鷗外の五十回忌の年に当たる昭和46年(1971年)に、岩波書店は、第三次「鷗外全集」の刊行を発表する。
第三次「鷗外全集」は、昭和46年(1971年)11月から昭和50年(1975年)6月まで刊行された。全38巻。
岩波書店が刊行した最後の「鷗外全集」である。 日本各地の図書館に置いてある「鷗外全集」は、ほとんどがこの第三次全集である。
昭和61年(1986年)に第三次「鷗外全集」の第二刷が刊行されたが、書簡と雑纂に追加があっただけで、内容に大きな変動はない。

私が平成20年11月に購入したのは、この第二刷である。
この第三次全集の特色は、全体を「小説・戯曲・史伝」「詩歌」「考証」「審美論」「評論・随筆」「海外文芸評論」「海外通信」「医事」「日記」「書簡」「雑纂」に分類し、それぞれの分類の中で、創作、翻訳の別なく編年体で著作を並べたことである。
鷗外の翻訳が、創作と同じ価値を有するということを、岩波書店も認めたのだろう。
鷗外の著作の大半は、既に第二次全集で網羅されていた。第三次全集では、その後新たに発見された医事論文や書簡が収められた。

鷗外のテキストで、旧漢字歴史的仮名遣いで出版されたのは、この第三次「鷗外全集」が最後である。
岩波書店はこの後、「鷗外選集」「鷗外歴史文学集」「鷗外近代小説集」という選集を刊行した。これらのテキストでは、歴史的仮名遣いは墨守されたものの、漢字は新漢字に直された。
鷗外を読む場合、やはり旧漢字歴史的仮名遣いのテキストで読まなければならない気がする。

私が、注釈付きではるかに読みやすい鷗外の文庫本や選集を入手しても、全集で鷗外を読みたくなるのは、旧漢字の持つ雰囲気のためである。
今後、第四次「鷗外全集」が発刊されることはないだろうと諦めているが、もし発刊されたとしても、新漢字のテキストになるだろう。
既に「漱石全集」も「谷崎潤一郎全集」も「三島由紀夫全集」も、新しいものは、新漢字歴史的仮名遣いのテキストになっている。「鷗外全集」と言えども、時代の流れに逆らうことは出来ないだろう。
第三次全集の月報を読むと、石川淳や小堀桂一郎氏が記事を連載している。

石川淳は、少年時代に鷗外に傾倒して小説家を志した。彼が戦中の昭和16年(1941年)に発表した鷗外論「森鷗外」は、鷗外の史伝評価に新機軸を打ち出した名著である。
私が今まで読んだ鷗外論の中でも、石川淳のものが一番良かったと思っている。

長いので引用しないが、当時旧制中学の学生だった石川淳が、大正4年(1915年)の年末に、市電(当時東京市内を走っていた路面電車)の中で、軍服を着て出勤中の鷗外が座席に座りながら本を読んでいるのをたまたま見かけて、ひたすらその横顔に見とれたという記述が印象深かった。
これほど人間離れした学識の持ち主が、電車に座って通勤する普通の人間としてこの世に存在していたというのが、不思議である。
小堀桂一郎氏は、昭和43年(1968年)に「若き日の森鷗外」を発表した、当時新進気鋭の鷗外論者であった。
さて、昭和53年(1978年)11月から昭和55年(1980年)7月までの間には、石川淳の編集で、岩波書店から「鷗外選集」全21巻が刊行された。各巻解説は小堀桂一郎氏である。


石川淳が選んだ鷗外の著作が、新書サイズの手軽な叢書として出た形だ。
菊版の全集を読むのは骨が折れるし、屋外に持って出るには嵩張る。私も、外出するときに、今日は外出先で暇を潰す必要があるなと思うときは、この「鷗外選集」を携帯して出ることにしている。
スマートフォンを触るより遥かに濃密な時間を過ごすことが出来る。
選集には、史伝を含む鷗外の創作のほぼ全部と、代表的な翻訳小説と翻訳戯曲、評論・随筆、日記が収められている。
「即興詩人」と「ファウスト」は入っていないが、まずまずファンを満足させるチョイスである。
編者の石川淳は、内容見本に「編者のことば」として、
各冊これを取れば手中に軽く、読者日常に携へて親しむによく、また案上(案とは机のこと)に備へて学ぶによし。けだし講究に資するところあつて普及に便なるものなり。天下の一楽永く尽きざらんとす。
と、昭和53年にしては時代錯誤な言い回しで文を綴っている。戦前戦中戦後と、時代に囚われずに自分の書きたいものを書いた石川淳の面目躍如たるものがある。
この「鷗外選集」は、確かに鷗外をいついかなる場所でも読めるという「天下の一楽」を味わわせてくれる。

岩波書店は、「鷗外選集」と同時期に、新書版の「漱石全集」刊行した。
内容見本の裏には、「鷗外・漱石を若い人へ!」と書いている。新書版の安価な選集や全集なら、若者も読みやすいだろうという期待が込められているようだが、この言葉自体に今との時代差を感じる。
昭和時代の大学生などの若者の間には、面白くなくとも、明治大正期の小説を一応「教養」として読んでおかなければならないという、一種の強迫観念がまだ残っていたと思われる。読んでいないと同級生から馬鹿にされる、ということもあったと思われる。
ところが現代の若者には、文学作品を読むという選択肢が、そもそもないのではないか。
現代の若者には、コスパ、タイパで物事を判断する者が多い。時間をかけて文学作品を読んでも、友人に自慢するようなステイタスにもならないし、周囲からは、文学好きはむしろ暗くてオタクという判断を下される。
それは時代の変化だから仕方がない。
文学作品を読むことは、別に人に自慢すべきことでもないし、読んだからと言ってその人の価値が上がるものでもない。あくまで自分の趣味心を満たすために読むものであって、感動するところがあれば人と語り合えばよいだけのものである。
あくまで一個人の意見として書かせてもらうと、他の文学者の作品はいざ知らず、鷗外の書いたものを読むという「天下の一楽」を深く味わえば、人生が今までと違ったものになることは間違いないのである。