阿保親王塚古墳の南側、翠ヶ丘台地の先端部に当たる芦屋市打出小槌町からは、打出小槌遺跡が発掘された。

打出小槌遺跡からは、約2万年前の石器である、国府(こう)型ナイフ形石器が発掘された。
芦屋市内で最古の出土品である。

打出小槌遺跡から発掘された出土品は、芦屋市立美術博物館にて展示されている。
また、打出小槌遺跡からは、5世紀末の人物埴輪なども見つかっている。

芦屋には、古くから長い時間、人々が住み着いていたようだ。
打出小槌町の東にある芦屋市春日町には、5世紀後半に築造された帆立貝型前方後円墳の金津山古墳がある。

金津山古墳は、住宅街の真ん中にあって、周囲をフェンスに囲まれており、一般人は立ち入ることが出来ない。


元々の墳丘は、全長が約55メートルあったが、鎌倉時代から室町時代にかけての耕作地開発により、前方部が削られ、直径42メートルの後円部のみが円墳のように残された。
古墳の北側に回ると、フェンスの向こうに、古墳の一部が露になっている。見ると人工的に硬く突き固められた土の層のようである。

土で出来た古墳も立派な古代の建造物なのである。
金津山古墳には、阿保親王が打出村の農民のために黄金一千枚と金の瓦一万枚を埋めたという伝説がある。
金津山古墳は既に発掘されているが、そのようなものは埋まっていなかった。だが、 古墳からは、鶏型埴輪や円筒埴輪が発掘された。


金津山古墳は、完成時は阪神間最大規模の古墳だった。
阪神間の古墳は、奈良盆地、大阪平野、吉備地方のものと比べれば、小規模である。古墳時代の阪神地域は、まだ後進地帯だったのだろう。
金津山古墳から北に行った芦屋市朝日ヶ丘町にある朝日ヶ丘地区集会所の辺りは、縄文時代前期の遺跡である朝日ヶ丘遺跡が発掘された場所である。


この遺跡からは、縄文時代前期の土器の破片、石鏃、住居跡などが発掘された。
標高100~200メートルのこの辺りには、縄文時代には高地性集落があった。
朝日ヶ丘地区集会所の裏には、芦屋市遺跡触覚模型がある。

300分の1サイズで、芦屋市の地形図を立体的に再現した模型である。

模型の上を実際に歩いて、芦屋の地形を直に感じることが出来る。
この模型を見て思うのは、神戸市から芦屋市にかけての、六甲山の南側の町は、斜面の上に出来ているということである。
六甲山から流れる川が運んできた土砂で出来た斜面の上に、町が乗っている。
そう考えると、人間の営みは、危うげで儚いものである。

朝日ヶ丘遺跡のあるこの辺りは、山の中腹である。恐らく縄文時代は、今よりも海面が高くて、この付近まで海が迫っていたことだろう。
模型の山芦屋遺跡の辺りを見ると、川に挟まれた山上に遺跡や古墳が点在しているのが分かる。

人が川水の近くに集落を作っていたのが分かる。水がなければ人は生きていけない。
朝日ヶ丘町から東に行くと、関西随一と言っていい高級住宅街、芦屋市六麓荘町がある。

建っている家のほとんどは、社長邸宅かと思われるような広壮な住宅ばかりである。
六麓荘町は、六麓荘開発株式会社が、昭和初期に開発した宅地で、昭和6年に竣工した。
香港の外国人専用住宅地をモデルにして、東洋一の住宅地を目指して開発された。
道幅は6メートル以上、一区画の面積は、300~400坪以上で、下水道、都市ガスを完備し、電柱は地下に埋設した。
昭和初期からすれば、時代の先端を行く住宅地である。
確かに町の景観は日本離れしている気がする。
縄文時代の住宅址と、現代の高級住宅街が隣り合わせなのも、面白いと感じた。