最上稲荷の巨大な鳥居を潜って、岡山県道241号線を北上する。
右手にある岡山市北区平山の集落の中に、小高い丘陵がある。
この丘陵上に、全長約150メートルという大きな前方後円墳がある。岡山県指定史跡の佐古田堂山(さこだどうやま)古墳である。
この古墳は、後円部が南東側に、前方部が北西側にある。上の写真右側の林が茂っているところが、後円部である。
この古墳に登るなら、北西側からである。
古墳の北側に、農業の研究施設がある。写真の門扉は、その研究施設の門扉である。
門扉は閉まっているが、門扉の脇から古墳に上がって行くことが出来る。
さて、上がって行くと、三段になった前方部が見えてくる。
坂古田堂山古墳は、5世紀の古墳と言われている。5世紀に築かれた三段の古墳が今に残っていたのなら、大したものである。
グーグルマップで見てみると、上空から見ても古墳全体が三段になっているように見える。
三段とも古墳であるとしたら、かなり規模が大きな古墳である。
最上段の前方部だけでも、規模は大きい。
最上段の前方部に上がると、綺麗に整備されている。前方部の原型を確認することが出来るが、後円部は林に覆われ、形が見えない。
藪に遮られているので、前方部から真っ直ぐ後円部に登ることは出来ない。
後円部のはたから振り返ると、前方部がなかなか広いことが分かる。
さて、後円部に登る道はないものか探してみると、後円部西側に、林がまばらになっている箇所があったので、そこから入っていった。
それでも、ある程度藪をかき分けねばならない。しばらく行くと、後円部の墳頂が見えてきた。
墳頂は、意外と木がまばらで、枯葉に覆われた広い空間があった。
後円部からは、木々の間から前方部を見下ろすことが出来た。
吉備地方には、5世紀に巨大な前方後円墳が続々と築かれた。この佐古田堂山古墳も、その一つである。
佐古田堂山古墳は、自然の丘陵を利用して造られたとはいえ、なかなか立派な古墳である。
当時の吉備地方は、大和王権と関係が深く、経済力も強大だったのだろう。当時は、大和が圧倒的な力で全国を支配していた訳ではなかろう。
この古墳を眺めながら、まだ中央集権が進んでいなかった時代の大和と吉備の緊張した関係を想像してみた。