芦屋市翠ヶ丘町の町並みの中に、鬱蒼と茂る樹々の固まりがある。
第51代平城天皇の第一皇子、阿保親王の陵墓とされる阿保親王塚古墳である。

平城天皇は、退位して上皇となった後、寵愛した藤原薬子に唆され、弟の第52代嵯峨天皇に対して兵を挙げた。弘仁元年(810年)発生の薬子の変である。
嵯峨天皇側により、変は鎮圧された。平城上皇は実権を奪われ、皇子の高岳親王は出家して弘法大師空海の弟子となり、阿保親王は大宰権師に左遷させられた。


阿保親王は、その後京に戻ることが出来たが、子供の行平と業平は臣籍降下して在原姓を賜った。
芦屋と阿保親王の関りは、よく分かっていない。江戸時代には、この古墳は阿保親王の墓とされていたようだ。


明治に入って、宮内省がこの塚を阿保親王の陵墓に比定した。今でも宮内庁書陵部が阿保親王塚古墳として管理している。
この古墳は、実際は、古墳時代前期の4世紀に築かれた古墳だという。どうやら考古学的には阿保親王の墓ではなさそうだ。
古墳は、阿保親王の子孫である長州藩毛利家により、元禄四年(1691年)に改修された。

古墳の南側の生垣の下を見ると、土塀が風化して崩れた跡が残っている。元禄時代に築造された土塀の跡だろうか。
古墳の周囲は、歩いて一周することが出来る。
周囲を木々が囲んでいるので、陵墓の内部を見通すことは出来ない。

陵墓の中に、周濠のようなものが見え、その奥が小高く盛り上がっているようにも見える。
この古墳は、直径38メートル、高さ3メートルの円墳であるという。

古墳の北側に回ると、斜面が見える。円墳の本体であろう。

宮内庁が管理する陵墓は、内部に立ち入ることが出来ない。周囲を生垣などで囲まれていることが多く、古墳の全容を確認することが出来ないものが大半である。
もう少し近くで見てみたいものだ。
阿保親王塚古墳の南東の芦屋市打出町に位置するのが、阿保親王の菩提寺とされる浄土宗の寺院、阿保山親王寺である。

正史には、阿保親王がこの地に住んだという記録は見えない。親王寺の縁起にしか載っていないことである。

親王寺の軒丸瓦には、毛利家の家紋が刻まれている。
江戸時代には、長州藩毛利家は、参勤交代の途次に、必ず阿保親王塚と親王寺に立ち寄ったという。

親王寺は、平成7年の阪神淡路大震災で大きな被害を受けたが、その後復興した。
本堂は、鉄筋コンクリート製の頑丈なものである。


明治維新後は、長州藩と薩摩藩の維新の功臣が政治の実権を握った。
考えようによっては、薬子の変で政権を追われた平城天皇の子孫の毛利家が、千年以上の時を経て、明治維新により政権中枢に戻ったと言えなくもない。
日本は、天皇家のみならず、古代に遡ることが出来る古い家系が今も残っている珍しい国である。
日本には、古いものが多く残っている。古さは強さを生み出すものと思う。