賞田廃寺、唐人塚古墳のある岡山市中区賞田から東に進み、中区湯迫(ゆば)に入る。
行く手に温泉旅館白雲閣が見えてくる。
この白雲閣の北側にあるのが、湯迫山浄土寺である。現在は天台宗の寺院である。
浄土寺は、天平勝宝元年(749年)に報恩大師が孝謙天皇から命じられて建立した備前四十八ヵ寺の一つと言われている。
寺の周辺には、堂本、仁王堂、塔の坂、寺家谷、院内といった寺院に関連する地名が残っている。かつては広大な寺域を有する大寺であったようだ。
元々は、今白雲閣が建っている場所に寺院があったが、江戸時代中期に現在地に移された。その理由はよく分かっていない。
浄土寺は、かつては40坊もの塔頭が立ち並ぶ大寺院で、天正、文禄の頃は寺領120石を有したというが、今は本堂、鐘楼と庫裏、客殿があるばかりである。
本堂や鐘楼は、江戸時代中期に再建されたものだろう。
浄土寺の御本尊は薬師如来である。本堂内陣宮殿の前に、御前立の薬師如来立像が祀られている。
後に触れるが、この地は過去には温泉が湧出しており、庶民が薬湯に浸かりに来ていた。病を治する御利益のある薬師如来が祀られるのに相応しい場所だ。
本堂の隣には、天台宗寺院の鎮守の神様である日吉神社が鎮座している。
日吉神社の前には、2体の備前焼の狛犬が置かれているが、その内1体は、額から角が生えた特異な姿をしていた。
庫裏の前の山門も、江戸時代中期に建てられたものであろうか。趣のある古びた門であった。
浄土寺の境内には、鎌倉時代初期に、俊乗房重源(ちょうげん)が庶民の為に作った大湯屋の跡とされる泉がある。
当ブログの令和元年12月18日の「瀬戸町」の記事と、令和2年1月4,5日の「極楽山浄土寺」の記事で紹介したが、重源上人は、後白河法皇により、治承四年(1180年)に平家の軍勢に焼き払われた東大寺を再建するための役職である、東大寺大勧進職に任命された。
重源上人は、東大寺再建の手始めに、各地の東大寺荘園を整備していったが、播磨の東大寺荘園大部荘の拠点として、極楽山浄土寺を建てた。
今気づいたが、播磨の浄土寺は、湯迫山浄土寺と同じ寺名である。湯迫山浄土寺の方が創建が先なので、こちらの名が播磨の浄土寺の命名に影響を与えたのかも知れない。
重源上人は、備前国府に近いこの浄土寺に大湯屋を建てて、庶民の湯治に利用させたそうだ。
重源上人は、今の岡山市東区瀬戸町にあった万富東大寺瓦窯で、東大寺の堂塔に使用するための瓦を製造したが、この湯屋跡の周辺から、東大寺の刻印のある瓦が発掘されている。
湯屋の建物の屋根に、東大寺に使うための瓦を葺いたのだろうか。
重源上人は、僧侶でありながら、東大寺再建という大土木建築事業を成し遂げた技術家でもあった。
上人は、一方で庶民のためにこの大湯屋のような施設も作った。宗教的な教えも大事だが、具体的に庶民の暮らしを快適にするための社会的事業も大事である。
重源上人による東大寺再建とそれに伴う各地の開発という中世の一大プロジェクトは、もう少し注目されてもいいように思う。