唐人塚古墳

 賞田廃寺跡から少し西に行くと、唐人(かろうと)塚古墳がある。

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唐人塚古墳

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 岡山県には、巨石を用いて石室が築かれた、総社市のこうもり塚古墳、真備町箭田大塚古墳岡山市の牟佐大塚古墳という吉備三大巨石墳がある。

 この唐人塚古墳も、石室に巨石を使用した古墳である。三大古墳より石材が整っているため、これらの古墳よりも新しいと言われている。

 となると、7世紀の築造だろうか。孝徳天皇大化の改新の折に出した薄葬令により、古墳の築造が禁止され、その後孝徳天皇の勧めにより、各地に瓦を葺いた寺院が築かれるようになった。

 唐人塚古墳は、当地の古代豪族上道臣の有力者を埋葬した古墳と思われるが、そのすぐ近くに、その上道臣が築いた賞田廃寺跡がある。

 賞田の地は、7世紀半ばから後半にかけての、「古墳から寺院へ」の過渡期を体感できる場所だ。

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唐人塚古墳の石室入口

 唐人塚古墳は、いわゆる両袖式の石室を有する。石室の全長は8.9メートルで、玄室部は、長さ5.1メートル、幅最大2.9メートルである。それほど大きな石室ではない。

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玄室

 玄室の中央には、播州産の竜山石製の石棺の身が置いてある。石棺の身は、長さ2.25メートル、幅1.2メートルである。

 明治38年に刊行された「高島村史」収載の論文「備前に於いて発見せし二個の石棺」には、土地の古老の話として、70~80年前にこの古墳が発見された時には、副葬品が全くなかったと記載しているそうだ。

 明治38年の70~80年前は、1825~1835年ころである。その時に副葬品がなかったということは、それ以前に盗掘されていたのだろう。

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家形石棺の身

 その古老の話によると、岡山藩主池田侯は、足軽100名を派遣して、この石棺を岡山城下に運ぼうとしたらしい。

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石室の入口

 足軽が石棺の蓋を運び、旭川の堤に置いたあと、折からの大雨で川が増水し、蓋は流されてしまったという。

 古老の話が本当ならば、この石棺の蓋は、今も旭川のどこかの川底か、瀬戸内海の海底に転がっていることだろう。

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 私は、当ブログ令和元年11月30日「西条廃寺」の記事で、当時の朝廷の方針によって、古墳を作ることを禁止され、死者の死後の安穏を得る方法を失った豪族たちが、朝廷から仏教寺院を建設し、供養することで死者の死後の安心を得ることが出来ると勧められたことにより、寺院を築き始めたのではないかという仮説を書いた。

 上道臣の有力者を埋葬したとされる唐人塚古墳と、上道臣が創建した賞田廃寺跡がすぐ隣り同士にあるのを見ると、その仮説が間違っていないという感を深くした。

 7世紀半ばは、日本人の精神生活の上でも、革命的な変化が起きた時代だったと思われる。