久隆が毛利と通じていると疑い、天正六年(1578年)に久隆を毒殺した。
久隆の子の家久は、毛利氏を頼って備中に逃げた。伊賀氏の家臣団の大半は、奥津高に戻って帰農した。
伊賀氏の退去後、宇喜多氏の家臣長船越中守が城主となり、妹婿石原新太郎を城代とした。
天正十六年(1588年)の年始の祝いの席で、乱心した石原新太郎が、鉄砲で長船越中守を撃ち殺した。長船と石原の内紛で城は焼亡し、廃城となった。
登山道を登っていくと、主郭の西側の堀切に至った。
この堀切の先の道を登っていくと、出丸跡という曲輪に行きつく。
この出丸跡には、天保四年(1833年)に建立され、昭和58年に文字を再刻された、伊賀氏、長船氏の供養碑がある。
伊賀氏と長船氏の子孫が建立したらしい。
出丸跡から東に歩いていくと、途中空堀がある。その先に本丸跡がある。
本丸跡は、30メートル四方の広さである。木がまばらに生えている。中央に虎倉城跡の碑がある。
「岡山県の歴史散歩」によると、本丸跡の北側に石原新太郎の墓が草木の中に埋もれて建っているとのことだったが、本丸跡の北側は断崖であり、探しても墓らしきものは見当たらなかった。
本丸跡の西側には、本丸跡の曲輪から一段下がった三の丸跡の曲輪がある。
本丸跡から東に行くと、二の丸跡の広大な曲輪があるが、竹や蔓が生えていて、進むのも困難であった。
虎倉城は、謀殺で城主が入れ替わり、内紛で滅んだ悲劇の城である。
そんな凄愴な歴史にかかわらず、城跡は穏やかな春の日差しに包まれていた。
虎倉城跡から下山し、城跡の東側を流れる宇甘(うかん)川沿いにある宇甘渓を訪れた。
宇甘渓は、宇甘川の中流域である岡山県加賀郡中央町下加茂から虎倉までの約5キロメートルの渓谷で、渓谷沿いに松や楓が生えていて、遊歩道も整備されている。
水は緑色で透明度は低いが、岩肌が露出した山が宇神川に迫り、山水画のような眺めである。
宇甘渓の眺めを後に、私は更に備前の奥地に進んでいった。