本荘八幡宮 

 下津井城跡の見学を終え、倉敷市児島通生(かよう)に向かった。

 児島通生に、湊岬という海に突き出した山がある。この山上にあるのが、湊山城跡である。

湊山城跡

 湊山城は、児島半島にあった常山城の支城で、常山城主上野隆徳の家臣山田菊次郎が城主を務めた。

 天正三年(1575年)、備中高松城を攻略した毛利方の小早川隆景吉川元春の攻撃により落城した。

 小規模な城だったらしいが、いまでは城跡に至る道が私道になっていて、通行が禁止されているので見学は出来なかった。

湊山城跡方面への道

 さて、湊岬から北に走り、水島臨海工業地帯を北西に望む宮山という丘陵上にある本荘八幡宮を訪れた。

 本荘八幡宮は、宮山東方にある真言宗の寺院、般若院の鎮守として、大宝元年(701年)に宇佐八幡宮から神霊を勧請し、創建されたと伝えられている。

 弘安九年(1286年)八月に再建されたとも伝わっている。 

 このあたりは通生本荘という西園寺家の荘園であったため、本荘八幡宮の名称となったそうだ。

本荘八幡宮の鳥居

 宮山の麓に一の鳥居が建つ。一の鳥居には、享保三年(1718年)の銘がある。

享保三庚子歳の銘

 一の鳥居を過ぎるとすぐに、不思議な水盤のようなものがある。

水盤

 巨大な石の上に流線形の模様が彫られている。その上の石碑に、この石造物の由来が刻まれている。

水盤の由来

 それによると、この水盤は、弘化四年(1847年)八月に、福田岩吉という人が本荘八幡宮に奉納したもののようだ。

 下津井の燈籠崎の海中にあった、8940貫の重さのある巨石を、船に繋いで引き上げ、弘化四年の7月17日から8月5日までの間に社頭に運び込んだ、という内容が書かれている。

 水盤の左側に石造の樋があり、その先に井戸がある。

石造の樋と水盤

樋の先の井戸

 井戸から汲んだ水を樋に流して、水盤に水を流し楽しんだのだろう。

 願主は、風流心からこのようなものを奉献したのだろうか。

 さて、水盤を右手に見て、ここから宮山を登っていく。

 参道の途中に2本の石柱が建っている。

石柱

 この石柱は、手前の小さな石柱によれば、嘉永七年(1855年)六月に下津井吹上の仲買たちが奉献したものらしい。

 先ほどの水盤と言い、この石柱といい、本荘八幡宮が下津井の漁民や商人たちに厚く信仰されていたのが分かる。

 ここから更に登っていくと、擬宝珠の付いた玉垣に挟まれた参道の先に神門が見えてくる。

本荘八幡宮の参道

神門

 神門を潜ると正面に拝殿がある。八幡宮は、大概銅板葺の屋根を持つ簡素な社殿であることが多い。本荘八幡宮も果たしてそうであった。

拝殿

狛犬

本殿

 本荘八幡宮の中で最古の建造物は、本殿裏の瑞垣内に建っている花崗岩製の鳥居である。

 この鳥居は、三の鳥居として参道内に建っていたが、この場所に移された。

 笠木、島木、額束、貫、亀腹が完存する美しい鳥居である。

鳥居

応永二十八年の銘

 鳥居には、応永二十八年(1421年)の銘がある。約600年前に建てられた鳥居である。

 鳥居はところどころ黒ずんでいる。戦火の焼け跡と見られる。

 この鳥居は、全国的にも珍しい在銘の古い石造鳥居であるため、国指定重要文化財になっている。

 鳥居に刻まれた年号の銘を見るのが好きだ。時代を超えても変わらぬ人々の氏神への崇敬の念が窺われるからである。