九品寺の参拝を終えて北上し、南丹市園部町黒田にある京都府指定史跡、黒田古墳に赴いた。
黒田古墳は、園部町黒田の丘陵部の先端に築かれた前方後円墳である。
日本で最古級の前方後円墳は、卑弥呼の墓の可能性が取り沙汰されている大和の箸墓古墳であるが、黒田古墳は箸墓古墳と同時代の古墳と言われている。
箸墓古墳の築造年代は、西暦250年頃である。「魏志倭人伝」に載る卑弥呼の没年の西暦248年に近い。
箸墓古墳の特徴は、上空から見ると撥型になった前方部である。前方部が撥型の前方後円墳は、最古級の前方後円墳である。
黒田古墳の前方部も撥型である。そのため、この古墳の築造年代も、箸墓古墳と同年代の3世紀と見られている。
前方後円墳は、大和王権の勢力拡大と共に全国に拡大していった。この黒田の地も、3世紀には大和王権の勢力下に置かれたのだろう。
私は最近、邪馬台(ヤマト)国=大和王権という説に傾いている。
この説によれば、皇室は卑弥呼の子孫ということになる。皇室は卑弥呼の時代から現代まで続いていることになるから、驚くなかれ、今の日本こそ邪馬台国ということになるのだ。
「魏志倭人伝」によると、女王卑弥呼が君臨するまで、倭国では割拠した国々がお互いに相争っていたという。倭国大乱と呼ばれる時代である。
戦いに疲れた国々は、倭国の統合の象徴として女王卑弥呼を推戴した。卑弥呼はヤマトの地を都とした。
前方後円墳が出来るまでの倭国では、円墳や前方後方墳、四隅突出型墳丘墓など、様々な形の墳墓が営まれていた。
前方後円墳は、まるでそれらの各墳墓の様式を統合したような形をしている。
倭国の諸王が統合の象徴として卑弥呼を推戴したように、各地の墳墓の形を統合した前方後円墳が作られ、その後全国に広がっていったのではないか。
私は前方後円墳の形を見ると、不思議と胸騒ぎがするが、日本の原初の姿を象徴する形だからそう思うのだろうか。
黒田古墳は、平成2年に発掘された。後円部から二基の埋葬施設が見つかった。
第一主体部は、二段に掘りくぼめた穴の底に石が敷き詰められ、その上に木棺が置かれていた。
埋葬施設からは、双頭龍文鏡や管玉、鉄鏃、漆器などが発掘された。
当時この地方を治めていた豪族が、邪馬台(ヤマト)国=大和王権から王権に服属した証として与えられた鏡だろう。
当時の人は、生前最も大事にしていたものを墓に埋葬したのだろう。
そうだとすれば、鏡は一代限りの宝器だったことになる。
「古事記」「日本書紀」の皇室発祥説話と「魏志倭人伝」の記述にはズレがあるので、いわゆる保守派には邪馬台国=大和王権説は受けが悪い。
だが争いあっていた国々が、女王を共立して国を統一したという「魏志倭人伝」の記述と、天皇を国民統合の象徴とする現憲法の記述は、相通じるものがあると感じる。
最古の前方後円墳である箸墓古墳が卑弥呼の墓で、それが全国に広がっていったのならば、前方後円墳はまさに我が国の誕生の瞬間を今に伝える形である。