丹波国府は、未だに発掘されていないが、丹波国府推定地として、今のところ亀岡市千代川町説と南丹市八木町屋賀説の二説がある。
平安時代の承安四年(1174年)十月二十日に書かれた「丹波国吉富庄絵図」の江戸時代初期の写本には、現在の南丹市八木町屋賀の付近に「国府」と墨書された建物が描かれているという。

また、屋賀の北隣には、北屋賀国府という地名がある。
だが、国府の建物跡が発掘されないことには、ここが国府跡であると決定出来ない。
八木町屋賀にある京都丹波牧場のある辺りからは、奈良時代の大型建物跡が発掘された池尻遺跡や、奈良時代の瓦積み基壇が発掘された池尻廃寺跡が見つかった。

この池尻遺跡、池尻廃寺跡のすぐ東側に、坊主塚古墳、天神塚古墳という二基の古墳がある。
古墳は、天皇皇族や、地域の豪族の墓である。ここに二基の古墳があるということは、古墳時代にはこの辺りに豪族の居館を中心とした集落があったことだろう。

白鳳時代には、豪族によって古墳の代わりに寺院が建てられた。池尻廃寺跡がこの辺りにあるということは、白鳳時代になっても、この地域の中心となる集落がこの辺りにあったことになる。
古墳時代、飛鳥白鳳時代の大きな集落は、奈良時代に郡衙や国衙(国府)になることが多かった。
そう考えると、矢張りこの辺りに国府があった可能性は高いだろう。

坊主塚古墳は、田んぼの中にある古墳で、二重の周濠を持っていた古墳である。地名で言うと、京都府亀岡市馬路町にある。
今は周濠は見えなくなってしまっているが、かつては一辺約67メートルの周濠に囲まれていた。
現在残っている墳丘は、二段築盛の方墳で、一辺は約38メートルである。


坊主塚古墳は、昭和31年と平成10年に発掘調査が行われた。
墳丘と周濠斜面に葺石が施され、墳丘南側には造出が設けられていた。
造出から円筒埴輪、形象埴輪、器材埴輪が集中的に出土したことから、造出で祭祀や継承儀礼が行われていたと考えられる。

また古墳の主体部からは、朱塗りされた木棺や、国産の銅鏡、鉄製の甲冑、刀、剣が発掘された。
これにより、古墳時代中期である5世紀後半の武人的要素を持った首長の墓であると分かった。
坊主塚古墳の北西の、亀岡市旭町一ツ橋には、天神塚古墳がある。

天神塚古墳も、二段に築盛された方墳である。一辺約30メートルで、坊主塚古墳よりやや小さい。


天神塚古墳も、5世紀後半の古墳と推定されている。
5世紀後半と言えば、武勇で知られる第21代雄略天皇が国土征服事業を進めていた時代である。
坊主塚古墳から発掘された甲冑や刀剣は、この時代が武に重きを置いた時代であることを示している。