資料館

大塚国際美術館 その10

サルバドール・ダリは、1936年から1939年まで続いたスペイン内戦を予期するかのような絵を描いた。 それが、「ゆでたインゲン豆のある柔らかい構造:内戦の予感」である。 ダリ「ゆでたインゲン豆と柔らかい構造:内戦の予感」(1936年) 荒涼とした大地の上…

大塚国際美術館 その9

次は、ミレイ作の「オフィーリア」である。 ミレイ「オフィーリア」(1851-1852年) オフィーリアは、シェイクスピアの「ハムレット」に出て来る女性で、ハムレットに冷たくあしらわれて、発狂して川に落ちて死んだ。 ミレイは、時代物の衣装を着た女性を浴…

大塚国際美術館 その8

近代絵画の紹介を続ける。 次はコローの「マントの橋」である。 コロー「マントの橋」(1868-1870年) コローはフランス印象派の画家で、風景画をよく描いた。 私の妻は大学で絵を学んでいて、かつてはよく絵を描いていた。川の絵が多かった。 このコローの…

大塚国際美術館 その7

大塚国際美術館の地下2階にあるカフェ&レストランで昼食を摂った。 大塚国際美術館の展示品を全て観ようと思ったら、半日を費やすことになる。 必然的に昼食も館内で食べることになる。 カフェ&レストランの外は、地下2階なのに地表に顔を出した庭園にな…

大塚国際美術館 その6

ルネサンスの次は、バロック期の展示を鑑賞する。 バロックは、16世紀後半から18世紀前半にかけて流行した様式である。 宗教改革に危機感を覚えたカトリック教会は、信者の信仰心を繋ぎとめるため、イタリアで装飾過多で劇的な建築、美術、音楽、彫刻等の芸…

大塚国際美術館 その5

中世の展示の紹介を続ける。 次なる絵は、イタリア・チヴァーテのサン・ピエトロ・アル・モンテ聖堂に飾られている12世紀前半の作の、「龍を退治する大天使ミカエル」である。 「龍を退治する大天使ミカエル」 「新約聖書」末にある「ヨハネの黙示録」を題材…

大塚国際美術館 その4

古代の展示の見学を終えて、今度は中世の展示を観る。 ヨーロッパの中世は、「暗黒の中世」とよく言われる。 中世のヨーロッパは、文明的には、イスラム世界や中国よりも遅れた世界であった。 又、キリスト教が社会の隅々まで浸透し、自由な学問の発達を阻害…

大塚国際美術館 その3

次に紹介するのは、古代展示の中の「秘儀の間」の壁画である。 秘儀の間 秘儀の間とは、ローマ帝国の都市ポンペイにあった別荘、秘儀荘にあった長方形の部屋のことである。 ローマ帝国は、第2次ポエニ戦争に勝利してから、繁栄の時代を迎える。 地方都市の…

大塚国際美術館 その2

システィーナ・ホールのミケランジェロの作品を鑑賞した後、エル・グレコの祭壇衝立画を復元したものが展示されている、エル・グレコの部屋に行った。 エル・グレコの祭壇衝立 エル・グレコ(1541~1614)は、クレタ島出身で、イタリアを経てスペインに渡り…

大塚国際美術館 その1

大鳴門橋遊歩道渦の道の見学を終えて、鳴門公園内にある大塚国際美術館を訪れた。 大塚国際美術館 大塚国際美術館は、大塚製薬などを擁する企業グループの大塚グループが、創業75周年を記念して、平成10年に開館した美術館である。 ここでは、大塚オーミ陶業…

大鳴門橋架橋記念館エディ 

淡路と阿波を結ぶ大鳴門橋は、昭和60年6月に完成した。 大鳴門橋の完成を記念して、大鳴門橋に関する資料を展示するために開館したのが、大鳴門橋架橋記念館エディである。 大鳴門橋架橋記念館エディ 大鳴門橋架橋記念館エディの入口 ところで、大鳴門橋架…

阪神甲子園球場

大観楼跡を後にして、西宮市甲子園町にある阪神甲子園球場を訪れた。 阪神甲子園球場 阪神甲子園球場は、プロ野球球団阪神タイガースの本拠地として、また全国高校野球の聖地として知られている。 経営は、鉄道会社の阪神電鉄である。 阪神電鉄は、大正11年…

白鹿記念酒造博物館 後編 今津小学校六角堂

酵母菌によって発酵し、アルコールを含むようになった醪を酒袋に入れ、槽(ふね)の中に入れ、槽の上に置いた錘をてこの原理を用いて上から押して、酒袋の中の醪を圧搾して酒を絞り出す。 これがしぼりの工程である。 酒袋 しぼりの工程 酒袋には酒粕が残り…

白鹿記念酒造博物館 中編

酒造の工程は、先ずは酒米の洗米、浸漬に始まる。日本酒は米から造られる。酒米は、酒造用に栽培された米で、灘五郷では、兵庫県美嚢郡や三木市で栽培される山田錦が主に使われている。 山田錦 斗桝で計った白米を踏桶に入れ、水を入れて3回に分けて足で踏…

白鹿記念酒造博物館 前編

旧辰馬喜十郎住宅の隣に、辰馬本家酒造株式会社が経営する白鹿記念酒造博物館がある。 辰馬本家酒造は、寛文二年(1662年)創業で、白鹿は辰馬本家酒造が造る酒の銘柄である。 白鹿記念酒造博物館 白鹿記念酒造博物館は、辰馬本家酒造によって、明治25年築造…

栢寺廃寺跡 伝備中国府跡

岩屋寺の参拝を終えて、岡山県総社市南溝手にある総社市埋蔵文化財学習の館に赴いた。 総社市埋蔵文化財学習の館 ここは、総社市内の遺跡からの出土品の保管、展示を行っており、鬼ノ城に関する資料も展示されている。 土器作りの体験なども出来るようだ。 …

鬼ノ城 その7

城壁跡を巡る遊歩道から、城郭の内部を巡る遊歩道に入る。 城内には、管理棟や倉庫といった建物があったようだ。 建物の配置図 鬼ノ城には、建物の礎石が残っている箇所が7か所ある。 その内、建物5,6は、6間×2間の横長の建物で、周囲からは須恵器の硯…

鬼ノ城 その6

第5水門から東に歩くと、鬼ノ城に残る高石垣の中で最も著名な屏風折れの高石垣が見えてくる。 屏風折れとは、折れた屏風を上から見たように突出した地形から付いた名だろう。 上空から見た屏風折れの高石垣 屛風折れの高石垣に近づくと、天然の断崖上に石垣…

鬼ノ城 その5

石切観音のある場所から更に北に歩くと、第4水門がある。 ここも水門を形成する石塁が藪に覆われて見えなくなっている。 今も水門から水が流れ出ている。 第4水門 第4水門から流れ出す水 ここから進むと、東門跡がある。 東門跡 東門は、間口一間(約3.3…

鬼ノ城 その4

第1水門、第2水門から東に歩くと、南門跡が見えてくる。 南門跡 南門は、間口三間(約12.3メートル)、奥行き二間(約8.2メートル)の規模を持ち、一辺約55センチメートルの角柱12本で上屋を支える大型の城門であった。 門の入口に2メートル近い段差を設…

鬼ノ城 その2

展望デッキから歩いて復元された角楼(かくろう)と西門に近づく。 先ず見えてくるのは、角楼である。 鬼ノ城には、西側からが最も接近しやすい。そのため、西側に最大の門を備え、角楼を備えたのだろう。 角楼 角楼の下部には、立派な石垣が積まれ、その上…

鬼ノ城 その1

鬼の釜から北上するとすぐに鬼城山ビジターセンターがある。 鬼城山上には、古代山城である鬼ノ城(きのじょう)がある。 鬼ノ城は、私が史跡巡りで訪れた9番目の日本100名城である。続日本100名城を足した200名城としては、15番目に訪れた城である。日本20…

苗羽小学校旧田浦分校校舎

マルキン醬油記念館の見学を終えて、小豆島町田浦にある苗羽(のうま)小学校旧田浦分校校舎を訪れた。 苗羽小学校旧田浦分校校舎 この校舎は、明治35年8月に、田浦尋常小学校として建築された2教室と教員住宅を含む瓦葺平屋建校舎である。 明治43年から、…

マルキン醬油記念館 後編

マルキン醤油には、度々皇族が訪れている。 大正11年には、当時大正天皇の摂政であった摂政宮(後の昭和天皇)が訪問している。 大正時代のマルキン醤油工場 摂政宮が行啓の際に使用した茶碗と膳 大正12年には、後に昭和天皇の皇后となる良子(ながこ)女王…

マルキン醤油記念館 前編

内海八幡神社の参拝を終えて、県道28号線を南下し、小豆島町苗羽(のうま)にあるマルキン醤油記念館を訪れた。 マルキン醬油記念館 マルキン醤油は、明治40年に創業した醬油製造会社である。 マルキン醤油記念館は、マルキン醤油が大正年間に建設した醤油蔵…

小豆島オリーブ公園 中編

オリーブ原木の東側に、壁を鮮やかな白い漆喰で固めた風車がある。ギリシャ風車と呼ばれるものである。 ギリシャ風車 風車に近づくと、風車の付近で箒に跨ってジャンプする人たちが沢山いた。 何でそんなことをしているのだろうと不思議に思っていると、後で…

日本の鬼の交流博物館 後編

日本で鬼退治伝説が残っている地域としては、丹後の大江山の他に吉備地方がある。 吉備にはかつて温羅(うら)という鬼がいて、人々を困らせていた。 温羅は、第10代崇神天皇の御代に、四道将軍の一人、大吉備津彦命に征服されたと伝承されている。 温羅の面…

日本の鬼の交流博物館 前編

鬼ヶ茶屋から府道9号線を北上し、京都府福知山市大江町仏性寺にある日本の鬼の交流博物館に行った。平成5年に開館した博物館である。 この博物館は、意外と見所のある面白い博物館であった。 日本の鬼の交流博物館 大江山に棲んでいた鬼を中央政府から派遣…

鳥取県立博物館 その5

縄文時代、弥生時代、古墳時代の展示の見学を終えたが、次の飛鳥時代以降の展示品の中の遺物は、今後その遺物が出土した史跡を訪れた時に紹介することとしたい。 そうすると、ほとんどの遺物の紹介が今後のことになってしまう。 今まで紹介した史跡と関連す…

鳥取県立博物館 その4

山陰地方にヤマト国連合と異なる四隅突出型墳丘墓の文化圏を形成した出雲王国は、4世紀には大和王権の支配下に入ったようだ。 この時期には、四隅突出型墳丘墓に代わって、大和王権の支配のシンボルである前方後円墳が山陰地方で築かれ出した。 山陰に存在…