造山古墳

 守福寺宝殿の見学を終えて南下し、岡山市北区新庄下にある巨大前方後円墳、造山古墳を訪れた。

造山古墳の後円部(北東から南西に向け撮影)

後円部(南から北に向け撮影)

 造山古墳は、全国4位の大きさを誇る古墳である。

 1位は全長約486メートルの仁徳天皇陵、2位は全長約425メートルの応神天皇陵、3位は全長約365メートルの履中天皇陵である。

 4位の造山古墳は、全長約350メートルである。

造山古墳の全景(南から北に向け撮影、右が後円部)

造山古墳の全景(西から東に向け撮影)

 トップ3の古墳は、いずれも天皇陵として宮内庁が管理している。管理は厳重で、陵墓に立ち入ることは出来ない。

 ところが造山古墳は、天皇陵ではないため、誰でも古墳に登って見学することが出来る。

 造山古墳の全長は、エジプトのクフ王のピラミッドより大きく、秦の始皇帝陵とほぼ同じ大きさであるという。

 造山古墳は、「足で踏むことが出来る世界最大のお墓」なのである。

造山古墳の資料館

 造山古墳の南東側に駐車場があり、そこに資料館があるが、資料館は午後3時に閉館となる。私が訪れた時は既に閉館していた。

 造山古墳は、この駐車場のある南東側から登ることが出来る。

 下の鳥瞰図の写真を見たら分かるが、古墳は三段に築盛されている。

 ただし、古墳の南東側は、1段目、2段目が削られ、住宅地になっている。

造山古墳の鳥瞰図

 造山古墳が築造されたのは、5世紀初頭とされている。丁度仁徳天皇の時代である。

 葦守八幡宮の記事で紹介したように、この辺りは、応神天皇の妃であった兄媛(えひめ)命の出身地で、応神天皇が兄媛命の兄・御友別(みともわけ)命やその子らに領地を与えた場所である。

 被葬者は分からないが、恐らく応神天皇の厚遇を受けた御友別命の一族が築いた古墳であろう。

前方部(南西から北東に向け撮影)

前方部の南西端

 古墳は三段に築かれ、かつては葺石で覆われていた。各段の上には、円筒埴輪が巡らされていた。

 古墳からは、楯、靭(ゆき)、蓋(きぬがさ)、家の形を模した形象埴輪が見つかっている。

 後円部には、埋葬施設があるようだが、まだ発掘は行われていない。

 吉備全体を統括した首長級の人物が葬られていることだろう。

後円部を南から北に望む

古墳のくびれ部分

前方部に登る道

 古墳に登ると、この古墳の尋常ならざる巨大さが実感出来る。

 全てを人工的に築いたのではなく、元々あった丘陵を削ったり盛り土をしたりして築いたのだろう。

前方部から後円部を望む

前方部中央から後円部を望む

後円部

 造山古墳の前方部からは、阿蘇山の溶岩から出来た石棺が発見されており、後円部からは讃岐の安山岩で出来た板石が発掘されている。

 当時の吉備が、九州や四国にも影響を及ぼしていたことがこれで分かる。

後円部の空撮写真

後円部の墳頂

 空撮写真で見ると、後円部の墳頂はそれほど広く見えないが、実際に登ってみると、実に広大である。

 眼下の住宅が小さく見える。

眼下の住宅

 また、古墳から東側を望めば、高松地区まで平野が続いているのが眺められる。遠く最上稲荷の赤鳥居が見える。

古墳から高松地区を望む

 後円部から前方部を見ると、前方部の先端部分は木々に覆われている。この中に、荒神社という小さな祠がある。

後円部から前方部を望む

 再び古墳中央の鞍部に降りて、前方部の先端に近づいていく。

鞍部から前方部に近づく

前方部の先端部

前方部の先端から振り返った後円部

 前方部の南西端には、荒神社という小さな祠がある。

 この境内に、阿蘇溶結凝灰岩製の石棺が置いてあったのだが、見学時には気が付かなかった。

荒神

 上の写真の鳥居の左側に、屋根に覆われた石棺が写り込んでいる。この石棺が、造山古墳から発掘されたものなのか、別の古墳から発掘されたものがここに置かれたのか、今では分からないらしい。

荒神

荒神社本殿

 造山古墳は、近くにある6基の陪塚と共に、国指定史跡となっている。

北西側から見た後円部

北西側から見た前方部

 古墳は土で出来た人工の建造物である。これ程大きな建造物を見ると、その規模に圧倒される。

 造山古墳は、自由に立ち入って見学できる古墳としては日本最大である。この古墳は、もっと注目されてもいいと思う。

 これほどの規模の古墳を築こうと思ったら、延べ10万人以上の人員が、数か月以上の労働をしなければならなかっただろう。

 労働者に与える食事の量も膨大であっただろう。

 造山古墳は、それ自体の大きさから、当時の日本の国力に思いを馳せることが出来る場所である。

 古代の我が国の偉大さを実感することが出来る場所である。