吉備津神社の名物は、本殿だけではない。長い回廊も名物の一つである。
本殿南側から回廊は始まり、間に南随神門を挟んで、境内南端の本宮社まで回廊は続いている。
私が子供のころ、何のCMだったか忘れたが、吉備津神社の回廊を撮影したものがあった。
私は20代前半に初めて吉備津神社を参拝したが、その時に回廊を見て、すぐにCMで見た光景だと思い出した。
今となっては、ネットで調べてもそのCMのことは分からない。
南随神門は、北随神門と並んで国指定重要文化財である。
北随神門が檜皮葺だったのに対して、南随神門は瓦葺である。
本殿と南随神門の間にも回廊はあるが、南随神門の南側から本格的な回廊がスタートする。
回廊は、本殿、南随神門と、御竈殿、御供殿、本宮社といった吉備津神社の主要な建物を結んでいる。
総延長は約400メートルである。
天正年間(1573~1591年)には今のような形になっていたようだ。
回廊を歩くと、どこまでも延々と続いているような印象である。
何のためにこの回廊が出来たのかを考えると、雨の日に、人間だけでなく、お供え物を濡らさずに移動させるためということに尽きるであろう。
そうなると、この回廊に最も似合う天候は雨である。
そういえば、かつて見たCMでも雨が降っていたような記憶がある。
さて、この回廊の東側に、回廊と並行するように様々な末社が建っている。
一番北にある末社が、一童社である。
一童社は、知恵と学問の神様で、一願を成就する神様であるという。
私は史跡巡りの無事を願った。
一童社の北側には、大きなイチョウの木が立っている。
夏にイチョウを見ると、涼しい気分になる。イチョウが水分を多く含んでいるからだろうか。葉の緑が涼しい気持ちにさせてくれる。
真夏のイチョウはいい。
一童社を南に進むと、如法経塔という石の塔がある。
吉備津神社は、江戸時代中期の享保年間に神仏分離を行ったが、それまでは神仏習合のお宮であった。
この如法経塔は、吉備津神社が神仏習合していたころの室町時代の作で、当時は中に仏教のお経が納められていた。
明治時代に日本中で神仏分離が進められたが、吉備津神社は江戸時代には既に神仏分離が始まっていた。
伊勢神宮もそうだが、大きな神社では比較的早い時期から神仏分離が始まっている。
如法経塔のある塚は、下から見ると横穴石室のある古墳であった。
古代から信仰されてきた山には、古墳が築かれていることが多い。吉備の中山も信仰された山であった。
さて、如法経塔の周囲はあじさい園になっていた。
私がここを訪れたのは、7月15日で、あじさいのシーズンを少し過ぎていたが、それでもまだ美しい花を咲かせていた。
如法経塔を過ぎて南に行くと、吉備津えびす宮がある。
吉備津神社のえびす宮は、江戸時代には地域で有名なえびすさんで、殷賑を極めたという。
明治期に吉備津神社が官幣社に列するに及んで、庶民信仰に近いえびすさんは社殿の奥深くに蔵され、祭祀を絶やされることになった。
大日本帝国時代の社格制度では、著名な神社は国から官幣社、国幣社に指定され、それぞれ大中小社が定められた。
官幣社は、皇室財産から幣帛料の供進を受けた神社で、国幣社は、国庫から幣帛料の供進を受けた神社である。
大日本帝国時代には、神道は国教であったため、国が幣帛料(お供え物)を出したのである。
官幣中社になった吉備津神社は、えびす宮のような庶民的な神様を祀るのは相応しくないという判断をしたのだろうか。
だが信仰篤き人々のえびす宮再興の願いは強く、戦後になって復興した。
庶民が継続を願う信仰こそ、本当の信仰であるように思う。