陣屋町有城から少し西に行くと、笹無山という小さな丘がある。
この小さな丘は、佐々木盛綱に対して、平家が布陣する対岸に渡ることができる浅瀬の存在を教えた漁師の悲劇に関連がある。
藤戸海峡を挟んだ対岸に布陣する平氏方を攻めあぐねていた源氏方の盛綱は、浜辺で良策がないか思案していた。その時、藤戸の海を自分の庭のように熟知している漁師に出遇った。
盛綱は、漁師から対岸に渡ることが出来る浅瀬の存在を聞きだした。そして漁師に対して、同行して場所を教えてくれたら褒美を取らせると約束して同行させた。
漁師は、浅瀬に笹を目印として立てながら進んでいった。盛綱は、浅瀬の場所を知るや、先陣の功を独り占めするため、口封じに漁師を殺害し、海中に沈めた。
漁師の母親はそれを知って、「佐々木憎けりゃ笹まで憎い」と、この丘の笹を全て抜いてしまったという。
それからこの丘には笹が生えなくなったそうだ。
しかし、笹無山に近づいてみると、今は一面に笹が生い茂っている。何だか安心した。
笹無山の西側には、有城山(旧高坪山)という小山がある。佐々木盛綱ら源氏方は、この山麓に布陣していたという。
有城山の南東麓に、御崎神社という小さな神社がある。
藤戸合戦のころには、この神社のあたりまで海が迫っていた。
佐々木盛綱が藤戸海峡に乗り出したのは、この神社の南側からか、神社の西北方にある乗り出し岩からだと言われている。
御崎神社は、かつて御崎宮(おんぎぐう)と言って、高坪山山頂に祀られていた。祭神は大己貴命と吉備津彦命である。
佐々木盛綱がここに布陣した際、御崎宮に八幡神を合祀し戦勝を祈願した。そのせいか盛綱は合戦で功績を上げることが出来た。盛綱は合戦後に児島の領主になってから、この地に広壮な社殿を建てて御崎宮を遷座させたという。
御崎神社から約500メートル西に行くと、佐々木盛綱が藤戸海峡に乗り入れたという乗り出し岩がある。
この岩の辺りまで、当時は海だったのだろう。盛綱は、この岩上から乗馬して海に乗り入れていったわけだ。
乗り出し岩の上には、「佐々木盛綱鎮魂」と刻まれた石柱が建っている。
岩上から、平氏がかつて布陣したあたりを眺めると、結構距離がある。
上の写真の奥に山々が見えるが、平氏が布陣していたのは、あの山々の山麓である。
この乗り出し岩からは、浅瀬とは言え、海の中をかなり進まなければならなかった筈だ。
たった一騎でここから海中に乗り入れた佐々木盛綱の勇気は相当なものである。
この藤戸合戦で敗れた平氏は、次の屋島の合戦でも敗れ、壇ノ浦の戦いで滅亡した。藤戸合戦から僅か3か月後である。
1人の人間の智謀と勇気が、歴史の扉を開けることがあるのだ。