備前

宇野港 鳴滝園

明治43年に国鉄宇野線が開通して、宇野と高松を結ぶ連絡船が就航した。 それ以降、昭和63年に瀬戸大橋が開通するまで、本州から四国への玄関口だったのは、岡山県玉野市の宇野港だった。 かつて、宇野港から高松港まで片道約1時間の宇高連絡船が就航してい…

常山城跡

硯井天満宮の参拝を終え、県道405号線を西に走ると、行く手に児島富士の別名のある常山が見えてくる。 常山 常山は、標高約307メートルの低山である。この常山の山頂一帯に常山城跡がある。 常山城跡は、山頂の本丸を中心に合計14の曲輪で構成された連郭式城…

与太郎塚 硯井天満宮

塩竈神社の参拝を終え、児島半島を西に横断した。 そして、岡山県玉野市八浜町大崎にある与太郎塚を訪れた。 与太郎塚 天正十年(1582年)、児島郡八浜村で、児島半島制圧を目論む毛利軍と、織田家の勢力下に入っていた宇喜多軍が衝突した。八浜合戦である。…

小串砲台跡 塩竈神社

静泰院の見学を終え、児島湾締切堤防の上を通って児島半島に上陸した。 児島半島は、古代は児島と言う島だったが、浅瀬の干拓が進み、今では地続きの半島となっている。 先ず訪れたのは、児島半島の北東端にある小串(こぐし)港である。地名では、岡山市南…

龍峰山静泰院

ケレップ水制群の見学を終え、岡南大橋を渡って岡山市南区浦安本町にある臨済宗の寺院、龍峰山静泰院を訪れた。 静泰院は、かつて岡山市中区小橋町にあったが、昭和39年の新京極橋の架橋に伴い当地に移転した。 静泰院 山門 静泰院には、岡山藩初代藩主池田…

旧三蟠港

沖田神社から百間川を南下すると、百間川は児島湾に流れ入る。 百間川河口と児島湾の間には、百間川河口水門が設置されている。 百間川河口水門 今設置されている水門は、昭和と平成に造られたものである。 この水門を過ぎれば、海である。百間川河口水門の…

沖田神社

今年3月以来、久々に備前を訪れた。 まず紹介するのは、岡山市中区沖本にある沖田神社である。 沖田神社 狛犬 岡山市中区にある操山以南の、百間川と旭川に挟まれた干拓地は、沖新田と呼ばれている。 沖新田は、岡山藩直営の新田で、元禄四年(1691年)に岡…

林原美術館

岡山市を訪れて、その前を通るたびに気になっていた建物がある。岡山城西手櫓のすぐ脇にある、「禁酒会館」という名の古い建物がそれである。 地名で言うと、岡山市北区丸の内1丁目にある。 禁酒会館 一体この建物は何なのだと思っていたが、調べてみると、…

岡山城 その4

今日は、岡山城の外周を紹介する。 岡山城の南側に、モダンな外観の岡山県立図書館がある。 岡山県立図書館 今岡山県立図書館の建つ場所は、かつては岡山城二の丸の一隅で、榎馬場と呼ばれる広場であった。ここで藩士の乗馬の練習などが為されたのであろう。…

岡山城 その3

中の段から不明門(あかずのもん)を通って、天守の建つ本段に向かう。 不明門 不明門は、表書院のある中の段と天守のある本段を結ぶ出入口だが、普段は閉まっていたそうだ。なので、不明門と言うらしい。 不明門は、明治に入ってから解体されてしまったが、…

岡山城 その2

岡山城の本丸は、本段と中の段で構成されている。天守が建っている最も高い場所が本段で、そこから一段低い場所が中の段である。 中の段には、岡山藩の政務が行われていた表書院があった。 表書院の復元模型 明治2年の版籍奉還により、岡山藩は消滅し、岡山…

岡山城 その1

岡山市のシンボルである岡山城。 日本城郭協会が、日本100名城というものを定めているが、私は今までの史跡巡りで、その内赤穂城、姫路城、明石城、津山城を訪れている。 岡山城は、私が訪れた5つ目の日本100名城に選定されたお城になる。 岡山城の天守は、…

岡山後楽園 その5

後楽園の中心に、高さ6メートルの築山がある。唯心山である。 唯心山 唯心山は、池田綱政の子、池田継政が築かせたものである。ということは、後楽園が出来た時には、この山はまだなかったということになる。 唯心山に登ると、広大な園内を一望することが出…

岡山後楽園 その4

寒翠細響軒から東に歩くと、幕末から明治にかけて築かれた建物、五十三次腰掛茶屋がある。 五十三次腰掛茶屋 この建物にかつて「東海道五十三次」を描いた扁額が掲げられていたことから、この名が付いたという。 竹でできた連子窓を通して、沢の池、唯心山、…

岡山後楽園 その3

延養亭と栄唱の間の南側には、花葉の池がある。園内の曲水がこの池に流れ込んでいる。 花葉の池 私が花葉の池を眺めていると、柔らかな風が吹いて、池面にさざ波が立った。日本の庭は、こんなささやかな変化を楽しむためにあるのではないか。毎日庭に出ても…

岡山後楽園 その2

岡山後楽園は、苔ではなく芝生を大量に使った日本で初めての庭園である。 後楽園の作られた場所は、元々旭川の中洲であり、地盤は砂質で、湿度が不足していた。 そのため苔が自生せず、代わりに日本に広く自生している野芝を使うことになった。 日本の芝は、…

岡山後楽園 その1

岡山市北区後楽園にある岡山藩が築いた庭園、後楽園は、国指定特別名勝であり、水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並んで日本三名園に数えられている。 岡山後楽園入口 岡山後楽園の入り口前には、岡山県立博物館があるが、改修工事中で、令和4年まで開館せぬよ…

夢二郷土美術館

東山墓地から岡山の市街地に入っていく。 岡山市中区浜2丁目にある夢二郷土美術館を訪れた。 夢二郷土美術館 夢二郷土美術館は、岡山が生んだ詩画人・竹久夢二の作品を収蔵展示する美術館である。 竹久夢二は、明治17年(1884年)に岡山県邑久郡邑久町で生…

岡山市 東山墓地 後編

地味な墓巡りの記事が続いているが、今回が最終回である。 野村尚赫の墓の東側に、明治期の岡山の国立銀行、第二十二国立銀行の頭取だった村上長毅(ちょうぎ)の墓がある。 村上家の墓所 村上長毅の墓 この人物の事績は、あまりよく知らないが、金融を通し…

岡山市 東山墓地 中編

大西祝の墓から東側は、ちょっとした高台になっている。 その高台の上にあるのが、池田長発(ながおき)の墓である。 池田長発墓 池田長発墓誌 池田長発は、天保八年(1837年)に幕府直参旗本家の池田長休の四男として江戸にて出生した。 長発は、備中国井原…

岡山市 東山墓地 前編

コロナ特措法に基づく兵庫県の緊急事態宣言が明けたので、久々に史跡巡りに出かけた。 今日は岡山市最大の墓地である東山墓地に眠る3名の人物の墓を紹介する。 東山墓地 東山墓地は、岡山市街の東にある平井山の上に広がる。地名で言えば、岡山市中区平井1…

旧陸軍第十七師団の遺構 後編

岡山大学から南に行った突き当りにある、岡山市北区いずみ町の県総合グラウンドは、明治40年の陸軍第十七師団創設から昭和20年の終戦まで、陸軍の練兵場として使用された場所である。 今はスポーツ施設や公園などがある、市民の憩いの場となっている。 岡山…

旧陸軍第十七師団の遺構 前編

日本は日露戦争に勝利してから、更に軍備を増強することになり、明治40年(1907年)に陸軍に二個師団が増設された。 その時に設立されたのが、岡山に司令部が置かれた陸軍第十七師団である。 現在の岡山大学津島キャンパスのある場所に司令部が置かれ、岡山…

神宮寺山古墳

法界院から南に行き、JR津山線を越えて、岡山市北区三野にある岡山市三野浄水場に行く。 ここには、三野浄水場の旧動力室、ポンプ室の建物だった、岡山市水道記念館がある。 岡山は、旭川下流の三角州地帯に出来た町で、住民は古くから河川や用水溝の水を…

金剛山遍照寺法界院

旭川を渡って岡山市北区法界院にある金剛山遍照寺法界院を訪れた。 法界院仁王門 法界院は、真言宗の寺院である。法界院の前身の西谷山妙塔寺は、報恩大師が創建した備前四十八ヵ寺の一つとされる。妙塔寺は戦国時代に焼失し、天正九年(1581年)に現在地に…

百間川 一の荒手 二の荒手

岡山市街の中心部を流れる旭川。 古来から、洪水や氾濫のため、人々を悩ませてきた川だ。 江戸時代になって、最も被害が大きかった旭川の洪水は、承応三年(1654年)に起こった。岡山城下の死者156人、破損家屋1,455軒を数えた。被害の甚大さに、藩主池田光…

湯迫山浄土寺

賞田廃寺、唐人塚古墳のある岡山市中区賞田から東に進み、中区湯迫(ゆば)に入る。 行く手に温泉旅館白雲閣が見えてくる。 この白雲閣の北側にあるのが、湯迫山浄土寺である。現在は天台宗の寺院である。 湯迫山浄土寺 浄土寺は、天平勝宝元年(749年)に報…

唐人塚古墳

賞田廃寺跡から少し西に行くと、唐人(かろうと)塚古墳がある。 唐人塚古墳 岡山県には、巨石を用いて石室が築かれた、総社市のこうもり塚古墳、真備町の箭田大塚古墳、岡山市の牟佐大塚古墳という吉備三大巨石墳がある。 この唐人塚古墳も、石室に巨石を使…

賞田廃寺跡

古代吉備の有力豪族上道臣(かみつみちのおみ)が白鳳時代に造営したとされる寺院の跡が、賞田廃寺跡である。岡山市中区賞田にある。 賞田廃寺跡は、瀧ノ口山の南麓に広がる、広大な公園のような空間の中にある。 賞田廃寺跡 賞田廃寺跡見取図 賞田廃寺は、…

備前国総社宮 脇田山安養寺

2日前の記事で、備前国庁跡を紹介したが、国庁に赴任した国司にとって、令制国内の神社を巡って参拝することも重要な行事の一つであった。 しかし、国内の神社の数は多い。平安時代になると、国庁の近くに国中の神社の祭神を合祀した神社が出来た。これを総…