賀集八幡神社から南下し、南あわじ市賀集にある淳仁天皇陵を訪れた。私が史跡巡りで訪れた最初の天皇陵である。
宮内庁の管理下にあり、陵内に立ち入ることは出来ない。
第47代淳仁天皇は、天武天皇の第七皇子舎人親王の子で、即位前は大炊王と呼ばれていた。
在位は天平宝字二年(758年)から同八年(764年)までである。
第46代孝謙天皇の庇護を受けて出世した藤原仲麻呂は、早逝した長男の妻を大炊王に嫁がせた。
大炊王が淳仁天皇として即位すると、恵美押勝の姓を賜り、太政大臣となって権勢を振るった。
天平宝字八年(764年)、恵美押勝は、退位した孝謙上皇が寵愛した道鏡を排斥しようとしたが、策謀が露見し、近江で捕らえられて斬殺された。恵美押勝の乱である。
恵美押勝と関係が深かった淳仁天皇は退位させられ、淡路に流された。
淡路に流された淳仁天皇は、天平神護元年(765年)に死去し、ここに葬られたという。
明治3年に、明治政府から大炊王に淳仁天皇の諡号が追号された。
淳仁天皇陵とされる場所は、淡路各地に存在する。今まで紹介した淡路市下河合の高島陵、南あわじ市市の丘の松、南あわじ市志知中島の天皇塚などがあるが、明治3年に天王の森と昔から呼ばれていたこの塚が淳仁天皇陵に比定された。
淡路各地に、淳仁天皇を偲ぶ史跡が存在する。今も島民の身近にいる天皇という感じがする。
淳仁天皇陵から南に約1キロメートル走った南あわじ市北阿万筒井に、淳仁天皇の生母である当麻夫人の墓がある。
当麻夫人は、当麻山背(たいまやましろ)とも呼ばれている。
舎人親王の妃で、淳仁天皇が淡路に流された時に、一緒に流され、配所で過ごしたという。
当麻夫人墓も、宮内庁が管理している。この墓の正式名称は、大夫人山背淡路墓というそうだ。
当麻夫人墓から南に行った兵庫県南あわじ警察署北阿万駐在所のある辺りは、旧石器時代のナイフ形石器が出土した曽根遺跡のあった場所である。
今は田畑が広がるのみである。淡路は、古くから人々が住み着いていた。
今日は、淳仁天皇と当麻夫人という、淡路で亡くなった2人の皇族の墓を紹介した。
恵美押勝の乱の残滓は、この世にほとんど残っていないが、物理的なモニュメントとして残っているのは、この2人の陵墓だけだろう。
淡路に流されたこの2人が、確かにこの地で生きていたということを実感した。