稲粒神社の参拝を終えて府道74号線を東に走り、途中三叉路を北に上がって、福知山市報恩寺(ほおじ)の集落に入る。
報恩寺集落の中には、旧福知山市立佐賀小学校がある。校庭跡の北側の山麓に、奉安塚古墳群がある。
奉安塚古墳群の中で唯一現存する高龍塚古墳は、古墳時代の後期に築造されたと見られる円墳である。
古墳の大きさは、直径25メートル、高さ5.5メートルで、福知山市内で五指に入る大きさだ。
墳丘の形もほぼ残っており、状態がいい。
南側に横穴式石室の入口が開口している。
開口部が少し狭いので、腹ばいに近い姿で石室内に入った。
石室はそれほど広くはないが、石積みが崩れずに残っている。
高龍塚古墳の石室内からは、遺物は見つかっておらず、被葬者についてはよく分かっていない。
石室から外に出て、再び古墳を眺めると、綺麗な円錐形の古墳であった。
さて、高龍塚古墳の北東約50メートルには、今は現存しないが、かつて奉安塚古墳があった。
今は説明板が立っているのみである。
小学校の建設工事中により、墳丘の大半は削平されたようだ。
昭和24年に、福知山高校の生徒が、南に開口部のある奥行き4.2メートル、幅1.75メートルの、天井石の失われた横穴式石室を発見した。
石室からは、鏡、勾玉、鉄刀、鉄工具類、馬具類、須恵器等、100点以上の遺物が発掘された。
特に鉄地金銅張のきらびやかな馬具類は完存に近い状態で発掘された。遺物の内容から、6世紀後半に築造された古墳と見られている。
今はその石室も残っていない。
出土品の大部分は、福知山市土師にある京都府立福知山高校郷土資料室に保管されている。
予約すれば見学できるようだが、私が訪れた日は休校日だったので、見学は諦めた。
奉安塚古墳群の被葬者は、6~7世紀の由良川右岸の有力者だろう。
さて、奉安塚古墳群から南下して由良川を渡り、福知山市戸田にある浦嶋神社に赴いた。
浦嶋神社は、由良川南岸の堤防のすぐ南側に鎮座している。別名水神神社ともいう。
浦嶋神社は、応仁年間(1467~1469年)に創建された。
昔、この戸田の地にあった沼のほとりの大木の枝に、誰も灯さないのに夜な夜な灯がともった。
村人が驚き騒いでいると、そこに川北集落の福寿院という山伏がやってきて、「浦嶋さんが私の夢枕に立って、私に『戸田村の沼から竜宮城の大沼まで白い岩が通っている。こちらのどんなことでも、白い岩を通して竜宮城の乙女様に知られる。願い事は何でも叶えられる。特に天候に関する願い事は。』と告げた。私が沼に触れると、たちまち雨が降った。浦嶋さんをここに祀って、沼のお守りをしてもらったらどうだろう」と言った。
浦嶋さんとは、言うまでもなく説話の浦嶋太郎のことだろう。
浦嶋太郎の物語は、中世の「御伽草子」に出てくるが、古代の「日本書紀」「万葉集」「丹後国風土記」にも浦嶋子として似たような伝説が書かれている。
浦嶋子の伝説は、丹後地方に伝わった伝説であるが、丹後と地理的に近い丹波福知山の沼が、竜宮城につながっているというのも、面白い話である。
さて、こうして沼の傍に浦嶋大明神が祀られた。沼は地元の人々から「お沼(おぬう)」と呼ばれて敬われた。
お沼は、浦嶋神社北側の境内薮林地にあり、応仁以来、人々は大切に守ってきた。
そして、日照りがあるとお沼に触って神様に雨を降らせてもらった。
戸田の集落は、昔から由良川の氾濫に悩まされてきた。平成に入って、浦嶋神社北側のお沼のある場所に新堤防が建設されることになった。
一時はお沼の消滅も危惧されたが、平成13年から地元と行政がお沼の存続を巡って協議し、平成14年にお沼が移築保存されることに決まった。
平成19年に、お沼は元の場所から8メートル南の、元の沼と同じ水脈上に移築復元された。
甲羅型に組まれた石垣や周囲の玉垣などの石材は、元のものをそのまま移築した。
しかし沼というものは、人に畏怖に近いものを感じさせる。
それにしても、この現代に、浦嶋太郎に出てくる竜宮城とつながる沼があるというのは、なかなかロマンティックな話である。
浦嶋神社の境内には、明治時代の狛犬を埋めた上に建つ石碑があった。
明治26年11月に奉納された狛犬が、この石碑の下に埋められているらしい。いわば狛犬の墓だ。私は狛犬の墓というものを初めて見た。
境内には、見事なイチョウがあった。緑の葉の端が黄に変色しつつあった。
それにしても、浦嶋神社のお沼は、不思議な力を感じる場所である。
昔の人が、水脈というものに神秘を感じていたというのは、故なきことではあるまい。