造山古墳の南西側には、第1古墳から第6古墳まで、全部で6つの陪塚がある。
陪塚は、主となる古墳の被葬者の家臣が葬られた古墳である。
造山古墳に葬られた被葬者の臣が、これらの陪塚に葬られたことだろう。
今日は6つの陪塚の中で、特に千足装飾古墳と呼ばれている第5古墳を中心に紹介する。
造山古墳の前方部の南西端からは、6つの陪塚が眺められる。最も近くにあるのが、第1古墳である。
第1古墳は、榊山古墳とも呼ばれている。直径約35メートルの円墳で、神獣鏡、銅鈴、馬形帯鈎が発掘された。
造山古墳からは、近年綺麗に整備された第5古墳の千足装飾古墳がよく見える。
古墳に近づくと、秀麗な前方後円墳であることが分かる。
千足装飾古墳は、5世紀前半に築かれた。3段に築盛され、規模は全長約81メートル、後円部の直径約63メートル、後円部の高さ約7.4メートルである。前方部が短い帆立貝形古墳と呼ばれる形式の古墳である。
古墳は、平成22~26年に発掘調査された。古墳の形に沿った溝が見つかり、そこから埴輪片が多数発掘された。
円筒埴輪や朝顔形埴輪の他に、矢を入れる容器の靫形埴輪も見つかっている。
築かれた時には、古墳上に埴輪が多数並んでいたことだろう。
古墳の被葬者は、弓矢に象徴された武備を好んだ人物であろう。
発掘調査後、古墳は築造当時の姿に復元された。
墳丘上には、階段で登っていくことが出来る。
前方部と後円部の上には、築造当時のように、復元された円筒埴輪や朝顔形埴輪が並べられている。
又、後円部上には、復元された家形埴輪などが置かれている。
家形埴輪を見ると、当時既に壁や窓や縁側がある家屋があったことが分かる。
庶民は窓も壁もない竪穴住居に住んでいただろうが、豪族は床板と壁のある家に住んでいたようだ。
後円部には、第1石室と第2石室の2つの石室があった。吉備地方では最古の横穴式石室である。
第1石室は、午後3時までなら見学可能である。私が訪れた時は、既に時間が過ぎていて、見学できなかった。
入口から羨道を通って、遺体が埋葬されていた玄室に至る。羨道と玄室の間には、玄門があるが、玄門は大きな1枚板で閉塞されているという。
玄室の壁は、安山岩を積み上げて作られている。
玄室の壁は、高価な朱色で塗られている。
朱色の壁に囲まれた中に、石障という石の一枚板で四角に囲まれた空間がある。ここに被葬者が埋葬されていた。
石障には、直弧文という模様が刻まれていた。
石室全体の造りは、横穴石石室発祥の地である北部九州の古墳の石室に似ており、石障があるところは、九州中部の古墳に似ているという。
玄室の安山岩は、讃岐から産出されたものである。
吉備の豪族は、瀬戸内海航路を通じて、四国や九州とよく連絡していたのだろう。
千足装飾古墳の隣には、直径約35メートルの円墳である第4古墳がある。
ここからも、円筒埴輪や家形埴輪、短甲型埴輪が発掘されている。
当時の日本では、古墳や石室の造形が、最先端の土木技術の見せ所だったのだろう。
埴輪を見ると、古墳時代の日本の家屋や武具の姿を思い浮かべることが出来る。
中国吉林省で見つかった広開土王の碑を見ると、日本は4世紀後半には大軍を半島に送り込めるほど国力が充実していた。
玄界灘や対馬海峡にて、大軍を乗せた艦隊を航行させることが出来た。
その後の5世紀前半の日本は、国内で巨大古墳を次々と築造した。
文献資料がないので詳細は分からぬが、4世紀後半から5世紀前半の日本は、古代日本において、国力が一つのピークとなった時代だろう。