富丘八幡神社の境内には、江戸時代後期の但馬出身の石工、丹波佐吉が作った神馬がある。
丹波佐吉は、文化十三年(1816年)に但馬国竹田に生まれ、5歳の時、丹波の石工難波金兵衛伊助の養子になる。
22歳から渡りの石工となり、大和、伏見、淀、大坂などで灯籠、石仏、狛犬を制作した。
第122代孝明天皇は、佐吉のことを「天下一の名工」と称したという。
平成28年に、小豆島町のこまいぬ探究会がこの神馬を発見したのだという。
柔らかい砂岩に彫られた優美な像である。
さて、富丘八幡神社が鎮座する八幡山通称富丘には、古墳が散在している。富丘古墳群という。全部で50基は古墳があるという。
神社より東南の尾根沿いに、古墳が並んでいる。
小規模な円墳が道沿いに並んでいるが、木立があって見えにくい。
西側の神社に近い円墳の辺りに、「古墳丸」と刻まれた石柱と、石造五輪塔の残欠があった。
円墳の上に登ると、墳頂に狭い空き地があった。
円墳には箱式石棺が埋められていたそうだが、この場所に石棺があったのではないか。
富丘古墳群の中で、最も規模が大きく古い古墳は、神社の裏手の富丘の頂上にある古墳である。
本殿に向かって左側の奥に末社があるが、その末社の背後に山頂の古墳に至る道の入口がある。
山頂と言っても、神社自体が山頂近くにあるので、歩き始めてすぐに古墳に至る。
古墳の上には、石造の小さな祠があり、「富丘古墳神」と刻んでいる。
祠の手前には、石が転がっているが、古墳と関係のある石なのかどうかは分からない。
この古墳は、昭和24年に発掘調査が行われた。竪穴式石室の中には、安山岩製の石棺があり、中から人骨と同時に銅鏡や鉄刀、鉄鏃などの副葬品が発見された。
副葬品の内容から、この古墳が4世紀末に築造されたものだと分かった。
4世紀末と言えば、小豆島に御幸した応神天皇が君臨していた頃である。
この古墳に葬られた人物は、小豆島をまとめていた豪族であろう。応神天皇が小豆島にやってきた時、応神天皇を出迎えた人物だろう。
そして天皇から鏡などを下賜されたのかも知れない。
この山頂の古墳の被葬者の子孫が葬られた古墳が、富丘古墳群であろう。
神社の境内から西を望むと、池田湾が眺められる。
ここに古墳を築いた古代の小豆島の人々も、この地を風光明媚と認め、一族の墓所としたのだろう。
そして古墳が築かれた山が神聖視され、後世になって八幡神が勧請されたのだと思われる。