王墓山古墳 日畑廃寺跡 日幡城跡

 犬養木堂記念館の見学を終え、足守川を越えて西に行き、岡山県倉敷市庄新町にある王墓山古墳を訪れた。

 王墓山古墳への道は、庄新町公民館の南東側に並ぶ民家の間にある。

王墓山古墳への道

 この道を入っていくと、行く手に6世紀後半に築造された王墓山古墳が見えてくる。  

 王墓山古墳は、岡山県指定史跡である。

王墓山古墳

 開墾や宅地造成のために、古墳の旧状が失われているが、かつては方墳か円墳であったと言われている。

 現在は、直径約20メートルの墳丘が残っている。

 内部主体には横穴式石室を有していたそうだが、明治末年に石材として取り出されて今は残っていない。

墳丘上の状況

 その際、家形石棺と共に、四仏四獣鏡、金銅製馬具、装身具類、須恵器などの大量の副葬品が持ち出された。

 副葬品は、現在東京国立博物館に収蔵されているが、家形石棺は、王墓山古墳の傍に置かれている。

家形石棺

 この家形石棺は、7枚の石を組み合わせたもので、石材には岡山県井原市浪形に産する貝殻石灰岩が用いられている。

 同種の石棺は、岡山県総社市のこうもり塚古墳など数例しかなく、いずれも有力者を葬ったとされる古墳である。

 副葬品の豊富さからしても、王墓山古墳は、この地方の有力な人物を埋葬した古墳であると思われる。

 王墓山古墳の東側には、斜面を降りていく急坂がある。この先に、白鳳時代の廃寺跡の日畑廃寺跡がある

日畑廃寺への道

 大化二年(646年)に孝徳天皇が出した薄葬令により、大規模な墳丘の築造が禁止され、古墳時代は終焉を迎えた。

 古墳の築造の終焉と同時期に始まったのが、寺院の造営であった。

 今までの史跡巡りで、6~7世紀の古墳と白鳳時代(7世紀後半)の廃寺跡が隣り合って存在する場所を数々訪れてきたが、この王墓山古墳と日畑廃寺も隣り合って存在している。

赤井西古墳群3号墳の石室

 日畑廃寺の周囲には、王墓山古墳だけでなく、赤井西古墳群という6世紀後半に築造された小規模な古墳群がある。

 その古墳群の中に日畑廃寺跡がある。

日畑廃寺跡

 日畑廃寺跡の伽藍配置がどうなっていたかは、分かっていない。今は広々とした草原が広がるばかりである。

 花崗岩製の礎石が一部見つかったが、おそらく王墓山を背にして東面する伽藍配置だったのだろうと推測されている。

 この場所は、古くからなぜか赤井堂屋敷という地名で呼ばれている。

日畑廃寺跡

 日畑廃寺跡からは、単弁蓮華文軒丸瓦や、吉備式と呼ばれる華麗な重弁蓮華文軒丸瓦の2種類の瓦が出土している。

 古墳は古代豪族の墓であると同時に、被葬者を祀る宗教的祭儀の場であった。前方後円墳の前方部は、その祭儀を行う場所であった。

 古墳の築造を禁止された地方の豪族は、古墳に代わる新たな祭儀の場として、大陸から渡ってきた仏教寺院を建造し始めたのだと思われる。

 古墳と埴輪の時代から、寺院と瓦の時代になったのである。王墓山古墳と日畑廃寺跡が隣り合うこの場所も、古墳から寺院へと時代が移った痕跡を残している。

 日畑廃寺跡から北東に行った足守川沿いに、戦国時代の備中境目七城の一つ、日幡城跡がある。

日幡城跡

 日幡城は、備中高松城の南約4キロメートルに位置し、毛利方の武将上原元将(かんばらもとまさ)が守備していたが、天正十年(1582年)の秀吉の備中高松城攻めに際し落城した。  

 日幡城跡は、今は竹やぶに覆われている。城跡の東側に民家と小さな工場があり、その前に日幡城跡と刻んだ石碑が建っている。

日畑城跡の碑

 この工場の北側に、日幡城跡と刻んだもう一つの小さな石柱が建っている。

日畑城跡と刻んだ石柱

 この石柱の向こう側の草むらを進んでいくと、上が削平されて曲輪となった日幡城跡の切岸が見えてくる。

日幡城跡の切岸

 この切岸が、結構急である。切岸に生える木や竹に掴まりながら登って行った。

 曲輪上に上がると、竹に覆われてはいるが、平らな削平地が広がっていることに感動した。

曲輪

 日幡城は、秀吉の攻撃により、天正十年(1582年)五月に落城した。本能寺の変がその年の六月のことだから、秀吉が本能寺の変の直前まで着々と備中高松城の攻囲を進めていたことが分かる。
 古墳と廃寺と城跡巡りは、史跡巡りの醍醐味の一つである。

 狭い地域にこの三つが隣り合うこの地は、古墳時代から戦国時代まで、重要な場所であったものと思われる。