正法寺の参拝を終えて、レンタサイクルで更に南に走る。この日のサイクリングで、最も過酷な峠道を越えて、小豆島町神浦(こうのうら)にある皇子神社に向かった。
皇子神社は、半島状に海に突き出た標高約60メートルの円錐形の小山の中腹にある神社である。
峠を越えて、長い下り坂を自転車で下っていくと、右手の海上にこんもり植物が茂った小山が見えてくる。皇子神社のある権現山と呼ばれる山である。海岸から北に突出する権現山は、権現岬とも呼ばれている。
皇子神社は、昔は皇子権現と呼ばれていた。
神浦の集落にやってきて、権現山に近づくと、南側に皇子神社まで至る長い石段の登り口があった。
権現山を覆う林は、皇子神社社叢と呼ばれ、国指定天然記念物になっている。
全山がほぼウバメガシで覆われ、トベラ、クスドイゲなどが混ざっている。
山の北側にはイブキの群落がある。林床には耐乾性シダのヒトツバが生えている。
瀬戸内海海岸植生の代表的な姿が見られる貴重な社叢であるという。
参道の石段を登り始める。なるほど、石段の左右はほとんどウバメガシである。
参道を真っ直ぐ上ると、ささやかな拝殿がある。
拝殿前から見返ると、かなりの石段を登って来たのが実感できる。
この日、自転車でアップダウンの道をずっと走って来たので、もう足が限界を迎えていた。
拝殿には、「皇子大権現」と「皇子神社」と書かれた扁額がある。
皇子神社の今の祭神の名は分からない。皇子権現は、王子権現と同一であろう。王子権現は、熊野十二所権現の内、五所王子と呼ばれる五柱の神々を指している。
この皇子権現も、熊野信仰が盛んだった平安時代後期から鎌倉時代にかけて、この地に勧請されたものと思われる。
明治の神仏分離令に伴って、皇子権現は皇子神社に改名させられたようだ。
拝殿には、明治24年に奉納された家族の無事を祈念する絵馬や、明治38年に日本が日露戦争に勝利した際に、明治天皇と昭憲皇后が先帝の御廟に御参拝した様子を描いた絵馬が掛けられていた。
地元の人しか目にすることがないこの絵馬が、ネット上に公開されたのは、今回が初めてだろう。
本殿の背後には、イブキの群落が見える。
イブキを見ると、瀬戸内の島にいることを実感する。
本殿の脇には、五つの末社がある。五所王子権現を祀っているのではないか。
ところで、権現山の南西側の崖には、黒い安山岩が、白い花崗岩に漏斗状に貫入している様子が見て取れる場所がある。
安山岩は、日本海が出来た頃、プレートがマントルに沈み込んだ際に、マントルの熱でプレートが溶けたことで生成された岩石である。
約1300万年前の瀬戸内火山活動でマントルから直に噴出した安山岩が、花崗岩に混ざってこのような景観になったらしい。
小豆島の表面は、全て花崗岩に覆われているように見えるが、その底には安山岩が混ざっているようだ。
権現山は、全山溶岩が固まった岩石で形成されている。この乾燥した土地に、ウバメガシやイブキが自生した。
昔の人は、この権現山の自然に畏れを感じて、皇子権現をここに勧請したのだろう。