昭和61年(1986年)11月から、岩波書店版第三次「鷗外全集」第二刷が刊行された。全38巻が完結したのは平成2年(1990年)1月である。
第一刷発行時に未発見だった書簡や雑纂が加えられた。
これが事実上最後に発刊された「鷗外全集」である。

「日本の古本屋」で検索してみても、第二刷の流通量は第一刷よりはるかに少ない。かといって古書価が高いわけでもない。「鷗外全集」に対する世間の需要は、かなり低いようだ。
私は平成20年11月に、北九州市の古書店でこの第二刷が販売されているのを知り、購入した。全38巻で1万2千円だったと思う。
事実上の「鷗外全集」の最終版を、鷗外に縁のある小倉に近い古書店から購入できたことを喜んだ。
私は、高校1年生の時に旧「三島由紀夫全集」を読んでからの三島ファンだった。
平成12年から刊行が始まった新潮社の「決定版三島由紀夫全集」も、ずっと購読してきた。これが平成18年に完結したので、次に何を読もうか探し始めた。
三島由紀夫が鷗外の文体をやたらと称揚していたので、鷗外でも読んでみようと思い、自宅から歩いて行ける町の小さな書店で、新潮文庫の「ヰタ・セクスアリス」を買って読んでみた。
簡潔でさっぱりした文章だとは思ったが、それほど面白いとは思わなかった。自己の性的閲歴を述べた小説としては、三島の「仮面の告白」の方がはるかに面白いと思った。
小説の内容にはそれほど感心しなかったが、簡潔で短く、テンポのいい鷗外の文章が頭に残った。
そこで、当時まだ書店に新刊で並んでいた、ちくま文庫版「森鷗外全集」を買って読んでみることにした。

第1巻から買って読み進めると、言葉にはしにくいが、何とも味のある文章だと思った。何回も繰り返して読みたくなった。金銀宝石を鏤めた美術工芸品を観ても、こんな感覚は味わえない。
例えば「追儺」という小説は、一読して鷗外が一体何を書きたいのかよくわからないとぼけた小説(というか身辺雑記)であるが、何度読んでも尽きない不思議な味わいがある。明治時代に書かれたものなのに、現代の小説家でも、こんな下ろしたての畳のようなさっぱりとして斬新な文章が書けるだろうか、と思わせる新しさもあった。
とりあえず、ちくま文庫版「森鷗外全集」を全部集めようと思った。
ちくま文庫版「森鷗外全集」は、平成7年(1995年)6月から平成8年(1996年)8月まで刊行された全14巻の文庫版全集である。
昭和34年に刊行された筑摩書房版「森鷗外全集」をベースにした注釈付き全集である。
筑摩書房版「森鷗外全集」には収録されていなかった「ファウスト」と「独逸日記 小倉日記」が収録されている。

この2つが注釈付きで読めるのは、このちくま文庫版だけなので、実に貴重な書籍と言わなければならない。
また、鷗外と同じく津和野出身の画家安野光雅の挿絵が全巻の表紙を飾っている。これが瀟洒でいい。
注釈も、巻末に纏められているのではなく、ページの左隅に載せられている。注釈を読むためにいちいちページを捲らなくてもいい。
私がこのちくま文庫版「森鷗外全集」を買い始めた平成18~19年には、既に第7、8巻「伊澤蘭軒」、第9巻「北條霞亭」は絶版になっていた。私は後に、今は廃業されている神戸元町の海文堂書店の2階の古書波止場でこれらの巻を見つけて購入した。
鷗外史伝が、文庫本で、しかも注釈付きで読めるというのは、贅沢な話である。
私は、このちくま文庫版「森鷗外全集」を、勝手に「究極の暇つぶし本」と呼んでいる。これがあれば、無限の時を過ごせそうだからだ。
今では、このちくま文庫版も第1巻を除いて全て絶版になっている。全14巻揃いの古書価が、第三次「鷗外全集」第二刷よりも高い。確かにこちらの方が需要がありそうだ。
ちくま文庫版「森鷗外全集」には、「諸国物語」が入っていないが、これは別に平成3年(1991年)12月にちくま文庫から上下巻が出ている。

これを買ってちくま文庫版「森鷗外全集」と揃えておけば、もう言うことはない。
さて私は、ちくま文庫版「森鷗外全集」を読んでみて、いよいよ文庫版全集にも載っていない鷗外が書いたもの全てを読みたくなった。
こうして平成20年に購入したのが、第三次「鷗外全集」第二刷であった。
ところが注釈のない全集を読み進めてみると、史伝篇に至って、読むのが困難になってきた。当時はまだ注釈付きのちくま文庫版を全部買い揃えていなかった
そこで購入したのが、本文脇に語注が付き、巻末に人名注、書名注が付いた岩波書店版「鷗外歴史文学集」全13巻であった。

「鷗外歴史文学集」は、平成11年(1999年)11月から平成14年(2002年)3月まで刊行された。
鷗外の歴史小説、史伝、漢詩を集成し、国文学、中国文学、日本史の研究者が共同で注釈を付した選集である。
鷗外文学のなかでも、歴史小説と史伝は、文句なく我が国の文学史に残る古典としての地位を既に確立している。だが、注釈なしでそれらの著作を読むことは、一般の読者には困難である。
「鷗外歴史文学集」では、それら歴史小説、史伝に最新の研究結果を踏まえた注釈を付けた。
更に付録として、鷗外が歴史小説を書く際に参考とした史料を活字化して載せている。

筑摩書房版やちくま文庫版の全集に入っていなかった「西周伝」や「能久親王事蹟」といった初期の史伝も、この「鷗外歴史文学集」で初めて注釈付きで読めるようになった。
また、第12、13巻に鷗外作の漢詩二百三十三首を集成し、読み下し文や現代語訳を付けた。
鷗外の漢詩は、「鷗外全集」では白文のまま載っていて、もちろん注釈もなかった。また、第三次「鷗外全集」第二刷刊行後も、多数の鷗外漢詩が発見された。
「鷗外歴史文学集」では、それら全集未収録の漢詩も載せている。


今では、鷗外研究のためには、第三次「鷗外全集」と並んで、この「鷗外歴史文学集」は必須文献である。
鷗外愛好家からすれば、「まさにこれを待っていた!」と快哉を叫びたくなるような選集なのである。
私も、鷗外の歴史ものを家で読むときは、全集を読みながら、「歴史文学集」を横に置き、分らないところは「歴史文学集」の注を参照している。
「鷗外歴史文学集」には、各巻に月報が付いている。

月報の著者達は、もちろん鷗外没後に生まれた世代である。
平成10年に小説「日蝕」でデビューした平野啓一郎氏の文も載っている。
平野氏も鷗外の文学に親しんでおられるようだ。デビューした頃は、新潮社が平野氏を「三島由紀夫の再来」というキャッチコピーで売り出していたが、「日蝕」の文章などは、三島由紀夫というよりも鷗外の影響の方が色濃く出ていると思う。
さて、平成24年(2012年)は、鷗外生誕150周年の年であった。
この年に、鷗外旧居跡地に文京区立森鷗外記念館が開館した。
私は、生誕150年を機に、岩波書店が第四次「鷗外全集」、もしくは第三次「鷗外全集」第三刷を出してくれるのではないかと期待したが、出版されたのは、「鷗外歴史文学集」に収録されたもの以外の鷗外創作を集成した「鷗外近代小説集」であった。
「鷗外近代小説集」全6巻は、平成24年(2012年)10月から平成25年(2013年)3月にかけて刊行された。

「鷗外近代小説集」には、鷗外自身が生きていた時代を題材にした小説が収められているが、鷗外が生きた時代も、今からすれば十分歴史時代と言ってよい。
かの名作「雁」も、明治13年(1880年)が舞台である。石川淳は、「雁」のことを「児戯に類する」と書き、史伝を称揚したが、私からすれば、「雁」は本当にいい小説で、いい日本語の文章とは、鷗外の「雁」の文章を指すのだと言いたい。ある時代の日本女性のいじらしい姿が、余すことなくここに描かれている。

この「鷗外近代小説集」と「鷗外歴史文学集」で、鷗外文学の創作は全て注釈付きで読めるようになった。
岩波書店は、これで鷗外に関するアンソロジーは完結したと考えているのだろうか。
令和4年(2022年)は鷗外没後100年だった。
私は、新しい「鷗外全集」はもう出ないものと諦めていたが、没後100年を機に、鷗外の翻訳文学を注釈付きで集大成した「鷗外翻訳文学集」でも岩波書店が出してくれないものかと期待した。
だがこれも期待外れだった。
岩波書店は、過去の鷗外作品の岩波文庫を再刊したり、鷗外論の新著を少し出しただけで、没後100年を通り過ぎてしまった。

鷗外生誕200年は2062年で、私が生きていたとしても89歳である。没後150年の2072年には99歳である。そんな年に、新たな鷗外のアンソロジーが出るのを期待するべきだろうか。
その年までとても自分が生きていようとは思えないし、生きていたとしても読書する気力はなくなっているかも知れない。
もう新しい鷗外のアンソロジーが出るのは諦め、今まで買い揃えたものを読んで楽しもうと考えている。