王墓山古墳の北側の、王墓の丘史跡公園の中に、弥生時代末期である2世紀後半の墳丘墓、楯築(たてつき)遺跡がある。
楯築遺跡が築造された2世紀後半は、大和盆地に大和王権が確立される50年以上前である。
日本中に成立していたクニ同士が争った時代であろう。
楯築遺跡は、この時代においては日本最大の墳丘墓である。住宅建設や給水塔建設で一部破壊されたが、破壊前は、円丘の南北に長方形の2つの突出部が付いていた。
完存時の全長は約80メートルであった。
円丘の中央に長さ9メートルの墓壙があり、その中に木棺が納められていた。
そして円丘上に5つの巨大な立石が立っているのが特徴的である。
ところで、楯築遺跡は、かつて円丘に2つの突出部が付いていたが、この内1つの突出部を消してみたらどうだろう。
前方後円墳に近い形に見えてこないだろうか。
そう、私は楯築遺跡は、前方後円墳のプロトタイプだと考えている。
楯築遺跡を始め、吉備地方の弥生時代の墳丘墓に飾られていた特殊器台が、後に大和の前方後円墳上に飾られるようになったことを併せて考えると、吉備の墓制が大和に移り、そこで前方後円墳に発展したと考えるのが自然である。
となると、大和に前方後円墳を築いた大和王権は、元は吉備に存在した勢力だったのではないかと考えられる。
「魏志倭人伝」によれば、倭国大乱という戦乱の時代があり、その後各国が共に女子を立てて王としたとある。
この女王が卑弥呼だが、私は卑弥呼が都とした邪馬台(やまと)国は大和盆地の纏向の地にあり、その後大和王権に発展したと考えている。
吉備の勢力がそのまま大和王権になったのではなく、2世紀後半に日本最大の勢力であった吉備地方が、大和盆地に女王を立てるに際し、大きな影響力を与えたとも考えられる。
いずれにしても、これらの話は仮説の域を出ない。だが、2世紀後半の日本最大の墳丘墓を持つ吉備地方が、当時日本で最も勢力を振るっていたことは間違いないだろう。
日本で歴史時代と認められるのは、古墳時代以降だろうが、弥生時代の巨大建造物である楯築遺跡を見ると、様々な想像がむらがり起こる。
この時代のことは、記紀や「風土記」の記述と考古資料から想像するしかない。
楯築遺跡の円丘上は、平らに削平されていて、そこに立石と小さな祠が建っている。
かつて円丘上には楯築神社という神社があった。祠はその名残である。
遺跡の東側の階段に、旧楯築神社の鳥居が建っている。
元々楯築遺跡の周辺には巨石が多くあるが、このように平べったい巨石が円形に立てられているのは、明らかに人為的に造られたものであろう。
ストーンサークルのようなものであろうか。不思議な遺跡である。
円丘上には、楯築神社跡地の石柱が建ち、立石の裏に旧楯築神社の祠がある。
この祠には、後ほど紹介する旋帯文石が、御神体として祀られていた。
ところで、円丘中央部から発掘された墓壙には、木棺があり、中から鉄剣一口と勾玉、管玉などが見つかった。
また、木棺の下には、総重量32キログラムの大量の水銀朱が敷き詰められていた。
当時、水銀朱は貴重品であり、鮮やかな朱色は豊かさの象徴であった。
この墓に埋葬された人物の権力の大きさを物語っている。
楯築遺跡で最も不思議な遺物は、かつての楯築神社の御神体で、今は円丘上の収蔵庫に収められている国指定重要文化財の旋帯文石であろう。
収蔵庫の東西にある覗き窓から、この特異な文様が刻まれた石を眺めることが出来る。
覗き窓からは見えないが、どうやらこの石には、人の顔のようなものが彫られているらしい。
この石の文様が、一体何を意味するのか分からない。
不思議な遺物である。
旋帯文石は、長らく楯築神社に祀られていたが、いつの時代からここにあったのかが分かっていなかった。
昭和51年から平成元年にかけての岡山大学による楯築遺跡の発掘で、木棺の上に敷かれた円礫の層から、特殊器台や特殊壺に混ざって、旋帯文石と同じ文様を持った弧帯文石が発掘された。
弧帯文石は、大小数百片に割られた状態で見つかった。
この弧帯文石がみつかったことで、楯築神社の御神体だった旋帯文石も、楯築遺跡が築かれた弥生時代後期に作られたものだということが分かった。
当時の宗教的な意義のある文様だったのだろうか。謎は解けぬままである。
さて、楯築遺跡から北西に約700メートルほど行った場所にあるのが、鯉喰神社である。
鯉喰神社は、大吉備津彦命による温羅(うら)討伐の伝承地である。
伝説では、大吉備津彦命に討たれた温羅は、鯉に化けて逃げようとした。
大吉備津彦命は鵜となって温羅を追い、この場所で鯉になった温羅を捕まえたという。
鯉喰神社の社殿は元禄十四年(1701年)と天保十三年(1842年)に造営されたという。
ところで、鯉喰神社の建つ丘陵も、楯築遺跡と同じ時代に築かれた墳丘墓である。
鯉喰神社からは、楯築遺跡の丘がよく見える。
大吉備津彦命の吉備平定は、伝説上の話だが、歴史上の時間に比定すれば、第10代崇神天皇が在位したと言われている3世紀後半のことだろう。
楯築遺跡が築かれた時代の約100年後である。
この100年で、楯築遺跡を築いた勢力が大和盆地に移り、再び吉備の平定に戻ってきたのなら、歴史の皮肉のように感じる。
だが楯築遺跡のあるこの地が、今の皇室に繋がる大和王権の発祥に、大きな影響を与えたことは間違いないことだろう。