備中国分寺跡の西側には、吉備路最後の前方後円墳と言われる江崎古墳がある。
江崎古墳は山の南麓に築かれていて、前方部が山側にある。
全長約45メートル、前方部幅約25メートル、後円部径約32メートル、二段築成で、円筒形埴輪が並んでいた。
後円部の西側に、横穴式石室が開口している。
横穴式石室は、両袖式で、全長13.8メートル、玄室長6.6メートル、玄室最大幅2.6メートルで、羨道には、角礫を使った閉塞施設が残っていた。
後円部の石室入口への立ち入りは禁止されていて、石室内の見学は出来なかった。
だが入口に近づいてカメラのフラッシュを焚くと、奥に安置されている石棺が見えた。
石棺は、こうもり塚古墳と同じ貝殻石灰岩製(浪形石製)である。
江崎古墳は、昭和55年に発掘調査が行われた。
棺内には、成人男女の人骨二体分があり、金環一対、ガラス小玉約110個が納められていた。
ここに埋葬された豪族夫婦の骨だろう。
石室床面からは、獣形鏡1個、耳環一対、鉄刀5本、鉄鏃130本以上、馬具、須恵器90個以上、土師器10余個が見つかった。
出土物から、江崎古墳は、こうもり塚古墳より少し後の6世紀後半の古墳と推定されている。
こうもり塚古墳の被葬者の子の世代の墓だろうか。
「魏志倭人伝」によれば、弥生時代後期の日本は100余の国に分かれていた。
3世紀半ばには、それらの国々の盟主として女王卑弥呼を擁する邪馬台(ヤマト)国連合が出来上がった。ヤマト国は、大和盆地に前方後円墳を造り始め、全国に広げていった。
弥生時代の各国の首長は、ヤマト王権に服属する代わりに、王権から国造(くにのみやっこ)や県主(あがたぬし)に任命され、地方の統治を任されたのではないだろうか。その印として、ヤマト王権から前方後円墳の築造が許されたものと思われる。
これらの古墳の被葬者は、ヤマト王権から任命された国造や県主だろう。
大宝元年(701年)の「大宝律令」の施行により、日本は律令国家になった。
国の行政上の長官は、地元豪族の国造ではなくなり、中央が派遣した国司になった。
大宝律令により国の下に郡が設置され、かつての国造や県主は郡司となって、地方の豪族として平安時代まで生きながらえた。
もし弥生時代の国々の首長が国造や県主になり、その後郡司になったのならば、かつての郡の成立過程を研究すれば、弥生時代に割拠していた国の範囲が分かるのではないか。
私は最近そう思い始めている。
そう思えば、大宝律令以来の地名を継承した郡が、明治以降市域として独立したり、市町村合併によって消滅していくのを見るのは残念だ。
郡名には、邪馬台(やまと)国成立以前の弥生時代から続く日本の地方の歴史が秘められているかも知れないからだ。