ヌクモ山城跡 ヌクモ古墳群

 石原城跡から東南を眺めると、標高150メートルほどのヌクモ山という低山が横たわっている。

 この山には、中世の山城跡であるヌクモ山城跡とヌクモ古墳群が存在する。

ヌクモ山

 上の写真の正面に写っているのがヌクモ山だが、山上に2つの鉄塔がある。

 右側(西側)の鉄塔が、龍虎鏡など貴重な遺物が発掘されたヌクモ古墳のある場所で、左側(東側)の鉄塔が、ヌクモ山城跡の主郭のある場所である。

原城跡とヌクモ山城跡の図

 ヌクモ山への登り口がなかなか分からなかった。

 山の北側に行くと、舗装された坂道があったので、登ってみた。

 山の西側に福知山市立遷喬小学校があるが、この坂道を登ると、山と小学校の間を行く道につながっている。

ヌクモ山北側の坂道

山と小学校の間の道

 左手に山、右手に小学校を見ながら南下すると、左側に山に入っていけそうな、藪が開けた場所があった。

 私はここから山に入った。

藪が開けた場所

 山中に入ると、いきなり目の前に鹿がいた。鹿は私に気が付くと、驚いて山上に駆け上がっていった。

 私が山に入った場所は、先ほど説明した2つの鉄塔の丁度中間くらいである。

 まずは、西側の鉄塔の方向に向かった。しかし登山道などなかった。木につかまりながら、道なき急斜面を登って行った。

 しばらく行くと、西側の鉄塔のある場所に至った。

ヌクモ古墳

 ここは、ヌクモ山の西側のピークである。少し盛り上がっている。

 鉄塔の下は、龍虎鏡などが発掘されたヌクモ古墳である。説明板も何もない。

 この場所から、東に向かって山道が続いている。

 山道を東に歩くと、東側の鉄塔に至った。鉄塔下は平坦な曲輪のようになっている。

 ここは、ヌクモ城跡の主郭である。

ヌクモ山城跡主郭

 ここから東に更に山道が続いている。

 途中曲輪と思われる削平地が次々と現れる。

曲輪

 更に東に歩くと、広い曲輪に出たが、石造の祠のようなものがある。

 これは、昭和28年頃に、地元の人がヌクモ山にミニ四国八十八か所の石仏を祀ったものであった。

曲輪と石仏

 ヌクモ山の北側は、これら石仏群を巡って登山道が整備してある。

 更に東に進むと、土橋があった。

土橋

 更に進んでいくと、妙見宮跡があった。廃絶された神社の跡である。何らかの理由で祭りが絶えたのだろう。

 お社の土台と石段、鳥居などが残っている。

 お社の土台の上に、柱が積み重なっている。かつて建っていた本殿が倒壊し、残った柱が放置されたのだろう。

妙見宮跡

 妙見宮は、仏教の神様である妙見大菩薩を祀るお社で、日蓮宗の寺院などでよく祀られている。

 境内跡には、安政二年(1855年)の銘のある、南無妙法蓮華経のお題目を刻んだ碑があった。

お題目の碑

 妙見宮跡の北側には、参道の石段が続いている。

参道の石段から見た境内跡

参道の石段

 石段を下りていくと、鳥居がある。鳥居には、倒木が倒れ掛かっている。

鳥居に倒れ掛かる木

 実を言うと、私は、人の手が入らなくなって、廃墟となった場所を見るのが結構好きである。

 地方の史跡巡りをしていると、屋根が崩落していたり、倒れ掛かったりしている空き家などをよく見かけるが、人がいなくなって朽ちていく風景というものが、どうも好きである。

 私が史跡を巡るのも、そういうものを見るのが好きだからなのかも知れない。

 参道を下りていくと、歩道に降りる階段があり、山の北側の道路に出た。

ヌクモ山北側の階段

 先ほど山に入る時に登った坂道の少し東側に階段があった。

 道路に出ると、車が行きかっている。無人の廃墟から、人が生活する世界に戻ってきたような感覚だ。

 このまま少子高齢化が進めば、いずれ日本列島から人がほとんどいなくなるかも知れない。

 もしくは、外国にルーツを持つ人々が、人口の大半を占めるようになっているかも知れない。

 そうなった時代の日本の史跡や廃墟の姿を、目に収めてみたいものだ。