今西山法福寺 川東車塚古墳 

 木山神社、木山寺の参拝を終え、旭川沿いに南下し、真庭市の南端にある吉(よし)の集落に行った。

 ここにある真言宗の寺院、今西山法福寺には、岡山県重要無形文化財の吉念仏踊りが伝承されている。

今西山法福寺

 ネットで法福寺を検索すると、立派な山門の画像が出てくるが、現地に行くと門はなかった。

 思わず寺を間違えたかと思ったが、近づいてみると、山門を新しく再建するらしく、古い山門は撤去され、新しい基礎が造られていた。

新しい山門の基礎

本堂

本堂蟇股の龍の彫刻

 法福寺の本尊は、阿弥陀如来である。

 江戸時代にこの辺りで疫病が流行った。吉の村民が、近くの江原寺で行われていた念仏踊りをやってみると、霊験あらたかで、疫病が収まったという。

 それ以降吉では念仏踊りが定着し、今では吉地区念仏踊り保存会が継承に努め、毎年8月16日に法福寺本堂前で念仏踊りが行われている。

念仏踊りの説明板

 踊りの中心に大傘を立て、その下に木臼を据えて、正装羽織姿の読み手が木臼の上に上がる。その横に鼓5人、鉦5人、サイハラ持ち2人、音頭取り2人が並ぶ。

 鉦や鼓役がそれぞれの楽器を叩き、サイハラ持ちが踊り、音頭取りと読み手が念仏と各家の先祖の名を読み上げ、供養するという。

本堂内

 日本で踊念仏を始めたのは、平安時代の僧侶、空也上人である。

 その後、鎌倉時代時宗の祖・一遍上人空也上人に倣って、踊念仏を始めた。

 一遍上人踊念仏は、盆踊りの原型とも言われている。

 阿弥陀如来の名号を唱えて踊ると、一種の宗教的法悦の状態になるのだろう。

 法福寺は真言宗の寺院だが、吉念仏踊りの源流は、一遍上人踊念仏にあると思われる。

 さて、法福寺を後にし、旭川沿いを北上して、落合の町に入った。

 JR美作落合駅の北西にある真庭市西原の北側の山上に、4世紀後半に築かれた前方後円墳、川東車塚古墳がある。

川東車塚古墳への道

 西原集落にある西原浄水場の少し東に、山上の貯水タンクに登る舗装路がある。

 貯水タンクで道は終わるが、その向かいに川東車塚古墳への案内標識がある。標識に従って林の中に入ると、すぐ目の前に古墳が見えてくる。

川東車塚古墳(後円部)

 川東車塚古墳は、全長62メートルあり、旧真庭郡では最大の古墳である。

 ところでこの古墳は、奈良市山陵町にある佐紀陵山古墳の1/3の類型墳である。類型墳とは、形をそのままに縮小した墳墓のことである。

 佐紀陵山古墳は、宮内庁により、第11代垂仁天皇の皇后日葉酢媛(ひばすひめ)命の陵墓と治定されている。

葺石

後円部の墳丘上

 実際に日葉酢媛命の墳墓であるかは分らぬが、佐紀陵山古墳の築造年代は4世紀後半とされており、川東車塚古墳と同じ時期である。

 川東車塚古墳は、旭川と備中川が合流する場所に築かれており、この一帯を支配した有力者の陵墓であると思われる。

 佐紀陵山古墳はその規模からして、大和王権の大王(天皇)若しくはその一族の陵墓であると思われる。

 その古墳と同じ形の古墳に葬られた川東車塚古墳の被葬者は、当時の大和王権と強い結びつきを持った人物だろう。

後円部から前方部を望む

前方部から後円部を望む

 古墳に杉が生えているが、現地で見ても明瞭に前方後円墳の形を認めることが出来る。

 それにしても、前方後円墳を見ると、なぜこうもテンションが上がるのだろう。実に不思議な形だ。

前方部の左側から後円部を望む

 弥生時代から古墳時代には、川沿いに集落が作られた。灌漑技術がまだ発達していなかった当時は、米作をするためには、川水に頼らなければならなかった。

 古墳が川の近くにあるのはそのためである。

 川東車塚古墳の西側の川向うには、中国自動車道落合ICがあるが、落合ICの工事中、弥生時代から江戸時代にかけての集落の遺跡が発掘された。下市瀬遺跡である。

下市瀬遺跡が発掘された辺り

 この遺跡からは、小銅鐸や木器、装飾性の高い土器が見つかった。発掘された物からして、この辺りで水辺の祭祀が行われた可能性が高いという。

 遺跡からは、平安時代の川湊の倉庫と思われる建物跡も発掘されたという。

 川東車塚古墳の後円部の周りには、所々に葺石と思われる丸い川原石が落ちていた。  

 古墳が作られた頃は、川沿いの集落から、葺石で覆われた山上の古墳が明瞭に見えたことだろう。

 当時の古墳は戦国時代や江戸時代の城のように、目立つものだったろう。

 仏教が伝来し、寺院が作られるようになってから、各地の古墳は次第に住民から忘れられ、放置されるようになったことだろう。

 当時の人が築いた盛土の形だけが、今に伝わっている。