令和元年6月2日にブログを開始してから、間もなく6年が来ようとしている。
この間に投稿した記事の数は1365回に至った。記事の大半は、史跡巡りに関するものだった。
次回は小豆島の北東側を巡り、小豆島全島の史跡巡りを終える筈であった。
その次は鳥取市の史跡、その次は、「日本一危険な国宝」のある伯耆の三徳山三佛寺に行くことを計画していた。
だが、前回の阿波の史跡巡りを終えた後、どうも史跡巡りに行く気持ちが私の中でなくなってしまった。そして史跡巡りを休止しようと思った。
私が史跡巡りを始めた理由は、元々史跡巡りに関心があったからということもあるが、ZC33Sスイフトスポーツを購入したことが大きい。
せっかく走行性能の高い車を購入したのだから、走りを愉しむために、どこかに1人でドライブに行くことを考えた。
目的もなくドライブするのも面白くないので、山川出版社「歴史散歩シリーズ」に載る史跡を、スイフトスポーツで巡ることを思いついた。
元はスイフトスポーツに関する記事がメインになる予定であったが、気が付けば史跡巡りの記事がメインになっていた。
そして記事を書いている内に面白くなって来て、ここまで続いたのである。
勿論、このようなブログの読者になって下さって、読んで下さる方々がおられるということも、記事を書き続ける励みになっていた。
そのような方々には誠に申し訳なく思っているが、今までのような形で史跡巡りを続ける気持ちがどうもなくなってしまった。
これは、昨年末から読み始めた「新釈漢文大系」の影響が大きい。
私は、「新釈漢文大系」の「論語」「大学・中庸」「小学」「孟子」を読み終え、今「荀子」を読んでいる。
まだ儒教の核心と言ってよい経書は読んでいないが、今まで数冊の儒教の典籍を読んだだけで、大げさな言い方かもしれないが、私の内面に革命的な変化が起きた。
この革命的変化の内容については、機会があればまた書いてみたいが、個人の人生観の変化などに興味を持たれる方も少ないだろうから、私の独言のようなものになるだろう。
変化という言葉を使ったが、どちらかというと長い人生を彷徨してきて、ようやく探し求めていた宝の山に辿り着いた、という感覚に近い。
そしてその宝の山は、例えれば一本の粗末な竹の杖のようなものであった。この竹の杖は、捉え方によれば万能の杖になるが、人によれば無価値なただの粗末な杖である。
私にとって、この杖は、価値ある杖であった。そのため、史跡巡りよりも中国の古典を読むことが私の人生の優先事項になった。
そして、それと同時に仏教への関心が急速に薄れていった。
以前は、退職した後は、徒歩での四国八十八箇所巡礼や、全国の山岳霊場巡りをしてみたいと思っていたが、そういう気持ちもなくなった。
神仏を敬う気持ちに変わりはないが、頼るところは神仏ではなくなったのである。
史跡巡りを続けて会得したことは、現場から物事を考えるという習慣がついたということだった。
それまでは、書物だけを頼りに、日本とは何かを考えていた。
史跡巡りを続けると、時代と共に風化したものや、風化せずに残っているものを実物として目にすることが出来る。
また、地元で大事にされているものが何かも見えてくる。
例えば、寺社を訪れると、江戸時代まで当たり前だった神仏習合の痕跡に遭遇することが多かった。
備前の西大寺には、明治初頭まで讃岐の金毘羅大権現に祀られていた仏像があった。
淡路の東山寺には、明治初頭まで京都の石清水八幡宮に祀られていた仏像があった。
明治政府が進めた神仏分離策が、それまでの日本の信仰を根こそぎ覆してしまったのを実感した。
明治時代には、神仏分離と同時に、日本各地の神社の祭神が、記紀神話に基づいて変更され、神社の社格制度が始まった。
そして日本神話に基づいた万世一系の天皇を中心とする政治制度と、それを支える神社制度、国民に対する神話・歴史教育が、一体のものとなった。
これが、大日本帝国を支えた「万古不易の国体」であるが、これを創出した幕末から明治初年にかけての国学思想は、国学者が書物の知識を基に考え出したものであった。自分の理論に都合の悪い歴史上の事実は、殊更無視するところから成り立っている。
いわば机上の空論である。
史跡巡りを始める前の私も、どちらかと言うとこの机上の空論に傾斜していた。
だが史跡巡りの現場に行くと、この机上の空論が、地域や民衆に根差した伝統文化でなかったことがすぐに分かった。
これが地域や民衆に根差した伝統であったならば、戦後になって日本の神話を学校で教えなくなっても、民衆は神話教育を復活するよう国に求め、国が応じなくても家庭や地域で子供たちに神話を教えた筈である。
そのような運動が起きなかったという事は、大半の日本人が、大日本帝国を支えた神話教育を、自分達の伝統文化として捉えていなかったということになる。
元々国民に根付いた伝統でないものを、一部の知識人や政治家や軍人が伝統と捉えて、国民に浸透させようとしても、完全に浸透することはない。
ただ、神話の知識の有無に関わらず、地元の神社の祭りは戦後も続けられた。この素朴な敬神感情こそが、地域と民衆に根付いた伝統だったのである。
この敬神感情は、豊作豊漁を与えてくれる自然への畏敬の感情から来ている。
史跡巡りをすることで、私の日本の伝統文化に対する見方は変わったのである。
もう一つ史跡巡りを続けて分かったのは、日本の寺社の背後には山があり、その山には巨石があることが多いということである。
逆に言うと、山中に巨石があると、十中八九その近くや麓に寺社がある。
日本に寺が建てられたのは、仏教が伝来した6世紀以降である。神社の建物も、寺院が建てられるようになってから、寺院に対抗して建てられるようになった。
それまでは、神々が宿るとされた山や滝や巨石が、そのまま御神体として祀られていた。
これらの御神体は、記紀神話が成立する以前から神聖視されて祀られていたものと思われる。
これら人に畏敬される山や滝や巨石に、昔の人は神を感じ、仏教伝来後は仏を感じて、その傍に寺社を建てた。
そうすると、これら山や滝や巨石こそが、天皇と記紀神話の成立以前、仏教伝来以前から崇拝されてきた、日本の信仰の根源ということになる。
ここに思い至った時、日本が日本たる所以は、日本の風土にあることに気づいた。日本の風土が神であるならば、なるほど日本は文字通り神国であった。
ユダヤ人は、パレスチナから追放されて世界中に散り散りになっても、ユダヤ人としての信仰を保ち続け、離散してから約2,000年後にユダヤ人国家を再建した。
これは、祖国を離れて世界中のどこに行っても変わらない、ユダヤ人としてのアイデンティティーがあったからこそ可能だったことだろう。
逆に日本人は、海外に移民すると、すぐに現地に同化してしまう。ユダヤ人街や中華街のように、日本人が海外で日本人街を作って住んでいるという話は聞かない。
日本人の信仰とされる神道は、日本の風土を神々としたものである。
日本人を日本人たらしめているのは、日本の風土であって、日本の風土を離れれば、日本人は信仰的にも文化的にも、日本人ではなくなるのではないか。
確かに春は桜が咲き、秋は紅葉が色づく場所から離れて、なおかつ日本人であるのは難しい。
逆に言えば、日本の風土を敬い、それに親しめば、誰もが日本人になり得るということではないか。
今後の日本は、海外からの移民が増えて、このままいけば、日本の住民の大半が、外国にルーツを持つ人々になる時代が来るのも、そう遠い出来事ではないと思われる。
それでも私が日本文化の不滅を信じているのは、日本の風土さえ残り、それを敬う人がいる限り、いかに日本の人種構成が入れ替わっても、日本は日本であり続けると考えているからである。
私が、大移民時代の到来を楽観視しているのは、こういう理由からである。
私は高校時代に三島由紀夫の著作を全て読んで、その後日本の神話を勉強して、保守的な思想を持っていると自認していたが、史跡巡りを続けて現場から考えた結果、それまでの自分の抱いていた保守思想が、実は保守思想ではなかったことに気づいた。
そして、もっと根源的に日本を捉えるようになった。これは、書物の知識だけでは得られなかったことである。
さて、史跡巡りを休止すると書いたが、完全にやめたわけではない。これからも史跡を訪れることはあるだろう。今までのように、「歴史散歩シリーズ」に基づいた史跡巡りをやめるというだけである。
また、ブログをやめたわけでもない。これまでのように、頻繁に記事を更新することはなくなるだろうが、書きたいことを書きたい時に書くような、気ままなスタイルになるだろう。
例えば前方後円墳の発生や、私が住む播磨の地誌、「播磨国風土記」や「峯相記」などについては、書いてみたいテーマである。
ZC33Sスイフトスポーツについても、まだ乗り続けるつもりだから、書くこともあるだろう。
これはあくまで、一旦の区切りであると考えている。