「鷗外全集」の歴史 その四

 鷗外は、陸軍第十二師団軍医部長として、明治32年(1899年)6月から明治35年(1902年)3月までの間を、九州小倉の地で過ごした。

 その間、鷗外が「小倉日記」と呼ばれる日記を書いていたことは、鷗外没後間もないころから知られていた。

 ところが、この「小倉日記」は、長い間所在不明であって、鷗外没後に3回編纂された「鷗外全集」には収録されなかった。

 昭和26年(1951年)2月、鷗外の長子於菟が、自宅にて、疎開先から回収した荷物の中にあった「小倉日記」の原本を発見した。

 ずっと於菟の身近にあったものを、つい見落としていたらしい。

 この「小倉日記」が見つかったのと同年の昭和26年(1951年)6月から、岩波書店は第二次「鷗外全集」の刊行を開始した。

岩波書店版第二次「鷗外全集」著作篇内容見本

 著作篇全33巻、翻訳篇全18巻、別巻2巻、全部で53巻という大部であった。

 この「小倉日記」に関しては、松本清張の小説、「或る『小倉日記』伝」に触れないわけにはいかない。

 清張が芥川賞を受賞した作品である「或る『小倉日記』伝」は、小倉に生まれ育ち、片足が麻痺する神経系の障害を負いながら、小倉時代の鷗外の足跡を訪ね歩いて調査することに生涯を賭けた田上耕作のことを小説にしたものである。

 耕作は、まだ「小倉日記」が発見されていない時代に、小倉時代の鷗外と親交があった人物の元や、鷗外が訪問した場所に赴いて、聞き取り調査を行い、失われた「小倉日記」を復元しようとする。

 しかし、耕作が訪問した人の中には、障害者の耕作を蔑視し、軽く扱う心ない者もいた。耕作は、自分がやっていることに果たして意味があるのかと、時に疑問を抱きながら調査を続ける。やがて戦後の食糧難から耕作の障害は悪化し、体は衰弱していく。

岩波書店版第二次「鷗外全集」翻訳篇内容見本

 昭和25年12月、耕作は、調査の結果積みあがった資料を発表することなく息を引き取った。

 於菟の自宅で「小倉日記」が見つかったのは、その2か月後であった。

 耕作が「小倉日記」の発見前に息を引き取ったのは、幸か不幸か分らない、小説はそう結ばれる。

 田上耕作は、清張の小説で脚色されているが、実在の人物だったらしい。

 私は、もし耕作が、「小倉日記」が見つかるまで生きていたら、きっと「小倉日記」の発見を喜んだことだろうと思う。鷗外愛好家なら、必ず喜ぶ筈だからである。

 耕作の調査は決して無意味ではなかった。小倉時代の鷗外に接した人々の証言は、「小倉日記」の有無にかかわらず、鷗外についての同時代の貴重な証言たり得たからである。

 私はむしろ、田上耕作の調査結果が陽の目を見なかったことを残念に思う。

 「小倉日記」だけでなく、前回の記事で触れた「半日」も、この全集から収録された。鷗外の全貌は、この第二次全集でほぼ明らかになったと言えるだろう。

 私は第二次「鷗外全集」の実物は目にしたことがない。

 しかし月報は、またもや「日本の古本屋」のサイトを通して入手した。

第二次「鷗外全集」月報集

 月報第1号に載った「旧全集編集の頃」を読むと、最初の「鷗外全集」の編纂者の多くが、昭和26年には物故者になっていたことが分かった。

 月報第2号に載った宇野浩二の「鷗外の小説 ー最高級の小説ー」という文には、啓発されるところが多い。

 宇野は、文の最後に、鷗外の古今無比と言ってよい大著述、「澁江抽齋」「伊澤蘭軒」「北條霞亭」の史伝三部作の中で、強いて言えば「北條霞亭」を取ると書いた後、

数年前に、尾崎秀実といふ人が、極刑に処せられて、獄中にゐる時、その家族に注文した本のなかに、この「北條霞亭」があつたので、私は、正宗白鳥と、その事について語りあつた時、「『北條霞亭』を読むといふことだけで、この人は、文学の観照奥の院にはひつた、といふべきですね」と、いつた事である。さうして、白鳥先生も私の言葉にうなづいたことであつた。

と書いた。

 尾崎秀実は、例のゾルゲ事件昭和16年(1941年)にソ連のスパイとして検挙され、昭和19年(1944年)に死刑となった人物である。

 尾崎は、ソ連を守るために日本の政界の中枢にまで食い込んだ、骨の髄までの共産主義者であったが、そんな人物が、獄中でなぜ鷗外の「北條霞亭」を読もうとしたのかは分からない。

 私は、史伝三部作の中では「伊澤蘭軒」が最も好きで、霞亭の書簡がひたすら羅列されているだけのように見える「北條霞亭」の面白みがまだ分からない。まだまだ私は「文学の観照奥の院」には遠いということだろう。

 第二次「鷗外全集」は、昭和31年(1956年)2月に完結した。

 ところで、今までの「鷗外全集」には、作中の人名や用語などを解説した注釈が付いていなかった。鷗外著作の中で、特に史伝などは、漢詩が白文のまま出てきたり、一般にあまり馴染みのない江戸時代の学者や漢詩人の名前がずらずらと出てくる。普通の読者であれば、注釈がなければ読むのが困難である。

 私も注釈なしの「鷗外全集」を読み始めたが、「伊澤蘭軒」に及んで、これは読めないと一度さじを投げた。その後、注釈のある「鷗外歴史文学集」を入手してようやく読み通すことが出来た。

 昭和34年(1959年)3月から昭和37年(1962年)4月までの間に刊行された、筑摩書房版「森鷗外全集」全8巻は、初めての注釈を備えた「全集」となった。

筑摩書房版「森鷗外全集」(写真は昭和40年刊行の新装注解版)

 筑摩書房版「森鷗外全集」は、「全集」と銘打っているが、第1巻から第6巻までが小説、史伝で、第7巻が評論、随筆、詩歌、第8巻が翻訳であり、鷗外の著作の一部が集められたに過ぎない。

 注釈は巻末に纏められていて、かなり小さな字でびっしりと印刷されている。老眼の私などは、注釈を読むたびに苦労するが、それでも、鷗外のほぼ全部の創作、中でも史伝を注釈付きで読むことが出来るようになったのは画期的である。史伝の漢詩の脇には、読み下し文のルビが付いている。これがあれば、辞書に頼らずに鷗外を読むことが出来る。

筑摩書房版「森鷗外全集」内容見本

筑摩書房版「森鷗外全集」月報

 この筑摩書房版「森鷗外全集」の後にも、注釈付きの鷗外の選集が出たが、いずれもこの筑摩書房版の注釈をベースにして発展させている。この筑摩書房版全集は、鷗外研究に一つの画期をもたらしたと言えるだろう。

 「論語」や「孟子」などの古典に注釈が付いたように、鷗外の著作に注釈が付いたということは、この時代に鷗外は近代の古典と目されるようになったと思われる。

 昭和30年代には、鷗外はもう「昔の偉い作家」の仲間入りをしていたわけだ。

 その作家と同時代を生きた人が物故者となると、その作家は作品のみで評価されるようになる。この時代には、鷗外と同時代を生きた人はほとんどいなくなっていた。

 銘木で作られた黒光りする大黒柱のように、時を経て、鷗外の文の立派さが浮き上がってきたと見るべきだろう。