伝備中国府跡から南下し、総社市上林にある緑山古墳群を訪れた。
緑山古墳群は、6世紀中頃から後半にかけて造られた古墳群である。緑山という丘陵上にある。

緑山には、丘陵の南東にある階段から登ることが出来る。
階段を登ると墓地がある。墓地から北に歩くと、南から順に6号墳、7号墳、8号墳という、緑山古墳群を代表する古墳が並んでいる。
因みに緑山古墳群全体で23基もの古墳がある。
最初に訪れたのは6号墳である。

6号墳は、直径約16メートルの円墳である。全長約6メートルの横穴式石室を有する。

6号墳の羨道の天井石はなくなっており、玄室の天井石も一部無くなっている。室内に明かりが届いていて、入りやすい。


それにしても緊密に石が組まれた見事な石室である。
鬼ノ城の石垣より約100年前に築かれた石造建設物だ。
6号墳の隣の7号墳は、直径約23メートルの円墳である。


7号墳は、全長約10メートルの石室を有する。
石室入口は、古墳の下の方にあって、入口の半分は落ち葉に埋まっている。

腹ばいにならなければ入ることが出来ないほど狭い入口だ。

7号墳の石室に入るのは、流石に躊躇われた。
上の写真は、入口からカメラのフラッシュを焚いて写したものだが、肉眼だと真っ暗で何も見えない。
真っ暗な穴の中に入るのは、ちょっと気が引ける。
上の写真を見て気づいたが、羨道と玄室の間の天井石が下に下げられている。両者の間を分かつ意味があるのだろう。
7号墳の北側には、直径約33メートル、高さ約10メートル、石室の全長約15メートルの円墳で、緑山古墳群最大の古墳である8号墳がある。


8号墳の石室の入口も、低く狭いものであった。

御覧の通り石室内は真っ暗である。
しかし、折角緑山古墳群を訪れたのだから、古墳群最大の8号墳の石室は見学しなければならないという義務感を持った。
つくづく懐中電灯を持ってこなかったことを悔やんだが、勇を鼓して暗闇の室内に入って行った。


腹ばいになって羨道を進んでいった。カメラのフラッシュを焚くと、一瞬石室の内壁が現れるが、すぐまた元の暗闇に戻る。
だが暗闇に目が慣れてくると、入口からの僅かな光で、微かに壁が判別できるようになる。
玄室は、天井がかなり高い。羨道が狭かった分、広く感じる空間である。


巨石と小さな石を緊密に組んで造られた石室である。
室内にいた時は全く気が付かなかったが、こうして写真を見ると、室内の天井や壁にゲジゲジが沢山いたことが分かった。

室内から外を見ると、入口の光が遠くに見える。光が見えるとほっとする。人は暗闇の中で生活するようには出来ていない。

こうして見ると、羨道と玄室の間には、2つの巨石が組まれている。古代人にとって、玄室はやはり特別な場所だったようだ。
急いで室外に出て一息ついた。
古墳群の南端には、多数の副葬品が見つかった17号墳がある。


17号墳は、石室が崩壊して、天井石が露出している。かつては立派な姿を持った古墳だったのだろう。
古墳の側面から入る横穴式石室は、緊密な石組みの技術が必要な建造物である。
横穴式石室の建造技術は、概ね6世紀に朝鮮半島から北九州に伝来した。
それまでは、古墳の石室は、古墳の上から穴を掘って棺を埋める竪穴式石室であった。
横穴式石室になって、人はいつでも石室に入ることが出来るようになった。横穴式石室は、6世紀の日本を象徴する技術である。
6世紀の日本にあった人間が作ったもので、現代に残っているものの大半は、古墳や古墳から発掘されたものである。
自然と6世紀の日本は、古墳からの遺物によって想像されるようになった。
現代日本のことは、豊富な文献資料やデータ資料によって後世に伝えられるだろうが、具体的な物としてどんなものが後世に残るのか、ちょっと想像できない。
史跡巡りをして気づいたが、自然の石や土から造られたものは、風化を免れて長い年月を超えて残る。金属は錆びるし再利用される。プラスチックも再利用される。石と土だけは、再利用をするのは難しい。
そう考えると、現代にあるもので後世に残るものは、やはり昔と変わらず墓石と陶磁器だろう。