田土浦坐神社

 鷲羽山から下りて、倉敷市下津井田之浦1丁目にある田土浦坐(たつちのうらにまします)神社に参拝した。

 この神社は、鷲羽山の西側の斜面の中腹に鎮座する。

田土浦坐神社の鳥居

 鳥居の先に急な石段があり、その先に社殿がある。鳥居は明治19年に建立されたものである。

 鳥居の前には下津井の民家が密集している。民家の間を通る人一人がようやく通ることが出来る細い道が、鳥居につながっている。江戸時代からある路地だろう。

鳥居の前の民家

民家の間の路地

 空襲に遭っていない集落や町には、このような古くからの細い道が残っていることが多い。

 現在舗装されていても、こういう道は、遥か昔から使われている道である可能性が高い。こんな細い道にも、歴史と情緒を感じることが出来る。

 さて石段を登ると、二の鳥居があり、その先に境内と拝殿がある。

二の鳥居

拝殿

 田土浦坐神社の祭神は、海の神様である大綿津見(おおわたつみ)神である。

 江戸時代までは、祭神は、田土明神と呼ばれていた。田土浦と呼ばれたこの地域の鎮守様である。

 拝殿の瓦には、「田」の字が刻まれている。

拝殿の瓦

 江戸時代までの日本各地の神社の祭神は、明神号で呼ばれていた。住吉大社であれば住吉大明神、春日大社であれば春日大明神である。

 平安時代以降、神仏習合が進むと、明神、大明神は、日本の民を救うために現れた仏の化身であるとする本地垂迹説が有力となり、明神号は仏教と関連付けられた。

境内から眺める瀬戸大橋と櫃石島

 しかし、明治政府が出した神仏分離令により、仏教由来のものを神社から排除するという指針が示され、仏教と関連付けられて捉えられていた明神号は神名から外された。  

 明治以降、祭神の名は、記紀に出てくる神々の名で呼ばれるようになった。

 今でも神社に行くと、明神号が書かれた明治以前の扁額が残っていることがある。

海と狛犬

 史跡巡りを続け、各地の神社仏閣や信仰の山に残る神仏の祀り方を現地で実際に見ると、明治より前の神仏習合修験道こそが日本人が古くから培ってきた真の伝統であり、明治政府が打ち出した神仏分離とそこから生まれた国家神道はかなり無理をして新たに創出された「伝統」であったと感じる。

本殿

 皇室にゆかりのある神々を祀った神社に高い社格を与え、天皇に忠義を尽くした功臣や軍人を祀る神社を新たに創建した大日本帝国国家神道制度は、神々の子孫である万世一系天皇が日本の統治者であり、天皇に忠義を尽くした人物が偉人であるとする皇国史観や、天皇を統治者とした大日本帝国憲法下の政治制度と一体のものであった。

本殿

 これはこれで、国民に強烈な一体感を与え、大日本帝国が短期間で強国となり得た原動力となったが、これが日本の伝統文化であるかというと、どうもしっくりこない。

 私も過去には、このような皇国史観に基づく保守思想を抱いたことがあったが、史跡巡りを始めて、明治の神仏分離が、各地方で伝承されてきた信仰に齎した歪みを見るにつけ、大日本帝国皇国史観国家神道は、むしろ旧来の伝統を壊した上に新たに創出された「伝統」であると感じるようになった。

田土宮と書かれた扁額

本殿唐破風下の力士の彫刻

 民衆の間に自然と受け継がれてきたものこそ真の伝統である。皇国史観が日本の真の伝統であるならば、戦後の歴史教育が戦前から大きく変わったとしても、それは民衆の間に生き残った筈である。

 それが残らなかったということは、最初から皇国史観は日本に根付いた伝統ではなかったということである。

本殿

 一方で、天皇や皇室に対する素朴な敬愛の気持ちや、神社や寺院の違いにあまりこだわらずに参拝する素朴な信仰心、地元で伝承されたお祭りや仏事は、戦後も国民の中に残った。

 このように時代を超えて民衆の間に残るものは、本物の伝統であろう。

 山川草木悉皆(さんせんそうもくしっかい)成仏という、意識のない自然界にも仏性が宿るという日本仏教の考え方と、自然をそのまま神として祀る神道の考え方には、確かに親和性がある。いずれ、再び神仏習合の時代が自然とやってくることだろう。

本殿

 さて、山の中腹にある田土浦坐神社の境内からは、海と下津井の町並みが見える。

 海が見える神社が私は何故か好きである。田土明神は、遥か昔から、下津井の町と海を、ここから見守ってきたことだろう。