吉備津神社の裏から吉備の中山に上っていく自動車道が始まっている。
その道を使って吉備の中山を上がっていくと、岡山県の遺跡から発掘された文化財を収蔵展示する岡山県古代吉備文化財センターがある。
ここの駐車場に車をとめ、自動車道を少し西に歩くと、右手に中山茶臼山古墳へと続く石段がある。
ここを登っていくと、大吉備津彦命の陵墓として宮内庁が管理する中山茶臼山古墳に至る。
宮内庁管理の陵墓のため、中山茶臼山古墳への立ち入りは禁止されている。
中山茶臼山古墳は、4世紀に築造された前方後円墳で、全長約140メートルである。
記紀の大吉備津彦命に関する伝承からすれば、命は第10代崇神天皇の御代に薨去していることになる。
崇神天皇の御代は、古墳時代が始まった3世紀半ばから後半に比定されている。
記紀の内容からすれば、この古墳を大吉備津彦命の陵墓とするには無理がありそうだ。
さて、中山茶臼山古墳から古代吉備文化財センターに戻る。ここは入館無料で土日祝日も開館している。
「広がるムラとその景観」という企画展が開催中であった。
館内には、旧石器時代から縄文時代、弥生時代、古墳時代を中心に、室町時代までの出土品が展示されている。
標高約530メートルの吉備高原にある新見市野原遺跡群からは、約2万年前に降り積もった火山灰層の上下から、槍先や刃物として使われたナイフ形石器や、樹木を伐採する石斧、石器をつくるハンマーなどの石器が見つかった。
約2万年前の日本には、ナウマンゾウなどの大型獣が闊歩していた。
まだ最後の氷河期の最中であり、気候も現在の日本と全く異なっていた。
約1万数千年前に氷河期が終わり、大型獣は絶滅した。
人々は、大型獣の代わりに鳥や中・小型獣を捕えるため、弓矢を開発した。
勝央町大河内遺跡からは、弓矢の鏃に使った尖頭器が出土した。岡山県内で最も古い鏃と言われているそうだ。
旧石器時代の日本人は、石器を使って獣を捕え、火で炙って食べていた。
縄文時代になって、土器が登場した。
土器の登場で、煮炊きが出来るようになり、食材も豊富になった。
柔らかい食べ物を食べられるようになり、人の寿命も延びた。
煮炊き用の深鉢や、調理・盛付用の浅鉢が作られた。
縄文時代は、1万年以上続いた。その間に、土器の様々な装飾手法が発達した。
縄文土器は、焼く前の粘土に縄を押し当てて模様を描いた。縄文時代は、1万年以上続き、縄文文化は、北は北海道から南は沖縄まで、今の我が国の領土とほぼ同じ範囲に広がっていた。
この時間と空間の広がりの中で、縄文文化から生み出された様式は、驚くべき様式的統一を保っている。
鹿角製の指輪や腰飾りも作られたようだ。縄文時代には、既に人はお洒落をすることを知っていた。
紀元前400年ころ、大陸から稲作が北九州に伝わり、瞬く間に日本列島に広がっていった。
吉備地方にも稲作が伝わり、半田山の南麓の津島遺跡では、川岸の低い土地に畔で小さく区切った水田が作られた。
その後、土砂の堆積が進んだ操山北麓の百間川遺跡周辺には、数キロメートルに渡り水田が続く風景が形成された。
また、収穫された米を保管したり調理するための土器や、稲穂を刈り取る石包丁、木製の鍬などの道具が作られた。
米は、面積当たりのカロリーが最も豊富な穀物である。
日本の狭い国土に、これだけの人口を維持出来たのは、米作のおかげであろう。
米の収穫は、天候に左右される。自然と人々は、自然に豊作を祈願するための祭具を作り、宗教的祭祀を行うようになった。
銅鐸も、祭具の一種とされている。岡山市高塚遺跡からは、流水文銅鐸が出土した。
ムラの人口を維持する以上の米を収穫できるようになると、米作に従事しない人も生活できるようになる。ここに農業以外の職業が誕生する。
また米は、貯蔵することが出来る。1年中食料を生産しなくても生活できるようになってくる。
収穫を生む土地が財産になり、人々は土地を争うようになる。土地を守るために近隣のムラが連合してクニが出来る。
弥生時代には、クニ同士が争い、合従連衡が繰り広げられたことだろう。
「魏志倭人伝」によれば、こうしたクニ同士の争いに終止符を打つため、倭国の女王として卑弥呼が共立されたという。
統一国家の誕生は、争いのない生活を皆が望んだ結果だろう。