天野神社 西山北古墳

 10月1日に淡路の史跡巡りを行った。

 今年4月19、20日の記事で、南あわじ市八木馬回にある真言宗の寺院、擁護山成相寺を紹介した。

 成相寺を訪れた時、境内に隣接して存在する天野神社に気づかずに参拝せずに終わった。

 今回、成相寺を再訪し、その時行きそびれた天野神社に参拝した。

天野神社への参道

 仁治四年(1243年)に、根来寺との争いで淡路に流された高野山悉地院の実弘上人は、高野山に模してこの地に成相寺を建立した際、紀伊半島にある天野、熊野、金峯の三社明神を寺の東側に勧請して鎮守とした。

 江戸時代までは、天野神社は三社大明神と呼ばれていた。

拝殿

三社大明神の扁額

 三社のうち、天野神社の祭神は丹生都比売(にうつひめ)大神である。この神様は、水の神様で、紀州では高野山の麓に祀られている。

 右の脇宮は熊野神社で、祭神は家都御子(けつみこ)大神である。熊野本宮大社の祭神であり、須佐之男命と同一神とも言われている。

 左の脇宮は金峯神社で、祭神は金山毘古大神である。吉野の金峯山に祀られている神様を勧請したものである。

三社大明神

 拝殿の背後には、三つの社が並んで祀られている。中央が天野神社、向かって右が熊野神社、向かって左が金峯神社であろう。

天野神社

天野神社の彫刻

 また境内には、若宮と呼ばれる八幡社がある。八幡社を合わせて、四社大明神とも呼ばれていた。

八幡社

 私は八幡社の社前に立って、南無阿弥陀仏の名号を唱えた。「一遍上人語録」を読むようになってから、一遍上人と時衆のように、阿弥陀如来本地仏とする八幡神社熊野神社の前では名号を唱えるようになった。

 名号は決して死者に向けて唱える呪文ではない。生者が生きたまま仏の世界と合一するための回路のようなものである。

 私も最近名号を唱えだして、周囲の世界への見方が変わった。この感覚ばかりは口で説明することが出来ない。名号は不思議なり、である。

天野神社の狛犬

 さて、成相寺から南下し、南あわじ市長原から発掘された長原遺跡の周辺に行ってみた。

長原遺跡周辺

 また長原から北西に行った南あわじ市賀集野田の楠谷遺跡が発掘された辺りに行った。

楠谷遺跡周辺

 長原遺跡も楠谷遺跡も、縄文時代草創期の遺跡である。どちらの遺跡からも有舌尖頭器が発掘されている。

 淡路は、西日本でもかなり古くから人が住んでいた島であった。

 南あわじ市賀集立川瀬にある賀集浄化センターは、郡衙跡が発掘された嫁ヶ渕遺跡があった場所である。

嫁ヶ渕遺跡周辺

 ここから西に行くと、南あわじ市八幡北の集落がある。集落の西側の山中に、6世紀後半に築造された西山北古墳がある。

西山北古墳

 西山北古墳は、直径約20メートルの円墳で、淡路に現存する古墳の中で、最大の横穴式石室を有している。畿内の古墳の影響を受けたのだろう。

 石室の長さは8.02メートルで、古墳南側に向けて開口している。

石室内部

 石室内部は薄暗い。石室に入って右手に、2体の石仏が祀られている。その内1体の首が取れて、石室内に転がっていた。また石仏の前の器が倒れたりしている。

荒廃した石仏

 私は地面に転がった石仏の頭部を拾って首の上に載せた。そして倒れた器などを元に戻した。

首を据えた石仏

 これで少しばかり気持ちがすっきりした。

 石室内を奥に進むと、天井が高くなった。

石室の奥

 石の隙間から土が漏れ出しているが、割と緊密に石材が組まれている。大人が優に立つことが出来る大きな石室である。

石室から入口方向を見る

 石室から外に出ると、死者たちの世界から甦った気がした。

 完成から1400年以上の時を経た古墳の中に入ると、凝縮された時間を一挙に経験したような気分になる。

 歴史を知るとは、人の世の時の経過を知ることだが、時の経過というものが、不思議と実に他愛のないものだと感じる時がある。