天石門別保布羅神社

 小森温泉から、岡山県倉敷市福田町広江にある天石門別保布羅(あまのいわとわけほふら)神社に向かった。

 この神社は、小森温泉からかなり南にある。前回の鷲羽山を訪れた備前の旅で行きそびれた神社である。

 先ずは同じく広江にある真言宗の寺院、持命院を訪れた。

持命院

持命院本堂

 持命院は、神仏習合の時代に天石門別保布羅神社を管理していた同神社の別当寺である。

 天石門別保布羅神社の創建は不詳なるも、貞観五年(863年)の「備前国神名帳」には既に記載があるという。

 天石門別保布羅神社は、往古は広江の矢の鼻という場所に祀られていたが、建久年間(1190~1199年)に、持命院の開山清長法印が霊夢を見て、現在地に勧請したという。

持命院本堂前の五鈷杵

 当時はこの地方に悪疫が流行していた。清長法印は、疫除けのために神社を勧請し、社名を天形星(てんぎょうせい)社と改め、八大龍神を祀ったという。

 今、天石門別保布羅神社が建つ場所は、磐座のある岩瀧山の南側にある。

 鷲羽山スカイライン岡山県道393号線)に北側から入って暫く走ると、左手に岩瀧山に入っていく細い一方通行の道が見えてくる。この道を進んでいくと、天石門別保布羅神社の鳥居に至る。これが神社の参道である。

天石門別保布羅神社の参道

 参道の入口付近には、古代から崇拝されてきたと思われる岩瀧山の磐座群がある。

参道入口の磐座

 参道を進んでいくと、右手に岩瀧山山腹の磐座群が見えてくる。

 この磐座群には、南無大師遍照金剛という弘法大師空海の御名号が書かれた小さな赤い旛が立てられている。

 そして磐座の奥には、弘法大師の石像が祀られている。

参道途中の磐座群

磐座の中の弘法大師の石像

 山上の巨石信仰は、日本の最も原初的な信仰形態だと思うが、弘法大師は日本の山岳信仰にも浸透している。

 日本仏教の各宗派の宗祖の中で、山林修行者だったのは空海のみである。弘法大師空海真言宗が、日本古来の山岳信仰に習合できたのは、空海が渡唐前の若かりし頃に、紀伊半島や四国の山々を歩いて修行したことの影響が大きいだろう。

 さて、参道を進んでいくと、天石門別保布羅神社の鳥居がある。

天石門別保布羅神社の鳥居

「天形星」と刻まれた扁額

 鳥居の扁額には、天形星という天石門別保布羅神社のかつての社名が刻まれている。

 清長法印が改名した天形星社は、明治3年に神仏分離令に基づいて、社名を往古の天石門別保布羅神社に戻された。

 現在の祭神は、天手力雄(あめのたぢからお)命だが、明治3年の社名変更と同時に、祭神も八大龍神から天手力雄命に変えられたのだろう。

天石門別保布羅神社

天石門別保布羅神社の拝殿、幣殿、本殿

 承久三年(1221年)の承久の乱鎌倉幕府に敗北した後鳥羽上皇の皇子、頼仁親王、覚仁親王は、幕府により備前児島の地に流された。

 備前に来た両親王は、岩瀧山と天形星社を殊の外尊崇し、度々登拝していたという。

 天石門別保布羅神社の拝殿の西側には、「釈塔様」と呼ばれる特異な形をした石塔を祀る石洞神社という摂社がある。

石洞神社

釈塔様

 釈塔様は、砂岩製で、高さ約2.2メートルの石塔である。大破した石を積み直して作られた二重の塔である。元は、もっと高い塔だったのではないか。

 釈塔様は、倉敷市重要文化財になっている。

 頼仁親王と覚仁親王は、父の後鳥羽上皇崩御した延応元年(1239年)に、上皇を追慕する法要を持命院で行い、天形星社の社前に供養塔を建て、積塔院と称した。

 明治3年に明治政府の神仏分離令により天形星社が天石門別保布羅神社に改称された際に、積塔院も石洞神社に改称された。

 本殿は、元禄十一年(1698年)に、岡山藩主池田綱政により修築されたものである。

本殿

 本殿から見つかった棟札により、修築の時期が判明した。岡山藩も、この神社を厚く敬ったようだ。

 本殿は、檜皮葺の一間社流造である。倉敷市重要文化財となっている。 

 さて、今回で私の備前の史跡巡りは完結した。

 私が備前の史跡巡りを始めたのは、令和元年9月11日からで、その日、播磨備前国境の三石からスタートした。

 指折り数えてみれば、あれから3年半の歳月が流れていた。

 「歴史散歩シリーズ」に載っている史跡を全て訪れるという旅を令和元年6月に始めて、これでようやく播磨と備前の2ヶ国を「征服」できた。

 備前を征服したことで、備中と讃岐への道が開けた。

 これからも無事に史跡巡りが出来ることを、釈塔様と天石門別保布羅神社の祭神に祈った。